安藤儀太夫切腹の真相

安藤儀太夫は、切腹を覚悟して家を出ました。刀も常よりは良いものを持ち、白装束も用意しました。願いを聞いてとらすから出て参れとふれたところ、出てきたのは上大野村の勇之進であったと伝えられています。しかし、周囲から罵声がとんで話はできなかったのです。その後、八幡河原の土手で切腹するのですが、ただちに絶命したかは不明です。吉田藩は医師をよびにやったり、大騒動をします。医師は「かような御事態では、お墨付きを頂かなければ治療にはとりかかれません。」と言います。虫の息があったのかもしれません。


 切腹の後、供の者はおろおろとなり、見苦しい有様でした。鈴木作之進は命じて片づけさせます。切腹の報は、会談中であった吉田藩尾田家老と宇和島藩桜田家老に届きます。尾田家老は、取り乱してあとを追って切腹しまいかねない状態でした。「家中は でんぐりかえりて 隼人が仰天ふだまをぬかして 火鉢を踏むやら お色も青ざめ ももたち(股引き)とりあげ うろたえ騒げば・・」と『吝嗇(りんしょく)ちょんがり』は伝えます。切腹の結果、急速に解決に向かいました。 安藤儀太夫は、解決が長引き、お取りつぶしになることを恐れて、藩を救うために切腹しました。61年後、百姓を救うために切腹したとして民衆の神となりました。


 末席家老の安藤儀太夫 は、吉田藩の評定の場で、願いは認めるべきだと強く主張し、他の家老たちに認めさせており、優れた人物であったことは間違いないことです。