小学生の英語教育

〜 要? 不要? 〜



「小学校から英語を教えるべきか、どうか」っていう議論は以前からある。明治の初期には「義務教育は日本語じゃなくて英語でやるべきだ」なんていう極論があったくらいなので、古い議論だ。

そもそも、英語が必要かどうか」という議論には終止符が打たれようとしている
日本はあらゆる資源を輸入に頼り、その代金を払うために色んな物を作って輸出しなくてはいけない世界でも最も切実な貿易立国の国だ。日本語だけで用が足りる大東亜共栄圏の夢が消えた今(って、いつの事だ!)、日本が貿易立国の道を歩む限り、世界共通語の英語が必要だ。
それに加えて、貿易だけの問題じゃなく、英語が世界の共通語になり、文化交流から環境問題まで、ありとあらゆる国際的なコミュニケーションが英語でなされるようになってしまった今日、いくらあがいても、英語の必要性から逃れる事はできない。
これは日本だけの問題ではなく、あれほど英語嫌いだったフランス人でさえ、最近は英語を話す人が多い。今から25年前に初めてフランスへ行った時は、英語を話すフランス人は本当に少なかった。って言うか、分かっていても知らないフリをする人が多かった。でも、最近は、何の抵抗もなく英語を話してくれる人が多くなった。
世界を見渡してみても、英語の必要性を否定する人は少なくなっただろう。

英語は必要だとして、問題は英語教育のあり方だ。なぜ僕らは中学高校大学と延々と英語の授業を受けておきながら、まるっきし英語が喋れないのか?
学校で教える英語教育が、受験英語用の偏った教育だからだ」と、よく言われる。これは誰が考えても正しい答えだろう。しかし、そもそもなぜ受験英語しか教えないのか。或いは、教師はなぜ受験英語しか教えることができないのか。考えるに、それは「受験でしか英語を使う機会が無いから」ではないだろうか。
日本では、日常生活で英語を使う機会なんて、滅多に無いのよ。そりゃあ、近頃は外資系の会社を始めとして仕事で英語を使う機会も少しは出てきただろうけど、そりゃ大人の話だ。高校生なんかは自分で機会を作らないと、英語を話す機会なんて、まるで無いよ。特に田舎じゃ。教師にしたって同じだ。普段、まるっきり英語を使う機会なんて無いのに、教える事なんてできやしない。
つまり、日本という国は貿易無しでは生きていけないし、現在の国際社会において英語は不可欠なんだけど、ほとんどの国民にとって個人的には英語がまるで必要無いのよ。唯一必要なのが受験なのよ。だから世の中には受験英語の勉強しか存在しないのよ。趣味でやるのなら別だけど、必要無いものを苦労して勉強するこたぁないよね。

僕個人の経験から言えば、中学高校の頃は、英語には全く興味が無かった。レコードと言えば洋楽ばかり聴いていて、それに合わせて一緒に歌ったりしていたので、発音は悪くなかったけど、文法や単語を覚える興味が無かったので、完全に勉強しなかった。そもそも、なんで日本の大学へ行くのに英語の試験があるのか、理解に苦しんだ。英語なんて学問じゃなくて、単なる技術だ。数学や物理学や経済学のような学問じゃないのに、なんで受験の科目に英語があるんだ。アメリカで生まれた人ならアホでも英語は話せるぞ。なんで日本の高等教育の受験科目に英語が必要なんだ。って怒りまくっていた。怒りながらも、受験の際は、数学や理科の成績が良かったので、英語の勉強は皆無でも平気だった。(なら怒るなよ!)
大学に入っても同じで、試験を乗り切るのは苦労したけど、信じられないくらい英語は勉強しなかった。だって必要性が無かったんだも〜ん。
しかーし、英語には興味なかったけど、海外には行きたかった。普通に考えれば、海外に行きたいのなら英語を勉強するわなあ。なのに、僕の頭の中では、英語と海外が結びついてなかった。信じられないことですが。とにかく、会社に入って、英語ができないまま、それを棚に上げたまま、海外赴任を希望して、しばらくアメリカの事務所に行った。
そしーて、英語がみるみる上達した。いやあ、やっぱり、必要は発明の母ですな。発明じゃないけど。だって、アメリカじゃあ、英語がものすごく必要です。当たり前だけど。日本で仕事する場合でも、初めての会社に電話を入れてアポを取ったりするのって、ちょっと緊張したりするけど、右も左も分からないアメリカで、いきなり行ったこともない会社に電話して、担当の人を探しだして、なんとか用件を伝えてアポを取る、なんて、最初は茫然自失状態で、何をどう言っていいのか検討もつかず、何時間も電話の前で悩みました。でも、断崖絶壁から飛び降りる気で電話をかけ始めると、どんどん英語が上達するのが自分でも分かるの!ほんとに実感できるの!こら、すごい。アメリカに赴任する前に1年間くらい会社から英会話学校に通ったけど、それで上達したレベルって、アメリカに1週間住めば取得できるくらいのものだった。逆に言えば、アメリカに2〜3ヵ月もいれば、日本の中学高校で習ったレベルくらいは取得できる。

という訳で、必要性が感じられなかったら勉強する気も起こらないし、逆に言えば、必要性を感じたときに勉強したって遅くはない。なんて思ってた。つまり、小さい頃から英語教育する必要性なんて感じてなかった

小学生からの英語教育を否定する人たちも、決して英語の必要性は否定してないが、小学生から教える必要について懐疑的なのだ。「そもそも、母国語である日本語すらきちんと喋れない子供に英語を教えて効果があるのか。まずは日本語をきちんと教えるべきだ。国際社会で通用する人間になるには、まずは自分の考えを日本語できちんと話せるようになる必要がある。日本語ですらまともに議論できない人間に英語だけ教えたって、国際人にはなれない」などなどの否定的な意見が多い。全くもって、その通りだと思う。思っていた。


ところが、こないだ、面白い事があった。

日曜日に僕は高校3年生の娘の勉強を見てやっていた。って言うか、無理矢理見ていた。高校3年生と言えば受験生なんだけど、生まれた時から何不自由ない暮らしをしてきた今の高校生は、徹底してやる気も向上心も夢も野心も野望も意欲も希望も無く、自主的に勉強しようという発想が皆無だ。(それは、うちの子だけかっ!?)
家内は心配して「家庭教師でも付けようか」なんて言ってたが、大学5年間、家庭教師だけで生計を立てていた僕としては、家庭教師がいかに無責任で無意味なものか分かっているので、断固として却下した。いくら家庭教師を付けても、本人のやる気が無ければ何の足しにもならない。たかが週に1〜2回きて、その場限りに適当に勉強したフリをするだけだ(それは僕だけかっ!?)。本人にやる気があって、自分で勉強している時に沸いてきた疑問を家庭教師に聞くような生徒なら効果もあるけど、やる気のない生徒に家庭教師を付けたって何の役にも立たない。無理矢理、馬に水を飲ますことはできないのだ。
しかし、親なら違う。無理矢理、口を開かせて強引に水を飲ますこともできる。てことで、僕は時々、娘の勉強を見ている。主に数学や物理や英語だ。できないと無茶苦茶怒るので、娘はかなり緊張して勉強する。優しい家庭教師では、こうはいかない。

で、その日も数学の勉強をしていた。その横で、小学3年生の娘の勉強を、家内が見ていた。なんと、それは英語だった。小学3年生では英語の授業はないんだけど、近所にドイツ系のスイス人が住んでいて、そこで英会話を教えてくれるので、習いに行ってるのだ。ドイツ語が母国語のスイス人の英語が、どれほどのものか、若干の疑問はあるし、そもそも小学3年生に英会話の勉強をさせる事にどれだけの意味があるのか疑問だが、家内は通わせている。
そして、なんと、このたび英検の試験があって受験するとのことなのだ。5級だとか言ってた。英検に5級なんてものが存在する事自体知らなかった。そもそも英検には興味のない僕なので、1級と準1級と2級くらいしか知らなかったら、上の娘が高校で一斉受験して準2級を取ったって言ってたので、「ふうん、準2級なんてものが存在するのか」って思ったくらいだ。でも、準2級なんて、何の役に立つんだろう。うちの娘で取れるくらいのレベルだから、相当低レベルなはずだ。何かの突っ張りになるんやろか。
っていうくらいだったので、5級なんてものが存在すると聞いてびっくりした。たぶん、英検をやっている団体が商売のために広げているんだろうなあ。でも、テキストを見てみると、5級と言ってもバカにはできない。結構、難しい文法問題が並んでいる。中学時代の僕なら文句なしで落第ですな。いくら勉強しても小学3年生で受かる事があるのかしら。日本語ですら怪しいのに。

てな訳で、その時、家内は英検5級の受験勉強させていた。彼女も、かつて英語ができなかった事については、僕に匹敵する。学生時代はまるで英語を勉強していない。しかし、僕がアメリカに赴任した時に一緒に来た彼女は、家でテレビを見たりスーパーに買い物に行ったりして、実践的に英語を学習した。そして、「いかなる形であろうとも、英語社会に放り込まれると、否応なく、日本の学校で勉強するよりはるかに効率的に英語が上達する」という法則の生き証人となったのだ。なので、彼女も少しは英語が分かるのだ。
で、その時の話題は単数とか複数の問題だった。日本の英語教育では「This」は「これ」、「These」は「これら」なんて教えるんだけど、そもそも日本語で「これら」とか「あれら」なんて、普段使うか?「私はこれらのミカンより、あれらのリンゴの方が好きです」なんて言うか?さらには三人称単数形の場合に動詞に「s」を付けるなんて、日本語ではあり得ない文法を小学3年生に教える事なんてできるのか?理解できるのか?という疑問を感じつつ、横で聞いていたら、とんでもない展開になっていった。
(母)「この場合は複数だから主語はウイ(We)でしょ!」
(娘)「は?ウイって、なあに?」

なに?「We」を知らないのか?いくらなんでも、そりゃひどいんと違うか?英検5級どころじゃないぞ。30級くらいのレベルだぞ。「We」も知らないんじゃあ、会話ができないぞ。家内も呆れて
(母)「なに言ってるの?ウイだよ?ウイが分からないの?」
って厳しく問いつめている。しかし、
(娘)「分かんない。そんなの習っていない」
と言い張る。
(母)「そんなバカな事はないでしょ?じゃあ「私」はなんて言うの?」
(娘)「アイ(I)だよ」
(母)「じゃあ、その複数形じゃない!」
(娘)「アイの複数形はウィーだよ」
(私)「・・・えっ・・・?」
(母)「・・・なにが違うの・・・?」
(私)「ぶゎっはっはっはっは!」

思わず、大笑いしてしまった。確かに、家内は明らかにウ・イ」と発音していた。「」と「」をはっきりと分けて発音していた。まるでフランス語の「ウイ」(英語のイエス)のように明瞭に。それは、僕らの世代には馴染みのある発音だ。僕らは中学校で、「We」は「ウイ」と習った。「yellow」は「イエロー」と習った。「apple」は「アップル」だったし。僕らの世代は「ウイ」じゃないよ「ウィー」だよ言われても、「ああそうですか。「ウイー」ですね」なんて発音してしまう世代だ。「」と「」が1つにならず、分かれてしまうのだ。でも、多少発音が悪くても「それくらいの違いは分かってちょうだいよ」って思うのだ。実際、アメリカ人と話してたって、何の問題もなく通じるのだ。前後の脈絡で分かるでしょ。ところが、最初から耳で聞いて「ウィー」で習っている娘には「ウイ」は全く通じなかったのだ。
小学生の娘はLとRの発音の違いも分かるらしい。僕らは、いくら聞いても、全然違いが分からない。自分が発音する時は、一応、区別して発音しているが、自分で発音しながら違いが分からないんだから、相手が発音している違いなんて分かるはずがない。なのに、娘にとっては「全然違う音」に聞こえるらしい。分からん!

逆に、僕らよりもっと上の世代は、もっと悲惨だ。昭和ひと桁の私の母親なんぞは、アメリカに遊びに来た時に、国際線の中でビールくれ、ビールと叫んだのだが、なかなか通じず、なぜか「ミルクティ」が出てきた、と嘆いていた。「ビール」が「ビア」より「ミルクティ」に近いとも思えないが、スチュワーデスさんも、「ビール」では全く見当が付かなかったんだろうなあ。

で、私は考えた。発音の事を考えると、やっぱり英語は小さい頃から勉強させた方がいいのでは、なんて。
もちろん、いくら発音が良くても、英語のテストで良い点が取れる訳ではない。海外赴任から帰ってきて、今度は留学するためにTOEFLの勉強をしていた時の話だ。留学用の予備校に通ってたのだが、そこにネイティブとしか思えないような完璧な発音の若い女子学生がいた。高校時代に留学していたとのことだが、あまりに完璧な英語をしゃべるので、一体なんで予備校に来る必要があるんだ?って思ったけど、なんと信じられないことに、TOEFLの点数は僕の方が良かった。そんな事ってある?って思うけど、受験英語と同じように、TOEFLも日常生活には何の役にも立たないような文法知識などが要求されるんだろうなあ。
まあ、しかし、文法の勉強は、僕のように大学を卒業して社会人になってからでも勉強して取り返すことができる。しかし、発音だけは絶対に直らない。直らないというより、聞き取れない。これは、かなりのハンディになるぞ。

それじゃあ、英語は何歳くらいから勉強させるべきか。「小さければ小さいほど良い」という意見もある。
しかーし、小さいときにアメリカに行き、アメリカの幼稚園にたった独りの日本人として放り込まれて2年間を過ごした上の娘の絶望的な発音を聞いていると、そんなに小さい時に勉強させても意味が無い事が分かる。彼女は発音だけでなく、英語はまるでだめだ。まるで僕の高校時代のようだ。幼稚園時代の片鱗もない。考えてみれば、幼稚園児なんて、日本語だって、まだまだいい加減なんだから、アメリカの幼稚園児だってロクな英語を喋っている訳ではない。せめて小学生くらいからだろう。上の娘は小学校に入る前に帰国したから、全く意味が無かったのだ。

てことで、できれば、小学生から英語を習わせた方がよろしい、なんて思うようになった。もちろん、発音のひどい日本人教師からではなく、ネイティブの人から習わせなくては意味はない。それくらいしないと、いくら文法ができるようになっても、「発音の悪さのために英会話が通じず、劣等感に苛まれて英語で議論できなくなる」という、僕らの世代の悪癖を打破できないのではないだろうか。

(2004.10.12)



〜おしまい〜





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