「根深く存じ込み、願うところもみな筋あることにて、不法とは申し難し
 
屏風秘録(一揆時の吉田藩庁文書が屏風の下張りから出現)より

 
     義農武左衛門物語(日吉村商工会・日吉村むらおこし実行委員会発行)より掲載 ※日吉村は現在鬼北町         

       
一揆のあらまし

 伊予吉田藩三万石が強行した泉(仙)貨紙の専売制度の取り下げを求めて、寛政五年二月、全村八六ヶ村が一斉に立ち上がり、本家にあたる宇和島領へ訴え出ました。駆けつけた吉田藩家老安藤儀太夫継明は、藩政の非をわびて、百姓の面前で切腹。宇和島藩は、願いの筋は全て認め、さらに罪も問わずという裁決を出しました。上大野村の百姓武左衛門は、三年間、チョンガリ語りに身をやつし、全領をまわって、二四人の同志を得、この一揆を大成功に導いたと伝承されています。「これでは百姓の丸勝ちではないか」と吉田藩はくやしがります。一年後、藩の役人は、巧みにその名を聞き出し、逮捕するや直ちに首を打ったと伝えられています。この一揆は、伊予吉田藩紙騒動とも呼ばれますが、明治3年の一揆の記録に、「武左衛門の時には・・・・」という文言がありますので、武左衛門の時の一揆という言い方がなされていたと思われます。また、現在でも、念仏の時に武左衛門の供養も入れるところがあります。

          
近年、新史料が発見され、真実が明らかに

  吉田藩郡奉行所中見役鈴木作之進は、日頃から村々に直接出向く役職にありました。専売制度は、郡奉行所には何の相談もなく、突如実施されたのです。その内容は、郡奉行所でさえ納得できないものでした。今晩一揆に立つという情報を得るや、鈴木作之進は、その日の内に山奥まで走っていきます。「願いの筋を出しなさい。十が十までかなわぬことはないぞ。それでは郡奉行所の面目が丸つぶれではないか。」と懸命になだめ諭し、郡奉行所は家老に正式な願書をとりつぎます。結果は、郡奉行所の面目丸つぶれとなり、以後、大一揆に発展していくわけです。
 一揆後、鈴木作之進は、「実情に詳しい私に解決を一任してくれたら、こんな大事にならなかったものを。日頃は身分の軽い私の意見など採り上げてくれない」と憤るのでした。彼は、一揆の時に、取り交わされた郡奉行所の連絡文を傍らに置きながら、「庫外禁止録」を書き上げます。それは、一揆の原因から終末までを記し、後世への戒めとするためのものでした。庫外禁止録は、その後、奇異な運命をたどりながら、平成七年、ついに現れました。
 一方、平成3年、吉田藩下波浦の旧家の屏風を当主がはがしたところ、下張りに一揆前後の郡奉行所の文書が大量に現れました。その中に、鈴木作之進が利用した連絡文も含まれていました。二百年を経て、奇跡的に再会したこの古文書群は、一揆の真実を知れとの鈴木作之進のメッセージとしてとらえ、懸命の解読が行われました。
 この二史料の出現によって、ある史料が目を覚ましました。「吝嗇ちよむがり」です。これは、一揆の成果をチョンガリにしたもので、発見されたまま忘れられていました。これは、副題を「吝嗇儀太夫が詰腹」と言い、後世、義人となった安藤儀太夫の一揆直後の評価がわかります。先の古文書群の内容と比較すると、「吝嗇ちよむがり」は、創作に見えて、意外に真実を伝えていることがわかりました。これらの文書群から、一揆の真実が見えてきました。

一揆の概要を知りたい方へ  クリックして寛政五年(1793)へどうぞ


    

 一揆の研究をしたい方へ
初版絶版につき、平成30年改訂版を創風社出版(089−953−3153)から出版しています。
武左衛門一揆記念館にも置いています。

  


 令和元年5月に 平成20年6月以来の
更新をしました。