一揆のあらすじ
       
       
          吉田陣屋図(一揆記念館蔵)

 18世紀後半、吉田藩主は病気のため、長い間帰国をしていませんでした。度重なる天災や幕府から命ぜられる公役で藩の財政は苦しい状態でした。藩は、不正な枡(ます)を使い、年貢をごまかして徴収しだしたと伝えられています。天明7年(1787)、三間宮ノ下の樽屋与兵衛(たるやよへい)と三島神社の神主土居式部(どいしきぶ)は、一揆を企てたという疑いで捕らえられます。そして二人は獄死させられました。


 寛政二年、財政難の吉田藩は、特産の泉貨紙(せんかし)の専売制によって収益を上げようとします。泉貨紙は、楮(こうぞ)の厚紙で、帳簿(ちょうぼ)などの用途に使われます。藩は、法華津屋(ほけづや)に資金を貸与して紙業を盛んにさせようとしました。しかし、紙漉きの原料費として法華津屋から借りる楮元銀(こうぞもとぎん)は、高利をつけて返済せねばならず、さらに紙は安く買い取られるため、百姓はかえって借金が増えるというありさまです。値良く買ってくれる他国商人に抜け売りせざるをえませんでした。寛政四年冬、吉田藩は、紙方役所を作り、素行の良くない者を雇って抜け荷取り締まりに乗り出しました。彼らは、隠している紙を探すと称して、土足のまま農家へ踏み込み、押入や天井まで探し尽くし鼻紙一枚でも没収するというありさまでした。


 武左衛門は山奥筋の上大野村(現北宇和郡日吉村上大野)の百姓でした。彼は、藩政を改めさせようと決心しました。彼は貧しい浄瑠璃(じょうるり)語り(チョンガリとかケタウチともいう)になりすまし、信頼できる人物を探し歩きました。こうして三年間の内に24人の同志を得たと伝えられています。
 寛政5年(1793)正月、村々から合法的に願書が藩に出されました。しかし、藩はほんのわずかの手直しをしただけでした。2月10日、武左衛門率いる山奥筋(広見川上流域)が立ち上がると、ただちに吉田藩全村が呼応しました。吉田全領の人々はこの日をまちのぞんでいたのです。大綱を用意した人々は、恨み重なる法華津屋を打ちこわそうと主張しました。
 武左衛門は、宇和島藩代官の説得に応じ、本家の宇和島藩に願いをとりついでもらおうと考えました。こうして宇和島城下の八幡河原に、吉田藩全領83か村の旗が立ち並び、7500人を越える農民がそろいました。八幡河原に出向いた吉田藩家老安藤儀太夫は、藩政の非をわび、速やかに願書を提出するようにと申し渡して切腹しました。宇和島藩は、提出された願書をすべて認め、しかも一揆の指導者を処罰しないと裁決しました。



 こうして百姓側の「まる勝ち」となったのです。吉田藩は懸命に指導者を探したが、農民は誰もその名を明かしません。そこで、河川修理に来た役人は、働く百姓たちに例年よりはるかに米を支給し、酒を振る舞ったのです。そして、一揆の指導者を武士に取り立てたいものだとほめたたえました。酔った百姓の口から、武左衛門の名が出ると、その夜の内に捕らえ、ただちに打ち首にしたと伝承されています。実際には、武左衛門は取り調べの後、処刑されました。藩の吟味書には「根深く、非あるとも言えず」と評しています。考えも深く、訴えはもっともなこととして認めざるを得なかったのです。
 藩は供養を禁じたが、人々はいのこ唄や盆踊りを通じて、武左衛門の功績を後世に伝えました。語ることをはばかられた武左衛門を、世に出したのは日吉村初代村長井谷正命で、明治の末のことです。


新史料であきらかになったこと

  1. 武左衛門のもう一つの名が嘉平であることがわかりました。武左衛門の実在が証明されたのです。
  2. 吉田藩がうまく武左衛門の名を聞き出したという伝承が事実であったことがわかりました。
  3. 一揆後、安藤儀義太夫が神とされ、武左衛門は国賊であるとされましたが、吉田藩役人は武左衛門を高く評価しています。