第93話.ブガワンソロ

昭和一桁生まれの方には、「ブガワンソロ」はインドネシヤを日本が占領していた頃の歌だとおわかりでしょう。私が会社の仕事で拾数年前ジャカルタへ2回主張した時、会社の駐在員から、現地駐在日本人でコーラスグループを作り、「ブガワンソロ」のインドネシアの歌をラジオ放送した時の記念のテープをコピーして上げましょう。と言われて、貰ったテープを今聞いていたら無性に懐かしくなり、筆を取った次第です。
○ソロ川(ブガワンは大きい河の意)の紹介など
ソロ川はその水源をほとんど南海岸に近いLAWU山南斜面に発し3265mの高さを流れ下って多くの支流を併せながらジャワ海にそそぐ。
その流域にはスラカルタ(ソロ)を中心としてマタラム王国が栄えたし、それよりはるか昔には古代人が多く住みついていた。ガンドン、サンブンマチャンからはソロ人、トリニールやサンギランドームからは、ジャワ原人(ピテカントロプス)も発見され、これらは全て、ソロ川の河岸段丘上から発見されている。下流には、東ジャワ文化の華であったシンゴサリ王国をはじめ多くの王朝が栄えその跡は今も残っている。この歌は日本占領下において、特に日本人によく歌われた歌として有名であり、インドネシア歌謡を代表するものとして日本人にはうけとられている。
○日本語の訳詞
 日本語で歌える歌詞として、津川主一訳詞とNHK歌のおばさん、松田トシ訳詞とがあるがここでは、松田トシ訳詞を紹介します。
 「ブガワンソロ 果てしなき 清き流れに 今日も祈らん
  ブガワンソロ 夢多き  幸の日讃え 共に歌わん
  聖なる河よ   わが心の花 祈りの歌乗せ流れ絶えず
 花は咲き    花は散れど 愛の誓いは 永遠に変わらじ」
○余談:日本語と似た発音の言葉
 「済んだ」:「スダ(Sudah)」
 「名前」:「ナマ(Nama)」
 「戻る」:「モドール(Mundur)」
 「有る」:「アダ(Ada)」
 「有るか」:「アダカ(Adakah)」
 「好き」:「スカ(Suka)」
○日本人の間で知られる名文句
 「飯」はナシ(Nasi)、「魚」はイカン(Ikan)、「豆」はカチャン(Kaca ng)で、「菓子」はクエ(kue)。「人」はオラン(Orang)で「死ぬ」のは マテ(Mati)。私には大変懐かしく思い出されます。

   佐藤明美著「バリ島じゃらんじゃらん」を参考にしました。(1998.8.27.記)










第94話.「君が代」の「さざれ石」

私は小学校の頃から、「君が代」の「さざれ石」はどんな石なのだろう、と疑問に思い続けていました。2〜3年前岐阜城を見たときに、豊臣秀吉の千成り瓢箪を掲げたと言われる場所の近くの展示館の中で、高さ15センチ位の海綿状の石に「さざれ石」と説明文が付けられているのを初めて見ました。
「さざれ石」は国語辞典では「細かい石」としか書いてありません。
下記の本の著者である古田氏は「細石(さざれいし)は『ほそい石』ではない。むしろ、『神聖な石』、『本来の、大自然の、本源の石』といった意味ではないか。」また、「細石」の細は『褒め言葉』であろう。もしかしたら「斎(さい)」と同音のため、「音通」で用いられたのかも知れない。と述べています。更に『本源の姿をもつ、大自然の石(細石)が、永い間、外気にさらされ、風雨がしみて「巌(いわお)」となる。さらにそれから時を経るうちに、その上にビッシリと苔が生える。』という解釈だそうです。ところで、私の友人から、千鳥が淵の戦没者墓苑に「さざれ石」が奉納されているから、見たらと言われ今日写真を撮って来ました。全体の高さ約1.5メートルで小さい石が一部熔けて岩状に固まった様に見られ、これを石というのかなと思う不思議な石でした。、重さ2トン、岐阜県文化財、「さざれ石」学名:石灰質角礫岩、産地:岐阜県揖斐郡春日村、発見者:小林宗一、奉納者:発見者の嗣子小林文治、奉納:昭和56.6.8と碑銘に書かれていました。鎌倉の鶴岡八幡宮にも同じ大きさの「さざれ石」が 同一人物により同時期に奉納されています。 私が岐阜城で見たのと少し違うとは思いましたが、岐阜という共通点から或いは同じ類の物だったのかも知れません。 暉峻(てるおか)氏は「君が代」の原形【我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで】は平安時代の延喜5年(905)に成立した第一勅撰集『古今和歌集」大7巻・賀歌の筆頭に「読み人しらず」として収められていて、「40の賀」、「50の賀」、「60の賀」、「70の賀」として長寿を祝う「賀歌」なのだから、「あなた、小石が大石になって苔が生えるまで長生きしてね」というありきたりの長寿を祝う歌だという解釈をしている。この原形の「我君は」が現行の「君が代は」という形になったのは、『古今和歌集』より一世紀後の1013年成立の、朗詠に適した和漢の詞歌を編集した『和漢朗詠集』(藤原公任〈きんとう〉撰)である。「代」は年齢で、江戸庶民が謡うと「こなた百までわしゃ九十九まで、ともに白髪の生えるまで」となるという。 これらの解釈などを参考にして、私は「小石が大石になる筈が無い」等と解釈せずに、素直に「天皇陛下何時いつ迄も、長生きしてね」と解釈するのが順当な様に思います。「君が代」の「君」とは誰か、「代」とは何か、と戦前の「天皇の統治」の時代から「主権在民」の時代に変わって、「君が代」を叫んで戦死した幾多の勇士の面影をだぶらせるとき、「君が代」の解釈に国民的合意が早くなされることを切望してやみません。

  古田武彦著「君が代は九州王朝の賛歌」と
  暉峻(てるおか)康隆著「日の丸・君が代の成り立ち」を参考にしました。(1998.9. 3.記 10. 5改訂)










第95話.五つの「君が代」

○最初はフェントン作曲の「君が代」です。
1870年(明治3)夏、横浜で日本最初の吹奏楽が演奏されました。指揮者が、横浜駐屯の英国軍楽隊長フェントン(John William Fenton)で、和洋折衷の姿で演奏していたのは薩摩藩軍楽伝習生30名でした。
その前の年、フェントンは「日本の国歌ともなる歌詞を作ってくれれば、作曲して上げよう」との申し出があり薩摩琵琶の曲「蓬莱山(ほうらいさん)」の一節の「君が代は千代に八千代に・・・」という歌詞が選ばれました。
フェントン作曲の「君が代」は1870年(明治3)以降「礼式」の曲としてしばしば演奏されました。この曲は日本語のわからないフェントンが作曲したことと、故郷のアイルランドの節が付けられ、日本人には歌いにくく評判はあまり良くなかったようです。
○次ぎに壱越(いちこつ)調「君が代」が作られました。
宮中において歌われている音節に合わせることを狙いとして改訂が行われました。壱越調という雅楽独自の調性でつくられましたが、西洋音楽には厳密に壱越調 に対応する音階がなくエッケルト(フェントン後任のドイツ人)が西洋式の和声をつけて1880年(明治13)に完成させたのが現在の「君が代」です。
○第三番目の「君が代」は新曲「サザレイシ」です。
日本で最初の幼稚園である「東京女子師範学校附属幼稚園」が1876年(明治9)開園時、文部省に「唱歌を一教科として設けたい」と進言し、外国の歌詞の翻訳、古典から選んだもの、保母による新作、の中から歌詞を決定し、宮内庁雅楽課に送って作曲に付されて出来たのが「保育唱歌」です。この中に新曲「サザレイシ」の題で歌詞が今の「君が代」と同じ、曲は一語を長くのばしたり、細かいフシをつけたりした雅楽の歌がのっています。容易には歌えるものではありませんでした。
○第四番目の「君が代」は賛美歌の曲をつけた二番まであるものです。
1887年(明治14)に刊行された文部省音楽取調掛編「小学唱歌集」(初編)に唱歌「君が代」が収められています。
一番:1:君が代はちよにやちよにさざれいしの巌となりてこけのむすまで、A:うごきなく常磐かきはにかぎりもあらじ。
二番:2:きみがよは千尋の底のさざれ石の鵜のいる磯とあらはるるまで、B:かぎりなきみよの栄をほぎたてまつる。
2:は「源頼政」の歌。A、B:は稲垣氏の補作。曲は選曲担当のメーソンが来日直前にアメリカで編纂した賛美歌集の中の一曲です。
○五番目の「君が代」はラッパ譜です。
1885年(明治18)、陸海軍のラッパが統一され、「ラッパ譜」が制定されました。
「君が代」の歌詞に合わせて歌うことが出来ます。

 團 伊玖磨 著「97年、NHK人間大学、日本人と西洋音楽」を参考にしました。(1998.10.5.記)



















第96話.ベトナム戦争と対話

太平洋戦争が終わって後、不幸な朝鮮戦争やベトナム戦争が起き、多数の人命が失われました。朝鮮戦争は、南北でにらみ合いが続けられながらも少しは雪解けになるのでは?との期待も出かかっています。
このほど、NHKスペシャル(98/8/2放映)で「我々は何故戦争をしたのか?」と題してアメリカとベトナムの当時の軍、政府の責任者計12人の対話の模様を編集したTVを見る機会がありましたので、纏めてみたいと思います。
私の単純な疑問は、勝った北ベトナムがアメリカを戦争裁判に掛けなかったことでした。この疑問はこのTVは答を出していません。何かの機会に別に調べることにしましょう。ある人によれば「ベトナムの復興にアメリカの力が欲しかったから、賠償を放棄したのだ」といっていましたが、よくわかりません。
ロバート・マクナマラ(当時国防長官)が呼びかけて去年6月、ベトナムで4日間対話集会を開き、TVとして1時間に纏めてありました。(以降アメリカ:ア、ベトナム:ベと略記)
○アの戦争目的についての誤解
ア:「北ベのホーチミン政権を、世界を支配しようとしている中国とソビエトの手先だと信じ込んでしまった。」
ベ:「一つの民族が分断されていれば、統一を願うのは当然でしょう。」
○ベの中立化構想について。
ア:「1962年のラオス会議で外国軍のラオスからの撤退決議に反し、ベ軍は居座りを続けた。ベは信頼できぬと感じた。」
ベ「不信感を拭う努力が足りなかった。もっと真剣にアの誤解を解くべきだった。」
○アの和平交渉は何故失敗したのか
ア:「終結の道を探るため7回も秘密和平交渉を呼びかけたが応じなかったのは何故?」
ベ:「ワルシャワでの会談が12/6の予定で、想定問答集を用意したが12/3,12/4ハノイの北爆は次第にエスカレートし、ア側に交渉の意志なしと判断した。」
○ TV局の纏め
・ア:「何度も戦争を止める機会を失っている。両国がより賢く行動していれば、戦争を回避出来ただろう。国の指導者の対話が非常に大事である。」
・ベ:「未だ結論は出せない。将来の悲劇を防ぐためにも対話が重要。戦争に反対したアメリカ国民の勝利だ。」 (サイゴン陥落:1975/4/30)
○ 私の感想:
・1954年フランスの統治下にあったベトナムが独立を認められ、北緯17度線で北(共産主義)と南(資本主義)に分断した事が一番の原因ではなかったのか?
・ものをいわぬ忍耐強いベトナムとずけずけ言いすぎる位のアメリカとの対話が不足して誤解を与えていたとなると、日本も対外外交などでもっと対話を進めるなど、反省が必要であろう。(1998.11.4.記)















第97話.生きていた英霊

私の父は海軍大佐で終戦を迎え、昭和54年12月病気で79才でなくなりました。神道だものですからお葬式を神式で致しました。その時、式を司祭して戴いたのが氷川神社の宮本宮司でした。
当時この方の数奇な運命を直接聞きましたので、ご紹介致します。
宮本宮司は海軍兵学校の69期卒業(昭和16年卒)ですから、私(77期)の先輩であり、父(48期)の後輩に当たります。以下は宮本宮司の話しです。
戦争の末期、航空母艦瑞鳳に乗り海軍中尉でパイロットとして第2次沖縄特攻に参加しました。
敵艦に爆雷を発射した途端に飛行機がバラバラになり意識不明のまま10日間海上に漂っていました。漁船に拾われ一命をとりとめることが出来ました。
近くの島に上陸し、海軍に連絡がとれ、陸上勤務となりましたが、どういう訳か外出禁止となり、同期の者が大尉に昇進するのに自分は中尉のままでした。
戦後故郷の家族とも連絡がとれ、お互いに喜びあったのにも関わらず、家族からは「故郷には帰らないでくれ」と頼まれてしまいました。理由は名誉の戦死ということでお墓も建て近所からは遺族の家といわれている。今さら「生きています」では格好がつかないから、とのことでした。
社会に出て生活していくのにはどうしても国籍と名前が必要でした。
法務省へ何回も行って生きていると申請をしましたが、復籍もしてくれなければ、日本人であることも証明して貰えず、小学校の友人に証言に立って貰いましたが、死んでる人が生きている筈がないとして認めてくれませんでした。
途方にくれているとき、ある人からアドバイスを受けました。似たような年齢で行方不明で且つ戸籍が残っている人を探し、その行方不明者が自分だと申請する。勿論親族も死亡が望ましい。無くなった戦友の霊を慰める神主さんを職業として選びそのための資格試験に合格すること。
それから神主さんにふさわしい宮本の名をさがし当てることが出来ました。勿論独学で死にもの狂いで勉強し國學院に入学し、神主さんの資格を取りました。人間、死にもの狂いになれば道がひらけるものです。
中国残留孤児が容易に日本国籍が取れるのを見ると大変な変わり様にびっくりしています。
以上の話しを聞いて、びっくり仰天しました。世の中色々苦難の道を歩んでいる人は多いと思いますが、数奇な運命を辿って生きている方がおられるものです。
ちょっとやそっとで弱音をはいてはいけないと教えられたことと戦争の無い世の中にしたいと心から思いました。
(1998.11.20.記)













第98話.韓国残留孤児

今年も秋になって、中国から27名の残留孤児が祖国日本に親族を訪ねてやってきました。身元が判明する人の数は年々減ってきています。
韓国残留孤児についての話しは聞いた事がありません。朝鮮が北と南に分断している北朝鮮については、日本や韓国と国交も無く気の毒な残留孤児がいることと思います
私がトラックのボディーメーカー(P社)で今春まで勤めていた時、韓国で子供の時両親とはぐれた人(Sさん)がP社で働いており、韓国残留孤児としての涙の物語を聞きましたのでご紹介いたします。
昭和20年Sさんは6才男子で両親と韓国のA市に暮らしていた日本人です。終戦とともにSさん一家は日本に引き揚げる事になったのです。家族三人で両手には持てるだけの荷物を持ち、B駅へ行きました。駅は引き揚げ者で一杯で、更に悪いことには人の荷物を隙が有れば泥棒をしようとする人もいて大混雑 していました。汽車が来て押されるままに汽車に乗ったときには両親とはぐれてしまいました。大勢の人がC駅で降りたので引きずられる様に降りたのですが知っている人もおらず、途方にくれて一人で泣いていました。おまけに歯も痛くなり情けなくなっていた時、一人の韓国人(Dさん)に声を掛けられて、その人の家に連れて行かれ、色々事情を聞かれて後、翌日朝早くC駅からB駅まで連れて行ってくれた上、一緒に両親を長い時間探してくれました。しかし、両親には会えず Dさんの家にSさんが23才になって日本に帰るまで大変世話になったそうです。
Dさんはお医者さんでしたが、出来るだけ負担を掛けないようにSさんは努力し、2年間の徴兵の義務を果たしたあと韓国陸軍に残り、軍人になる道を選びました。
情報将校としての教育は戦前の日本陸軍と同じ殴る蹴るのスパルタ式だったので本当に歯を食いしばり、日本人であることを隠しながら耐え偲んでいました。
両親と別れたときに反対方向の汽車に乗ったのがいけなかったと後でわかったそうです。背中のリュックの中に入れてあった母親が書いた住所や名前が唯一の自分の手がかりでした。これが無かったら、自分の素性はわからなかったと言えるでしょう。
23才の時、日本との国交が開かれ、日本に一人で帰ったのですが、日本語はしゃべれず書くことも出来ず、ようやく両親と会った時には、両親が韓国語を話せず、会話が一つも出来ず、非常に情けない思いをしたそうです。日本語が出来ないので就職も出来ず、悩んでいたとき、P社の人に拾われモーターの修理を手伝いました。
その後、いい仕事が有るよと紹介してくれる人がいましたが、その仕事は、警察で密入国した韓国人の取り調べをする仕事でした。結局悩んだ末、育ててくれた恩のある韓国人を罪人にする仕事には協力出来ないとお断りをしました。
それにしてもいい人Dさんに拾われたこと、またP社には大変世話になり筆舌に尽くせない恩を感じているとのことでした。
以上の話を聞いて私達の幸せをつくづく考えさせられました。(1998.11.24.記)









第99話.韓国の教科書と歴史認識

今年の秋は、小渕総理にとっては各国首脳と会い、今世紀に起きたことは今世紀にかたずけて未来に向かって協力していこうとの決意をあらたにする非常に良い機会でした。
10/8の金大中、韓国大統領の訪日、11/12エリツィン大統領とのロシア会談、11/16のAPECでの会談、11/20クリントンアメリカ大統領の訪日、11/25の江沢民、中国主席の訪日、11/28金鍾泌、韓国首相の訪日などがありました。
この中で、中国主席は「未だ日本は歴史を正しく認識していない」と強く反省を迫りました。韓国も今までは同様な主張でしたが、今度の金大中大統領になって、未来志向に変わってきていると思います。
最近韓国の高等学校の歴史教科書の翻訳本を読む機会があり、2,3気が付いたことを述べて見たいと思います。
1.1906年統監府設置(日帝の政治支配)から1927年新幹会結成(民族主義者と共産主義者の統一戦線設置)までを「日帝侵略時代」と位置づけている。
2.1910年の「韓日合邦条約」を1983年の教科書から「国権強奪」と変えている。
3.光復軍(大韓民国臨時政府の軍隊)の対日戦争と題して、かなりのページを割き、大韓民国臨時政府(君主制をやめて共和制を指向、上海に正統な政府として樹立1919年)が1937年の蘆溝橋事件以降、軍事計画を立てる様になり、1940年重慶で光復軍を創設した。中国の国民党政府とともに何度も拠点を移し、大東亜戦争(1941)が起こると その一部はビルマ、やインド戦線にまで派遣されて、イギリス軍との連合作戦を遂行した。
4.大韓民国の正当性にもかなりのページを割き、1948年の総選挙で、北韓の議席を残したままで制憲国会が召集された。大統領が変わるごとに、共和国の名前が変わり、全斗煥(チョンドウファン)大統領が就任して、新政府を樹立し、第五共和国が船出した。
大韓民国と共和国との関連がどこにも説明されていない事と、共和国のことを私は知りませんでした。
以上部分的に疑問などを書いて見ましたが、いずれにしても歴史認識は当時の人が良かれと思ってやったことを後世の人があれこれ批判するのですから、非常に難しい作業でしょう。
「18世紀からの産業革命が思わぬ大動力を得て、工業を起こし、鉄道を引き、船を作り、大砲を使って他民族を威圧し、植民地として搾取し、次ぎに帝国主義或いは軍国主義と言われる覇権主義が台頭し、他民族を苦しめた。」ことは事実でしょう。
日本が中国やロシアと深い信頼関係を確立するには、長期間が必要だろうと感じます。
   原著者:国史編纂委員会編、井上秀雄訳「韓国」帝国書院発行    (1998.12. 5.記)











第100話.21世紀の自動車は?

来年のことを言うと鬼が笑うと言いますが、21世紀のことを言うと鬼は何というのでしょうか?
今世紀も終わりに近づき、未来を予測をする記事を見ることが多くなりました。
私も自動車業界に籍を置いていた関係上、自動車はどうなるのだろうと気になって仕方がありません。石油が無くなる話しや、急に円高になったり、予測出来ない分野が多いのですが私なりに技術的予測を纏めてみました。眉唾ものだと思って読んで下さい。
21世紀の自動車の課題は次ぎの通りでしょう。
1.地球温暖化対応策
1)自動車を含め社会全体がエネルギー消費(CO2)を増やさないようにする。
2)NOxの排出を出来るだけ減らす。
3)廃棄物対策としてのリサイクル利用を推進する。
2.インテリジェント交通システム(ITS=Intelligent Transport System、渋滞情報、車と車の双方向通信と制御)が世界的に確立する。
石油エネルギーを使った内燃機関はNOx排出について電気自動車(ゼロエミッション)にはかないません。しかし、バッテリーは再充電をしなくてはなりません。
発電所からの電気で充電するとなると、発電に水力や風力を使えば問題がないのですが、石油系なら発電時にNOxが出てしまいます。
21世紀の自動車は燃料電池を使ったものがハイライトでしょう。
燃料電池については、インターネットの検索で調べたところ、ベンツとトヨタが鎬(しのぎ)を削っていてどちらが先に21世紀に生産するかが争われています。水(H2O)の電気分解の逆反応で、電気を作るのですがHをアルコールから透過膜と白金触媒を使って作り出す方法やHを都市ガスから取り出す方法など、各種研究が世界を舞台に繰り広げられています。更に、核融合炉(水素、重水素などの原子核反応でエネルギーを発生)が物になったらこれを高温超伝導の技術で、且つロスの少ない遠距離直流送電で、日本から東南アジアやら、アメリカへ供給できれば、ノーベル賞ものでしょう。
核融合炉は、国際研究が東海村で行われていましたが、最近どういう理由かわかりませんが、アメリカが開発研究から降りてしまいました。
残っている国々でアメリカ分の研究費を分担して研究が継続されることになりました。今核融合炉の実現は21世紀後半といわれています。
自動車が情報を検知して走る知能自動車になると共に、ガソリンや軽油以外のエネルギー源により、より快適に走ろうとする夢の実現もそう遠くないかも知れません。
   糸川英夫著「人類生存の大法則」を参考にしました。   (1998.12. 7.記)







                         



作者の近影



藤本正夫 
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