孔子廟の政教分離判断

〜 儒教は宗教なのか? 〜



中国の思想家で儒教の祖である孔子を祭る孔子廟(こうしびょう)の敷地を那覇市が無償で使わせるのは憲法の政教分離原則に違反すると、最高裁大法廷が判断した。

裁判の対象になったのは、那覇市の松山公園にある久米至聖廟で、1335uの敷地に孔子像を置く建物や儒学と沖縄の歴史を学べる施設などがある。
一般社団法人久米崇聖会が2013年に建てたもので、那覇市が公益性を認めて年間576万円の敷地使用料を免除したため、市民運動家の女性が政教分離に反すると市を訴えていたものだ。

今回の判断で、最高裁大法廷は儒教が宗教かどうかには言及しなかったが、孔子の霊を迎える年に1度の祭礼は宗教的意義を持ち、祭礼を行う目的で施設の建物が配置されていると指摘した。
さらに崇聖会が祭礼の観光化を拒む姿勢を示す閉鎖性や免除額の大きさを踏まえ、那覇市が使用料を免除したのは宗教的活動に当たると判断したものだ。

我が国のクソ憲法には政教分離の原則があるが、この運用は難しい。
最高裁大法廷が政教分離に関して違憲判決を出したのは3件目だが、これまで政教分離で問題になってきたのは専ら神社との関わりだった
この背景には、戦前の日本が神道を事実上の国教として利用し、愚かな戦争に突入した歴史がある。
しかし、だからと言って、地域社会に根差した神社をことごとくないがしろにするような考えは、中国の手先である売国奴と紙一重なので、注意深く対処しなければならない。

宗教由来の施設や行事が地域に溶け込み、生活の一部になっている例は多々あるし、これまでも裁判所は、宗教に対する一切の関与を否定してきたわけではない
政治家が靖国神社へ参拝すると、中国や朝鮮と一緒になって声高に非難する売国奴どもがうじゃうじゃわいてくるが、これらは良識をもって排斥しなければならない。

ただ、今回の訴訟は神社を標的にしたものではなくて、中国の儒教を対象にしたものだ。
そして、そもそも儒教は宗教なのかという疑問が出てくる。
最高裁大法廷は今回の判断で、上記の通り、儒教が宗教かどうかには言及しなかったが、施設の外観、行われている儀式の内容、歴史的な経緯、免除額などを検討した結果、「一般人の目から見て、市が特定の宗教を援助していると評価されてもやむを得ない」と結論づけ、無償で公有地を使わせるのは政教分離を定めた憲法に反するとの判決を出したのだ。

ちょっと分かりにくい表現だ。裁判所が自らの判断で「特定の宗教を援助しているから駄目だよ」と言ってるのではなく、「一般人が見たら、特定の宗教を援助していると評価されるだろうから駄目だよ」と言ってるのだ。
そんな理由って、ありなの?自分で判断しろよ、と言いたいが、「施設の性格、使用料が免除された経緯、恩恵の程度、一般人の評価などを考慮して総合的に判断すべきだ」ということらしい。

那覇市は、今回の孔子廟について、なぜか観光資源としての意義を認めて敷地使用料を免除していたようだが、2013年にできたばかりの由緒も何も無い施設に、どれだけ観光資源としての価値があるのかは疑問だ。
観光資源としての意義があると言うのなら、遊園地やカジノも全部対象になってしまう。
しかも今回の孔子廟はかなり閉鎖的だったようなので、那覇市の主張は通用しないものだった。

て事で、今回の最高裁の判断は妥当なものと言えようが、そもそも儒教は宗教なのか、という根源的な疑問は残ったままだ
どう考えても、儒教は宗教ではない。儒教は道徳だ。ヨーロッパにおけるキリスト教や日本における仏教のように、権力者にとって都合の良い道具として庇護されてきた点では、中国の儒教は宗教と似たような性格があるが、中身は宗教ではなくて道徳だろう。権力者が権力を維持するのに好都合な考えを体系化した道徳だ。
なので、孔子廟を政教分離の観点から判断した今回の判決は、どうもしっくりこないぞ。

(2021.3.1)



〜おしまい〜





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