第87話.六曜【先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口】

六曜はいろいろな俗信や迷信が非科学的だといって無視されている現在でも、厳然と幅をきかせて横行している俗信の一つです。私はかねてから六曜の周期性がないのには気がついていましたが、その生い立ちなどは、知りませんでした。今回、本を読み漁っているうちに色々なことが判りましたのでご披露いたします。
【六曜の生い立ち】
六曜は、六輝、孔明六輝、ともいい、中国の戦略家・易学者として名高い諸葛孔明(181~234)の創作によるとされているが、これは仮借で唐の暦学者李淳風によって作られた吉凶占いの選時法である。鎌倉時代に日本に移入されて変遷をたどり、江戸時代に入ってから庶民の中でひそかに流行し始めたようである。
「大安・立連・即吉・赤口・小吉・虚妄」の小六壬(じん) が江戸末期になって、現在使われている「先勝(せんかち)・友引(ともびき)・先負(せんまけ)・仏滅(ぶつめつ)・大安(たいあん)・赤口(しゃっく)」になったと思われる。
先勝、先負は「せんしょう」「せんぷ」とも読めるが意味の通りが悪いので「せんかち」「せんまけ」と読む事を永田久氏がすすめているが高嶋氏は読み方はまちまちだという。
【六曜の意味と象意】
迷信的な暦注が姿を消した今日、「六曜」だけが現在でも人気があるのは何故だろうか
?平安時代より江戸時代に至るまで、陰陽道による暦注が数多くあった。人々はその暦注を生活のよすがとして日々の暮らしを営んできたのである。
明治維新を迎え、明治5年(1873)「太陰太陽暦」を廃止して、「太陽暦」を採用し、暦注はすべて禁止された。ところが面白いことに「六曜」は権威ある暦書には記されていなかったために、改暦の際禁止の直接の対象にならなかったのである。
明治15年頃から「六曜」を掲載した「おばけ暦」が出現し、政府公認の証紙をまねた印までつけ、取り締まりの目をかいくぐって市場に姿を現した。
その上、新暦と旧暦の対照表が載っていて、市民に喜ばれた。
旧暦では整然としていた「六曜」も太陽暦からみるとまったく不規則で、その神秘性が市民にうけたのかも知れないという。「六曜の配当」は先勝・・赤口の順でくり返すが、旧暦月の初日になったら次のように変更される。旧暦の正月と七月では先勝に。二月と八月では友引に。三月と九月では先負に。四月と十月では仏滅に。五月と十一月では大安に。六月と十二月では赤口に。よって不規則となるのである。
【先勝】:先んずれば勝つ、午前中が吉。【友引】:勝負がとどまる。葬儀を出すと友を引くので葬儀はしない。【先負】:先んずれば負ける。午前は凶、午後は吉。【仏滅】:お釈迦様の功徳もなくなる。万事に凶。【大安】:万事に吉。【赤口】:この日は赤舌神の司る日だから凶。以上が本に書いてあることですが、日本人の心からは消えないでしょう

永田 久著「暦の知恵・占いの神秘」
高嶋陽山著「暦のすべてがわかる本」を参考にしました。 (1998.7.1記)









第88話.十二支の時刻の配当と呼称

「お月さまいくつ、十三七つ」と童謡にも歌われていますが、これは、十三夜の月は七つどき『午後四時』に姿を現すということです。「お江戸日本橋七つ立ち」と歌われているように、七つどきは午後の四時ではなく『午前四時』の出発ということです。
今でも「おやつ」といいますが、八つどき(不定時刻制だからはっきりしないが大体午後三時ごろ)に食べる間食のことです。丑みつどきは『午前二時ごろ』です。
十二支と時刻の呼称について、移り変わりがあり、説明しにくいのですが簡単に言うと
子・午の刻の始めに太鼓を九つ、丑・未は八つ、寅・申は七つ、卯・酉は六つ、辰・戌は五つ、巳・亥は四つ太鼓を打ち、一刻の始めには鐘一つ、二刻には二つ、三刻には三つ、四刻には四つならしました。陰陽の境目が子と午であったため、子の刻には数の極数の九つを打ち、丑の刻には9の倍数の18にしたかったがあまりに長いので二桁目の10を省略して八つを打ち、寅の刻には9の3倍、27だが20を省略して七つを打ちました。以下同様に六つ、五つ、四つとなります。0時を九つと名づけたのが始まり。


        永田 久 著「暦の知恵・占いの神秘」を参考にしました。(1998.7.6記)












第89話.陰陽五行説

陰陽説は中国最古の王といわれる伏犧が唱え、周の文王によって完成されたといわれています。
陰陽説とは、天地万物が陰と陽とから成り立っているという考え方で、その陰と陽とが交互に現れるという、いわゆる「二元論」の発想です。これは、世の中の事象がすべて、それだけで独立してあるのではなく、陰と陽という対立した形で世界が出来上がっていると考える原理です。そして陰と陽は互いに消長を繰り返し、陽が極まれば陰が萌(きざ)し、陰が極まれば陽が萌すという交代が組み合わされて新しい発展が生まれるという考え方です。
太極という原初宇宙の絶対の存在である混沌状態が分化して陰と陽を創り、それがさらに散布して万物を創ったとされています。要するに、世界というものは、明暗、冷熱、乾湿、表裏、火水、凹凸、男女、上下、剛柔、善悪、天地、吉凶などの一対から成り立ち、例えば、人間の精神は天の気で陽、肉体は地の気で陰であり、また生は精神と肉体の結合、死は両者の分離であると説いています。
人はこの陰と陽との空間的な対立と時間的な交代という原理を体得することによって、天地と並ぶ地位が得られるというのです。
五行説は、中国古代、夏の国の禹王が作ったといわれ、その治世の時、洛水から這い上がってきた一匹の亀の甲羅がヒントになったといわれています。その亀の甲に書かれた文(洛書)から、五という数を悟り、国を治める五つの基本原理を思いついたといわれています。禹が定めた五行は「水は土地を潤し、穀物を養い、集まって川となって流れ、海に入って鹹(しお)となる。火は上に燃え上がり、焦げて苦(にが)くなる。木は曲がったものも真っ直ぐなものもあり、その実は酸(すっ)ぱい。金は形を自由に変えて刀や鍬となり、味は辛(から)い。土は種を実らせ、その味は甘い、」というものです。禹はこのようにして「木火土金水(もくかどごんすい)」や五つの味「酸苦甘辛鹹(さんくかんしんかん)」の調和を倫理道徳の基準とし、政治の要諦としました。
「陽」の熱気が火を生じ、その精なるものが太陽であり、「陰」の寒気が水を生じ、その精なるものが月であり、そして日月から溢れ出た気が星となるというのです。
のちの斉の国の陰陽家鄒衍(すうえん)(紀元前305〜前240)によって五つの惑星に結びつけられ、さらに万物に当てはめられて、観念的な五行説として完成しました。
要約すると、陰陽五行説とは、陰陽の交代と五行(木火土金水)の結合・消長によって一切の現象が生滅し変化すると主張する原理であります。
日本では、陰陽五行説に十干、十二支、易占いが混ざり、迷信的存在として人々の心に生き続けてきたように私は思います。

  永田 久 著「暦の知恵・占いの神秘」
  内田 正男著「暦と時の事典」を参考にしました。 (1998.7.8.記)











第90話.日本の太陽暦の元日の決め方

第11話で、「現在使われている太陽暦の元日はどの様にして決められたのであろうか?」と書き、私は疑問を持ち続けていましたが、その間の事情が書かれている本を見付けましたのでご紹介致します。
『 世界各国がそれぞれ独立した地方時を用いていたのでは、交通・通信が発達するにつれ、いろいろの支障を来す。このため明治17年(1884)にワシントンで国際子午線並びに計時法会議が世界25か国を集めて開かれた。
日本もこれに参加し代表として数学者で東京大学理学部長の菊池大麓が派遣された。
このとき本子午線としてグリニジ天文台の子午儀を通るものが採用され、日本もこの会議の結論に従い、東経135度の子午線を通る平均太陽時を日本の標準時とすることに決めた。(明治19年7月12日の勅令第51号)
明治28年からは東経120度の子午線を基準に西部標準時が採用され、従来の標準時は中央標準時とした。
西部標準時は昭和12年廃止されたが、そのときの勅令では中央の2字の削除を怠ったので、現在標準時は一つしかなくても、法的には中央標準時というのが正しい。』とのことです。
この本を見て、私は当時保守的な人々が多いなかで、世界的視野で物事を考え各国の代表の意見をよく集約し纏めあげたリーダがいたのだろうなあとリーダーの先見性とリーダーシップに敬服すると共に各国代表の国際協調性に感心させられました。
また、貞享暦(じょうきょうれき)の項を見ていたら、『この暦は貞享2年(1685)より宝暦4年(1754)まで施行され、日本人の手による初めての暦法として著名。
それまで用いられてきた宣明暦は、800年以上も前の中国の当の時代に撰集されたもので、日月食の予報も粗雑であって誤りが多く、また一太陽年の長さを過大にとっていたため、800年余の間にその誤差が集積して2日に及び、暦の上の冬至の日の2日前に太陽は南至を通過してしまうようになっていた。改暦に成功し名を挙げたたのは渋川春海であった。』とのことです。
進取の気性をもった改革者の努力には本当に頭がさがります。
  
  内田正男著「暦と時の事典」を参考にしました。(1998.7.13.記)










第91話.大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国旗

 韓国の国旗は、通称「太極旗(たいきょくき)」と呼ばれ、1883年に制定されています。太極とは、易学でいう宇宙生命といったもので、中央の巴(ともえ)状の円をいいます。赤は陽、青は陰を表し、太陽と月、天と地、男と女、昼と夜といったように、万物は対立するものが調和しつつ統一されるという古くからの東洋思想に基づいた宇宙観を意味しています。
4隅のしるしは、易学で吉凶を占う卦。左上を乾(けん)、右下を坤(こん)、右上を坎(かん)、左下を離(り)と呼び八卦(はっか、はっけ)の一部です。、東・西・南・北、春・夏・秋・冬、天・地・太陽・月などを現わして、宇宙の構成要素に対応しています。
卦の名 その意味するもの 方位
乾(けん) 天・父、 円満・健全・広大・剛健  西北
坤(こん) 地・母、 堅実・従順・育成・静 西南
坎(かん) 水・中男、陥険・思想・矯正・変化 北
離(り) 火・中女、明智・美麗・見・虚・飾 南
国旗に何故この4つの卦が採用されたのか、私は知りません。
北朝鮮の国旗は1948年に制定されたもので、赤・青・白の配色は韓国の「太極旗」と同様に、古くから朝鮮民族の伝統的な色とされてきました。中央左側の円形も、宇宙生命である太極の影響を受けたもので、陰陽のシンボルといわれています。赤い帯と星は共産主義社会の建設を示し、青は平和への希求を、白は純潔と光明をそれぞれ現わしています。
私は、日本では易学は占いで「当たるも八卦、当たらぬも八卦」といって、それなりに扱われているのに、韓国などでは国旗に易学を掲げているとは本当に意外でした。
私が易学の真の意味を理解していない可能性もあるのではと感じています。



辻原康夫編 「世界の国旗全図鑑」と高嶋陽山、前田孝夫、共著「暦のすべてがわかる 本」を参考にしました。
                       (1998.8.5.記)











第92話.なぞの仮面王国(三星堆遺跡)展を見て

東京の世田谷美術館で4/25〜7/20迄開かれていた、「中国5000年の謎・驚異の仮面王国展」を見学しました。古代中国の遺物を目の前にして、特に「神の木」と称する青銅樹木(高さ384cm)から異様な感動を受けましたのでお知らせします。
三星堆(さんせいたい)遺跡の発見は1980年から数度にわたって大がかりな発掘調査を行い、「とんでもない大発見」だということが判明していました。遺跡は四川(しせん)省都である成都から約4キロ北、広漢県の西郊・南興鎮にあります。
この遺跡から発掘された青銅製の「大型縦目仮面」「人頭像」「立人像」や金製の「黄金の仮面」「黄金のマスク」などと共に青銅製の「神の木」が展示されていたのです。
ここの遺跡からは文字に類するものが一切発掘されておらず、古代蜀(しょく)国(5000年前)でどんな人が何の為に、何を後世に伝えようとしたのか、何故滅亡したのかなどの記録が無いため謎に包まれています。
そこで「神の木」ですが、写真で見られる様に、真っ直ぐ伸びた幹からは細い枝が何本も生え、その先端には鳥や龍、剣らしきもの、花などがいくつも飾りつけられていました。「神の木」の正体は竹か桑か未だにわかっていません。四川省はパンダの生息と彼等の大好物である竹が豊富にあり、いまでも竹細工の工芸品は四川省の特産品です。広大な盆地を抱える四川省は霧が発生し易く、中国でもっとも曇天の多い地域です。「太陽が早く顔を出すように」と待ちわびる心が扶桑(ふそう)を神木として崇めさせたのかも知れません。扶桑については第13話「字の扶桑」を参照して下さい。
前にミャオ族の創世神話(第79話)で書きました神話の証拠品らしきものを、目の前にしたときの私の驚き様を想像してみて下さい。 本当にびっくりしました。
その感動を伝えたくて文章にした次第です。

株式会社アサヒワールド発行の「なぞの仮面王国、長江の古代文明をさぐる、三星推遺跡」を参考にしました。(1998.8.14.記)