第155話 東京裁判(1)
12月になると、1941年(昭和16)12月8日の大東亜戦争による真珠湾攻撃と、1948年(昭和23)12月23日に巣鴨刑務所で執行された東京裁判による東条英機等7名の戦犯絞首刑を思い出します。特に20世紀から21世紀への移り変わるこの時期に私にとって忘れることの出来ない一大事件は太平洋戦争です。
この際、東京裁判のインドのパル判事が全員の無罪を主張したことが 忘れられなくて、もう一度東京裁判の本を読む事にしました。
戦争の事は忘れてしまいたいと思う反面、忘れてはいけない、語り継がなくてはとの思いが交錯します。
本を読んで得た知識を断片的ではありますが、箇条書きにしてみます。尚、関係する全部の本を読んだ訳でもなく、本の著者によって解釈の異なる事項や思い違いも記述されているようなので、読者をミスリードしてはいけませんし、私の記述については、さっと読み流し、詳しくは専門書を読んで戴きたいと思います。
・日本の降伏を勧告するポツダム宣言10項前半には次のような文面が記載されていた。
「吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとする意図を有する者に非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰(東京裁判の場では「厳格な裁判」と翻訳訂正された)を加えられるべし」
・極東国際軍事裁判所条例は、ナチス・ドイツの戦争指導者達を裁いたニュルンベルク
裁判のそれにならったものであった。もっとも大きな違いは、ニュルンベルク裁判ではアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国が平等の権限で参加しているのに対し、東京裁判ではアメリカ一国の力が優越し、アメリカを中心とする多数国が主導権を握る仕組みになっていた点であろう。
ニュルンベルク裁判では、4か国が被告訴追の決定権をもつ首席検察官を一人づつ派遣していたが、東京裁判の首席検察官
はマッカーサーの任命する一人(キーナン)だけであり、他の連合各国から派遣された判事の過半数が出席すれば、裁判は成立し、ニュルンベルク裁判のように、常に4か国の判事全員の出席が必要とされ、裁判長も輪番制が採用されるという事はなかった。
・東京裁判の判事は降伏文書署名9か国から選ばれることになっており、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージランド、フランス、オランダ、中国、
ソ連の9か国であった。マッカーサーは9人の判事の中から、オーストラリアのウエッブを裁判長に任命した。(次話に続く)
赤澤史朗著「東京裁判」、朝日新聞東京裁判記者団著「東京裁判(上)(下)」、粟屋憲太郎著「東京裁判論」、B.V.A.レーリンク&A.カッセーゼ著、小菅信子訳、粟屋憲太郎解説「レーリンク判事の東京裁判」
を参考にしました。 以上 (2000.12.25記)
第156話 東京裁判(2)
・さらに極東委員会の決定にもとづき、極東国際軍事裁判所条例を改正して、フィリッピン、インドからも代表判事を派遣する事にした。
これで判事と首席検察官、参与検察官を派遣する国々の数は、11か国となった。第2次世界大戦中の中立国は含まれておらず、判事検事の中心部分はアメリカと、東アジアを支配する西欧の植民地宗主国がしめる形となった。
・裁判所の管轄権に関する動議も出され清瀬弁護人によって説明された。 それは、当裁判所はポツダム宣言に基づいて設立されているが、ポツダム宣言にいう戦争犯罪人とは通例の戦争犯罪人だけを指し、これまで国際法上でみとめられなかった平和に対する罪や、人道に対する罪で裁くのはその範囲を超え、事後法による裁判(法が成立する以前の事件にまで遡ってその法を適用する裁判)となって不当であるなどを趣旨とするものであった。
・これに対して、キーナン首席検察官(アメリカ)、コミンズ・カー検事(イギリス)らは反論し、ポツダム宣言にいう戦争犯罪人は、もともと通例の戦争犯罪に限られたものではないと主張し、この動議を却下した。
・天皇の戦争責任については、マッカーサーの本国宛報告書の中で、天皇が連合国軍の日本占領統治に是非必要であり、天皇に戦争責任があるとの証拠は見つからなかったとのべた。
こうしたマッカーサーの意向を受けたキーナン首席検察官は東京裁判開廷後天皇の不訴追を声明した。オーストラリアの
ウエブ裁判長は天皇を法廷に証人として出廷させたい意向を示したが、キーナンらの反対によってそれも実現しなかった。
・満州におかれた日本軍の秘密の細菌戦部隊の七三一部隊については、アメリカ軍が日本の敗戦直後七三一部隊関係者を取り調べたが、細菌戦研究に関する情報の提供とひきかえに、彼等は戦犯として訴追されないことになった。
・原爆投下の責任論;広島、長崎への原爆投下は、軍事施設を目標にしたものではなく、明らかに非戦闘員の大量殺戮をねらったものであった。しかし、法廷でのブレークニー弁護人の発言は、あくまで日本の国家の行動を弁護する材料の一つとして取り上げたにすぎず、原爆投下の違法性を被爆者の視点にたって取り上げたものとはいえなかった。(次話に続く)
参考文献は前話に記載と同じ。以上 (2000.12.26記)
第157話 東京裁判(3)
・講和条約発行(1952年、<昭和27>)後、原爆投下は国際法違反に当たるとして、岡本尚一弁護士がいまなお悲惨な状態におかれている被爆者を救済し、原爆使用の禁止を実現しようと、アメリカを訴えた。この訴訟はやがて講和条約第19条によってアメリカに対する戦争被害の請求権を放棄した日本国家を訴えられるものに変えられ1955年(昭和30)4月東京地裁に提訴された。
判決文は原爆投下が国際法に違反するものであることを詳細に指摘しながら、現行国際法のもとでは、被害を受けた個人には賠償請求の権利が無い、とするものであった。
・東京裁判判決:1948年(昭和23)11月4日から一週間、判決文が朗読された。
判決文は、11人の裁判官が協議の末作成されたものではなく、7人(アメリカ、イギリス、中国、ソ連、フィリッピン、カナダ、ニュージーランド)で作り、残りの4人(オーストラリア、オランダ、フランス、インド)はその時々に判決草案に意見を求められたに過ぎなかった。
(何故こうした判事団の分裂が生じたのか、そして、多数派判決はどのようにして作成されたのかの真相は謎に包まれたままである。)
・少数意見の存在:東京裁判では、多数派判決以外に5種の少数意見が存在した。これらの少数意見が法廷で朗読されることを弁護側は要求したが、拒絶された。少数意見は速記録にも掲載されなかった。
・インド代表パル判事は、極東軍事裁判所を批判し、被告全員の無罪を訴えた。
(次話を参照乞う)フィリッピン代表ジェラニ判事は多数派の量刑は寛大すぎて侵された罪の重大さにふさわしくなく、みせしめにもならないと、より重刑を要求した。
・オランダ代表レーリング判事は、本の中で次の様に述べている。
『裁判所は多数派意見において張鼓峰(1938)及びノモンハン(1939)での国境戦に関する訴因さえ支持していました。それは侵略戦争と考えられたのです。それらは、和平条約ではなく、交渉によって決着し、後に不可侵条約(中立条約)が結ばれたのです。又訴因では日本が東南アジアの白人の殺害を企てたとして、それらをヒトラーがヨーロッパのユダヤ人に対して決定した<最終的解決方法>になぞらえています。しかしこの訴因を証明する事が出来ませんでした。日本はアジアから植民地勢力を駆逐しようとしました。しかし、ヨーロッパ人の絶滅計画はありませんでした。』(次話に続く)
参考文献は前話に記載と同じ。以上 (2000.12.28記)
第158話 東京裁判(4)
以下『』はレーニング判事が本で述べていることである。
『刑の判決は、下記3人を除いて8人で投票し単純過半数で決定した。
・ソ連代表ザリャーノフ判事はソ連では死刑が公式に廃止されていたため、死刑反対を理由に参加せず。
・フランス代表ベルナール判事は総ての審理に疑念をもっていたようで、投票に参加せず。
・インド代表のパル判事は、全員が無罪だとの主張で投票に参加せず。』
【パル判事の全面的反対意見(朝日新聞東京裁判記者団の本より)】
パル判決書は1200ページを超え多数派判決の量よりも多い膨大なものである。
そして、その主張は、「国際法上そもそも戦争は何時犯罪とされたのか、その個人責任を問う法はいつ確立したのか、」この命題を冷徹に追求している。
最後の勧告の項の中で、「単に執念深い報復の追跡を長引かせるために、正義の名に訴える事は許さるべきではない。世界は真に寛大な裁量と理解ある慈悲心とを必要としている。純粋な憂慮に満ちた心に生ずる真の問題は“人類が急速に成長して、文明と悲惨との競争に勝つことが出来るであろうか”ということである。」と国際社会の本当の大きな問題に目を転じる事を示唆している。
【レーニング判事のパル氏批評】
『パル氏は侵略戦争が国際法上犯罪ではないとの信念を持ち、被告全員無罪のみずからの判決を書くべくひたすら宿舎にこもり準備につとめていた。
このパル氏の考えは、一面で法実証主義の立場から導き出されたものだが、他方では西洋帝国主義に対する強烈な敵意に基づいており、「白人の優越」に挑んだ日本に共鳴したものであった。日本の侵略と残虐行為、日本の戦争指導者に対してパル氏の評価が甘いのはこのためである。戦時中に日本に協力した経験からも、パル氏は中立的立場にあった判事ではない。』
私の感想
東京裁判は永遠の正義を求めながら、実際にはその時代の国際政治的条件に規定された裁判であったようです。丁度判決が出るころには、米ソ間に冷たい空気が流れ始めた頃です。その後のベトナム戦争でも国際法廷は開かれていません。
戦争をなくし話し合いと協調で早く世界の平和を築きたいものです。
参考文献は前話に記載と同じ。以上 (2000.12.30記)
第159話 土曜日の由来とクリスマス
土曜日の由来とクリスマスの関係を書いた本を見付けましたので紹介します。
週末土曜日の<サタディ>は北欧神話の神の名からきたのかというとそうではありません。北欧の神々にはそれらしき名前は見あたりません。
<サタディ>というのは、不思議なことにローマの農耕神サトゥルスに捧げられた日なのです。
そもそもサトゥルス(ギリシャ神クロノス)は、ゼウスに追われてイタリアへ逃げ、豊饒神となった神です。
武力で国を興したローマは、都市国家の歩みとして農業を重視したため、サトゥルスを讃えたのは当然でした。
聖書には神が天地創造を終えて7日目に休息したしたとあり、その御業を聖なるものとして、7日目を<サバットゥム>Sabbatumと定めました。
これがいわゆる<安息日>で、ユダヤ人達は、神の命じるままそれを週末として<土曜日>ときめました。
キリスト教では、安息日を日曜日と定めましたが、キリスト教のもとになるユダヤ教で、土曜日を安息日としていた痕跡は、イタリア語、スペイン語、フランス語に残っています。sabato,sa'bado,samediというように、これらの言葉では、土曜日は<安息日>という意味なのです。
なお、イスラム教では、金曜日が安息日とされているため、イスラム圏から、ユダヤ圏、キリスト教圏へと旅をすると、商店が閉まっていて3日間食事にありつけない羽目にもなりかねません。
サトゥルスは土曜日名としては残りませんでしたが、サトゥルスは、人類に畑作を教え、葡萄を育てたとされているため、12月17日から7日間にわたってかってのローマでは、国を上げてサトゥルスを讃える<サトゥナリア>を祝います。サトゥナリアの最終日が冬至にあたるように計画され、クリスマスもまた、太陽復活の日<冬至>に当たるように定められたのです。
聖書にある通り、天使ガブリエルがマリアのお腹に神の子が宿ったことを告げたのは、3月25日、<受胎告知の日>です。キリストはそれから丁度9か月たって生まれました。従ってキリストは12月25日に生まれたことになり、クリスマスとしてキリストの誕生日が設けられました。
クリスマスは、この四の光であり太陽であるキリストの誕生という意味を込めて、太陽神ミトラの誕生日<冬至>を祝う日として定められたのです。
ところが計算上の狂いのため、現在では冬至とクリスマスは一致していません。
永田 久著「暦と占いの科学」を参考にしました。以上 (2001.1.9 記)
第160話 冬至が何故年の初めにならないのか
何故冬至が一年の始まりではないのでしょうか?
クリスマスは冬至を祝ってその日を神に捧げたことから生まれました。
冬至が春を迎える出発点と考えられたからです。英国で年初を冬至として一月一日と定めたのは、1752年(宝暦2)に太陽暦を採用してからの事です。ヤヌス(古代ローマの神、すべての行動の初めを司る。ジェーナスJanus)の月を一月と書く私たち日本人から見れば、一月が年初なのは当然と思われるかもしれませんが、英語のJanuaryにもフランス語の
janvierにも、もともと第一番目の月などという意味は全くありません。
キリストはユダヤ人として生まれたため、生まれて8日目に、アブラハムと神との契約である割礼circumcisionを受けました。ユダヤ人にとって割礼の儀式は、神との契約を果たして神の庇護の下に未来の幸福を約束される極めて重要な儀式でありました。
その儀式を12月25日から8日目と決め、その日を一年の初めとしたのが現在の一月一日で、それが世界各国に伝わって、現在のようになったのです。
現在の年初は<割礼年初>といわれています。
感想:どうして西洋ではクリスマスを年初にしなかったのかなと疑問に思っていましたがこれではっきり致しました。
永田 久著「暦と占いの科学」を参考にしました。以上 (2001.1.11記)
第161話 週の最初は何曜日か
ギリシャの歴史家カシウスの説で、惑星5つに太陽と月を合わせて7つを地球から遠い順に配置し、占星術での考え方から、土日月火水木金が週の順序になったと第86話に書きました。週の始めは土曜日ともいえるのですが、日本では日曜日となっているのは、どう解釈したらよいのかと質問も寄せられていました。
この辺のことを書いた本を見付けましたので紹介します。(但し、日本が日曜日を週の始めに採用した理由は記載されておりません)
その本によると、ヨーロッパでは「日曜日」というのに、二通りの流れがあるというのです。<太陽の日>グループと<主の日>グループです。
英語のSundayやドイツ語のSonntagは日曜日を<太陽の日>と呼び、フランス語dimanche(ディマンシュ)イタリア語domenica'(ドメニカ)スペイン、ポルトガル語domingo(ドミンゴ)は<主の日>グループです。
どうやら、英国やドイツ、オランダ、また北欧や東欧では、カトリック流の日曜日の呼び方には抵抗があったらしいのです。
他方、スラブ系のソビエトやポーランド、またギリシャなどでは、キリストの蘇った日という意味で、日曜日は<復活の日>と呼ばれています。
中国では、日曜日を<星期天(シンチーテイエン)>つまり天の日と呼び、月曜日が<星期一(シンチーイー)>で、「第一の日」となります。
イスラム系のイスラム暦や、マライ、アラビアでの日曜日となると、<第一の日>という言い方に変わります。これは週の第一日であると共に、マホメットの第一日ということなのです。
日本では今は、週の始めを日曜日としてカレンダーが作られています。
永田 久著「暦と占いの科学」を参考にしました。 以上 (2001.1.13記)
第162話 核融合実験炉(1)経緯
本年2月21日のA新聞に核融合実験炉についての記事が出ているのが目に付きました。
内容は、「連続反応は未知の領域」「強度確保と放射化対策、強い材料開発に苦戦」と書かれていました。原子炉については、ある程度知ってはいたのですが、核融合炉については、アメリカが共同開発から撤退したという過去の知識しかなかったのでこの際、少し勉強をしてみようと本を探して読みましたので紹介をします。専門的知識の習得については、専門書をお読み下さい。
太陽のエネルギーの源である核融合を地上で再現し、発電に使うのが核融合炉です。
21世紀の後半以降とされる実用化に向けて日本、欧州、ロシアが進める「国際核融合実験炉(ITER)の建設地の立候補期限がこの夏に迫っているのです。
核融合炉の計画の経緯を振り返ってみます。ここでは難しい理論は抜きにして、私自身が素人なので素人分かりのしやすい言葉で述べてみます。
1945年(昭20)原子爆弾の広島、長崎への投下。第二次世界大戦の終結後、米ソの冷戦状態が続き、1950年代の初めになると、米ソ双方で水爆の開発が進み、壊滅的な核兵器開発競争が本格化します。1953年暮れの国連総会で米国大統領アイゼンハワーによって提唱された、原子力平和利用の為の国際機関の設置と、この機関による核分裂物質の管理案がありました。
1957年に国際原子力機関(IAEA)がオーストリアのウイーンに設置されました。このIAEAは各国の原子力発電所などの査察・管理を主業務としていますが、原子力による途上国援助策を行う事もその目的にしています。
このIAEA体制のもと、アメリカの旧敵国であった日本とドイツがアメリカから核燃料を平和利用のために供与されるようになっていくのです。
日本原子力研究所は1953年のいわゆる中曽根予算で生まれた、日本の原子力研究施設のはしりです。
2月21日のA新聞によると、「原子核を衝突させて核融合をおこすには、燃料の重水素を1億度以上に加熱して電子と原子核とがばらばらになったプラズマを作り、磁場で作ったカゴに一定時間閉じ込めて、原子核同士が衝突し易くする必要があり、過去40年は臨界プラズマ条件を目指す研究の歴史でした。」「原研が60年代から3度装置を大型化して、現在のJT60で、初めて臨界条件を達成したのは90年後半です。」「プラズマ温度5億2千万度を達成しました。」と述べています。
森永晴彦著「原子炉を眠らせ、太陽を呼び覚ませ」、山科俊郎・日野友明著 「誰にもわかる核融合の話」、読売新聞編集局編「青い閃光−ドキュメント東海臨界事故」を参考にしました。以上(次話へ続く)
(2001.3.19記)
第163話 核融合実験炉(2)各国の原発に対する姿勢
アメリカ:1979年のスリーマイル島の原発事故以来、新規原発の建設を中止しています。日米欧ロが共同で進めていた「核融合発電に向けた実験炉プロジェクト」から1998年10月撤退しました。
ドイツ:歴史的発展から見ると、まずアメリカによる援助があり、その後原子炉技術を自立させた
という点で、ドイツも日本も同じです。
違う点としては、ドイツは過去のナチス時代のいまわしい経験から連邦制を重視しているため、原子炉の安全を管理する役所が州によって異なることです。明らかにドイツの方が優れていると思われるのは、形だけでも、原子炉の安全確認に第三者検査システムを確立させている点です。
ドイツの車検は政府から独立した組織のTUV(技術検査機関)が行なっておりそれと同様に原子炉の原子炉検ともいうべき検査は原子力の
TUV によって行われています。
最近の出来事として二つあります。ドイツがかなり力を入れていた高速増殖炉から手をひいたこと。もう一つは、国際核融合実験炉(ITER)の建設地誘致から降りたことです。
いったんチェルノブイリの様なものを見てしまった以上、そう簡単に原子力は肯定出来ないのです。
石炭の減産は炭坑労働者の失業問題が発生するのでそう簡単には出来そうもありません。脱原発計画を達成させるのには「大幅な消費エネルギーの削減」をすることであり、技術革新で消費電力をカット出来る家電製品を生み出す努力をするといっています。
フランス:世界で最も原子力に力を入れていた国で原発で総発電量の75%をまかなう国でしたが、1997年原発に否定的な緑の党が加わった連立政権になり、事態が一変しています。原子力政策は軍事と一体となっていますが、高速増殖炉の実証炉スーパーフェニックス(SPX)を解体中です。自前の開発にストップが掛かったフランスからは目が離せません。
スウェーデン:スウェーデンは今世紀の2回の大戦には中立を守ることが出来、民度が高く、科学のレベルも特に高く、数年前までは電力の50%を原子力に依存するまでになっていました。その一方、環境に関する国民の関心も高く、数年前に2025年までに原子力を全廃することを国策として決めています。ただし、これには有力な代替エネルギーが出てきた場合、という留保条件が付いています。
日本:一応原発は定着している様に見えますが1999年の東海JOC臨界事故などで放射線に対する不安感は以前にも増して強くなっています。
その一方で、世界では、もはや半ば放棄されてしまったような壮大で見通しのない将来計画、即ち「核融合計画」が進められようとしています。
参考文献は第162話に同じ。以上 (次話へ続く) (2001.3.23記)
第164話 核融合実験炉(3)反対意見など
「原子炉を眠らせ、太陽を呼び覚ませ」の著者M教授は次の通り反対意見を述べています。
『核兵器と原子力の兄弟関係は、一般的に考えられているよりはるかに強いものである。したがって「核兵器は核兵器、原子力は原子力。核兵器には反対だが、原子力には賛成」と簡単に割り切るにはあまりにもナイーブだと思う。』
『誘致に関しては、アメリカは興味なし。ロシアは勿論金が無い。ヨーロッパは足並みが揃わない。ドイツは反原発の激しいところ。日本としては、巨費を投じてしかも危険を冒して、特に目的に達する見込みが全く無いような計画には、たとえそれが一地域経済の振興、大企業の救済、あるいは関連技術の開発に役に立つものであっても安易に飛びつくものではないと考える。問題はむしろ、このプロジェクトに関係している学者達で、社会から厳しく裁かれることになろう。』と大変厳しいご意見が出ています。
K東大名誉教授のA新聞への投稿(2001.1.18)
「核融合炉の誘致は危険で無駄」と見出しが付いています。
『核融合発電には致命的ともいえる欠陥がある。この欠陥が国民に十分に知らされないまま、誘致の方向が決まろうとしていることに強い憤りを感じる。
重水素と三重水素を融合させようというのが、ITER(イーター)計画だが、その時高速中性子が大量に出る。これら高速中性子は減速されないまま真空容器の壁を直撃する。この際起こる壁の放射線損傷は、我々の経験したことのない強烈なものになることは疑いない。
壁の放射線損傷を取り替えるとしても、そんなに大量に出る放射性廃棄物をどう処理するのか?
この計画の最初の主唱者であった米国が、この十年近くの経済の好況にもかかわらず、いち早く撤退してしまった理由はこの辺にあったのではなかろうか?』
とこれも大変厳しいご意見です。
私の今の心境。
最近起きた、「原子炉関係事故、JOC臨界事故」などにより国民は放射線事故に特別な関心を寄せています。政府は信頼度回復にもっと力を注いで欲しいものです。
我々国民は自発的に勉強もして意見がいえるようにしたいものです。今回はウラン、プルトニウム、トリチウムなどに敢えてふれずに話しを進めてきましたのでご不満な方もあろうかと思いますがご容赦下さい。国民の合意が得られるような研究成果の分かりやすい発表やマスコミの解説が欲しいと思いました。
参考文献は前話に同じ。以上 (2001.3.25記)
第165話 靖国神社と戦犯合祀(1)戦前
かねてから一国の首相が靖国神社に参拝するとかしないとか、公式なのか私的なのかと新聞記事を毎年賑わしていました。どうしてこんなことが起きているのか調べて見ました。適当な本が見つからないため一方的な見解になってしまっているかとも思いますがご容赦下さい。
靖国神社の生い立ち、
明治天皇の命により、嘉永・安政(1848年から60年)以降の殉国者の霊を慰めるため、1869年(明治2)現在地(九段)に東京招魂社として創建されました。最初3588柱が祭られ以後佐賀の乱、西南戦争、日清、日露戦争から第二次大戦に及ぶ内外の戦いの戦死者約250万柱の霊を合祀しています。
「冤枉 罹禍(えんおうりか)」の発想
明治維新の動乱の時期に殉難・犠牲者の「義」のあり方について微妙な流動的関係が付きまといました。
即ち、徳川将軍に正統なる統治権が掌握されていた時代に、幕府に征伐されたり、処刑されたりした者は、反逆者として成敗されたのです。吉田松陰にせよ、橋本左内にせよ、彼等は罪人として死んだのです。
ところが、戊辰戦争が重大なる価値の転倒をひき起こしました。倒幕運動とは明らかに政府転覆の謀議ですが、それが「尊皇」の大義と結びつき「義」を獲得したのです。吉田松陰、橋本左内ら罪人が一転して尊皇の大義に生きた志士として名誉を回復しました。そうして、殉国者として靖国神社に祭られたのです。
徳川慶喜は駿府に蟄居させられましたが結局は許されたのです。五稜郭に立てこもって最後まで抵抗した榎本武揚は攻囲軍の嘆願により、命は助かり後に新政府にて栄達の道を歩みます。
王政復古の新政府は旧敵に対して復讐せず、反逆者を粛清も訴追もしないで、臣民のすべてが「おおみたから」であることこそ、神武天皇以来の皇室の倫理伝統だというのです。
「冤枉 罹禍 」の発想がこの問題を解決したのでした。志士達は冤 の罪で禍を蒙った、と考えるのです。それは裁判上の手続き上の手落ちみたいなもので、死者達は不運にも禍をうけたまでであって、彼等に死をもたらした幕府権力に対して、それほどの怨みを懐いてもらわぬ方が良い、ということになるのです。
小堀桂一郎著「靖国神社と日本人」、坪内祐三著「靖国」を参考にしました。
次話へ続く。以上 (2001.4.1記)
第166話 靖国神社と戦犯合祀(2)戦後
合祀者数
| 西南戦争まで 7751柱 |
第一次世界大戦 4850柱 |
| 西南戦争 6971柱 |
済南事変 185柱 |
| 日清戦争 13619柱 |
満州事変 17174柱 |
| 台湾征伐 1130柱 |
支那事変 191074柱
|
| 北清事変 1256柱 |
大東亜戦争 2132699柱 |
| <日露戦争 88429柱 |
計(平成元年) 2465138柱 |
靖国神社焼亡計画
戦後、アメリカ占領軍は日本軍将兵の激しい敢闘精神の根源を打ち砕くのがさしあたっての目標でした。そこで占領軍は靖国神社焼却計画を立案し、日本駐在のローマ教皇庁代表であるイエズス会のブルーノ・ビッター神父に問い合わせをしています。
ビッター神父の答申書はつぎの通りです。『靖国神社を焼却する事は、米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根元であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祭られるようにする事を進言する。』
以上の如き答申がマッカーサー将軍に届けられて「靖国神社焼却計画」の中止命令が出されました。(実は伊勢神宮、明治神宮、熱田神宮についても同様な処置が検討されていたという事です。)
戦争犯罪人の合祀
大東亜戦争で発生したいわゆる戦争犯罪人の総ては交戦相手国だった連合国の軍事裁判によって裁かれた人々であり、それは平和条約発効以前の、つまり国際法的にはまだ彼我の戦争状態が継続している最中の出来事です。つまり国内法的には決して罪人ではないのです。昭和27年4月28日に平和条約が発効し、戦争犯罪裁判受刑者の赦免、減刑、仮釈放があったり、翌年には、法律の一部改正で、刑死、獄死した人々にも戦没者遺族年金と弔慰金が支給されるなどの変更がありました。
戦争犯罪人という言葉は旧敵国から見てのことばであり、「冤枉罹禍」の事例により「国事殉難者」などの表現がありますが、M宮司は「幕末殉難者」「維新殉難者」の例にならって「昭和殉難者」との表現を使うよう神社職員に通達されています。
東条英機将軍他が昭和53年秋に合祀され、翌年春、大平首相(クリスチャン)の公式参拝が行われています。昭和61年以降中華人民共和国や近隣諸国に配慮して首相の公式参拝が中断していますが、何か釈然としないのは私だけでしょうか?
アメリカのアーリントン墓地や中華人民共和国では、自国の戦没者の 扱い方をどうしているのか知りたいと思います。
参考文献は前話に同じ。以上(2001.4.3記)
第167話 しきたり、習慣(1)茶柱 他
「茶柱が立つと縁起がよい」という由縁
イナバの白兎で有名な出雲神話に出てくる大国主命(おおくにぬしのみこと)が、
須世理比売(すせりめ)を妻として迎え、宮殿を建てる一節が古事記にあり、「底津石根(そこついわね)に宮柱ふとしり、高天(たかま)の原に氷椽(ひぎ)高しりて」という表現がされています。
つまり、大盤石の上に柱をしっかり立て、空中高く屋根をつくるということです。
柱を立てるということは、大変縁起の良い、景気の良いことですから、一日の始まりである朝に、茶柱が立てば、宮殿建設にあやかれる。きっと良いことがあるということが始まりの由縁です。
屋根に何故根の字が付くの?
屋根は建物の上の方にあるのに何故根の字が付くのでしょうか?
縄文時代、弥生時代の住居を想定すると合点がいくはずです。当時の屋根は地面にまで根を下ろすように届いていたのです。地面から屋根が生えているように、屋根がそのまま家になっています。
不老長寿を願い、屋根や軒を反りあげる
お寺の屋根の端の方が天に向かって延びるように反り上がっていますが、これは不老長寿を願った祈りの形なのです。
屋根を反りあげる技術は中国の南北朝時代、つまり約1400年ほど昔、わが国の飛鳥時代に仏寺の建立とともに輸入されたものです。
この屋根を反りあげるという曲線感覚は、長生きをしたいという神仙思想の影響でしょう。
屋根を反りあげて、建物を羽ばたく鳥の形になぞらえ、雲形の組み手や装飾を思いつかせたのも、つまりは「天」との交わりによって長寿のご利益を受けようとした
願いからといって良いでしょう。
また【鴟尾(しび)】を屋根に飾るようになったのは、晋(しん)の時代で、日本では法隆寺、唐招提寺の金堂、東大寺の大仏伝の屋根が有名です。
鴟というのは、非常に強い鳥で棟の両端に飾るのは防疫のシンボルになるでしょう。
蒲田春樹著「暮らしの伝承」を参考にしました。以上 (2001.5.31記)
註、しんせん‐しそう【神仙思想】・・広辞苑
中国古代の神秘思想。神仙説の起源は山東省の神山信仰に端を発し、不老長寿の薬を求め、煉丹術を生み、太平道・五斗米道(ゴトベイドウ)などに発展。道教の中にとりこまれた。
第168話 しきたり、習慣(2)床 他
「床」という字は、いわゆる飾り床という意味の「とこ」と読まれたり、「ゆか」と読まれたりして紛らわしいものです。
元来、床というのは中国の「牀(しょう)」ということで、寝台を意味する文字です。土間より一段高い「とこ」に起居する貴族達と、土間に藁を敷いて生活する庶民の姿は、そのまま支配者と被支配者を象徴する姿といえましょう。この様な「とこ」も天平の時代を経ると、ぼつぼつと住まいの都市化に影響され、今までの寝台式をやめて、住まいの全部を「総床、板敷き」にする方法が現れました。平安朝の「寝殿造り」がそれに当たります。
鎌倉時代になると、庶民の住まいも向上し、そこに設けられた「とこ」と「ゆか」が混同し、「床」の字が「とこ」とも「ゆか」とも読まれ、「とこ」も「ゆか」も同じものと考えられる様になったのです。
「床の間」の生い立ち
「畳(たたみ)」が顔を出したのが、平安朝の頃で、板床の上の敷物、つまり座布団として、使われていました。室町時代に間仕切られる部屋がそれぞれの用途によって使い分けられ、一部の板敷きの部屋を残して、「たたみ」を「とこ」の上に敷きつめて使用するようになりました。
「たたみ」を敷きつめた部屋を「座敷」と呼び、残された板敷きの部屋を「とこ」が使われていることから、「床の間」と呼び「座敷」と区別しました。
近世以降の日本建築で、座敷でゆかを一段高くし、正面の壁に書画の幅などを掛け、床板(トコイタ)の上に置物・花瓶などを飾るところを「床の間」といいます。室町時代には押板(オシイタ)と呼んでいました。
「ぐれる」の語源
蛤(はまぐり)は 浜の栗に似ているところから名付けられたというのが定説です。また蛤は、他の貝とは決して合わないので
一夫一婦の縁起ものとされています。
はま・ぐりを逆にして、ぐり・はまというと、物事の手順が食い違うことであり、それが訛って、ぐれはまとなり、ぐれるという動詞もそこから生まれたものです。
見込みはずれ、調子はずれ、不良化などの意味に使われます。
参考文献は前話に同じ。 以上。 (2001.6.2記)
第169話 しきたり、習慣(3)くわばらくわばら 他
「くわばらくわばら」
この言葉の語源ははっきりしていません。一説には、雷神が誤って農家の井戸に落ち、農夫に素早く蓋をされて天に帰れなくなったとき、「俺はクワの木が嫌いだから、桑原桑原(くわばらくわばら)と唱えれば、二度とお前の所には落ちない」と答えたことによるのです。
又一説には菅原道真は死んで雷神になり藤原時平の一族に祟った、と伝えられていますが、領地の桑原には落雷がないことから、こう唱えるのだともいいます。
狂言の小唄にも「イヤとどろ、とどろと鳴る神も、ここは桑原、よも落ちじ。よも落ちじ」と謡われているのです。
たしかに畑のクワの木は低木であり、桑畑(桑原)に落雷の例は少ないでしょう。
椿は縁起が悪いか?
花が散るさまを表現するときに、桜は舞う、椿は落ちる、牡丹(ぼたん)は崩れる、萩はこぼれると書くのがぴったりです。
椿が花弁をばらけさせず、蘂(しべ)を付けたまま落ちるので、首が落ちるイメージにとる人もいて、病気見舞いには避けた方がいいとたしなめられるのです。
中国の荘子という学者が「樹齢8千年の大椿あり、8千歳をもって春となす」といい、椿は長寿長命のシンボルです。
白寿(99歳)、茶寿(108歳)、椿寿はまだまだその上です。
参考文献は前話に同じ。以上 (2001.6.4記)