鈴木作之進と庫外禁止録
 鈴木作之進は、吉田藩郡奉行所の中見役です。中見役は郡奉行の下にあり、実務を担当する役職です。庄屋による村政が円滑に行われているか指導を行ったり、治安に当たったりします。同役が数名います。
 吉田史談会の人たちによって発見された彼の墓碑には、「質朴忠勤、格禄しきりに進み、褒賞数々賜り」とあり勤勉な人柄がうかがえます。郡奉行所は、専売制度にはタッチせず、紙方役所が取り締まりを、業務を法華津屋が行いました。
 

 
 天明7年、この年は風水害が続き飢饉でした。いわゆる天明の飢饉です。春に作之進は、一揆を未然に摘発するという大手柄を立てます。(土居式部騒動)但し、これは年貢の不正を訴えようとしたもので、藩側の方に非があります。同年冬、作之進は、飢饉で荒れた農村を部下7人をつれて視察にまわりました。それが「巡在日記」として残っています。村では年寄り、親孝行な者、農業に励む者を呼び出し、菓子や酒を給して労をねぎらいました。彼は、「百姓」と書かずに「御百姓」と書きます。
 
 
 御百姓は一人一人の時は気弱だが、集まるととたんに心強くなり、言わしておけば際限なく言いつのり、手を焼くものだと評します。決して藩政は、強圧的ではなかったのです。現在の三間町、吉田町、その他の地域を、十数人の郡奉行所で治めるのですから力で押さえきれるようなものではありません。
 一揆後の逮捕の時も、夜明けと共に寝込みをおそい、騒がれる前に引き上げる。騒いだらもう逮捕はないからと安心させると決めています。
 
 私に任せてくれたら、こんな大一揆にならなかったのにと作之進は悔しがります。願いの内、聞き届けてやれる程度のものは受け入れ、御百姓の手元にもほどほどの紙漉きの利益が残るようにしてやれば納まるのです。一揆の噂さが立つと、彼は、村をまわってていねいに聞いてやりました。十が十まで願いがかなわぬことはない、それでは郡奉行所の面目がたたんではないかと諭すのでした。こうして一揆の動きは沈静し、百姓の信頼を得ました。紙専売制度は郡奉行所を無視して、紙方役所が実施・運営しています。郡奉行所はまとめた願書を上層部に提出し、専売制度の改善を期待するのでした。
 
 裁許の結果は、十が十まで実現せず、郡奉行所の面目は丸つぶれとなりました。郡奉行所の役人は、狸役人と呼ばれるようになりました。
 「冬春の狸を見たか鈴木殿 化けあらわして 笑止千万」と落首されました。冬春は当春をさし、この年の一月の郡奉行所による願書聞き取りを指します。
 作之進は、下々の我らの言うことは取り上げてもらえないと嘆くのでした。こうして彼は庫外禁止録を書き残しました。