第170話 日本流(1)多様化する言葉など

本を読んでいる中に気が付いた日本流の一端を紹介します。
今の日本には、「いろいろな日本」があって大変面白いと思います。
ホテルの朝食にトースト派とみそ汁派の両方が用意されているとか、宿泊産業界がホテルと和風旅館とにわかれていることなどです。 会社の保養所やスキー客の泊まる宿などでは、外人客の目も気にしながら、「浴衣で廊下を歩くのは止めましょう」と書いてあったり、「浴衣で館内OK」と書いてあって、宿側の対応の苦心がにじみ出ています。

役者が男だけの歌舞伎があったり、女だけの宝塚があること。
落語という高座芸能がのこっていること。
ハンコや名刺や賀状が好きなこと。
パーティの記帳には何故か筆や筆ペンが使われていること。
歌手でもないのに、カラオケで得意気に歌ったりすること。
素人がやたらに写真をとりまくること。
最近では歩きながら携帯電話を使う人が多く、後ろで声がするので振り向くと、大抵が、携帯でのお話中であったりすること。
受話器の前でお辞儀をしながら挨拶をしていること。

曖昧な言葉使いで相手を傷つけないようにするあまり、外人には理解がされにくいこと。
言葉の使い方や文字の使い方も日本の多様性を端的にあらわしているものではないでしょうか?
最近の新聞に、「留学生泣かせ、漢字より、敬語より、難しいぞ!男言葉、女言葉」と出ていました。留学生が「日本語ジェンダー学会」を結成し、7月にフォーラムを開き「母国語の表現と比較しつつ、『悪妻』『玉の輿』といったことばとの格闘ぶり」を語ったと報じていました。
なにしろ日本人は漢字・平仮名・カタカナに加えて英語をはじめとする横文字まで使います。
レストランやブティックの店の大半はカタカナか横文字であり、フランス料理店では、読めないようなフランス語の綴りで、イタリヤ料理店ではイタリヤ語で、中華料理店では中国語で、という風になっています。
広告には、「マイホーム」「ビューティー・エレガンス」「サクセス・ビジネス」「ツーショット」「コンピューター・ストレス」という変な和製英語がやたらに多いのです。 (次話に続く)

 松岡 正剛著「日本流」と佐々木高明著「多文化の時代を生きる」を参考にしました。以上                                (2001.7.22記)







第171話 日本流(2)漢音・呉音など

ゼネコン、パソコン、リストラ、パリコレ、ボディコン、レトロ、ネスケ(ネットスケープ)、という英語表記の短縮活用もあれば、京セラ、なつメロ、連ドラ、スポ根、ロン毛(ロングヘヤー)、朝シャン、子ギャルなどの漢字横文字混合もあります。バラドル(バラエティーのアイドル)、おばたリアンなどというのもおかしな組み合わせです。

漢音と呉音というのは、たとえば、「白衣」を、ハクイと読めば漢音、ビャクエと読めば呉音です。
漢音は唐代、長安(今の西安)地方で用いた標準的な発音を写したもので、遣唐使・留学生・音博士などによって奈良時代、平安初期に輸入されました。官府・学者は漢音を仏家は呉音を用いる事が多かったのです。
かって、サザンオールスターズの桑田佳祐 が「海岸に」を「きゃいぎゃんに」と歌って顰蹙(ひんしゅく)を買いました。
同音異義であって、一字多音の国、日本というものが生まれてきています。
「生」という字は「生一本、生そばのキ、一生のショウ、生活のセイ、生きるのイキ、生ビールのナマ、生まれるのウマなど、なんとバラエティに富んでいることでしょう。
「のし歩く」「のし上がる」のノシってなになのか?或いは「しがない」のシガ、「どうせ」「なんせ」のセは何なのか?我々はすっかり忘れてしまっていて平気なのです。ノシは「伸ばす」からきたもの、「しがない」のシガは「さががない」「さがない(とるに足りない)(つまらない)(貧しい)(乏しい)」が転じたものでした。「どうせ」や「なんせ」は「どうせよ」「ああせよ」「いずれにせよ」の命令のセヨで、何々せよといったところで、なかなかそうならない世の中をくみ取って「どうセ」という言葉が自立していきました。

一昨日のことを何といいますか?
東の出身者は「オトトイ」、西の出身者は「オトツイ」といいます。
東の畑作優位社会に対して、西の水田優位社会。東のイロリに対して、西のカマド。
東のウマ中心社会に対して、西のウシ中心社会。東の湯に対して、西の風呂。
さまざまな方言の東・西の分界線は、佐々木高明氏によれば、富山・長野県境付近から、長野・岐阜県境付近を経て伊勢湾に至る線だそうです。
経済社会の違いとしては、
東の貫高制(室町時代、銭高で土地の面積を表した)に対して西の石高制(検地によって法定された耕地の生産高、玄米の量で表示)。
東の金の経済に対して西の銀の経済。
日本を考えるにあたっては、四つの国に分けたほうが良いといいます。
即ち、アイヌ(蝦夷)、東国、西国、琉球(南西諸島)です。又、地域の差だけではなく時間の差も見る必要があります。
     (次話に続く)     参考文献は前話に同じ。以上 (2001.7.24記)













第172話 日本流(3)異なる文化と異なる論理など

世界には一神教の文明と多神教の文明があります。キリスト教もユダヤ教もイスラム教も唯一の神を信じる一神教ですが、インドより東方のアジアの地域はもともと多神教の世界です。山川草木の多くに神々が宿り、ご先祖様も、山ノ神も、竈(カマド)の神も、すべてカミとして崇めて来ました。
多神教的な世界観は、多文化・多文明に対する豊かな許容性を持っているということが出来ます。
この日本文化のもつ多元的で多重な構造とそれに伴う文化の柔軟性こそ、多文化・多文明の時代を迎え、その時代に適応するための優れた特質だと考えられます。

森に敵対する文化と森と共存する文化

ヨーロッパ系文化の基礎をなすヨーロッパ型の農耕は、もともと森との親和性をもつ文化ではありません。
西欧文明の源流をなすメソポタニアで約5000年前に書かれた最古の叙事詩「ギルガメシュ」には、シュメールの都市国家ウルクの王ギルガメシュが、レバノン杉の美しい森を守っていた森の王フンババの征服にでかけ、森の王を殺害することが語られています。
このステップに起源した農耕文化は、森林地帯に侵入すると、森を焼き払い、伐り開いて、そこを、畑地や牧地 に利用するようになりました。
このようなヨーロッパ型の畑作農耕に対して、モンスーン・アジアの水田稲作農耕は、盆地床や氾濫原や三角州の一部などもともと森林が広がっていなかったニッチェ(生態系の中で特定の生物の占める位置)を開拓して、水田の造成を行ってきたものです。その水田において稲の生育を保護する田ノ神は、「春に山(森)から降りてきて、田や里にとどまり、秋には山(森)へ帰っていく(去来する神)」なのです。
森林の下生えを刈り取って水田の肥料(刈り敷き)にすることが、かっては極く普通の慣行であったというような点においても、森林と敵対するものではありません。
熱帯森林の保護を含め、様々な環境問題に正しく対処するためには、こうした文化ごとに異なる論理の違いを正しく把握しておくことが極めて必要なのです。
                参考文献は前話に同じ。以上 (2001.7.26 記)










第173話 女性ことばと男性ことば(1)江戸語

「歌舞伎芝居の中で使われる身分、階級によるセリフの違いについて、2世中村芝鶴(しかく、昭和56年没)が興味深い比較をしている」と水原明人氏が本に書いております。
    「いつ江戸にきたのか?」と相手に尋ねる場合、
   ・職人やとび職の男:「いつ江戸へおいでなせえました」
   ・町家の父親    :「いつ江戸へござった」
   ・町家の母親    :「いつ江戸へござらしゃった」
   ・遊女        :「いつ江戸へきやしゃんした」
   ・大夫(たいう、遊女の最高位):「いつ江戸へござんした」
   ・芸者        :「いつ江戸へきなさんした」
   ・僧侶や医者    :「いつ江戸へござりました」
   ・飯炊き       :「いつ江戸へござらっしゃいました」
   ・武家の女性    :「いつ江戸へおこしでござりました」
   ・武家の男性    :「いつ江戸へ参られた」
これらのように使われていたのが、次第に東京語、標準語と変化したのだそうです。 

日本語で重要なのが、男性と女性でことばが違うことです。金田一春彦氏は外国でも、男性ことばと女性ことばが違う島が在ると述べています。
有名なのは、カリブ海の東の方にアンチル諸島というのがありますが、そこでは、男と女は全然違う国語を使うそうです。女と子どもは、アラワク語という元からあることばを使いますが、男の方はカリブ語という大陸のことばを使うのだそうです。これは伝説があって、昔大陸から外の民族が押し寄せてきて、男を全部殺して、残っていた女と外から来た男とが結婚したためにそうなったのだということです。

日本語というものは、ことばのバラエティー、文化の違い、いろいろな地域における方言の違いとか、身分、職業による違いとか、性による違いとか、そう言った違いがたくさんある言語です。
これは小説家などには大きな便宜を与えていると思います。一つ一つのセリフをいうだけで、発言者がどういう人であるのかということがよく分かるからです。

    水原明人著「江戸語、東京語、標準語」、
    金田一春彦著「日本語の特質」を参考にしました。   次話へ続く。  以上
                                 (2001.8.25記)








第174話 女性ことばと男性ことば(2)最近の調査

金田一春彦氏の本に紹介されている「永野賢氏の『にっぽん語考現学』」に次の面白い物語があります。
ライオンとクマとオオカミとキツネとウサギとハツカネズミが出てきてこれが一緒にピクニックに行って、同じ気持ちをいうのですが、それぞれ言い方が違うのです。
・ライオンがクマに命令する。「我が輩は昼寝をしようと思う。そちは見張りをしておれ」
・クマはオオカミに対して「俺はちょっと昼寝する。貴様はよく見張っていろ」
・オオカミはキツネに対して「わしはちょっと昼寝をしたい。おまえ、見張りをしていてくれないか」
・キツネはサルに対して「あたしはちょっと昼寝をするよ。あんた、すまないが見張っていておくれ」
・サルはウサギに対して「ぼくちょっと昼寝をするからね。きみ見張っていてね。」
・ウサギはハツカネズミに対して「わたしちょっと昼寝するわ。あなた見張りをして下さらない?」
・ハツカネズミは眠くなったが「あたいには見張りを頼む相手がいない」と、ここでお終いになる話しです。
とにかくこういったようなバラエティー、ことばの違いというものは、日本語なればこそ出来る表現であるということになります。

NHKの世論調査で、「近頃のことば使いで感じることはなんですか?」との質問を過去4回試みていますが、「最近女性のことばが荒っぽくなった」との答が毎回必ず3位以内にランクされているそうです。
女性のことばといっても特に若い女性のことばの荒っぽさが目の敵(かたき)にされているらしいのです。
人が「若い女性のことばが荒っぽくなった」というとき、次のことを考えている場合が多いようです。「コノヤロウ」「ザケンナヨ」「〜シテンジャネーヨ」のような、かっては女性の使わなかった汚いことばや男ことばを一部の女性が平気で使うようになったことでしょう。
この調査結果については私も同感です。何とか美しい日本語の表現を守っていきたいものです。

  金田一春彦著「日本語の特質」、NHK放送文化研究所編「ことばのハンドブック」を参考にしました。
                                     以上 (2001.8.28記)






第175話 さざれ石

第94話で「君が代」の「さざれ石」の記事を載せてから、友人などからあそこにもあるよと写真まで添えて「さざれ石」を紹介して下さいました。
現在「千鳥が淵戦没者霊園」「鶴岡八幡宮」「霧島神宮」「出雲大社」「乃木神社(下関)」「金比羅宮」「文部科学省」「日枝神社(赤坂)」「北鎌倉 松ヶ岡東慶寺」「塩竈神社」の10か所に奉納されていることが判りました。

その大部分が奉納者小林文治様と書かれていましたので、この際思い切って、奉納者の小林文治様にお手紙を差し上げ、どこに奉納されているか一覧表を入手したいと思いました。
今年の初めにお手紙を差し上げましたら、早速娘様の津田美智子様が文治様の奥様の貞子様が体調をくずして入退院を繰り返していているからと、奥様の代筆と言う形でご返事を下さいました。
それによりますと、奉納者の文治様は平成12年1月にご他界なさっておられました。そして、文治様がお父上の宗一様のことを書かれた「宗一の遺志」という本(非売品)が国立国会図書館にありますのでよろしければ一読下さい。との事でした。
未だ残念ながら「宗一の遺志」の本を読んでおりません。きっと、岐阜県で「さざれ石」を発見された苦心や喜びなどが書かれていることでしょう。
ここに手元に集まった「さざれ石」の写真(塩竈神社を除き9か所)をA4、2ページに収めましたので ご笑覧下さい。

ある友人からは大磯町では「さざれ石」は「黒い小石(碁石の大きさ)です」と紹介をしている旨、実物を送って下さいました。

ここに「日枝神社(赤坂)」の「奉納さざれ石」紹介記事を載せておきます。ご参考になさって下さい。

日枝神社(奉納さざれ石)「さざれ石の由来」
この石は学名を石灰質角れき岩という。石灰岩が雨水に溶解してその石灰分を含んだ水が時には粘着力の強い乳状体となり地下で小石を集結して大きくなる。
やがて地上に出て国歌に詠まれているように、千代・八千代をへてさざれ石巌となりて苔のむすと景観実に目出度い石である。この石は国歌発祥の地と言われる岐阜県揖斐郡春日村の山中より発掘されその集結の過程状態を一見知ることが出来る。
先に昭和37年文部省の中庭に贈られた「さざれ石」の木札に記された通りこの「さざれ石」は岐阜県揖斐郡町出身の故小林宗一氏によって世に広められた。
    昭和56年6月17日     小林文治奉納
                               以上 (2002.4.1記)



第176話 さざれ石「宗一の遺志」

第175話さざれ石で、国会図書館に「宗一の遺志」と題する小林文治編(非売品、1995年印刷)があることを紹介しました。早速その本を国会図書館で読みましたので、ご紹介致します。
小林文治様(2000.1.6没)がお父上の小林宗一様(1891〜1969)の遺志を嗣いで 「さざれ石」が実在する石であることを知らせ、それを詠んだ「君が代」は国歌としてまことにふさわしいものであるとの認識を持って歌って欲しいと祈念しておられた事が判りました。
小林宗一(号宗閑)様略歴
明治25年、岐阜県に生まれる。
昭和35年、揖斐川愛石会を創立、会長に就任。
昭和36年、国歌に詠まれている「さざれ石」を発見。公式制度連絡調査会に建白書を提出。
昭和39年、朝日新聞社主催全国水石大会に於いて運営委員長となる。
昭和42年、日本愛石館(石の博物館)完成初代館長となる。
昭和44年1月、東京新宿病院にて死去。

上記建白書の抜粋
1)さざれ石は現存する石、実在する石である。【岐阜県揖斐郡春日村にある石灰質角れき岩】
2)尚その和歌の詠み人もおぼろ気乍ら判明した。【古今集、賀の部に収録されている「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」詠み人しらずの歌の一節「わが君は」とあるのを「君が代は」と改変して文部省が明治23年に国歌として制定した。明治21年に我国より各条約国に通知せられたとも云う。詠み人知らずの和歌一首は調査の結果揖斐郡春日村小宮神地区(藤原氏一族の部落戸数約90戸)の祖先藤原石位左衛門が詠んだものであることが推定し得られる】
 
藤本註:証明する理由についてはここに記載する事を省略する。
3)今回国旗、国歌等に関する「公式制度連絡調査会」が設置されたので此機会に国家の立場に於て、このさざれ石を現地について調査せられ其事実を一般に公表せられたい。建白する。昭和36年8月 小林宗一
小林宗一様の人柄を日本愛石館館長 小森勝文様が次のように記述しています。
翁は揖斐川町で「おりや」と称し、目貫き通りで呉服の店を張る青年実業家で人気ある繁盛店の経営者でした。石を楽しんだ始まりは、茶席に用いる石に意を注がれたことからです。家元の箱書きをいただくようになりました。
何時も質素にし、自己に厳しく人に優しい翁の日常は卓越した高僧を思う程でした。日本一流の墨客や芸術家を訪問して交流を深め、自己の鑑識眼を確かめいわゆる石橋を叩いて渡る慎重さでした。
昭和42年、揖斐川町に日本愛石館が完成してからは館長として席の暖まる間もないほど多忙な日々でありました。
春日町に建立された「国歌君が代発祥の地」の石碑には翁の歌「日の本の国の栄を石によせてよみたる国家この地に生まれし」が刻まれています。
 小林文治編「宗一の遺志」を参考にしました。    以上(2002.4.17記 )






第177話 さざれ石 奉納・贈呈先

「宗一の遺志」の本の巻頭に中曽根康弘元内閣総理大臣の言葉があります。
『私は小さい時から国歌「君が代」を歌ってきましたが、正直言って「さざれ石」−小さい石−が集まって岩となり、苔むすまでに至る事があるだろうかと疑問に思っていました。それは総理大臣になるまで内心深く持ち続けた疑問でありました。しかし、岐阜県揖斐郡春日村にある「さざれ石」の写真を見せられて、なるほど、実在している事を確認し、非常に嬉しく思いました。
「さざれ石」が岩になるまでに、風雪にさらされ洪水や土砂崩れの難儀を克服して、苔むすまでに完成してゆくその雄々しい忍耐の長年月を思って作られた、国歌「君が代」の作者の心の深さに感動しました。
さざれ石の発見者である故小林宗一翁のご功績を讃え、改めて心から感謝と敬意を表するものです。 平成5年11月16日』

さざれ石の奉納・贈呈先を調べました。全国50カ所近くになり、皇居、神社、お寺、国旗掲揚台、航空自衛隊岐阜基地などでしたが、豪州カウラ刑務所跡近くの日本庭園と極東裁判絞首刑跡近くに安置されている記事に私は感動しました。 早速極東裁判の絞首刑跡を訪ねましたが、そこには「永久平和を願って」と刻んだ大きな石が追悼の遺跡として置かれ花が手向けてありました。公園を散歩する年配者に聞いても近くにあるはずのさざれ石の場所が判らず、絞首刑跡を見下ろせるサンシャイン・シティ・ビルの守衛さんに聞いて探して貰いました。ビルの4階の北側庭に二つの高さ1メートルぐらいのさざれ石がありました。写真を見て下さい。
今まで見たさざれ石の中では一番立派に感じました。石板に刻んだ文は次の通りです。
『石灰岩を水源にもつ急流河川の段崖には大小のれき片が溶解した石灰水の凝結作用により長年月の間に稀に巌塊をつくる これをさざれ石という
古今和歌集の賀の歌に わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで とあるごとく古来尊敬する対象のいや栄をことほぐために用いられた瑞石である
ここに岐阜県揖斐郡春日村産出の名石さざれ石を置いて豊島の永遠の繁栄を祈念するものである  昭和55年11月 』

 藤本註:君主制度が戦後主権在民に変わっても、崇敬する天皇のおられるこの日本の繁栄を祈る意味合いは現代にも通ずるとの小林宗一様の信念がご子息の文治様に受け継がれています。「古来崇敬する対象」とか、「豊島」は「豊島区か?日本か?」
解釈を読者に任せたり、極東裁判の犠牲者の鎮魂・慰霊の言葉を使わず、随分気を遣った表現になっていると感じます。又贈呈者の名前も匿名にして売名行為ではない純粋な気持ちを表現していると感心させられます。豪州カウラの捕虜収容所事件50年慰霊祭のためさざれ石を贈った記事を読みますと、すべて小林様の自費とのことでした。
                 以上(2002.4.19記)