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会報17号 「愛すべき孤独」木村衣津子
〜自由律俳人・尾崎放哉をたずねて〜 |
孤独を表現したら、この人の右に出る者はいない。
尾崎放哉(おざきほうさい)
「咳をしても一人」という傑作を残した、 自由律の俳人である。
個の時代、寂しい時代、などと形客される今、彼の作品に流れる孤独の息づかいに、あなたぱ何を感じ取るだろう。
自分自身の外側へ
俳人・尾崎放哉は、41年という短い生涯の中で、3干句近い作品を残した。その中からいくつか並べてみる。
咳をしても一人
足のうら洗へぱ白くなる
とんぼが淋たし机にとまに来てくれた
犬よちぎれる程尾をふつてくれる
障子あけて置く海も暮れ切る
あっけらかんと端的な表現。それは一見、何の工夫もないように思える。自分の目で見
たものをそのまま正確に切り取り、言葉を編んでいるようだ。そして私たちは、きょとんとする。一体、何が言いたいのだろう?同時に、なんだかわけのわからない魅力を感じる。ぼつんとつぶやくような表現でありながら、そこはかとなくおかしみがあって、ふっとせつない放哉の世界。
彼の句に対する解釈はさまざまだが、たとえ俳句の知識がなくとも、時を超えて人問の心に共通する「何か」を私たちは感じ取る。それは一体、何だろう。どこから来るものなのだろう。
尾崎放哉(本名・秀雄)は、1885(明治B)年、烏取市の裕福な家庭に生まれた。m代の頃から俳句に親しみ、一高、東京帝国大学(現・東京大学)法学部を卒業後、東洋生命保険東京本社に勤務。∞歳という若さで大阪支店次 長に抜擢されるなど、いわゆるエリートである。しかし、勤勉な会社人間というわけではなく、ほろ酔い気分で正午近くに出勤し、3日に1度は全く姿を見せないというていたらく。それでも仕事は完壁で、契約成績は群を抜いていたという。
入社して10年が過ぎた頃、人間関係の軋轢や不本意な人事異動を機に「もはや社会に身を置くの愚を知り、社会と離れて孤独を守るにしかず」と退職、郷里に戻る。鳥取で放哉がしていたことといえば、毎日、温泉に通い、料亭で泥酔、という放蕩三味である。そんな彼を見かねた友人の紹介で朝鮮火災海上保険会社・支配人の職を得、妻とともに京城(現・ソウル)ヘ。要職に就くものの雇用の際に謀せられた「禁酒」が守れず、1年後にはクビになる。
その後、妻と別居。38歳で放浪の身となり、京都、神戸、福井などを渡り歩き、奉社団体や寺で托鉢生活を送るが、酒癖の悪さから追い出されたり、運悪く内紛が起きたり。そのうち京城で息った肋膜炎
が悪化し次第に体力も衰えて いく。
ざっと見て、放哉は、酒に溺れ、約束されたエリートコースを棒に振った愚かな男だ。転がり落ちた末にあったのは、貧窮、病弱、妻との別れ、肉親との隔絶。しかし、この奈落で、俳人としての才は飛躍的に伸ぴていく。
一日物云はず蝶の影さす
あるものみな着てしまひ風邪ひいてゐる
淋しいぞ一人五本のゆぴを開いて見る
俳句とは本来、詠嘆を寄せつけないものであるが、悲惨極まりない放哉の状況を思うと、どうしてこんなにふっ切ったような実き抜けたような軽やかな句が詠めるのか、と不思議になる。やりきれない思い、後悔、茫漠たる寂しさを、これほどまでにさらりと軽妙酒脱に表現できるものなのか。
放哉は言う。「俳句を作る上で大切なことは《ぶっきらぼうに、放り出し、投げ出す》ことだ」と。つまり、客観視せよ、ということだ。
例えば、辛くて泣いているとする。その自分を見る、もうひとつの視点。循敵する目。その目はあくまでも《ぶっきらぼう》ではなくてはならない。無愛想に、掛け値なしに、他人行儀に、泣いている自分をじっと観察する。と、何が起きるか。束の間の解放である。悲しみからの、痛みからの、憎しみからの、寂しさからの、解放。がんじがらめの自意識から、す−っと抜け出るような、解放。
逆境の放哉を支えたのは、この視点だ。軽々と自らの感情や肉体の外側に立つ、俯瞰の眼差しである。
研ぎすまされてゆく感受性
放浪生活も2年めに入り、病気の進行とともに、放哉は安定を求め始める。
「淋シイ処デモヨイカラ、番人ガシタイ。近所ノ子供二読書ヤ英語デモ教ヘテ、タバ
コ代位モラヒタイ。小サイ庵デヨイ。ソレカラ、スグ、ソバ二海ガアルト、もっと尤ヨイ『済ミマセンガ、タノミマス、今、十二時ヲ打ッタ処、朝五時カラ身体ノウゴキ通シデ手足ガ痛ミマス、ヤリキレ申サズ候。』」
放哉が、俳句の師・荻原井泉水にあてた葉書である。井泉水は放哉の一高時代の先輩で、自由律俳句運動を推進し、俳句誌『層雲』を創刊。(注1)放哉の句の才能をいち早く見いだし、指導し、さらに晩年の放哉を経済的・精神的に援助した恩人である。師のはからいによって、放哉は小豆島に安住の地を得た。40歳の夏である。
「小豆島に来てからの放哉の句は、非常に冴えています。きっと孤独の中で感受性が研ぎすまされていったんでしょうね」
そう語る井上泰好さんは、放哉来島の際、手厚く世話をした非上一二氏の甥にあたり、「放哉」南郷庵友の会幹事かつ自身も自由律の俳人である。
入れ物がない両手で受ける
何がたのしみに生きてると問はれて居る
「なんだか、心に響きますね。僕も放哉みたいな句を作ってみたいなあ、と思いますが、できないです。放哉の句は、放哉のような生活をし、その心情を味わった者じやなければできないです」
では、小豆島での放哉の生活とは一体どんなものだったのだろうか。
放哉が住んだ南郷庵は、島四国霊場五十八番・西光寺の奥の院で、墓所の一角にあった。弘法大師と延命地蔵がまつられた六畳問に続き、八畳の居問兼寝室、そして三畳ほどの台所。当時の庵は取り壊されたが、1994(平成6)年、同じ場所に、尾崎放哉記含館として再建されている。
記念館の設立に尽力された森克允さんは言う。
「放哉がこの島で過ごしたのはわずか8力月ですが、その冬は60年ぶりの厳しい寒さだったそうです。当時の南郷廃は粗壁に障子という粗末なものでしたので、それは辛か
っただろうと思いますね」 小豆島と言えば年間平均気温15度前後という、温暖の地。なのに放哉がいたその年だけは例外だった。凍えるような寒さが、病身の放哉を急速に蝕んでいく。病名は結核、合併症として湿性咽頭カタル。激しい咳とともに喉に激痛が走る。その痛みのせいで食べ物が喉に通らず、空腹を満たせない。痩せ細り、やがて水さえ飲めなくなり、寝たきりになる。
病状が悪化する放哉に、師・井泉水らは、再三、京都に戻り病院へ入るよう促す。それに対し、放哉はきっぱりと拒絶する。
以下は死の2週問前に書かれた書簡からの抜粋である。
「あの、ヤカましい、売店のやうな、穀風景な、マッ白な病院といふもの、アノ中に、入ると云う事を考へた丈でも放哉たしかに死期を早めますよ、呵々。
(注一呵々は 「笑い声」)。
「足腰の自由カナハヌ程疲労してゐますが、朝、早起きして、例の机の前に座ってしまへば、元気如斯し、全く、小さい窓を通し、自然を見、自然と話して居るからであります二故に、手マハリの世話はウラのお婆さんが一切してくれます・・之に、世話になって居れば(薬)は呑まぬのだから・・其内(精神修養)で、持ちなほして行くか・・又はお婆さんの世話になつて、自然の中に死ぬかであります。」「此の庵二死んでも出ない事・・・之れ丈が、確実な決心であります・・
若し、無理に庵を押し出されるやうな事があれば、意識的に、食を絶って、放哉、死にます・・」
命を削り、生を詠む
非上さんは首をかしげる。
「放哉の気持ちは、我々には理解できないでしょう?工泉都に行ったら治るかもしれないのに、ここで死なせてくれ、と言ってるんですよ」
これを漸進的自殺とする説もある。つまり、放哉は死を望んだということか。
「いや、僕は、宗教的なものだと思うんですよ。放哉は、極端に言えば『俳句は宗教だ」というようなことを言っていますのでね」
この点に関し、俳人・批評家である見目誠氏の見解はこうである。
「はたから見たら狂気の沙汰である。しかし、放哉としては、ここでもし入院、すなわち社会復帰をしてしまうと、おのれの怨念浄化に賂けた、これまでの2年数力月にわたる句作およぴ漂泊、隠遁の歳月が水の抱に帰すのである。それを完結、全うさせるための、捨身懸命の放哉の叫ぴなのだ。放哉のこの心情は、この時点で井泉水、その他には理解すべくもなかった」
両氏の話から見えてくる共通点がある。つまり、放哉は死に抵抗することを良しとしなかった、ということだ。あるがままでいい。自然の成すがままでいい。なにゆえの抗いか。期は満ちたのだ、それでいい。そんな放哉の声が聞こえてきそうである。
見目氏はまた、次の句を挙げ、放哉を評価する。
肉がやせてくる太い骨である
「死力をふりしぼっての諧謔である。その鋭さ、冷厳さには、正岡子規の絶筆三句でさえも及ばない。(注2)この期に及んでも、骨大でぶっきら棒な放哉調は徴塵も衰えることはない」
血を吐くほどの激しい痛みの中、這うよ、っにして机に向かい、命を削って句を作る。放哉は言う。「眉毛一本動かすのも辛いが、句を思うと珍しく不退転の勇気を感じる」と。
ぎりぎりの肉体と精神を抱えつつもなお、句に思いを馳せればくじけることなく勇気が湧く、と言うのだ。一体、この男は強いのか、弱いのか。この不屈の力はどこから湧いてくるのか。
大酒呑み、社会的不適応者、 被害妄想家、放蕩者、厭人症…、放哉の生き方への批判は手厳しい。事実、親友に借全をしては踏み倒したり、入庵後も井泉水や寺の住織に金や食料を無心したり、一人で死にたいと言いつつ島人に手厚く看病をしてもらったり、と迷惑至極かつ矛盾だらけではある
しかし、放哉は、ただ一点、句作においてだけは真摯だった。句を作る瞬問だけは、誰をも寄せつけないほど気高く、凛々しく、限りなく純粋であった。あらゆる心の澱ー後悔、移屈、自虐、恨み、憤りーを沈殿させ、浄化し、その透き通った上澄みをすくいとるように句を作る。想像を絶するほどの昔しみと問いながら、それを超越し、句へと昇華したのだ。その研ぎすまされた句の数々は、時を経て、私たちの心を打つ。強烈にわしづかみにする。
孤独、 だからこそ
瀬戸内の海は風いでいる。さわやかな風にのって、遠くから、チリンチリン、お遍路さんの鈴の音が聴こえてく
る。そう、ここは祈りの島。かつて人々は、海の彼方に浄土があると信じ、死後、その世界に渡ることを望みながら巡礼した。そして今も人は、何かを信じ、祈り、歩く。白装束に身をつつみ、生ある今を歩き続ける。
タ陽を受けて、砂浜は金色に染まる。その向こうには3つの孤島ー弁天島、中余島、大余島ーが並ぴ、干潮時にできる砂の道が、1日2回、島をひとつに結ぶ。「引き汐の島へつづく道なれり」と放哉が詠んだ砂州を行く。先ほどまで海中にあった砂は水を含んで足下に絡みつき、思うように前へ進めない。潮はいつ満ちるのだろうか。満ちたら、この道はなくなり、帰れなくなる。そんなことを思いながら歩く。大海のうねりによって、生まれては消えゆく道。幻のように、はかない道。
放哉は何を思いながら、ここを歩いたのだろう。海の彼方に何を見ていたのだろう。
海風に筒抜けられて居るいつも一人
流れに沿うて歩いてとまる
蛍光らない堅くなつてゐる
放哉が、その生涯で抱え持った孤独感はあまりにも深く、同様の経験を持たない者にとって、その心情は容易に理解できるものではない。けれど、そこから生まれた作品は共感を呼ぴ起こす。なぜならば、句にあるのは放哉特有の孤独ではなく、人問に共通する普遍的、根源的なものだからだ。ごまかしやきれいごとの一切ない孤独そのもの、感傷やナルシシズムを排除した孤独の実体そのものが、放哉の句にはある。それが私たちを立ち止まらせる。
いつの頃からか、私たちは、孤独から目を背けること、あるいは紛らわせてくれる何かを追い求めてきた。なるべく見たくない、考えたくない。そうして、群れることで安心を得ようとしたり、馴れ合いの関係にすがろうとしたり、ごまかしてくれる対象に没頭したりする。しかし、その結果、私たちは安心や幸福や充実を得ることができただろうか。ますます寂しくなっただけではなかったか。
大切なのは、自分の内にある孤独を受け止め、それを力に変えていく強さを身につけることだ。人を愛する強さに、自分を信じて立ち上がる勇気に、何かを生み出すエネルギ1に、変えていくこと。簡単ではないかもしれない。けれど、その先にこそ、つかめる何かがある。
そして、その第一歩として、今、私たちに必要なのは、むやみに孤独を恐れず、まっすぐに見る、ということだ。
そのとき、放哉はきっと力を貸してくれるだろう。人間本来の孤独をさまざまな視点から切り取り、提示してくれる。句を通して、孤独を昇華することの意味を教えてくれる。ある時は鋭く、厳しく。ある時は、そっと心に寄り添うように。またある時は、極上のユーモアをたずさえて。
あとがき
ある夜、ぼ−っと窓の外を見ていたら、ものすごく唐突に「咳をしても一人」という句が頭に浮かんだ。いったい、何?本人にすらわけがわからない。脳のすることは本当に不思議。何の脈絡もなく、気まぐれに、記憶の引き出しを問けたり閉めたり。それにしても、ひょいと俳句が出てくるとは意外である。確か、中学の教科青でちらっと見たような…。作者は誰だったかな?そうして尾崎放哉(おざきほうさい)を知り、彼の作晶世界にぐいぐいと引き寄せられ、気づいたときには、放哉の住んだ小豆島を訪ねていた。取材に協力してくださった小豆島の普様に心から感謝いたします。ありがとうございました。
(注1)自由律俳句
五・七・五のリズムにとらわれず、感情の躍動するリズムに従って自由に表現する俳句。季題に制約されず、瞬問の印象を重んじ、内的生命を端的に詠む。平均釣長さはb
i∞音。自由律の語は明治璃年に表れる。荻原井泉水が明治未期に『層婁』を創刊し、自歯律俳句の運動を推進。井泉水は「俳句は一つの段落をもっている一行の詩である」と俳句を定義している。彼の門下に、尾崎放哉、種田山頭火らがいる。
(注2) 正岡子規絶筆三句
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水も取らざりき
以上のご一句を指す。
取材協力
「放哉」甫郷庵友の会
小豆島 尾崎放哉記念館
尾崎放哉資料館
参考文献
「尾崎放哉全集」 弥生書房
「尾崎放哉ひとりを生きる」 石寒太著 北B社
「呪われた詩人尾崎放哉」 見目誠著 春秋社
「尾崎放哉淋しいぞ一人」 火村卓造著 北B社
「現代俳句の墓礎用語」 石寒太著 平几社
著者プロフイール
木村 衣津子 (きむらいつこ)
1964年岐阜県生まれ。 フリーライター。
広告制作会社勤務(コピーライター)を経て、1990年独立。
愛知県名古屋市在住。
月刊誌「縄集会議」平成18年8月号(KK宣伝会議発行)編集・ライター養成講座名古屋教室第一期卒業制作課題、最優秀作品より転載。 |
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