泉貨紙とは


   泉貨紙粕紙(残った原料ですく下品だが、味わいがある)
                                 
 和紙の世界では名のとおった有名な楮紙です。漉き上がった直後の二枚の和紙を一枚に合わすことによって強靱な性質が備わります。戦国時代末期の天正年間、現在の愛媛県野村で活躍した兵頭太郎右衛門という武士が、隠とん後、工夫して発明したと伝承されています。彼は、慶長二年(1597)に没したといい、墓が野村町安楽寺にあります。その直系の子孫は今もその近くに居住しています。 彼の法号を「泉貨居士」というところからこの名がつきました。
 このことから始期が明確な和紙として書物にもよく取り上げられるのですか、それでは慶長年間の泉貨紙と言われると存在しません。私は、当地方の戦国期から江戸初期の古文書の紙質を注意深く見ているのですが、この時代の文字を書く紙はすぐ朽ちるので、残す必要があるものは裏打ちか原本を筆写して保存しています。漉き返して再利用するのが当たり前だったので墨色が残る紙もあります。だからこの時代に泉貨紙が完成したというのはこの時代の紙事情から疑問があります。江戸中期に入ると和紙の製法が確立し、湿気がないところに置いておけば数百年たっても紙としてしっかり残っています。没後およそ百年たった元禄年間、宇和島の紙商が初めて顕彰を行い、「泉貨居士」の名をおくりました。だから、宇和島領特産の和紙として売り出す際の宣伝に作られた話かもしれません。泉貨紙の製法は、二枚を一枚にするだけですから、全国各地へ広まります。そこで、泉貨紙の終末の昭和時代に入っても、泉貨居士発明本家本元の泉貨紙としてアピールしています。
 泉貨紙は、大洲地方の山間から現在の東宇和郡、北宇和郡の鬼北地方、高知県幡多郡など四国西南の山間部に広まりました。宇和島より南に下がると楮の生育が悪かったようです。名前も、仙貨、仙過、センカといろいろ見られます。どれが正しいとも言えませんが泉貨紙を正式名称とする傾向があります。宇和島藩でも仙貨紙の名を用いることが多いので、野村の本場を指す場合を泉貨紙とします。


柿渋を塗って作った三重底の袋で松煙や蕨粉などを入れた。昭和二十三年製造。大正町歴史民俗資料館蔵。
 
泉貨紙製の帳簿は火事の際、井戸に投げ込んでおいて、後で引き上げても何ら損傷がないため評判となったと言われますが、これもおかしな話です。純楮製の厚紙の和紙はみんなこうなります。明治十年の「諸国紙名録」を見ると、泉貨紙の用途に帳簿はありません。強いという性質を利用して、桐油を塗って傘にするか、袋用にしたようです。石灰袋は今も紙製で二重にしていますね。あんな利用法なのです。今も、四万十川沿いには、泉貨紙製の袋やその設計図などが残っています。泉貨紙は、高級紙でなく民間で惜しみなく使われる丈夫な紙で、他に敷物や紙衣や張り子など文字を書く以外の用途にも利用されていたようです。そして、戦後、漉き返しの粗悪紙に仙花紙という名前を利用されてしまいました。その名残で仙花紙といえば再生紙のことを指すのです。さて、宇和島藩専売の泉貨紙は、楮を木灰で煮て、さらに色も白くしませんから、より素朴で強靱な紙になります。品質はりっぱなものです。また、泉貨紙は、精粗二枚の簀を使って、性質の違う紙を漉いてそれを合わすのでより強靱だと言われています。これは、野村地方にのみ見られる製法であり、泉貨紙の一般的な製法とは言えません。
 
 現在も河畔などに多数自生する楮。昔は栽培されました。数種類があります。                                       
                                        
          
 山村の冬の農閑余業として漉かれる紙は、半紙や杉原紙や仙貨紙のような日常に使用される紙となります。それでは、仙貨紙に優れた紙がなかったかと言えば、そうとは言えません。そもそも、仙貨紙が名紙として名を残したのは、宇和島藩大洲藩土佐藩が良質の仙貨紙を出荷したことの他に、昭和初期、柳宗悦と寿岳文章という二人の高名な和紙研究家が当地方を訪れ、絶賛したからです。筆者も、幡多郡の山間で、当時の障子用の仙貨紙を頂きました。全国各地の楮紙の産地を見て回っている私でも、見事さに絶句。あまりに美しいので直ちに、高知県立博物館と伊野町和紙博物館に寄贈してしまいました。障子紙と言えば、真っ白なすぐ破れる安っぽいものしか見たことがありません。楮の地色を生かした見事な気品が漂い、障子紙というものの本来の姿を見ることができます。ところで、宇和島、吉田藩特産の灰煮、混ぜもの無しの仙貨紙は当地方にはもう現存しないのです。日常に当たり前にある物をわざわざ保管しておく人はいないでしょう。なんとイギリスのビクトリア・アルバート美術館に保存されているのが発見されました。イギリス公使パークスが日本の和紙を収集したものです。また、1873年のウィーン万国博覧会に出品された和紙の中に、宇和島地方の仙貨紙も含まれています。毎日目にしている人には、その美しさを感じられないのでしょう。仙貨紙は現在、愛媛県野村町、愛媛県広見町、高知県十和村の三ヶ所で漉かれています。
                                                                                                                                                                泉貨居士像。宇和島藩が泉貨紙の専売制度を始めるにあたってかかせたもの。墓も修復した。吉田藩などの専売制度の失敗を教訓に、顕彰をおこなって、百姓の生産意欲を起こさせようとしました。この専売制度は莫大な利益をもたらしたとはいえないようです。その後何度か顕彰事業があり、泉貨紙の生産は幕末・明治末から大正の二度にわたって盛期を迎えました。 

 

 
 

 

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