国体を見直そう

〜 優勝できなかった高知県 〜



開催地が優勝できない事件

高知県で開催されていた第57回国民体育大会「よさこい高知国体」において、開催地の高知県が天皇杯(男女総合優勝)を逃した。秋季国体の開催地は1964年の新潟大会から昨年の宮城大会まで38年連続で天皇杯を獲得しており、天皇杯を獲得できないのは1963年の山口県以来、39年ぶりということだ。

この事件について、マスコミが書き立てているのが、なんとなくおかしい。これまで38年間、開催県が天皇杯を獲得し続けてきた時は、ほとんど記事にもならなかったのに、獲得できなくなって初めて記事になるのだ。古い例えで言えば「犬が人を噛んでも記事にならないが、人が犬を噛むと記事になる」ってとこか。素直に考えれば、開催県が優勝し続けてきた、っていう方がよっぽど不思議なんだけど。
確かに、関係者の間では、開催地が優勝できないっていうのは一大事なのかもしれない。でも、大半の一般市民にとっては、全く何の関心も無いのではないか。そもそも国体自体が、開催地でも無ければ、一般市民の関心は限りなくゼロと言っても過言ではない。「えっ、そんなん、やってたの?」って感じで。出場者やその関係者だけのイベントである。さすがに開催地はイベントもあるし施設も新設されたりするから、ある程度の関心を呼ぶだろうが、それでも地元が天皇杯を取れなかったとして悔しがる一般市民がどれくらい居るだろうか



強引な開催地の優勝

そもそもの問題として、今まで開催地が優勝を続けてきた事自体が、ヒジョーにおかしい。て言うか、国体の存在価値自体が疑問の余地がある。
もちろん、当初は国体の意義も大きかったと思う。国体で都道府県対抗方式が導入されたのは1948年の第3回の福岡大会だが、戦後間もない頃であり、国民のスポーツ振興を進めるには、ある程度、地元意識をあおって競わせるのが最善の策との考えだった。そして、それが地方での選手強化につながり、全国的なレベルの底上げに役立ったのも事実だ。今でこそ最大のスポーツイベントはオリンピックであり、メダルはともかく、どんな種目でも、オリンピックに出られないようでは、なかなか大きく評価してもらえない。さらに、サッカーならワールドカップがあるし、他の競技でも世界選手権等が開催され、それくらいのレベルにならないと市民の関心は盛り上がらない。しかし、終戦直後の弱り切った日本においては、国体こそが現実的に最大のスポーツイベントであったと言えよう。

ただ、地元意識をあおって競わせる方式は、地元で開催する場合は何が何でも優勝にこだわる自治体を登場させる弊害も生みだしてしまった。勿論、それでも本当に一生懸命に地元選手の能力向上に励むのならいい。しかし実態は、国体開催が近づいてくると、地元とは縁もない優秀な選手を教員や職員として大量に採用したり、企業に雇用させたりして、強引に優秀な選手をかき集める。それでも、結果的に優秀なスポーツ選手が地元に根付いてくれて、地域のレベルアップにつながるという側面は否定しない。ただ、人口が少なくて教員採用数も少ない県でそういう事をやると、教員の採用面で大きな歪みが生じてしまう。つまり、スポーツしかできない教員が増えるということだ。また、それなりの経費もかかる。さらに、それまで地元に残って地道に頑張ってきた人が、外人部隊によって代表から排除されてしまうのも可哀想だ。おまけに、そういう補強選手が数年経って再び県外に流出したりするから、なおさら意味が無い。
一方、得点の制度もおかしかった。ブロック予選が免除される開催地は、全種目にエントリーできるため、それだけで得点を獲得しやすい立場にある。また対戦の組み合わせも地元の意向が反映されるため、強いとこ同士を対戦させる一方、自分とこは弱い相手とばかり対戦させ、有利に進めるという事が横行していた。
これらの対策により、通常なら下位に低迷している弱小県が、開催年にだけいきなり優勝するという恥ずかしい事を繰り返してきた。1976年の佐賀国体では前年37位の佐賀が一気にトップとなり、85年の鳥取国体でも人口61万人の最少県・鳥取が優勝した。つい数年前に開催された香川県だって、基本的にはスポーツ弱小県なのに、やはり優勝した。自分の地元の優勝なので、ホッとした面はあるが、胡散臭くてあんまり素直に喜ぶ気にはなれなかった。

誰がどう考えても、38年間も開催地の優勝が続いてきたなんて、むちゃくちゃ不自然だ。開催地の優勝が続いてしまったため、開催地としては、優勝するのが国体成功の必須条件というプレッシャーを感じていたのだろう。オリンピックにしても、開催国の選手が活躍しないと国民からは失敗と見なされてしまうから、これは仕方ない事でもある。ただ、オリンピックのようには国体が注目されなくなった今、いつまでもお金をつぎ込んで開催地が優勝する必要性が無くなったのも事実だろう。



見直すべき時がきた

開催地が優勝し続ける事に対する疑問は、一部の関係者以外は、誰が考えても同感だろう。しかし、今まで続いてきた悪習が絶たれたのは、戦後最長とも言える不況の中で、全国でも最も経済基盤の弱い高知県で開催されたことと、その県知事が前例にとらわれない革新的な橋本大二郎知事だったからだ。絶好のタイミングだったと言えよう。

最も大きな要因は、やはり景気の低迷だろう。国家財政だけでなく、地方自治体の財政も例外なく破綻寸前であり、これまでのような強化策が取りにくくなっている。これは政府も認識しており、バブル崩壊後の地方財政悪化を背景に、文部科学省や国体を主催する日本体育協会は昨年1月、国体改革案策定プロジェクトを発足させ、今年3月に発表した改革案の中間まとめでは、「参加総数枠(約3万人)の15%(4500人)程度の削減」や、開催地を渡り歩く国内移動選手の出場制限を厳しくするなどが盛り込まれている。
高知では、開催経費も徹底的に節約している。宿泊施設の拡充を止めたため、宿泊施設が不足してしまい、陸上競技を秋季大会の開会式前に行う異例の「分離開催」したのだが、開会式前に聖火を燃やす経費を節約したため、陸上競技中は聖火がともってないのだ。それだけでも数百万円の経費節減になったらしいから、すごいものだけど。しかも、たぶん、おそらく、参加者の大半は聖火が着いてようが消えてようが無関心だろうし、そもそも気付いてもないだろう。
また、高知県は1997年に県内の市町村向けに「簡素化マニュアル」を作成し、「競技会場などで記念品などは渡さない」といった細かい指導を徹底し、大会運営費の削減に努めた。また、これまでは国体が近づくと県内のあらゆる市町村で様々なスポーツ施設が整備されてきたが、今回はできる限り既存施設の改修で済ませ、施設整備費は前年開催した宮城県の約1200億円に対し、半分以下の約583億円に抑えた。これでも多いとは思うけど、従来からすれば徹底的に節約した。
ここまで節約した高知県だから、当然、従来のようななりふり構わない強化策はとらず、県外から有力選手を採用するといった、過去の開催地が行ってきた悪習を絶った。
経費節減は高知県だけに限ったことでもなく、大会費用の削減や簡素化は多くの開催予定県で課題となっており、他県出身者を開催数年前から地元企業、学校などに就職させる「国体強化対策」を控えるところも増えてきている。
だいたい、国民の関心がほとんど無い割には、規模が大きすぎる。年間を通じての国体参加者数は、なんと約3万人もいるのだ。史上最大規模だった釜山アジア競技大会が約9900人の参加だったことと比べると、その肥大ぶりがわかる。

しかし、いくら財政状況が厳しいとは言っても、人口が多くて経済基盤も強い県だったら、従来の強化策を取れたかもしれない。やはり経済的にもスポーツレベルでも弱小県の高知県だからこその決断であろう。そもそも、県の人口規模や競技・宿泊施設などの違いがあるにもかかわらず、同一規格の大会を毎年、持ち回りで開催するのは、無理がある。国が経費を全部負担するのならいいが、地元が負担して開催するのは強引だ。自治体の自主財源の割合を示す「財政力指数」は、高知県は全国最低なのだ。
また、スポーツレベルで見ても、高知県の国体での成績は、過去20年で、なんと7回も最下位になっている。野球選手や相撲選手を始め、多くのスポーツ選手を生んでいる割には、地元に残る機会が無いため、国体では徹底的に弱いのだ。国体開催を睨んで力を入れてきた去年でさえ31位なのだ。そなな県がいきなり優勝したって、裏工作がミエミエで、なんだか、嬉しくもなんともないよなあ。

ただし、それでも、ここまで徹底的に最初から優勝を放棄したのは、悪しき慣習に囚われない革新的な橋本知事だからこそだ。他県は、経費節減には努めながらも、優勝へのこだわりは完全に捨てきってはおらず、そのバランスに苦慮している。しかし、橋本知事は、最初から天皇杯獲得を目指していないのだ。もちろん、口では「自分たちのできる範囲内で、精一杯優勝を目指す」などと言ってはいるが、その可能性が少しでもあるとは思ってないだろう。橋本知事は、国体準備が本格化した5年前ごろから常々「これまで最下位に近い高知県が、開催県になっていきなり優勝するのはおかしい」との持論を言い続けてきたのだ。
私は、橋本知事の知恵袋である高知県政策総合研究所に去年まで勤務していたが、橋本知事は、いつまで経っても一般市民の視点からズレることなく、当たり前の事を言っていた。一方、一般市民の視点からすればズレている県庁の一部関係者には、大きな抵抗があったようだ。もちろん、一般市民の視点がいつも正しい訳ではなく、正しく指導すべき政策も多い。スポーツの振興にとっても開催地の健闘は必要だろう。ただ、今のような経済情勢と国体の意義を考えると、見直すべき時期にきているのは否定できないと思う。



今後の課題


今後、開催が予定されている県の知事は、国体の意義は認めながらも、苦しい財政事情を考えて、高知県の決断を歓迎している。「開催県が優勝するようなお祭り騒ぎはやめるべきだ」とか「開催地が優勝するという慣行が今回から崩れるとしたら大変結構なことだ」との意見が多い。「国体のためにわざわざ施設を建てるのはおかしい」「一時的な選手強化で開催県が何が何でも優勝というのは問題」など、財政事情からの批判があるだけでなく、「地域の実情からかけ離れた過度な選手強化は国体本来の趣旨にも反する」とか「開催地に有利な得点方式など、運営のあり方は再考の必要がある」といった本質的な疑問も出ている。これらの知事も、たぶん、自分とこが最初に優勝を放棄するという勇気は無かったと思うが、高知県が真っ先に放棄してくれたので、追随しやすくなってラッキーと思っていることだろう。橋本知事さまさまだ。高知県が優勝できなかった事は、国体のあり方が大きく変わろうとしている今、不名誉どころか、非常に意義深い事だと言うべきだろう
たまたま来年以降は、静岡県、埼玉県と強豪県の開催が続く。静岡県は「ここ5年間の開催県より少額の強化費」と言っているし、埼玉県は「97年度から大会開催までの強化費は、最終的に20億円を下回る見込み」とのことで、簡素な大会を強調しているが、そうは言っても、いずれも天皇杯獲得を狙う姿勢は持っており、元々が強豪県なので、今のエントリーシステムなら、再び開催県の天皇杯獲得が続くだろう。しかし移入選手、不公平感の残る判定など「無理に勝つ」態勢への批判的な目はこれまで以上に大きくなっている。日本体協が進める改革に照らしても「高知は特別」と切り捨てられない。

ただし、これまでのように開催地が優勝し続けるというシステムは明らかにおかしいのだけれど、こういう悪習が出来る前は、東京が天皇杯を独占していたのだ。人口が一番多いだけでなく、有力選手を抱える大学や企業が集中するから、自然に任せると、永遠に東京が優勝し続けるだろう。これでは落ち目の国体はますます盛り上がらなくなるだろう。開催地が優勝し続けるのも問題だが、大都市が優勝を独占するのも、それはそれで問題なのだ。都道府県別で優勝を競う限り、難しい問題だ。

さらに、スキーやスケートなどが行われる冬季大会は、競技の特性から開催地が限られており、開催可能な県は、平均して5〜6年ごとにホストの役割を果たさねばならない。冬季オリンピックも同じような状況だが、こちらは開催が回ってくるのでみんな喜ぶ。日本も夏のオリンピックは東京だけだが、冬は札幌と長野と2回も開催できた。しかし国体は経費がかかるばっかりで、嬉しくも何ともないだろう。日本体育協会は、これらの自治体間での開催地絞り込みの調整は今後、さらに難航すると懸念している。

やはり、根本的な問題は国体の意義をどう位置付けるか、だろう。いま、国体の位置づけは非常にあいまいになっている。全国的なスポーツ施設充実のきっかけにもなってきた大会は、57回も続くうちに「スポーツによる地方の活性化」という、かつての紋切り型のテーマでは意義が薄れてきている。
開催の目的はスポーツの普及なのか強化なのか。スポーツ界の中でも意見の分かれる問題だ。しかし、それを明確にしなければ、大会の簡素化を進める一方で、魅力ある大会をどう作っていくかの方向性が決められない。まずは、選手が出たいと思う競技会にしないといけない。かつては、出場することが名誉なことと考えられていたが、今は日程が過密なメジャーな競技ほどトップ選手の出場が難しい。

また、問題はスポーツレベルだけにとどまらない。これまで国体はスポーツ施設の整備に大きな役割を担ってきた。地元負担が大きいとは言え、施設整備に当たっては補助金も出るし、普段ならなかなか作れない施設が、国体のためということで比較的簡単に作られてきたから、それを利用する人にとってはありがたいシステムだった。施設整備の費用負担のツケは後から回ってはくると言うものの、そうでもしなければ永遠にスポーツ施設なんて出来なかったような地方にも立派な施設が出来ていることは、一概に悪い事だとも言えない。さらにスポーツ施設に限らず、様々なインフラも同時に整備されてきた。実は、高知県においても、国体の開催に合わせて高速道路や鉄道の整備が進んだ。本来なら国体とは無関係の基盤整備だが、国体があるから、という理由で国の予算も付きやすかったのは否定できない。
だが、このようなインフラ整備もあらかた終わった今、そこでも国体の意義は薄れてきている。やはり根本的に国体のあり方を考えなければいけない時期にきている。

(2002.10.30)



〜おしまい〜





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