ボブ・ディランがノーベル文学賞受賞
なんと、今年のノーベル文学賞がボブ・ディランになった!
あまりに画期的で素晴らしい。勝てそうだったオーストラリア戦で引き分けてしまって沈みがちだった気分が一気に高揚した。
(石材店)「幹事長はボブ・ディランが好きなんでしたっけ?」
(幹事長)「好き、なんてレベルじゃないぞ」
私の中でビートルズとボブ・ディランとマイルス・デイビスは別格だ。ローリング・ストーンズとかも大好きだけど、それは単に好きなだけだ。でもビートルズとボブ・ディランとマイルス・デイビスは好きとか言うんじゃなくて、私の音楽の基準になっている。て言うか、私の人格の形成に大きな影響を与えている。そして、この3者のうち、ビートルズとマイルス・デイビスは音楽的に私の骨肉となっているが、ボブ・ディランは歌詞が私の知性となっている。彼の場合、歌詞が素晴らしいのだ。素晴らし過ぎるのだ。あの歌詞を詩と見なすのなら、あれ以上に素晴らしい詩人を私は知らない。
(石材店)「幹事長がそこまで詩に詳しいとは知りませんでしたが?」
(幹事長)「すんません。偉そうに言いすぎてます」
詩には、そんなに造詣は深くないが、少なくともボブ・ディランの詩が素晴らしいのは間違いない。私はボブ・ディランのCDを30枚、LPを10枚持っていて、トンでも無いクソ駄作との誉れが高い Self Portrait や、血迷って作ったとしか思えないゴスペル三部作(Slow Train Coming, Saved, Shot of Love)以外は、たいていの作品を聴きこんでいる。どれを取っても、はっきり言って音楽的にはパッとしない。そんなに大したもんではない。あくまでも詩が素晴らしいのだ。
「ボブ・ディランは素晴らしい」なんて言うと、あんまり知らない人は、頭の悪いマスコミの浅はかな報道の影響で「風に吹かれて」を始めとする初期のプロテストソングが代表作だと思うだろう。もちろん代表作ではあるんだけど、それがボブ・ディランの素晴らしさを代表している訳では、決してない。「風に吹かれて」などの社会的な歌は、そういう社会的背景の中でもてはやされたのであって、社会的な価値はあったのだけど、詩として価値があるわけではない。アホみたいに簡単な英語だから、読んでみれば誰でも分かるけど、単純で幼稚な歌詞だ。何の奥行きも無ければ、味わいも意味も無い。クソみたいな歌詞だ。ああいう社会的背景があったから存在意義があった歌であり、芸術としての価値は皆無だ。そうじゃなくて、「風に吹かれて」が収められている The Freewheelin' というアルバムには「北国の少女」とか「はげしい雨が降る」などの素晴らしい歌詞の歌もある。このLPはジャケット写真も秀逸で、ボブ・ディランのアルバムの中でもダントツに素晴らしいジャケットだ。(他のジャケットが酷すぎるからだけど)
もちろん The Freewheelin' に限らず素晴らしい歌詞はいっぱいあって、Bringing It All Back Home に収められている She Belongs To Me とか Planet Waves の Hazel とか Empire Burlesque の I'll Remember You とか、胸に染みいる歌詞は数限りなくある。Self Portrait に次ぐクソ駄作との誉れが高い Another Side of Bob Dylan にだって My Back Pages などの素晴らしい歌詞がある。
今回のボブ・ディランの受賞について、文学とは別世界のシンガー・ソングライターへ授与したって事で、文学界の人からは批判も出ている。どんな分野の専門家でもそうだが、自分のとこの領域を侵されたくないっていう気持ちは分かる。でも、文学は文学者のためのものではなく、それを読む一般ピープルのものであり、文学者が書いた詩よりもボブ・ディランが書いた詩の方が優れているのだから、負けは認めてもらわなければ困る。悔しいのなら、ボブ・ディランより素晴らしい詩を書いてもらいたいものだ。視野の狭い文学者よりも、スウェーデン・アカデミーの方が文学の概念をより広くとらえようとする柔軟な姿勢を有するって事だ。
日本人の受賞ラッシュが続く物理学賞、化学賞、医学生理学賞の自然科学3分野のノーベル賞が大きな価値を維持している反面、他の3賞、すなわち文学賞、平和賞、経済学賞は久しく混迷を続けてきた。その中でも、特にひどいのがノーベル平和賞だってのは衆目の一致するところであり、今年もますます混迷を極めて支離滅裂な受賞となり、存在価値を失っていると言うか、ノーベル賞全体の価値を貶めてしまったが、それに対してノーベル文学賞は素晴らしい決定を下し、一気に存在価値を高めたと言えよう。
これまでは、文学賞なんて意味が無いと思っていた。優れた新人を発掘して世の中にデビューさせるっていう意味で芥川賞なんかは存在意義があると思うが、もうすっかり巨匠となっている人の中から選考するノーベル文学賞なんて、存在意義を見いだせなかった。そもそも、科学の真理を追究する自然科学と違って、勝手に作り話をでっち上げるだけの文学にノーベル賞なんてそぐわないし、文学は完全に個人の好みの問題であり、誰もが認める真理なんて無いし、客観的な評価基準なんて無い。なんでそんな賞がノーベル賞の中に存在するのか意味が分からなかったが、今回のボブ・ディランの受賞によって、一気に存在意義が出た。ボブ・ディランは音楽界では評価されてきたが、音楽に関心の無い文学界の人には歌詞の素晴らしさが知られてなかった。今回の受賞により、彼の詩の素晴らしさが広く理解される事だろう。
ところで、今年も例年のごとく、村上春樹のファンが集まって大騒ぎしていたが、ほんとバカバカしい。村上春樹の小説は、高松が舞台だったというだけの理由で「海辺のカフカ」を読んだけど、あまりのつまらなさ、バカバカしさに腹が立ち、もう二度と村上春樹なんか読むまい、と固く誓った。ほんとに時間の無駄だった。同じ村上でも、村上龍の300万分の一くらいしか価値の無い村上春樹がノーベル文学賞なんか取ったら、日本文学の衰退に繋がるぞ。村上春樹のファンは村上龍のコインロッカー・ベイビーズを読んで猛省しろ。
(2016.10.14)
〜おしまい〜
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