今年もノーベル賞

〜 なんだか、すっかり当たり前に 〜



1週間ばかり東京に出張に行ってる間に、今年も日本人2氏ノーベル賞を受賞した
物理学賞を受賞した梶田東京大学宇宙線研究所所長と、生理学医学賞を受賞した大村北里大特別栄誉教授 だ。

とりわけ、自然科学分野の、しかも王道中の王道である物理学賞に、去年に続いて日本人が選ばれた事は、まことに喜ばしい。しかも去年の中村氏らの業績は、青色発光ダイオードの発明という工業製品の開発に対するものであり、ノーベル物理学賞と言うよりノーベル工業技術賞みたいなものだったから、若干の違和感が無いこともなかったが、梶田氏の業績はニュートリノ振動の発見であり、またそれによりニュートリノに質量がある事を証明したことであり、一昨年のヒッグス氏や2008年の南部氏に代表されるような理論物理の根本的な業績なので、いかにもノーベル物理学賞に相応しいと思う。
もちろん、だからと言って大村氏の熱帯感染症の特効薬開発という業績を低く見るものではない。誰かが「大村氏がノーベル賞を取るとしたらノーベル平和賞かと思っていた」なんてコメントしてくらいだから、世界人類に対する彼の業績は素晴らしいのであろう。理論の根本的な業績を評価する物理学賞と違って、もともと化学賞や生理学・医学賞は理論の構築ではなく、技術開発に対する受賞が非常に多い。化学賞や生理学・医学賞は産業にも近いし一般市民の生活に近く、なんとなく業績も分かりやすいし、一般人に対する貢献度合いも大きい。
ただ、かつて物理学者を目指していた僕としては、個人的にはノーベル賞の中では物理学賞が一番偉大な気がする。自然科学の中でも、最も基礎的な本質を科学する学問だからだ。一般社会への短期的な直接的な貢献度合いは乏しいけど、本当に知りたい物の本質を明らかにするのは物理学だと思うからだ。

それにしても、最近、日本人のノーベル賞受賞者が多い。日本人の受賞者数はアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン、スイスに継いで7位だが、21世紀に入ってからは、自然科学部門でアメリカに次いで世界第2位の受賞者数となっている。ノーベル賞で評価される業績は、つい最近の業績でいきなり受賞した山中教授なんかは例外で、たいていは何十年も前の業績が評価されて受賞するから、特に最近になって急に日本の科学のレベルが上がったと言う訳ではない
日本の科学のレベルは以前から高かったが、ノーベル賞の評価は長らく欧米中心で、日本人科学者の業績に対する評価が正当になされていなかったということだ
。極東のマイナーな国の学者の研究成果は、なかなか評価されにくかったのだ。言葉のハンディもあれば、人的な交流のハンディもあり、いくら優れた業績でも、世界の中心にはなかなか伝わらず、それを応用というか借用した欧米の学者が脚光を浴びてしまう。そもそもの原理は日本人が発見したのに、それを応用発展させた欧米学者が受賞するケースが多かった。或いは、圧倒的に日本人の業績の方が偉大なのに、似たような研究をした欧米学者との共同受賞などが多かった。それが最近は国際化の進展により、ノーベル賞の選考委員会が公平でかつ綿密な調査をしてくれるようになったこともあり、日本人受賞者が増えてきたのだろう

日本人科学者の業績が正当に評価され、日本人科学者の受賞者が増えているのは、まことに喜ばしい限りだが、こう受賞者が増えてくると、なんとなく貰って当たり前って感じがしてきて、感動が薄れてきたのは否めない
僕らが子供の頃って、日本人のノーベル賞受賞者って湯川秀樹博士と朝永振一郎博士しかいなかった。中でも湯川秀樹博士は、日本の物理学会の天才というイメージであり、ノーベル賞なんてアインシュタインとか湯川秀樹博士のような天才でないと受賞できないイメージだった。事実、少なくとも日本では、ノーベル賞を受賞する確率は欧米に比べて非常に少なく、よっぽどすごい業績を上げた偉い学者でないと受賞はできなかった。
ただ、日本ではノーベル賞を受賞する確率が非常に少なかったから、ものすごく偉い天才的学者でないとノーベル賞は受賞できないと勘違いされてきたけど、欧米の状況を見れば、それは勘違いだと分かる。特にアメリカは受賞者が多い。アメリカは唯一、戦争の被害を被らなかった国として、ダントツの国力を維持し、多くの優れた学者を世界中からかき集め、圧倒的な優位性を築いたからだ。僕がアメリカに留学していた大学にも、ノーベル賞学者は何人もいたが、その大学に限らず、どこの大学にもノーベル賞学者はゴロゴロしていた。その頃、僕は、ノーベル賞学者っていうと、まずは湯川秀樹博士を思い浮かべていたので、そないにすごい人がゴロゴロしているっていうのが感覚的に理解できず、大きな違和感を抱いていた。しかし、それは勘違いであり、ちょっと優れた人なら、誰にでも可能性は転がっている、というのが本当なのだった。また、大学に限らず、企業の研究者がノーベル賞を受賞するのも珍しいことではない。
日本人受賞者の増加により、日本でも同じような状況になってきた訳だ。なので、喜ばしい反面、なんとなくノーベル賞の価値が下がったというか、ありふれた光景になってきたのは否めない。



このように日本人受賞者が急増しているノーベル賞だが、今回は他にも画期的な受賞者がいた中国人だ。寄生虫感染症のマラリアの治療に関する業績で生理学・医学賞を受賞したのだ。これは極めて画期的なことだ。業績が本当に画期的なのかどうかは知らないが、中国人が受賞した事が画期的なのだ。ここで言う中国人とは、台湾(中華民国)関係の人ではなく、中国本土の人のことだ。台湾(中華民国)関係の人なら、実質的にアメリカ人になった人が3人受賞しているが、中国本土の人では、これまでノーベル賞を受賞していたのは平和賞の人が1人と文学賞の人が1人いただけで、自然科学部門では初の受賞だ。平和賞受賞者の民主活動家は今も牢獄に繋がれており、中国人としては初めてのノーベル賞だったのに、当然ながら中国政府は国内でひた隠しにしている。また、文学賞受賞者も微妙な立ち位置で、中国政府はあんまりおおっぴらには評価していない。それに対して、今回の受賞は堂々たる自然科学分野での受賞なので、中国政府は大喜びだ。これまで中国政府はノーベル賞が欲しくて欲しくてたまらなかったのだが、なかなか貰えなかった。受賞者が出ない理由として「欧米国家が中国を敵視しているので、あえて賞を与えない」とか「ノーベル賞は西側諸国の価値観に基づいている」なんていう意見が多かった。言語の問題や情報交流の問題から、欧米諸国の学者が有利でアジア諸国が不利なのは間違いないし、日本人のノーベル賞受賞者が欧米に比べて少なかった理由でもあるが、それにしても人口が13億人もいる中国から一人も出てないってのは、あまりに恥ずかしいことだった。ただし、今回の受賞者も、これまでは中国内で大して評価はされておらず、今になって中国政府は大はしゃぎしているものの、あんまり居心地は良くないだろう

そして、当然ながら韓国からは今年も受賞者は出なかった。過去、韓国人でノーベル賞を受賞したのは、あの全く意味が無い平和賞を受賞した金大中だけだ。
韓国は、日本の技術を盗んでサル真似したことにより、製造業分野では力をつけてきたが、元々の知能レベルがサル並みなので、ノーベル賞は受賞できないのだ。その点、中国は侮ってはいけない。人口が多いこともあり、優秀な科学者は大勢いる。ただ、長らく中国人の優れた科学者はアメリカなんかに脱出し続けてきたから、中国本土に残っている人でノーベル賞を受賞できる人は、今のところは少ないだろう。ただ、将来は侮れないのは間違いない。一方、韓国は侮っても大丈夫だ。



ところで、物理学賞、化学賞、医学生理学賞の自然科学3分野のノーベル賞が大きな価値を維持している反面、他の3賞、すなわち文学賞、平和賞、経済学賞は相変わらず混迷を続けている

最も意味の無いのが文学賞だ。優れた新人を発掘して世の中にデビューさせるっていう意味で芥川賞なんかは存在意義があると思う。しかし、もうすっかり巨匠となっている人の中から選考するノーベル文学賞って、何の意味があるんだ?
て言うか、科学の真理を追究する自然科学と違って、勝手に作り話をでっち上げるだけの文学にノーベル賞って値するのか?しかも、音楽や美術も同じだろうけど、文学だって完全に個人の好みの問題であり、誰もが認める真理なんて無いし、客観的な評価基準なんて無い。なんでこんな賞が存在するようになったのか理解できない。バカバカしいったら、ありゃしない。

(石材店)「要するに、幹事長は村上春樹が好きじゃないから苦々しく思ってるだけでしょ?」
(幹事長)「それはそうだけど、やっぱりノーベル文学賞に意味は無いぞ」


今年も例年のごとく、村上春樹のファンが集まって大騒ぎしていたが、ほんとバカバカしいったりゃ、ありゃしない。AKBの総選挙の方が、よっぽど意味がある。

(石材店)「意味あるんですかーっ!?」
(幹事長)「ごめんなさい。適当に言いました」


いずれにしても、村上龍の5万分の一くらいしか価値の無い村上春樹がノーベル文学賞なんか取ったら、日本文学の衰退に繋がる。

文学賞に比べたら、平和に貢献した者に授与するという絶対的な基準が明確な平和賞の方が存在意義があるように思える。ところが、実際の授与の実績を見ると、一番ひどいのが平和賞だってのは衆目の一致するところだ。文学賞は存在価値が無いが、あんまり弊害も無さそうだ。しかし、平和賞は百害あって三利くらいしかない
毎年、毎年、怒りを通り越して呆れの境地だが、特に酷かったのは2000年の金大中韓国大統領だ。あんな奴の受賞はノーベル賞の価値を貶める以外の何ものでもないが、金大中の受賞がトンチンカンだったことは、その後、朝鮮半島の南北対立が深まることはあっても緩和することが無かった事実が如実に証明している。2009年のオバマ大統領の受賞も、ひどんもんだ。何の実績も上げていなかったのに、今後に期待するという意味で授与したが、その後、アメリカの外交が支離滅裂に迷走して世界平和を乱すことはあっても貢献することが無かったことが、彼への授与の大失敗を如実に表している。2007年のゴアも、豪邸に住んで資源を大浪費しながら環境問題を語る詐欺師だったし、ゴルバチョフとかアラファトとか北アイルランドのテロリストとか、およそ平和とはほど遠い人たちがたくさん受賞してきた。日本人にとっても、平和に貢献するような事は生まれてこのかた一切やったことが無かった佐藤栄作が1974年に受賞した時には、ノーベル平和賞って一体何なんだ、って全国民が驚いた。
このように、あまりにも政治的な選考をされてきたノーベル平和賞の歴史は、疑問と欺瞞の歴史だ

これら文学賞や平和賞に比べれば、経済学賞はまだマシだ。もちろん、経済学賞の存在意義は、いつまで経っても納得できない。経済学なんてものは社会を対象にしたものであり、科学ではない。絶対に、ない。大学で経済学を学んだ私が言うのだから、間違いない。自然科学に対して社会科学なんて言う言葉が使われるが、本質的に矛盾のある言葉だ。サミュエルソンのようなシンプルな数式やグラフを使った理論は美しくて面白いけど、現実とはかなり乖離してる。なぜなら、対象が科学的に分析できるような代物ではないからだ。ブラックショールズモデルのような理論も、ほとんど自然科学のようなもんだから鮮やかできれいだけど、それが通用するのはオプション取引などの限られた世界だけだ。現実の経済社会は、そんな理想的な動きはしない。
なので、大半のノーベル経済学賞受賞者の受賞理由の業績は、なんだかぱっとしない。分かり切った事とか、的はずれな事とか、自然科学のような真理の探究とはほど遠い。おまけに毎年、誰かにあげなければならないから、ますます贈る対象が乏しくなり、内容がショボくなる。もう、いい加減に止めたらいいのに

(2015.10.9)



〜おしまい〜





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