明治150年記念国体

〜 何でも反対する嫌な人たち 〜



来年の秋に福井県で開かれる国体の名称が「明治150年記念第73回国民体育大会」に決まったそうだ。

(石材店)「ほとんどの国民が知らないと言うか感心の無い話題ですが、幹事長は国体に関心があるんですか?」
(幹事長)「国体に無関心な事にかけては人後に落ちないぞ」


大半の国民と同じように、私も国体に何の関心も無い。ただし、私は国体に対して批判的な立場ではない
国体に対しては、壮大な税金の無駄遣いだとか、種目によっては一流選手が出ないからレベルが低いとか、いつも開催する地元県が優勝するなんておかしいとか、どの県から出場するのか曖昧だとか、批判はいっぱいある。また、国体に関心を持っているのは出場する選手や、その関係者に限られている
しかし、それでも私は国体には大きな存在価値があると思う。種目によっては必ずしもトップ選手は出ないかもしれないが、国体は何もトップ選手だけが競う場ではなく、幅広く多くの選手が参加し、裾野の広い国民へのスポーツの普及に役立てるという大きな意味がある。なので、関心を持つのが選手や関係者に限られているとしても、それだけでも十分だと思う。いくらトップ級の選手が出てなかったとしても、国体に出た選手ってのは、我々一般ピープルからすれば尊敬に値する選手だ。「国体選手」ってのは今でも大きな勲章なのだ。多額の税金を使うかも知れないが、底なし沼のように浪費される医療福祉予算に比べれば微々たるものだ。しかもスポーツ振興のおかげで国民の健康が向上すれば、底なし沼のように浪費される医療福祉予算も削減できるのだから、悪い事ではない。
また、どの県から出場するのか不透明な部分はあるが、それはひとえに開催する地元県を優勝させるための策略だ。そして地元県を強引に優勝させるのは、国体を成功させるための手段だ。これだけ多くの国民が無関心な大イベントを成功させるためには、せめて地元だけでも関心を集めなければならない。盛り上げなければならない。そのためには地元が優勝することが必要だ。なので不透明なシステムにより常に地元県が優勝するのも悪い事だとは思わない。
と言うことで、私は国体擁護派だ

(石材店)「何でも批判する幹事長にしては珍しいですね」
(幹事長)「何でも反対する社民党と一緒にせんといてくれ!」


今回は国体そのものの存在意義を論じようというのではない。来年秋に福井県で開かれる国体の名称が「明治150年記念 第73回国民体育大会」になった話だ。
事の発端は、来年(2018年)が明治維新から150年目に当たるので、政府として何か記念事業を実施しようとしたことだ。「明治150年は我が国にとって一つの大きな節目。明治の精神に学ぶ、日本の強みを再認識することはきわめて重要だ」てな事らしい。
実は今から50年ほど前の1968年には「明治100年」ということで色々と話題になったことを幼心に覚えている。

(幹事長)「覚えてる?」
(石材店)「まだ生まれてませんがな」


明治100年ってのは、100年という区切りが良いので何かと話題になったが、150年というのは100年に比べたらイマイチ話題性は低くなる。なので、政府としては何か良いイベントはないかと考え、国体に白羽の矢が当たった訳だ。
実は偶然にも、50年前の1968年にも国体は福井県で開催され、その時も当然ながら「明治100年記念国体」という名前だったそうだ。
福井県としては、「記念と銘打つことで県民の意識が醸成される」「後々まで記憶に残りやすい」とかいう理由で政府の要請を受け入れ、「明治150年記念国体」とする事を決めたものだ。さらに国体に合わせて、幕末に活躍した福井藩主松平春嶽らの功績をアピールするイベント「幕末明治福井150年博」もあわせて開くらしい。
これまで国体に冠称がついた前例としては、「明治100年記念」のほか、「沖縄本土復帰記念」とか「天皇陛下御在位20年記念」とか「東日本大震災復興支援」とか「東日本大震災復興の架け橋」とか、色々とある。でも、はっきり言って、最初の2つくらいしかインパクトは無いように思える。「天皇陛下御在位20年記念」なんて言われてもピンとこないし、「東日本大震災復興支援」とか「東日本大震災復興の架け橋」なんて無理矢理つけただけだ。あの頃は、その辺のマラソン大会でも、何でもかんでも、やたら同じようなサブタイトルが付いていたが、みんな無視していたぞ。それに比べたら「明治150年記念国体」ってのは、「そうか、明治維新から150年も経ったのか」って感慨深くなるので、インパクトがあると言うか、意味のある冠だと思う

(石材店)「まさか明治維新の時は生まれてなかったですよね?」
(幹事長)「わしの父親ですら昭和生まれやぞ」


インパクトのある名前にする事により、国体が少しでも盛り上がるのであれば、「明治150年記念国体」という名前について大いに賛成したいところだ
ところが、世の中には何でもかんでも反対する社民党のような奴らが存在する。なんと、「明治150年記念国体」という名称に対して、福井県の県労連や県高教組なんかが「明治は当初から対外膨張的な志向を強く持った時代であり、それがアジア太平洋戦争の惨禍に結びついた」なんていうトンでもない屁理屈をこねくり回して反対を申し入れたのだ。
「明治は戦争を思い起こさせる」なんて言うけど、明治と聞いて戦争しか思いつかないのだとしたら、あまりの頭の悪さに呆れかえる。そんな頭の悪い人たちを相手にする必要は無いだろう。
また古い頭に凝り固まった一橋大学の坂上教授は、「国体は戦後の日本社会にふさわしい国民のスポーツの祭典として創設されたのに、明治を冠すると戦時中に開かれた『明治神宮国民体育大会』と地続きであるかのようなとらえ方をされるのではないか」などとトンチンカンな事を言うが、明治神宮国民体育大会なんてものがあった事は、私を始め、国民の99.999%は知らないだろう。
「スポーツと明治は関係がない」なんて言う意見もあるが、当たり前だ。スポーツと明治が関係あるから「明治150年記念国体」にするのではない。そんなの関係ない。そんな事を言ったら、「沖縄本土復帰記念」や「東日本大震災復興支援」だってまるで関係ない。

基本的に、彼らは社民党と同じように、自分たちの存在をアピールするだけの目的で世の中のあらゆる事に対して何でもかんでも反対している。何でもいいから何か反対できる事は無いか目を皿のようにして探している。他に自分たちの存在をアピールする機会が無いからだが、こういう邪な考えで何に対しても反対のアピールをしている嫌な連中は無視したら済む話なんだけど、こういうはた迷惑な連中の自己顕示行動を、これまた独善的で自己中心的なマスコミが取り上げるから良くない。社民党の奴らと左翼マスコミはグルなので、まとめて無視したらいいんだけど、目障りで鬱陶しい。
そんなつまんない事に強引に反対するヒマがあったら、日本を侵略しようと虎視眈々と狙っているの中国の軍事行動に対して反対したらどうだ?ま、中国の手先である社民党の奴らが中国に反対する事はあり得ないんだけど。

(2017.11.10)



〜おしまい〜





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