尾崎放哉 新婚時代の写真 明治十八年〜大正十五年 鳥取生まれ
 放哉は一高・東大とエリートコースをたどり、保険会社の要職にもつくが、世に入れられず酒に溺れ退職に追い込まれる。以後漂泊の旅を続け、大正十二年京都の一燈園で托鉢生活に入る。その後京都、須磨、小浜の寺々の寺男となり転々とする間、膨大な俳句を詠み才能を見事に開花させていった。
 小豆島へは大正十四年八月に来島、西光寺奥の院南郷庵「みなんごあん」の庵主となる在庵わずか八カ月の間病苦に苛まれながらも三千句に近い俳句を作り翌年四月孤独のまま生涯を終えた。
 亨年四十一歳 戒名は大空放哉居士 墓は庵近くの共同墓地の中にある。記念館は平成六年に当時の南郷庵を復元したものである。
放浪の俳人放哉の年譜 (※編者注) さらに詳しい年譜が記されています。
明治18年(1885)
1月20日誕生
現在の鳥取市に出生。本名尾崎秀雄。鳥取市立川町に、父・信三母なかの次男として生まれるも長男天折のため秀雄が長男。父は裁判所書記。
明治30年(1897)
12歳
鳥取尋常中学校に入学する。姉は山口秀美を養子として迎える。
明治32年(1899)
14歳
鳥取県第一中学校「校名変更」(現在の鳥取西高)第三学年。この頃より俳句を作りはじめる。
(※編者注 放哉研究家小山貴子氏による「鳥取一中時代の尾崎放哉」があります。)
明治35年(1902)
17歳
一高文科に入学、一級上に荻原井泉水がいた。
明治36年(1903)
18歳
この年再興された一高俳句会に参加。 この時荻原井泉水と知り合う。五月藤村操が日光華厳の滝に投身自殺をする。
明治38年(1905)
20歳
春一高卒業後九月に東京帝大学法学部に入学。いとこの沢芳衞に求婚。親類の反対のため断念
明治42年(1909)
24歳
東京帝大を卒業後一時通信社に入社
明治44年(1911)
26歳
東洋生命保険株式会社に就職。正月坂根寿の次女馨と結婚する。井泉水は「層雲」を創刊する。
大正3年(1914)
29歳
第一次大戦勃発東洋生命保険大阪支店次長として赴任
大正4年(1915)
30歳
東京本社に帰任する。「層雲」に寄稿
大正8年(1919)
34歳
第一次大戦終息、三年余り続いた層雲への発表が途絶える
大正9年(1920)
35歳
東洋生命は、この年最高の契約高を記録するが株が暴落をし銀行が閉鎖する恐慌が襲来した。
大正10年(1921)
36歳
放哉は契約課課長を罷免される。この年の暮れ頃東洋生命保険を退職する。
大正11年(1922)
37歳
4月新創設の朝鮮火災海上保険に支配人として朝鮮に赴任。
九月創立総会。 十月肋膜炎を発病
大正12年(1923)
38歳
「層雲」への寄稿を再開する。六月禁酒の約束を違えた理由で罷免される。 満州に赴き再起を期すも肋膜炎悪化のため入院、手記「無量寿仏」を口述筆記する。 九月関東大震災の報を聞き十月帰国妻と別居し十一月二三日西田天香の一燈園へ。
大正13年(1924)
39歳
知恩院塔頭常称院から須磨寺大師堂へ入る。
大正14年(1924)
40歳
三月須磨寺を出て、五月小浜常高寺の寺男となる。 七月常高寺を去る。八月二〇日小豆島霊場第五十八番札所西光寺奥の院南郷庵に入る。十一月「入庵雑記」を書き始める。
大正15年(1926)
41歳
四月七日南郷庵に死す。死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル。
戒名大空放哉居士。
荻原井泉水による「尾崎放哉追悼文」を掲載しています。「入庵雑記」と共にご参照ください。

放哉遺文 無量寿仏
 (※編者注 本文は、鳥取の「湖の会」編集になる放哉追悼文集「春の烟」に初めて紹介された。放哉の宗教観なり精神世界を知る上に重要と思われたので採録した。これは尾崎家の文函から発見されたもので、便箋六枚に記されてある。放哉が朝鮮火災を辞めて満州に渡り、長春で病んで居た時、妻・薫に口述筆記させたものだろうとの事である。何かまとまったったものにするつもリだったらしく、冒頭に序文と記されてあるが、原稿はこれだけで中絶してゐる。)

 自分が今死ねば一寸、尾崎家の血統がたえる形になる。それでふと思ひ付たのは、自分の最も幼なかつた時の、いろいろの断続的の記憶を本として、自分の生ひ立ちと、周囲の様々の出来事を、たんねんに書き留て置く事は最も必要だといふ事に気が付いたため、早速筆を取る事にする。

 記憶をたどりたどり書く事だから、ドンナ物が出来るか、自分でも分らん。一つ云はねばならぬ事がある.長春に来て四、五日すると左側肋膜炎になって床に付く事に成った。昨年の十月頃、京城でも一週間ほどやつたのだから、どうも気候の不順の処には自分の様な体は生活出来ないらしい。医者からは、絶対静養といふので、ひっくり返って天井を脱んで居る許り、腰の骨はいたし、なかなか楽しかない。そこで一言したいのは、昔から病気で寝ると大抵哲学上の本を読んだ。

 是は、明治三十九年、一高の寄宿舎に入いった以来実行して来た事で、西洋人の哲学書は、最近の物まで、残らず読んで見たけれども、例に依り浅薄、論ずるに足らず、何んとしても「老子」等の東洋哲学を研究し、喰み返すのが落ちである。

 処が大学を出、転々としてゐる内に、哲学では、とても救はれぬ事が分り、鎌倉の円覚寺に宗教によって安心を得様と、始めた「此お寺には、学生時代にも来た事がある」なぜ禅宗に依って安心を得ようとしたかといふに御承知の通り、禅宗は自力宗であって天上天下唯一人貴しとし、自分がすなはちシャカである。自分がすなはちアミダであると云ふ男らしい大信念に共鳴したのであったが、禅宗のお経本を色々読んだリ見たり、公案を考へたりして居る内に、禅宗に依って安心立命を得るといふ事は、非常に困難な事であると云ふ事が分って来た。

 自分、すなはち仏なり云ふ事の安定を得る事は、凡夫としてなかなかむつかしいといふ事が分って来た。自分は非常に迷った。ここにおいて、自分は改めて、自分の無き内に、佐々木清呂氏に敬意を表したいと思ふ.内に対してはしばしば其法語に接し、今回、どうやら浄土宗一方を信心して、それのみにて渡世を送る気になリたる点において、右申せし如く、一時全く途方に暮れたる形なリしもたまたま佐々木氏の著「極楽より帰リて」及「親鸞研究並に真宗研究」等の著書を見るに及び、翻然として、自力宗より、浄土の他力宗に転ずる事になれリ。理由は簡単にして、我々凡人にては、到底安心立命出釆ざるが故に非常なる難業、苦業の結果、悟リを開き人すなはち仏の恩にすがリて、安心立命さして貰ふのなリ。されば、仏の残し給ひし教への経本をよく守り、煩悩を抑へ、仏に懺悔し、仏の救に、二六時中身をまかす。我身を一任する事なリ。

 斯くの如き簡単なる安心立命の方法が、なぜ今迄気が付かなかったといふのは、一は哲学研究にふけリしため、二は自力宗に依つて安心せんとする我執ありしが為なり。  然も最後の念仏、信仰については、此度病気伏床中の収穫なリ。病、宣に感謝せざるべけんや、そも南無阿弥陀仏とは、印度語にして之れを訳すれば、帰命無量寿仏となり、すなはち、我命は帰する故、常に預ける、誰に預けるかといへば、無量寿仏、すなはち、其の仏の教へのままに暮して行けば、すなはち今世も、後世も安楽なので有ります。さういふ偉いお方で有から褒める言葉もない位だ。

 けれども、毎日何事をするにつけても、我身の命を預けて下さる仏を、尊敬するため帰命無量寿仏、すなはち南無阿弥陀仏と唱へるのは、当然の事であります。否、此念仏のいへない人は、信仰がまだ不十分なので有ります。人が美しい花を見たときにああ綺麗だといふのは、念仏であります。念仏は必然的に出て来るものであります。自分は三十九歳になリ、妻は三十一歳になって居ます。これから、此念仏生活を死するまでの目的とする考で有ます。以上に止めて置きまして、最も古い記憶から、周囲の歴史を喚起して見ませう。


放哉傑作俳句集
はじめに
 数多くの放哉俳句の中から傑作を選んでみました。すべての選は編者の独断であるが了承していただきたい。漂泊の俳人に相応しく、流浪変転の始まりである一燈園時代からの作品より選んだ。
(※編者注 以下は放哉の足跡と共に彼の心象風景をを想到しながらご覧頂ければ幸いです。)
なお、俳句については俳誌「層雲」未発表句2700句余が発見されたが、放哉研究家小山貴子氏によってまとめられたものも掲載しています。つぎのページ[尾崎放哉未発表句]を参照してください。
一燈園時代 大正十二年十一月〜十三年三月
放哉は朝鮮火災海上保険をやめ一時当時の満州に身を寄せて居たが彼の地で病を得て、おりから勃発した関東大震災の報を聞き大正12年10月に帰国した。妻馨とも別れ放哉はすべてを捨てて無一物となり大正12年11月23日西田天香の主宰する一燈園に身を投じた。
一燈園は、西田天香によって明治末期に創設された修養団体で、無所有、無報酬の労働生活を基本としている。これを下座奉公という。放哉在園当時は京都東山鹿が谷にあったが、昭和の初めに現在の地山科に移された。
一燈園時代の放哉は研究者によって様々の事が明らかになっています。なかでも具体的かつ詳細な論究として一燈園研究家中村武生氏の「西田天香と一燈園生活期の尾崎放哉」があります。この論究からも明らかのように西田天香は、当時頻発していた労働争議、小作争議の調停に奔走していました。放哉も西田天香と共に舞鶴海軍工廠に赴きました。放哉友の会会員井上康好氏が、これを題材に「小説 暗の底握りつめ」に記しています。
病み上がりの放哉は、肉体労働中心の一燈園の托鉢修行に耐えられず、また西田天香のあり方にも疑問を感じ、幾ばくもなく一燈園を離れ13年3月頃知恩院搭頭常称院の住込みの寺男になります。一月あまり後、俳句の師である荻原井泉水(12年の末ころより京都東山に寓居していた)と再会し、小宴を持ったがその夜、生来の酒癖の悪さから住職の感情を害し、寺を出ることになった。
一燈園の建物
放哉在園当時の建物
移設されて山科にある 香創院
山科の一燈園内の香創院
西田天香の記念館である

一燈園時代の作品
ホツリホツリ闇に浸りて帰り来る人々
牛の眼なつかしく堤の夕の行きずり
つくづく淋しい我が影よ動かして見る
ねそべって書いて居る手紙を鶏に覗かれる
皆働きに出てしまひ障子あけた侭の家
落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事
月夜戻りて長い手紙を書き出す
落ち葉掃き居る人の後ろの往来を知らず
流る風に押され行き海に出る
静かなるかげを動かし客に茶をつぐ
夕日の中へ力いっぱい馬を追ひかける
花あはただしさの古き橋かかれり
砂浜ヒョコリと人らしいもの出てくる
昼めし云ひに来て竹薮にわれを見透かす
山水ちろろ茶碗真白く洗ひ去る

須磨寺時代 大正十三年六月〜十四年三月
常称院を出た放哉は二ヶ月余り後、一燈園の友人住田蓮車の尽力により須磨寺大師堂の堂守となる。この頃より再び「層雲」誌上に放哉の俳句が掲載され始めました。
一方、井泉水は関東大震災の後、妻子、母を相次いで失い13年5月にその供養のため小豆島八十八所遍路巡礼を行う。その際同行したのが小豆島在住の「層雲」同人井上一二(文八郎)と西光寺住職杉本宥玄です。
さて須磨寺に移り、かねてから念願の「独居無言の生活」の場を得た放哉は、才能をいよいよ輝かし始めました。井泉水が「放哉君の近作は注意すべきものがある」と褒めたのがこの頃です。
須磨寺は西日本では名刹として知られ常に参拝者であふれています。井泉水筆による
こんなよい月を一人で見て寝る
の句碑が本堂に向かって左側大師堂との中程にあります。放哉句以外に芭蕉、蕪村、一茶、子規、良寛の句碑もある。右の写真はこの大師堂の前で写された放浪時代唯一のものと言われています。
いくばくかの静謐の生活を得た放哉であったが、ここも安住の地とはならず、寺の僧侶たちの紛争に巻き込まれ、又も寺を追われる身となるのである。
須磨寺大師堂
須磨寺大師堂

大師堂前の放哉
大師堂前に立つ放哉

須磨寺時代の作品
一日物云はず蝶の影さす
雨の傘たてかけておみくじをひく
お地蔵様に灯をともす秋の花ばかり
たった一人になり切って夕空
高浪うちかへす砂浜に一人を投げ出す
宝物拝観五銭と大書している
何も忘れた気で夏帽をかぶって
潮満ち切ってなくはひぐらし
むっつり木槿が咲く夕べ他人の家にもどる
銅銭ばかりかぞへて夕べ事足りて居る
夕べひょいと出た一本足の雀よ
人をそしる心をすて豆の皮むく
仏にひまをもらって洗濯している
こんなよい月を一人で見て寝る
底がぬけた杓で水を呑もうとした
なんにもない机の引き出しをあけてみる
犬よちぎれるほど尾をふってくれる
尻からげして葱ぬいている
色鉛筆の青いいろをひっそりけづって居る
にくい顔思い出し石ころをける
漬物桶に塩振ふれと母は産んだか
大空のました帽子かぶらず
吸取紙が字を吸い取らぬようになった
いつまでも忘れられたままで黒い蝙蝠傘
人殺しありし夜の水の流るるさま

小浜常高寺時代 大正十四年五月〜十四年七月
須磨寺を出た放哉は再び一燈園に舞い戻っていたが、縁有って福井県小浜常高寺の寺男になる。この寺は破産状態で末寺から排斥されていた住職の代わりに借金の弁疏係りをしていたらしいが、当然ここにも長居の出来ない放哉はわずか二ヶ月あまりで京都に帰らざるを得なくなるのである。
再び荻原井泉水の寓居に身を寄せた放哉は、かねて一燈園の同人を頼って遠く台湾に行くことを決意していたが、井泉水に堅く静止された。もはや放哉はどこか海の見える暖かい所で死にたいと願うばかりなのである。
井泉水は放哉の願いを適えようと、八十八所も庵や寺がある小豆島ならどこか適当なところがあると考え、井上一二に依頼するのである。
(※編者注) 井上一二に宛てた放哉の手紙が記念館に展示してあります。
小浜常高寺
小浜常高寺山門手前は山陰本線

小浜常高寺は織田信長の妹お市の方の次女お初(京極高次の妻となり、常高院となる)が建立したお寺です。

小浜常高寺時代の作品
背を汽車通る草ひく顔をあげず
時計が動いている寺の荒れている
田舎の小さな新聞をすぐに読んでしまった
浪音淋しく三味やめさせている
遠くへ返事して朝の味噌を擂っている
豆を煮つめる自分の一日だった
とかげの美しい色がある廃庭
母のない児の父であったよ
淋しいからだから爪がのび出す
一本のからかさを貸してしまった
小芋ころころはかりをよくしてくれる
蛙たくさんなかせ灯を消して寝る
釘箱の釘がみんな曲っている
お寺の灯遠くて淋しがられる
かぎりなく蟻が出てくる穴の音なく
一人分の米白々と洗ひあげたる
頭をそって帰る青梅たくさん落ちてる
たまらなく笑いこける若い声よ
山寺灯されて見て通る
昼寝の足のうらが見えている訪なう
打ち水落ちつく馬の長い顔だ

小豆島・南郷庵時代 大正十四年八月〜十五年四月
南郷庵は、当地の素封家であり「層雲」同人井上一二、西光寺住職杉本宥玄の世話により放哉がようやく念願の安住の地を得ることの出来た所です。
放哉は井泉水と別れ京都を8月12日に発ち、翌13日に小豆島に来る。その足跡及び来島時の様子は放哉友の会会員井上康好氏が「足跡」で詳細に論究しています。
いよいよ放哉は西光寺奥の院南郷庵に8月20日に入庵するわけですが、当時西光寺の小僧であった故石井玄妙師が師の杉本宥玄に言い付かって放哉を南郷庵まで案内した時のことを回想して文を書いています。「せきをしてもひとり
南郷庵の様子は放哉自身に語ってもらいましょう。
(※編者注 放哉自筆「入庵雑記」より引用)
 「この度仏恩によりまして、この庵の留守番に座らせてもらうことになりました。庵は南郷庵「みなんごあん」と申します。も少しく詳しく申せば王子山蓮華院西光寺奥の院南郷庵であります。・・この庵は番外であります。既に奥の院と言い番外と申す以上所謂、庵らしい庵であります。
 庵は六畳の間にお大師さまをまつりまして次の八畳が、居間なり、応接間なり、食堂であり、寝室であるのです。庵は西南に向かって開いております。庭先には、二抱へもあらうかと思われるほどの大松が一本・・・」

しばし静謐の時を得た放哉であったが、10月20日はじめて近所の木下医師に診察して貰ったところ「左肋膜癒着」の症状を呈していた。翌年2月「湿性肋膜炎、癒着に来る肺結核・合併症湿性咽喉加答児(カタル)」と宣告される。肺結核はさらに進み4月7日近所の主婦南堀シゲに看取られ永眠する。戒名は「大空放哉居士」

放哉入居当時の南郷庵
放哉在庵当時の南郷庵 土庄の絵図
小豆島土庄の絵図 木下医院に通じる路地
木下医院に通じる路地

この石塀は当時のままであり、これが尽きた角を左に曲がったあたりに木下医院があった。西光寺門前から一分足らず、南郷庵からも五分程度です。

小豆島の放哉
 日本人は放浪の詩人が好きである。ふと夢を枯れ野に駆け巡らしているかのようである。ここに改めて一人の放浪の俳人を紹介したい。ここ小豆島が易簀の地となった尾崎放哉である。
 大正時代に自由律の俳句雑誌が創刊された。荻原井泉水主催の「層雲」である。そして層雲から自由なる心の叫びを詠じた二人の俳人が輩出した。一人は種田山頭火であり、もう一人は尾崎放哉である。彼ら二人が在所定まらぬ放浪の身であったことは決して偶然とは思えない。しかし二人の間でその放浪のもつ意味は大いに違っている。山頭火は自ら求めて行乞放浪をし、放哉は傷ついた獣が安住の場所を求めるように各所を漂ったのである。そして最後の安住の地が、ここ小豆島第五十八番札所西光寺奥の院「南郷庵 みなんごあん」だったというわけである。

 これでもう外に動かないでも死なれる 放哉

 小豆島にはもう一つ二十四の瞳館という文学記念館がある。勿論、壷井栄の文学館である。栄の名作「二十四の瞳」は昭和三十年に映画化され大ヒット、この島を一躍全国的に有名にした。栄と夫であり詩人の壷井繁治、またプロレタリア文学作家の黒島伝二ら、小豆島から輩出した三人の文学者達は、山頭火、放哉と同時代の人達である。

 彼ら三人は島の西部、内海地区の出身である。壷井繁治はしばしば人から、同時期に三人もの作家が、この狭い地域から輩出した何か特別の文学的伝統でもあるのか、と質問されることがあったらしい。繁治は後に「わたしと小豆島」と題するエッセイで次のように書いている。  「ここに特別の理由や背景なぞないだろう。もしあるとすれば、思い当たることは、時代の波というものではなかったのか、激動の時代、旧社会に反抗する青年達がその時代の波涛に乗って、この狭く小さな島から文学の広大な世界に飛び出して行ったのだと思う。所詮郷土というものは若者をいれるにはあまりにも小さな容器であり、小豆島もその例外ではなかった」と。

 もしそうだとすれば時代の波が、この小さな島の青年達を大きな広い世界に押し出し、放哉をこの島のごく小さな世界に押し込めたのではなかったのか。壷井繁治が言うように、この島には文学的伝統も背景もない。しかし文化の匂いのする伝統は宗教的な所に確実に存在する。八十八箇所巡礼、お遍路さんの島である。

 折しも大正末期の激動の時代、アイデンティティを見失おうとした人達のある部分は、それを宗教の世界に求めていった。放哉や井泉水がそれである。

 放哉は一燈園で托鉢修行に身を投じたが、荻原井泉水は、関東大震災直後家族を相次いで失い、傷心の身の癒しを宗教に求めて行った。そのとき小豆島に来島「層雲」同人井上一二、西光寺住職杉本宥玄「玄々子」らと共に八十八箇所巡礼を行う。その仏縁から放哉は来島、井上杉本両人の世話を受けつつ、「南郷庵」でその生を終えたのは決して偶然の出来事ではない。

南郷庵時代の作品
眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る
西瓜の青さごろごろとみて庵に入る
町の盆燈ろうたくさん見て船に乗る
島の小娘にお給仕されている
漬物石になりすましは墓のかけである
すばらしい乳房だ蚊が居る
足のうら洗へば白くなる
海が少し見える小さい窓一つもつ
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
井戸のほとりがぬれて居る夕風
自分をなくしてしまって探して居る
一日風ふく松よお遍路の鈴が来る
白々あけて来る生きていた
蜥蜴の切れた尾がはねている太陽
木槿一日うなづいて居て暮れた
道をおしえてくれる煙管から煙が出ている
朝靄豚が出て来る人が出て来る
迷って来たまんまの犬で居る
夕靄溜まらせて塩浜人居る
障子あけて置く海も暮れ来る
大晦日暮れた掛け取りも来てくれぬ
元日の灯の家内中の顔がある
風にふかれ信心申して居る
淋しい寝る本がない
雀等いちどきにいんでしまった
いれものがない両手でうける
つきたての餅をもらって庵主であった
夜中の天井が落ちてこなんだ
お金ほしそうな顔して寒ン空
咳をしても一人
麦がすっかり蒔かれた庵のぐるり
ゆうべ底がぬけた柄杓で朝
庵の障子あけて小ざかな買ってる
とっぷり暮れて足を洗って居る
雀が背伸びして覗く庵だよ
これでもう外に動かないでも死なれる
いつも松風を屋根の上にいてねる
身近く夜更けのペンを置く
月夜の葦が折れとる
墓のうらに廻る
夜釣りからあけてもどった小さい舟だ
枯れ枝ほきほき折るによし
貧乏して植木鉢並べている
仕事探して歩く町中歩く人ばかり
いつも机の下の一本足である
手の指のほねがやせ出したよ
肉がやせてくる太い骨である
やせたからだを窓に置きむせている
すっかり病人になって柳の糸が吹かれる
春の山のうしろから烟が出だした

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「放哉」南郷庵友の会
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