赤ちゃん取り違え事件

〜 子供の教育は完全に平等にすべきだ 〜



60年前に生まれた男性が「病院で別の新生児と取り違えられたため悲惨な人生を送った」として、病院に損害賠償を求めていた訴訟で、東京地裁は病院に3,800万円の支払いを命じる判決を出した。

DNA鑑定の結果から男性が赤ちゃんだったときに別の赤ちゃんと取り違えられたと認めたうえで、「出生とほぼ同時に生き別れた両親はすでに死亡していて、本当の両親との交流を永遠に絶たれてしまった男性の無念の思いは大きい。本来、経済的に不自由のない環境で育てられるはずが、貧しい家庭環境に身を置かざるを得なかった」と指摘した。

原告の男性は1953年、東京墨田区の病院で生まれた際、13分後に生まれた別の新生児と取り違えられたのだが、確かに、取り違えられた2人の人生は、かなり極端に異なっている
原告男性は2歳の時に育ての父親が死亡したため、その後は育ての母親一人が生活保護を受けながら育て、中学卒業と同時に就職した。一方、取り違えられたもう1人の男性は、裕福な家庭に育ち、3人の弟も含め、みんな大学まで進学している
東京地裁は「本来、経済的に恵まれた環境で育てられるはずだったのに、取り違えで電化製品もない貧しい家庭に育ち、働きながら定時制高校を卒業するなど苦労を重ねた」としたが、全くそのとおりだ。原告の男性は、育ての母親については「育ててくれた親に対しては、できることはたぶん、精いっぱいやってくれたと思っている」と言いながら、「取り違えの相手が育てられた環境に比べて、私の育った環境というのは、かなり厳しいものだった。亡くなった実の両親の話を聞いた時に、この両親に育ててもらいたかったなっていうのが本音だ」と述べているように、本当に無念だろう。
この男性は、取り違えられた相手に対しては何の恨みも無く、病院に対して「謝罪してもらいたい。時間を戻してもらいたい」などと怒りをぶつけている。

男性は「幼いころから母親や近所の人から『両親に似ていない』といわれ、自分自身も違和感をもっていた」と話しているが、それにしても、なぜ、60年も前の取り違えが、今になって判明したのか、という疑問が沸いてくるが、これには色々と裏事情があったようだ。

そもそもの始まりは、男性の弟たち3人が、血のつながっていない兄とトラブルになったことだ。弟たちは、父親の介護などを巡ってこの兄と意見が対立し、兄が父親の介護に協力的でなく態度が冷たいのは血がつながっていないからだとの疑念を強めた。そして、DNA鑑定で血縁関係にないことを2009年に突き止め、父親が死亡した後、遺産相続で争いになったため、兄と両親が親子でないことを確認する訴訟を起こしたのだ。
また、病院に記録を出させ、それを元に原告男性を割り出し、2012年にDNA鑑定してもらった結果、取り違えが判明したのだ。
この結果、原告男性は今年6月に長男として弟たちと同じ戸籍に変更されたが、男性と血のつながっている両親は亡くなっており、遺産相続の手続きもすでに行われている。そして、弟達と血のつながっていない兄との間の遺産相続を巡る争いは、今も最高裁で続いている。


このいきさつについては、興味津々だ。血のつながっていない兄だって、まさか自分が父親と血がつながっていないなんて思ってもみなかっただろうから、それが介護に協力的でなかった理由ではないはずだ。また、こういう兄弟の間の争いって言うのは珍しくもなく、どこにでもあるけど、だからと言って血がつながっていないのではないか、なんて短絡的に疑うことなんて珍しいだろう。しかも、それを真剣に検証しようとDNA鑑定までするなんて、ほんと、珍しい。よっぽど深刻な争いだったんだろうけど、この辺り、もっともっと詳しく知りたいところだが、話の本筋からはずれるので、渋々止めます。

今回の問題で私が言いたいのは、病院の責任とかじゃなくて、生まれた家庭によって子供の境遇が大きく異なってしまう事の理不尽さだ。大人が裕福になろうが貧乏になろうが、それは自分の責任であり、どうでもいいことだ。怪我とか病気の場合は仕方ないにしても、そうでなければ生活保護なんてとんでもない。

しかし、子供は違う。人生のスタートラインである子供は完全平等であるべきだ。子供には何の罪も責任も無い。親が裕福か貧乏かで将来が左右されるのは許し難い。

(石材店)「そうは言っても、子供は親と一緒に生活するんだから、完全平等は無理じゃないですか?」
(幹事長)「それは仕方ないとは思う」


家が広いか狭いかとか、車があるか無いかとか、色んな物があるか無いかとか、生活環境は親に左右されるし、親が海外旅行に行くときは子供も連れて行くだろうし、スポーツ観戦や芸術鑑賞も左右されるだろうし、どうしても親の裕福さや行動パターンに左右される面はある。それは仕方ない。
しかし、少なくとも教育に関しては完全平等であるべきだ。小学校から大学まで、授業料は完全無料にすべきだし、授業料だけでなく、通学に必要な経費も全額無料にすべきだ。所得水準による線引きなんて面倒くさい事をする必要はなく、全ての子供の教育費は全額無料にすべきだ。必要な財源は、年寄りに対して湯水のごとくバラまいている医療費や介護費を削減するとか、世界的に見ても低水準な消費税を上げるとか、なんとでもできる。

(石材店)「幹事長はいつも教育の絶対平等を訴えてますが、自分も苦労したんですか?」
(幹事長)「いや、まあ、そうでもない」


うちの実家は、すごく貧乏だったとまでは言わないが、決して裕福では無かった。それでも、親は苦労して僕ら姉弟を都会の大学に行かせてくれた。なので、裕福ではなくても、すごく貧乏でない限り、なんとか子供を大学に行かせることはできると思う。なので、親の苦労を思えば、どこへも遊びに連れて行ってくれなかったとか、友達がみんな持っている物を自分だけ買ってもらえなかったとか、それくらいは我慢するのに何の不満も無い。て言うか、あの頃は世の中全体が今より貧しかったから、似たような境遇の子供はいくらでもいた。なので、実際に救済すべきは、すごく貧乏なため大学へ進学できない、といった子供達だ。
僕らの頃は、都会の大学へ行ったからと言って、国立大学の学費は年間5万円弱だったし、僕が入っていた大学寮は家賃が年間1200円だった(光熱費込み、食費は別)ので、週に1〜2回アルバイトをすれば仕送りが無くても生活していけた。事実、その寮には、仕送り無しの学生も少なくなかった。今では国立大学の学費も値上がりしたけど、親の収入が少なければ免除になるし、寮に入れば生活費も少なくて済むだろう。しかし、そもそも中学や高校の時に、大学受験に備えた勉強をできる環境にあるかどうか、が問題だ。親が子供の事を全くほったらかしとか、規則正しい食事すら無いとか、そういう家庭環境では勉強どころではないだろう。そういう子供達は親から引き離して寮に入れて勉強させてもいいと思う。

子供は単に親だけのものではない。将来の国を支えていく貴重な人材だ。できるだけ才能を引っ張り出して開花させてあげなければならない。出来の悪い子だって、ヤンキーになるより、まっとうな職業につく方が、本人のためにもなるし、社会のためにもなる。様々な可能性を秘めた子供達の将来が、親の裕福度によって左右されるなんて、国家の大きな損失だ

(2013.12.10)



〜おしまい〜





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