第117話 「故障中」他
私はこの「故障中」には違和感を持っています。本で調べますとやはり、それは不自然である、と解説されていました。理由は次の通りです。
使っている言葉で、「中」がつくものに、「工事中・準備中・使用中・謹慎中・執筆中・食事中・読書中・研究中・授業中・休憩中」などと枚挙にいとまがありません。多くの例では何らかの活動が続行しているのを表しています。最後の「休憩中」は「故障」と似ていて人間は活動していません。
機械が活動不能状態にあることを指して、「故障中」というのはやはり不自然に響きます。人間が主体ならば「休憩中・睡眠中」といえます。「冷房中・霜取り中」は一見機械が主体のように見えますがこれもやはり「人間が部屋を冷房中・人間が冷蔵庫の霜取り中」なのです。
「××中」といういい方はもう一つの側面として、ある状態なり、動作なりが一時的にそうである、ということであり、やがて終わりになるという含みをもっているということがあります。
「故障中」も好意的に解釈するならば、「いつまでも故障ではありませんよ、もうじき直しますからね」という気持ちを伝えたくてつい「故障中」と書いてしまったのではないでしょうか。
○座薬 私が先日お医者さんと話をしていて、「最近は座薬を口から飲む患者さんがいるんですよ困ったことです。」ということを聞きました。
私は「座薬」を別の言い方に変更出来ませんかねと提案しました。昔からの慣用句でも誤解が生じやすいときは別のいい方にして解決するのもいい方法ではないでしょうか?余談ですが、ある病院では「胃カメラ」「大腸カメラ」と診察項目を「ファイバースコープ・内視鏡」から平易な俗っぽい言葉に変えて患者にわかりやすくしている例を見付けました。
「座薬」は「坐薬」とも書き「座」が名詞で「坐」が動詞でした。「坐」は「坐る」という意味と「もぐり込ます」という意味があり、「坐薬はもぐり込ます薬」なのです。
○食間 薬を飲むとき、「食前・食間・食後」と薬袋に書いてあり、「食間」は「食事中」なのか「食事と食事の間」なのか、とまどうことがあります。
薬が食事と混ざってはいけないときに「食間」を使うのですが、「食事と食事の間」とわかりやすくした方が良いと思います。
英語では、「食事中」なら「Duringameal.」、「食事と食事の間」なら「Between
meals」で食事の単数と複数でわけられています。 以上
国広哲弥 著「日本語誤用・慣用小辞典」を参考にしました。 (1999.10.7記)
第118話 「準備」と「用意」他
例1)「準備体操」とはいいますが「用意体操」とはいいません。
例2)「下準備」とはいいますが「下用意」とはいいいません。
「準備体操」は水泳などの激しい運動をする前に体のウオーミングアップをすることであり、「下準備」は本式の会議などの開催を支障無く行う為の補助的な作業を指します。「会議の準備」といえば、補助的ではなくて主要な部分に関する準備を指します。
「準備」の方は内容が比較的に複雑で長い時間を要するのが普通であるのに対して、「用意」の方は内容が簡単で、短時間ですむことに用いられるのです。
「用意」が不測の出来事に備えて使うことは次の用例に見られます。
例3)「降るかも知れないから傘の用意を」とはいいますが、「傘の準備を」とはいいません。
「出発の用意をする」というと、すぐ出発できるような態勢をとることを意味し、「出発の準備をする」というと、出発よりかなり前からお金を用意したり、荷造りをしたり、切符を予約したりするような、こまごました一連の作業を意味することがわかります。
○「私は女の人です」
外国人で日本語を勉強中の人からの手紙で、自分のことを指すのに「私は女の人です」と書いてありました。これは誤用です。「私は女性です」と書くべきです。
「人」という言葉には軽い敬意が含まれています。だから、自分について使うのはおかしいのです。「あの男」「あの女」といういい方には軽度ではありますが、見下げた態度が含まれています。女性が自分の夫を指して「うちの人」ということがありますが、ここにも軽い敬意が含まれていることが納得出来るでしょう。
「あの人」よりも「あのかた」の方が敬意の程度は高いのです。最近の若い母親が他人と話していて、自分の子どもを指すのに「このかた」というそうです。
間違った使い方はしない様にしましょう。
○「体調をこわす」
普通は「体調を崩す」というべきところが、「体をこわす」との混交によって「体調をこわす」という間違った使いかたをする人がいます。
○「オートバイはヘルメットをかぶろう」
どこにどうやってかぶせるの?と疑問に思う方もおられるでしょう。しかし、これは「オートバイに乗る人はヘルメットをかぶろう」の意味で何等の落ち度もないのです。「ご飯を炊いたらお粥になる」「風呂を燃したら火事になる」というこざかしい子どもと同じ知性レベルといわれないようにしましょう。
国広哲弥著「日本語誤用・慣用小辞典」を参考にしました。(1999.10.18記)
第119話 藩と県民の性格(1)
明治4年(1871)、廃藩置県が行われて日本も中央集権態勢へと脱皮していったことは周知の事です。
ところが最近でも、出身地が○○なら、□□の性格だと評価する人がいます。
出身地を自慢にする人もいます。当たらずとも遠からずといえる節もあり、出身地とその県民の性格は、藩の生い立ちや、気候風土により相当影響を受けていることも解りました。
読んだ本からなるほどと思われるものを列挙してみました。
「そんなことはない、違っているよ」と思われる人は目くじらを立てずに寛容と忍耐で聞き流して下さい。
江戸:一本気で見栄っ張り。
京都:個人主義的で、文化的雰囲気を好む。
大阪:合理的で計算高いが人情に厚い。
加賀:加賀100万石は日本一大きな藩であり、前田家は
織田政権、豊臣政権、徳川幕府と権力者がめまぐるしく交代する中を上手に泳ぎ切って120万石になりあがりました。加賀の人は他国とあまり交流しない孤立的性格をつよく持っていました。しかし、そのことが、たまに入ってくる上方文化をむさぼるように、吸収することに繋がりました。加賀友禅、加賀蒔絵、加賀象眼といった京都風の美術工芸や、加賀宝生のような芸能を育てました。
能登:最初から不利な自然条件が、ねばり強い性格を生みました。昔学んだものを大事に守っていくことを重んじる考えが強いのです。
岡山藩:池田光政の仁政で比較的によい藩政が行われました。武士の間では、秩序を重んじ、農民や町民の間ではまじめに働いて生活を向上させていこうとする風潮が受け継がれました。
岡山県南部の人は合理性を、北部の人は人情をより重んじるとされています。
庄内藩:江戸時代中期以降、他藩と同じく商品経済の影響を受け、財政が悪化しました。しかし、商人に迎合せず、失踪な気風を保ち続けました。
戊辰戦争では官軍に頑強に抵抗しています。山形県人は、素朴で正直で口下手ですが、辛抱強く働き者だといわれます。庄内の人は、世話好きでおせっかいなくらいだとする別の評価がありますが、これは、港町である酒田と大阪との交流(大阪人の気質が日本海航路を通じて持ち込まれた)からくるものだとする説があります。
竹光誠著「藩と日本人」、大島美津子著「明治国家と地域社会」を参考にしました。
(1999.12.2記)
第120話 藩と県民の性格(2)
薩摩藩:鹿児島県人は、絶えず外の世界と接触して何かを取り入れようとする先進性と、表面を飾らずありのままの自分を正直に出す素朴な性質とを強く持っています。後者を「ばんから」とよぶこともあります。
江戸時代以前には九州南端の気候の温暖性が病虫害の発生に繋がり、台風の常襲も農業の妨げとなりました。
厳しい自然と闘いつつ、独特のたくましさや質素な気風を育てていったのです。鹿児島県人は、激烈な行動性をもち、空論を嫌い、心に思ったことを口に出す前に行動に移します。ですから、彼等は「議をいうな」という言葉を好みます。
鹿児島では、汚いことをして「男らしくないやつ」と評されることが最大の不名誉とされています。
西郷隆盛は薩摩人の気質をもつ典型的人物でしょう。
長州:長州人は理屈っぽく筋を通したがります。薩摩人とは水と油ほどの気質の違いでしょう。
土佐:土佐人の性格は坂本龍馬に代表されるように「異骨相(いごっそう)」と表現されますが、強引で頑固で一途な土佐人の気質を表す言葉です。
当時誰もが不可能と思っていました薩長同盟実現にあらゆる障害を越えてつき進む原動力は、土佐人の強引さによるものでしょう。
肥前:肥前佐賀藩は、尚武の精神が強いのです。武士道についての手引き書といえる「葉隠」の著者、山本常朝(じょうちょう)は佐賀人です。
自衛隊には佐賀出身者が今でも多いといわれます。武士道を重んじる伝統が、肥前藩に薩摩、長州、土佐とならぶ維新の立て役者を勤めさせることになったのでしょう。
薩摩出身者:大久保利通、西郷隆盛、島津忠義(ただよし)
長州出身者:山県有朋、木戸孝允、井上馨、毛利元徳(もとのり)
土佐出身者:後藤象二郎、板垣退助、山内豊範(とよのり)
佐賀出身者:鍋島直正、副島種臣
竹光誠著「藩と日本人」、大島美津子著「明治国家と地域社会」を参考にしました。(1999.12.5記)
第121話 廃藩置県(1)
薩摩藩、長州藩らの主導のもとに明治2年(1869)の版籍奉還が行われました。
諸藩主が版(土地)と籍(人民)を天皇に還納したのです。
明治4年(1871)の廃藩置県によって藩の組織は再編成されて府県制が作られました。大小さまざまな藩がそれぞれ独自の支配をおこなっていれば近代的な一律な支配が行えない為です。
この様な府県の編成の背景に、王政復古により古代の律令支配を再現することが望ましいという発想がありました。
大和朝廷のもとでおかれた王家の直轄領を表す「県(あがた)」の語を思わせる「県(けん)」という呼び方が採用されました。しかし、藩から県への転換が王政復古の思想にもとずく単なる名称の変更でなく、新たな法と支配をもたらすものでありました。
廃藩置県の少し前の状態をみてみますと、明治元年(1868)閏4月に布告が出され、府藩県に分けられました。
府県は、旧幕領主要地の9府『江戸・京都・大阪・度会(わたらい、志摩や紀伊)・甲斐・越後・長崎・神奈川・奈良』とその他22県で、幕府直轄地(天領)、皇室領、佐幕諸般の接収領が府県と称されました。府県がおかれた旧幕領は、全国的な商品流通網の要か、外国貿易の拠点か、政治的中心地か、重要物産地(飛騨、佐渡)かというように、政治上、経済上、文化上の要地でした。
明治2年(1869)12月以後、盛岡藩など13の藩が財政的行きずまりから自主的廃藩を申し出ています。政府は自主的廃藩を申し出た藩を県として再編しています。盛岡藩は盛岡県に、津和野藩は浜田県になっています。
明治2年末には、1使3府46県271藩です。1使とは7月に蝦夷地(同年北海道および樺太と称されることになった。)に開拓使(太政官)が置かれたことを指します。その後変遷があり、明治4年6月、廃藩置県直前が1使3府41県261藩で、7月廃藩置県直後が1使3府302県です。更に11月には県の数を大幅に減らして、72県になっています。翌
明治5年9月には琉球藩を設置し、1使3府69県1藩となり、変遷を経て、明治21年末には1道3府43県となりました。
私が中学生の時(昭和18年7月1日)に、東京府が東京都に変わりました。
私は本を読んで初めて、「廃藩置県で府県が出来た」との認識が間違いであることに気が付きました。即ちそれ以前に府県と藩とが共存していたことを知りませんでした。
もう一つ北海道は蝦夷地として、それまで政治が及んでいなかったのを改めて「開拓使」を設けたことでした。
武光誠著「藩と日本人」、大島美津子著「明治国家と地域社会」を参考にしました。
(1999.12.8記)
第122話 廃藩置県(2)
県名と藩名について
県名を定めるのにあたって、維新の際の忠勤藩と朝敵藩とを区別する方針が取られました。忠勤藩の大藩の名称はそのまま県名になり、朝敵藩と日和見の藩の藩名はなくし、郡名または山川の名を藩の後に作られた県の名称にしたというのです。
新しい日本のはじまりとして旧藩の名称をすべて改め、全国一律に旧国名もしくは県庁所在地名を県名にするのが良かったと思われますが、明治時代はじめの人びとの多くは自分は旧藩の人間であるとの意識を強く持っていました。そのために旧大名の間に旧藩名をそのまま県名にすることが地方の名門としての自家の地位を保つことにつながるとする考えが広まっていました。
旧大名の意向を受けて維新の際の忠勤藩9藩の名前が現在まで県名として伝わることになりました。
9藩とは、鹿児島、山口、高知、佐賀、福岡、鳥取、広島、岡山、秋田です。この中の佐賀藩以外は、明治4年(1871)11月2日より同月22日までの間に、旧藩名と同じ県名が付けられました。
佐賀はいったん伊万里(いまり)県となりましたが、翌明治5年(1872)ふたたび佐賀県と改称されました。
朝敵藩の会津藩は別名若松藩にもとずく若松県になっていましたが、若松県が福島県、平(たいら)県と合併して、いまのような福島県となりました。
このような忠勤藩と朝敵藩とを区別する順逆表示の県名を考えたのは、当時府県監督の地位にありました大蔵大輔(だゆう)井上馨であるとされています。大蔵卿大久保利通も、その命名に賛同したとされています。
私は、かねがね県名と県庁所在地名が一致していれば、学生が勉強するのに便利だろうにと思っていました。朝敵藩を後世に残そうとした考え方は狭量であったかも知れません。しかし、当事者にとっては新政府の命運を掛けた政策の実現をめがけたものでしたから、私のようには考えなかったのでしょう。(朝敵藩の佐倉藩は印旛県となっていましたが、明治6年千葉県となり、県名と県庁所在地とは一致しており、上述の県名と県庁所在地名との不一致原因は更に勉強の必要があります。)
竹光誠著「藩と日本人」を参考にしました。 (1999.12.12.記)
第123話 北方領土(1)国境線の推移
1999年末ロシアのエリツィン大統領が大統領の座を降りると宣言しました。
ロシアとの北方領土交渉の将来はどうなるのでしょう。
ここで、北方領土問題を私なりに復習しておくのが良いと思い、本を読んで再確認致しました。安全保障問題研究会が書いた
「変わる日ロ関係」と和田春樹著「北方領土」が良くまとめてあり、主としてこれらを参考にしました。
私はここで論争をしようというのではありません。過去の経緯を正しく理解しようとしているだけです。
不充分な記述ではありますがそのつもりで読んで下さい。
○北方領土
現在の日本では、「国後島・択捉島・色丹島・歯舞群島」を「北方四島」と一つに括り、これを「北方領土」と呼びます。
「北方領土」という言葉は、1950年(昭和25)代の日本政府とソ連との間の交渉ではまだ使われていませんでした。
この日ソ交渉の中で、日本政府は「南千島」の国後島・択捉島を今までソ連(ロシア)の領土になったことがない
「固有の領土」であると主張しはじめますが、1951年(昭和26)のサンフランシスコ平和条約において千島列島を放棄し
ていたという経緯がありましたので、そこで国後島・択捉島は千島列島(クリル諸島)ではないという論が組み立てられ、
1960年(昭和35)代に「北方領土」という用語が政府主導で広められるようになったものです。
○日本とソ連(ロシア)との国境線の推移(下記の★マーク4項目)
★日魯通好条約に基づく国境線【1855年(安政元年)2月7日】
伊豆・下田で結ばれたこの条約で、両国の国境は、択捉島とウルップ島の間に決められ、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島は日本の領土とし、ウルップ島から北の千島列島はロシア領として確定されました。
★樺太・千島交換条約に基づく国境線【1875年(明治8年)】
千島列島をロシアから譲り受けるかわりに、樺太全島を放棄しました。この条約では、日本に譲渡される千島列島の島名を一つ一つあげていますが、列挙されている島はウルップ島より以北の18の島で、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の北方領土は含まれていません。
★ポーツマス条約に基づく国境線【1905年(明治38年)】
日露戦争の結果、北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました。
★サンフランシスコ平和条約に基づく国境線【1951年(昭和26)】
日本は千島列島、南樺太の権利、権限及び請求権を放棄しました。しかし、放棄した地域が最終的にはどこに帰属するかは何も決められていません。
参考文献は第128話に記載します。 以上
(2000.1.29記)
第124話 北方領土(2)日露通好条約他
○条約締結の背景など
★日露通好条約 (交渉記録の一部を紹介します。)
択捉島がロシアとの外交交渉ではじめて日本領土であると決められたのは、1855年2月7日(安政元年12月21日)
の伊豆下田で調印された日露通好条約です。
周知のように、択捉島とウルップ島の間に国境線がひかれ、択捉島以南が日本領、
ウルップ島以北がロシア領とされました。また、樺太島についてはロシアと日本との間で界を分かたず、
これまでのしきたりの通りとしました。
長崎での交渉における択捉島をめぐる議論の一端を紹介します。
『プチャーチンがいうには、択捉島は元来ロシア
人が住居していた所で、後になって日本の者がやってきて住居した、今はロシア人と日本人が半分づつ住居しているので、
島を半分に分けて堺を定めたい、と主張する。
これに対して幕府側の川路聖謨(かわじとしあきら)は、「蝦夷千島」
のことはわが国の古記録にみえ、そのうえ現在は断然わが国の「所領」だと反駁する。プチャーチンが、択捉島には「
アイヌ」ばかり住んでおり、「日本人」は住居していないのではないかと述べると、川路は「アイヌ」は「蝦夷人」のことで、
「蝦夷は日本所属の人民」であるから、「アイヌ」の居る所はすなわち「日本所領」であるのだと、
切り返す。なおも、プチャーチンが択捉島に住んでいる「アイヌ」はロシアに属する者も日本に属する者もいる、
択捉島の北の方の「アイヌ」はロシアの支配をうけているではないか、と突っ込んでくると、
川路は択捉島とウルップ島のことを間違えていっているのではないか、択捉島については挨拶にも及びがたいことだと、
一蹴していた。』川路の方が実態をよく知って発言していました。
ただ、川路のいうアイヌ居住地=日本領土という論法は樺太をめぐる交渉のなかでも出されていますが、
北千島アイヌの存在を切り捨てていたのは首尾一貫せず、ロシア側からつけ込まれることになります。それはともかく、
前期幕領期の幕府は、択捉島までを実効的に支配し、ウルップ島を無人島にしておき、シモシリ島以北のロシア勢力
との間の緩衝地帯にするという認識でした。その点では、ウルップ島折半論の余地がなかったわけではありません。
しかし、そのような緩衝地帯論がウルップ島への積極的な政治介入を生み出さず、事実上の放置=放棄につながり、
プチャーチンとの交渉でもウルップ島の領土権を主張せず、択捉島とウルップ島の間で国境の合意がされました。
江戸幕府の倒壊後、択捉島は明治新政府に引き継がれ、仙台藩の警衛・支配も中止されました。明治2年(1869)8月、
蝦夷地の北海道への改称にともない、千島国の一部となりました。明治2年から同4年にかけて、彦根藩・佐賀藩・仙台藩・
高知藩による択捉島分領支配の時期がありましたが、廃藩置県により領主権が解消され、開拓史の直轄となりました。
そして、明治5年より根室支庁の所轄、明治15年の開拓史の廃止にともない根室県に属し、同19年からは北海道庁の管轄と
なっています。 以上
(2000.1.31記)
第125話 北方領土(3)樺太・千島交換条約他
★樺太・千島交換条約 1875年(明治8)5月調印された日本とロシアの間の国境確定条約です。
この条約によって樺太全島はロシアの領有となり、ロシアはウルップ島以外の千島列島を日本に割譲しました。
安政の日露通好条約以来、樺太は日露両国民の雑居の地とされていましたが、両国官民の紛争が絶えず、日本は南下するロシアの勢力に対抗するだけの軍事力、経済力を持たなかったから、この交換をやむを得ないものとする意見が強かったのです。
★ポーツマス条約(正式には日露講和条約)
日露戦争で個々の戦闘には勝ったが奉天回線で戦力が限界点に達したことがあきらかとなった日本は、日本海海戦の勝利を機にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに調停を依頼しました。日本軍は南樺太の一部に上陸し、占領しました。日露両国のいずれかが、圧倒的に勝って満州を独占することをおそれたルーズベルトの仲介で1905年(明治38)講和が成立しました。
この時に樺太の北緯50度以南の日本への割譲が決まりました。
★日ソ中立条約 1941年(昭和16)4月モスクワで調印された条約。
(1)両国の平和友好関係の維持、領土の保全および不可侵の尊重。
(2)第3国との紛争の場合中立を守ること。
(3)有効期間5年で、一方から期限満了の1年前に破棄通告がなければ、さらに5年間の自動延長、を規定していました。
1941年(昭和16)6月、ドイツは「独ソ不可侵条約」を破って、ソ連侵攻を開始しました。「日ソ中立条約」は日ソ両国にとってきわめて有用でありました。スターリンは極東シベリアのソ連軍を西部に回し、ドイツ軍に対して全力を傾けて戦う事ができたし、日本も関東軍精鋭部隊を南方に振り向ける事が出来たからです。
★カイロ宣言 1943年(昭和18)夏、ソ連はドイツ軍をうち破り追撃戦に転じ、日本軍はガダルカナル、ブーゲンビルで玉砕し、敗北の後退戦に入っていました。
米国のソ連への要請は強まり、ソ連への見返りとして、ルーズベルトは「クリル諸島はロシアに引き渡されるべきである」と同年10月、見解を表明しました。
同年11月末、米英中三国の首脳会談がカイロで開かれ、対日戦争目的を明確化し、大西洋憲章の「領土不拡大の原則」を繰り返しました。
★ヤルタ協定(ヤルタ会談) 1945年(昭和20)2月クリミア半島ヤルタで米英ソ三国首脳が会談、ドイツ降伏後の欧州戦後処理問題を協議し、併せてソ連の対日参戦を決めました。
ヤルタ会談から2ヶ月後の4月5日、モロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使を呼び、
「日ソ中立条約は期限満了後、延長せず」との覚書を読み上げました。しかし、その際、同外相は、
佐藤大使の質問に答える形で、「日ソ中立条約」が1946年(昭和21)4月までは有効である旨を確認しています。以上 (2000.2.2記)
第126話 北方領土(4)ポツダム宣言他
★ポツダム宣言 1945年(昭和20)5月8日ドイツが降伏し、欧州の戦争は終了しました。
敗色濃い日本はソ連に終戦の仲介を要請しましたが、空振りに終わりました。
7月17日から8月2日まで、ベルリン郊外のポツダムでルーズベルト(同年4月に病死)に代わったトルーマン新大統領、スターリン、チャーチル(選挙で敗れた保守党のチャーチルは途中退場し、労働党のアトリー新首相に代わる)による首脳会談が行われました。7月26日、米中英三国の名で対日降伏条件を示した「ポツダム宣言が発表されました。(中国は会議に出席していませんが、米国が電話で了解を取り付けた)
★原爆8月6日広島、ついで9日長崎に投下
★ソ連の対日宣戦布告
モロトフ外相は8月8日佐藤大使を招き、対日宣戦を通告、ソ連軍は9日から満州侵攻を開始しました。
★日本の降伏
日本が「ポツダム宣言」を受諾して降伏したのは8月14日。15日正午、ラジオ全国放送による天皇自ら朗読する勅語によって、日本国民に対して降伏が告げられました。
ソ連の対日参戦は「日ソ中立条約」の有効期間中に行われました。条約違反であることは、まぎれもありません。
ソ連軍は日本降伏後も樺太と千島列島で戦闘行動を一向に止めず、北方四島の占領を完了したのは9月5日のことでした。(ソ連の対日戦勝記念日は9月5日です)
スターリンは対日平和条約を待たず、1946年(昭和21)2月、ソ連軍が占領した日本領土、すなわち南樺太と千島列島、そして後に「北方領土」と呼ばれる四島を一方的にソ連領土に併合しました。
第二次世界大戦終了後連合国の中で、「領土不拡大原則」を守らなかったのは、ソ連だけでした。スターリンは対日戦争を日露戦争の報復戦として位置づけ、勝利の配当として、南樺太と千島列島がソ連領に移りそれらはソ連の防衛基地として役立つと述べています。 以上 (2000.2.4記)
第127話 北方領土(5)日本軍将兵のシベリア連行他
★日本軍将兵のシベリア連行 スターリン指導下のソ連は、武装解除を受けた日本軍将兵や民間人計60余万人をシベリアなどソ連領内約950カ所の収容所に送り、強制労働に従事させました。抑留期間は、1年から最長11年にもわたりました。その間に、飢え、凍え、病いなどのために、6万2千人以上が望郷の思いに焦がれながら、異境の地で死亡しました。
「ポツダム宣言」第9項に「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめられるべし」と明記してありますが、ソ連だけが、無視したのです。
1993年(平成5)10月、エリツィン大統領が訪日時「抑留がスターリンによる人道上許すべからざる犯罪行為だった」と謝罪、黙祷し、犠牲者に弔意を表しました。
★サンフランシスコ平和条約[1951年(昭和26)締結]
ソ連は「サンフランシスコ平和条約」への署名を拒否しました。その理由の一つは、日本に放棄させた地域をソ連に引き渡すことが同条約に明記されなかったからだといわれています。
「サンフランシスコ平和条約」で放棄したクリル列島について、島名を列挙しなかったために、国後、択捉両島がクリル列島に入るか入らないかで、日本国内での議論がありましたが、日本政府は「国後、択捉両島はクリル列島には入らない。歯舞群島、色丹島は、もともと北海道附属の島嶼である」との立場です。
この問題に対して米国は1956年(昭和31)9月7日に出した「日ソ交渉に対する覚書」で明確な原則を打ち出しています。すなわち、「米国は歴史上の事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に日本領土の固有の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に達した。」
本質的な問題は、国後島、択捉島がクリル列島に入るかどうかではありません。北方四島の帰属問題は、何よりも優先して「領土不拡大原則」によって決着すべき事柄なのです。
★日ソ共同宣言 太平洋戦争末期以来の日ソ交戦状態を終結させた宣言。
1954年(昭和29)以来交渉が持たれましたが、領土問題をめぐって難航、一時中断の末1956年(昭和31)10月19日国交回復宣言が調印されました。
平和条約交渉の継続と平和条約締結後の歯舞・色丹両島の返還などで合意はみましたが、平和条約、領土問題はなお未解決のまま残されました。
1956年(昭和31)8月重光外相がダレス国務長官と合った際、ダレス長官は
「日本が国後、択捉両島をソ連領として認めることはサンフランシスコ条約以上のことをソ連に認めることであり、そのような場合には米国としては条約26条により沖縄を永久に領有する立場に立つものである」と述べたのです。
(2000.2.6記)
第128話 北方領土(6)東京宣言他
★東京宣言・クラスノヤルスク会談・川奈会談
エリツィン大統領は1993年(平成5)7月東京で開催された先進7カ国首脳会議(G7)に招かれ、且つ3ヶ月後の10月日本への公式訪問において、細川護熙首相とエリツィン大統領との間で、日ロ関係に新しい展望を拓こうとの期待を込めて「東京宣言」が出されました。
その一部を紹介しますと、「日ロ平和条約締結をもって、両国関係は完全に正常化される。平和条約の必要条件は、日ロ両国における過去の遺産の克服である。過去の遺産の克服とは択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の帰属問題の解決である。」と書かれています。
1997年(平成9)11月、橋本首相とエリツイン大統領とがクラスノヤルスクで会談をしました。「2000年(平成12)までに平和条約を目指して最大限の努力を尽くそう」との趣旨でした。
1998年(平成10)4月非公式なエリツィン大統領の訪日で川奈で橋本首相との会談が行われました。
○私の感想
国際情勢やロシア国内情勢によって時間はかかっていますが、両国間で知恵を出し合い何とか早く解決されることを切に切に希望します。
『参考』
1)北方領土の日の制定:日本政府は1981年(昭和56)閣議で毎年2月7日を「北方領土の日」と決めました。この2月7日という日は、1855年(安政元年)日本とロシアの間に、はじめて、択捉島とウルップ島の間を、国境としようと決めた日露通好条約が調印された記念すべき日です。
2)北方領土に関する政府関係のホームページは下記の通りです。
総務庁ホームページ;http://www.somuchou.go.jp/
北方領土問題対策協会ホームページ;http://www.hoppou.go.jp/
安全保障問題研究会編「変わる日ロ関係」、菊池勇夫著「エトロフ島」、和田春樹著「北方領土問題」、木村汎著「北方領土」、オレグ・ボンダレンコ著「北方4島返還のすすめ」、小学館発行「万有百科大事典」を参考にしました。
以上 (2000.2.8記)