24人の同志像(武左衛門一揆記念館)




 24人の同志がいたと世に広めたのは、初代日吉村長井谷正命氏です。今日、武左衛門一揆という名が教科書に載るまでになったのは彼の研究と顕彰のおかげです。24人の根拠は「伊達秘録」です。同書には、三間、山奥、川筋の頭取たち24人が一斉に逮捕されたと書いてあります。伊達秘録は、一揆後六十年を経過して、突如大ブレイクした安藤儀太夫信仰に合わせて、成立したと推定されます。この一斉捕縛は、庫外禁止録と屏風秘録で証明されました。一揆後、山奥、川筋を急襲して、捕まえた者が約24人でした。しかし、この約24人は、とりあえず疑わしき者を逮捕したのであって、指導的役割を果たしていないとわかった者は放免されていきました。また、三間東部方面は、後日、捕縛されていきました。そうして残ったのは9名でした。したがって24人の同志がいたわけではありません。それではこの9名が、団結してこの一揆を起こしたのかというとそれも疑問です。この一揆は、全村が集合できたのは大成功なのですが、八千弱の集団をしきる者がいなかったようです。武左衛門は、山奥の賢明なリーダーでありましたが、全体のリーダーではありません。紙の専売制度廃止を求めて立った山奥を頼って、全領が藩政改革を要求して立ち上がったのです。この混乱をどうおさめるか、吉田藩、宇和島藩、一揆勢は大変な心労を強いられます。宇和島藩が、この者なら信頼できると選んだのが武左衛門であったようです。吉田藩も、一揆の頭取は憎いのですが、武左衛門だけは「非あるとも言えず」と書き残しました。詳しくは拙著「帰村 武左衛門一揆と泉貨紙」をお読み下さい。武左衛門一揆は、幕末の安藤儀太夫顕彰と明治末からの武左衛門顕彰により、真実とは違う物語の世界が成立したのです。といっても全くの作り話でなく、大筋はそのとおりだと思います。

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