放哉入滅
ーあれから九十年ー
井上康好  「放哉」南郷庵友の会会員
はじめに

 尾崎放哉は大正十四年八月十三日終の栖を求めて小豆島に来島。八月二十日小豆島八十八ケ所第五十八番札所土庄町の西光寺奥の院「南郷庵」に入庵。貧苦と病気に耐えながらとぎすまされた自由律俳句を作り続け、翌大正十五年四月七日壮絶な死を遂げた。
 本稿ではその死の日の前後の事、また最後を看取ったのは誰なのか、午後八時とされる死亡時間等について、資料をひもときながらその状況を追ってみたい。

 大正十五年四月四日・五日

 放哉より井泉水あて四日の葉書には
 「啓、(雄弁)御礼申上侯。島はぬくうなりましたが、腰がぬけましたよ 何々」と書かれてあり、翌五日付の葉書には 「ーアンタニハ、コロリと参ツタラ土カケテモラフ事ダケタノンデ有リマス)ト西光寺サンこ申シテオキマシター」とあり、最後に「中々、マダマダ死こマセンヨ」と結んでいる。
 玄々子は放哉が亡くなる四、五日前に病床を見舞ってなぐさめると共に、誰か近親の者を呼びよせる事は出来ないか、また知らせるところがあれば遠慮なく申し出てほしい、と話している。以下層雲昭和二十五年四月号「放哉特輯号」ク放哉さんと私?より大要を引用する。
 ー彼はすでに聾も出なくなつていたが、今更近親を呼びよせて別れをおしむ事はしたくない。ただ心にかかる事は、自分をここまで庇護して導いてくれた井師の高恩であり、この高恩に報いずして死ぬ事は誠に残念である。万一の場合は井師と大阪の某に知らせてくれれば心配をかけないで済むと思ふ。自分の求めるものを、大いなるものをコノ胸一パイに得て満足して死んで行くー
 私は此の言葉に黙ってうなづくより外にすべは無かった。諸法無我をこの世にあるもののひとりあらず、とは若い頃から教へられたものではあるがーこの放哉の言葉によってハッキリと教えられた事ではある。放哉は私を恩師の様に書きたてゝはゐるが、それは返って反対で、私こそ彼の無一物の生活から捏柴寂静(おのれなきものにやすらひあり)と云ふおしへをハッキリと身につける事を得た?と書いている。

 大正十五年四月七日

 このような状況から玄々子は一二と共に、四月七日の朝再び見舞い、午後には木下医師と一二の叔父(※筆者注 三木方直、井上一二の父の妹が嫁ぐー内科医)にも診察してもらっており、その様子を井泉水に次のように書き送っている。
 四月七日 午後三時 玄々子

拝啓、放哉棟御容態先日打電(※筆者注 四月四日夜西光寺より内島北朗あて)以来重篤となりました トテモ恢復の見込ハありません 本日も井上様も御こしを願いまして医師も従来の方と今一人井上様の親族の方々を迎えて充分みていただきましたが三日乃至五日位の余日しか無いと宣告されました 誠に悲しみの極みですー今日では二人の看護人をツケテゐマス(今日まで一人)もう食事もとる事が出来ませず(咽喉の為に)眼もよく見えないと申されます。然し意識ハまだハッキリしてお話しになりますー
なお同様の手紙も一二から井泉水あて次のとおり出している。
ーけふ西光寺さんからの小僧が来、又放哉氏病状険悪とのことにて、西光寺さんと二人で南郷庵へ馳けつけました。 ー今日午后から三木の叔父にも見て貰ひますー
とあり、玄々子、一二共放哉の病状を心配してげる中、とても無理というあきらめの気持が文中にあらわれている。
 それにしても玄々子の放哉に対する親味な対応は゛井泉水からの預り者゛という意識があったにせよ、また同じ俳句仲間という結びつきの強さを差し引いても、玄々子の宗教人としての信念、人間としての素晴らしさはとうてい真似の出来る事ではない。

 放哉の看護人

 さて放哉が木下医師より「癒着性肋膜炎から来る肺の衰弱、合併症湿性気管支加答児」と診断されたのは一月下旬、その頃から歩く力がない程弱っている。入庵食記の二月十日には「ー死期ノ早ク至ルヲ望ム事八分ナリー」と書いている。二月中旬南堀シゲさんの忠告に従い、飲酒を止める。三月に入ると何も食べられなくなる。三月中旬より便器にて排便。
 では放哉を看取った南堀シゲさんは何時頃から看病したのか。前述のようにシゲさんの忠告に従い酒を止めるとあり、記録にはないが、二月に入ってから時々顔を見せて世話をしていたのではないかと思われる。
 二月二十八日の入庵食記には「ーオ婆サンガ居ラヌト淋シイ事也…」とあり、放哉の句『婆さんが寒夜の針箱おいて去んでる』と詠んでいるように、三月に入ってからほとんど毎日顔を見せて世話をしてたものと思われるが、いかに庵主とは云え胸の病気の上に排便の世話まで、他人に対して最後まで面倒を見たのは何故なのか一島人の親切と人情と言えばそれ迄だが、シゲさんは西光寺の檀家で恐らく玄々子から「大事な人だからよろしく頼む」と依頼されていたのだと思う。放哉の最後四月七日にはシゲさんの外にもう一人看護人をつけているが誰かはわからない。

最後の看取りと死亡時間

 四月七日の放哉の死亡前後にふれてみたい。多ぐの作者は放哉の最後を看取ったのは南堀シゲさんと書かれており、あるいはシゲさんの主人と書いているものもあるが、本稿では荻原井泉水打「放哉を葬る」と青木茂の)「乞食放哉の大往生」の中から述べてみたい。 
 「放哉を葬る」荻原井泉水(層雲大正十五年六月・七月・八月号の内七月号)
 井泉水は四月九日朝来島、その日の夕葬儀を済ませ、四月十日には帰っているので、左記の模様は四月九日に聞いたものと思われる。
 ー彼の最後の模様は、卦ぼみ訃んから聞いた。其のおばさんといふのは、海の見える窓の外に低くこけら茸の屋根の見える家の漁師のかみさんなのでーお蝋燭番の為と看護の為とに常雇ひのやうにしてゐたものなのである。ー
 「今、何時頃だろかと、聞かはれましたが、さあ、時計はなし……」春の永い日もやうやく薄暗くなつて、電気がホッと灯ってから間もない頃だったといふ、彼に変化が起こつたのはー。海に出てゐたおばさんの亭主も帰って来たので、呼んで、おばさんが玄々子の所へ急を告げにゆく留守に、その漁夫の手に抱かれて、彼は息を引きとったのである。彼の病床は八畳の居間ではなしに、台所についた狭い三畳に作ってあった。ー
 この文によるおばさんは南堀シゲさんの事である。″春の永い日もやうやく薄暗くなって、電気がホッと灯ってから間もない頃…″というのは何時頃なのかー当時玄々子に引いて貰った電燈は定額電燈で十六燭。点燈と消燈は電気会社が操作していて、薄暗くなると、勝手に点り、明るくなると消えるという仕組の電燈である。春の日はまだ短い。暦で見ると四月七日頃の日の入りは六時半頃と思われ、電燈が灯ったのはその頃であろう。それから間もなくであるから、放哉の死亡時間は七時前頃であろうか。玄々子が土庄町役場に提出した死亡届には午後八時となっているが、これはシゲさんが西光寺に走り木下医師に急を告げ最後の診断をし、医師としての死亡時刻を午後八時としたためと思われるが、木下医師宅と南郷庵は十分位で少し時間のズレがある。

役場に提出した死亡届)

大正拾五年四月七日午後八時香川県小豆郡土庄町甲千八拾弐番地二於テ死亡家屋管理人杉本宥玄届出同月八日土庄町長笠井昌平受附同月拾弐日送付

 「乞食放哉の大往生」青木茂(昭和七年八月篠山書房刊)
 青木茂はこの著を執筆するため昭和六年十月小豆島を訪れている。西光寺では玄々子不在のため石井玄妙が南郷庵跡、墓所、一二宅(不在)シゲさん宅に案内し、シゲさんより話を聞いておりその内容は次の通りである。
 ーいよいよことの切れたのが四月(新)の七日の午後四時頃でした。いつにも似ず元気が無うて「おばさん、私ももう駄目じや、どうもさういふ気がしてならん」
 ー少し胸の方が苦しさうなので、「先生とこに走って来ませうか」といふと、さうしてくれといひますので、心残りにはなりましたが一人残して家を出て先づ西光寺さんにお知らせをし、お医者さんに走って帰ってきますと、大変うれしそうでした。さうしてむつくりと起き上がり「おばさん、手紙を書かうかな」といひますので「何を言ひなさる、さう弱って手紙なんか書けますかいな」といふと「さうだな」とうなづかれましたが、そのまゝがつくりと私の膝の上に頭を仰向けに落して、両方の眼をくうと上に吊りあげました。私はびっくり して 「先生、どうなさりました。先生、先生」と呼びましたがもう声も何もありませんでしたが「お水をあげませうか」と側の土瓶の水で口をうるほしますと、もう一度微かに限を見開いて、軽くにつたりと私を見られました。あれが最後の別れの挨拶だったのでせう。」
 シゲさんはかういうて新しい涙を落した。私も話をきゝながら、つい釣りこまれて目をしばたゝいた。ー
 引用が長くなったが、より具体的な内容となっており、井泉水がシゲさんに問いた内容とは異なっている。「ことの切れた」というのは息を引き取った事と思われ、それが午後四時頃となっている点、またシゲさんが放哉を残して西光寺、木下医師宅に知らせ、庵に帰ってからシゲさんの膝の上で…とあり、午後八時死亡とはあまりにも時間が開きすぎている。また井泉水の「放哉を葬る」では、シゲさんの主人に抱かれて息を引き取ったとの文と、この引用文ではシゲさんが最後を看取ったと書かれており、ここでもくい違いがある。井泉水がシゲさんから話を聞いたのが大正十五年四月九日で放哉死亡時より二日後である。青木茂がシゲさんから聞き取りしたのは昭和六年十月、放哉が亡くなってから六年半程経過しているが、引用文を見るとかなり具体的に善かれており、多少の誇張はあったとしても当時シゲさんは五十九才(明治六年生まれ)でまだまだお元気で記憶があいまいという事は考えられない。(昭和二十年九月 七十三才で死去)
   なお、死亡時間は現在は医師の死亡診断書を添えて行政機関に提出し、その時間は医師が記入した時間で届出する事になっており「午後四時頃」から「午後八時」の間に四時間も空いている事に疑問が残るが、当時は家族の届出の時間で受理されていたのかもしれない。
 ともあれ放哉が死亡したのは四月七日に間違いなく、放哉の「無一物無尽蔵」の特異な生き様や、身じろぎもしないで死を見つめていた事が、定型の俳人も含めて共感を呼んだ事も否定出来ない。また多くの俳友に物心両面で迷惑をかけ、時には非社会的でありながらなおかつ許されていただけでなく、多くの支援者、後援者を得ていたのは、放哉が選んだ自由律俳句という文学形式の中で、健康に生き続ける事が出来たからに外ならない。
 特に小豆島での生活は、師の井泉水のたゆまざる庇護、裏切られても裏切られても玄々子、一二の暖かな援助がそれを支えていた事、また南堀シゲ夫妻の献身的な看護なども大きな要因であり、それであるからこそ孤独の中で感受性がとぎすまされ、放哉の俳句はやりきれない思いや後悔、ぼう漠たる淋しさをさらりと表現できた。
 井泉水は「層雲」昭和五年五月号"塘下の宿″昭和四年十一月の阿蘇山での山頭火と出会いの中で、次のように書いている。
 ーかつて放哉が南郷庵に隠れた時、私は彼に酒を禁ずるように忠告したーだが放哉の亡き後にして考えると、私の言葉は其頃の放哉の気持を察しない頑な言葉だったと思ふー

 放哉の葬儀等のこと

 放哉の戒名は尾崎家の宗旨がわからず困ったようであるが、玄々子は南郷庵主として真言宗の式に従ってつけた。宮本光研(放哉の直弟子だった赤木畔亭の長男 は「多くを語らず
ー玄々子の世界ー」の中で「玄々子ー宥玄は放哉の入滅を見とどけ、戒名・大空院心月放哉居士と贈った」ーとあり、この戒名に対し井泉水は「放哉を葬る」の中でーまことに堂々とした立派な名である。但し無一物の放哉には少し過ぎた感がなくも無い。私は三字を削ってー彼の俳句を添削するのと同じ気持で悪いやうでもあるがー「大空放哉居士」で結構ではないだろうか。此方が簡潔にして飾りがなく、如何にも彼らしい名だと思われると云った。之も私の説が容れられて、さう定められたー尤も「大空」といふのは真言宗で云ふ所の諸法空相の義から引かれたものであろうがー「大空」とは玄々子が住い字を選んでくれたものだと思ったーと書いている。
 放哉は最後にあれほど愛した人の心とよい月を無くしてしまったが、今では「大空放哉居士」の方が馴染んで親しみが湧き、彼の遺句集「大空」と共にふさわしい戒名ではないかと思っている。なお句集「大空」は井泉水の編集により、亡くなった二カ月後の六月に、異例の早さで出版されている。

 放哉の葬儀等について再び井泉水の「放哉を葬る」を引用する。

ー玄々子は本尊に合掌して、仏前に置いてある大きな四角の金欄の蔽いをとった。それが棺だった。私と北朗は近よって、中をのぞいた。ーそこに隠れてゐたのが放哉だった。「やあ」さういって、ニッコリする筈の彼が、じつとうつむいたまゝ手を合わしてゐた。顔も見違へる程に痩せてゐたのが悲しかった。而してかれのからだを暖かさうに埋めてゐる樒の葉の間には、、正宗の一升壜が首を出してゐた。金口の烟草が散らされてゐた。それは玄々子の好意だと見える。私は自分が旅行用に持っている観音経の小本を其上に加えた。彼がまだ見な い新しい層雲もソツと入れた。立ったまゝ、心経を誦した。それから棺の蓋をして貰った。ー」
 と書いており、当時は棺が座棺であった事がわかる。放哉の遺体は冒頭にも記しているように、四月五日付井泉水あての葉書には「ーアンタニハ、コロリと参ツタラ土カケテモラフ事ダケタノンデ有リマス ト西光寺サン申シテオキマシー」とあるように土葬である。当初玄々子は火葬を考えその旨届出てあり、南郷庵の上の方にあった火葬場で火葬の用意をしていたが、井泉水の強い思いを尊重して急きょ「土葬」に書きかえて届を提出したが、その締切時間は十分位しかなかったようである。

 放哉の埋葬は夜になった。再び「放哉を葬る」より

 ー棺は墓の穴へおろされた。七つ八つの提灯の光がおぼろげに照らし出す中に」村の人達十五、六人と私達が墓穴を取巻いた。…順々に土くれを取って棺の上に落した。ー
 「さあ、約束通り、土を掛けてあげる…」
 「花をいれませうか」北朗が叫んだ。
 「それが好い」と私が云ふや、北朗は手にもってゐた桃の花を投込んだ。とー暗い中で、すゝり泣く声が聞こえた。放哉を護してゐたおばさんだった。ー夜の空は、此時すっかり晴れて、星が一ぱい、散りこぼれるばかりに沢山墓山の上にきらきらしてゐた。
 井泉水は放哉の好きな海を見せてやりたかった。玄々子はその思いを受け、海の見える地点を選び、海の方を墓の正面とした。
 放哉の墓は、一年後掘り出して火葬にし、遺骨は半分小豆島、半分は尾崎家の墓がある鳥取の輿禅寺に分骨されたほか、離婚していなかった妻馨(昭和五年死亡)の遺骨も埋葬されている。
 なお放哉の遺物は帳面が二、三冊あり、その一つは「念彼観音力 南郷庵放哉坊 大正十四年十月起」とあり、他の一冊がザラ紙の雑記帳で表紙に「入庵食記」と書いてあった。外にボール箱に銅貨が詰めてあり、遍路があげてゆく賓銭・蝋燭代を集めたもので、放哉はこの庵を玄々子から預っているのだからその収入は一旦玄々子に渡さねばならぬという気持だったのだろう。
 余談だが放哉が亡くなってから間もなく、土庄警察が西光寺を訪れ放哉の遺産について質問があったようである。このことは井上一二が「層雲」大正十五年十月号に記しているので引用する。
 放哉居士の名声が土庄でも大いに認められかけた五月頃(注※大正十五年)一日土庄警察の人が西光寺に現れ、尾崎さんの遺産の処分はどうしたかとの質問、西光寺君大いに面喰い、南郷庵のお賽銭銅銭若干は当寺に保管、衣服及び世帯道具は近所の世話になった婆サン連中に分配、書物古雑誌は甥御の秀明君持ち帰りと報告に及ぶと、ナンダ、そんなものかとの言に、一体何の調査かと聞くと、賓は尾崎氏は非常な大家の長男で大した遺産があった、との事で庵にゐる人にも似ず金遣いが荒かった、その遺産を一人の婆さんが大部分せしめてゐるといふ風聞があったので、一寸調べて見たのだとのこと、死せる放哉生ける土庄警察を騒がす乎。それにしてもその無一物の居士が、死後一ヤク大長者と喧伝せらるゝもー輿ではないか。

 後 記

 放哉が亡くなって今年(平成二十七年) で九十年。命日の四月七日に「放哉」南郷庵友の会ではゆかりの西光寺で法要を行い、墓参の後講演会などを開催しているほか、放哉俳句を若い世代に伝え継承するため平成十三年から小豆郡内の小・中学校の児童・生徒を対象に「放哉ジュニア賞」を制定し、毎回多くの応募を得ている。 一方土庄町では、かつて放哉が住んだ「南郷庵跡」を平成六年に「小豆島尾崎放哉記念庵」として復元。さらに平成十七年には「尾崎放哉資料館」を開館し、放哉の遺品、資料等を展示して多くの放哉ファンを迎えている。
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「放哉」南郷庵友の会
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