| 火 上 山 | 弥生から戦国期にわたり,武士団が終始この山から烽火を上げて軍事情報を伝えていたために名付けられたという 烽火は仁尾,麻,貴峰,雨霧の各城からも相互に遠望でき,重要な情報発信設備であったことが理解できるし,山麓は鳥坂峠であることから付近一帯が軍事・交通の要とされていた 一方,明治初期においては全山ハゲ山であって,夏の干魃期には竜宮に火を捧げるため,附近全戸から松明を携えこの山に登り,雨乞い祈祷をしたことからこの名前が付いたともいう |
| 頸 懸 神 社 | 戦国時代,長曽我部元親が讃岐に攻め入り,雨霧城を攻めるとて,山麓近くにある丸山(聖天山)附近に迫るに至り,これを越えんとしたが,山頂に聖天神社があったため,家来が仰向くことができず,侵攻がままならなくなった 元親は,これは聖天祠の祟りであると考え,大工を呼び一夜のうちに祠を山麓に移し奉るとようやく攻め入ることができたという これよりこの神社を頸懸神社と呼ぶようになった |
| 弥谷の大蛇 | 弥谷寺本堂の下に弘法大師の水場があり,年中水の絶えないことで有名であるが,その横に大きな洞窟がある これが大蛇の住んでいたところと謂われ,洞窟の奥は久保谷近くの皿池に抜けているとも伝えられている 里人が仁王門近くの谷で大蛇に出会い,驚いて住職に伝えると早速お経をあげてくれたので大蛇はどこともなく消え去ったという また,水場から東方へ雨霧山の方向へ進むと左の山腹に鎮守堂(正式には鎮守権現堂 通称蛇権現堂)があり,中には小蛇が波立つように住みついているとも伝わる |
| は ら い 川 | 原集落南西にある火葬場附近をはらい川と呼ぶが,昔はこの辺りまで海が迫っており,川が入り江となって流れ込んでいたという そして,ここは罪人などを処刑したところで陰惨な場所でもあったようで,現在においても火葬場跡と墓地があるのみである |
| 火上山のけん星 | 古くから火上山山頂に異様な星が光り輝くのは,騒動の元と伝えられ,茜屋騒動のときにも光り輝いたという |
| 賽の河原 | 弥谷寺仁王門(正式には二天門)を潜り,金剛菩薩像の建つ場所までの参道一帯を賽の河原という この参道の西側を流れている谷川が潅頂川(かんじょうがわ),菩薩像の前でこの川を渡る橋が法雲橋(ほううんきょう)である 弥谷寺は死霊の集まる寺であるが,集まる霊は大人だけでなく,子供から幼児はもちろん嬰児までもが菩薩様の周囲に集まり「父恋し,母恋し」と泣きながら探し彷徨うのだという そして菩薩様から河原の石を高く積み重ねると願いが叶うと教えられ,この谷川沿いの河原に集まり「一つ積んでは父のため,二つ積んでは母のため」と唱えながら石ころを積み始めるのであるが,何個か積むと,決まって地獄の鬼が出てきて積み石を崩してしまい,いつまでも願いが叶わないのだという その為か,今も行くたびに無数に積み重ねられた石積みの数と段数が何時も異なっている |
| 天霧(尼斬)城 | 天霧城は天然の要害と称され,難攻不落の山城であるが,少雨という讃岐独特の気候と山上であるという地形から,山中の至る所に堀を巡らせ井を穿ち,天雨を溜め,家臣一同日頃から節水に心がけていたという 時は天正6年(1578),長宗我部元親の讃岐侵攻のおり,天霧城に攻め掛かったものの,何度攻めても全く効果がなく,神仏の祟りもあって攻める兵士の疲弊も相当なものになったことから,水攻めを考え,山裾一帯を兵に包囲させ,一滴の水も山上に運ばせないように厳重な警戒を命じた 水攻めが20日を越した頃,ついに山頂の井戸も底をつき,籠城の者一同が草木を絞った汁で飢えを凌ぐに至った 30日が過ぎ,そろそろ城から降伏の合図があるのではないかと,包囲軍が城を見上げていると,何と郭下の崖には水が滝のように流れ落ちているのが見え,物見の者によると,その滝壺では朝な夕なに馬を洗っているとのことであった このため長宗我部軍は包囲攻略を諦め,陣を引き揚げようとしていた丁度その時,雑兵が里人に水を所望している尼を捕らえ,引き立てて来た 大将の詰問に,尼は「滝の如く見えるも,実は米を流して水のように見せかけているだけ,城内の水は既に一滴もなし,私は城の尼なれど,渇きに絶えかねて城を抜け出て来た」と事態の有様をつぶさに告げてしまった これを聞いた長宗我部は尼に水と粥を与えて解き放ってやるとともに,直ちに陣を戻し,今まで以上に厳しく包囲を続けた,三日後になって,ついに城は城門を開き,和睦の道を求めたという 後日,この話を聞いた城の家老は,血眼で尼を捜し出し,直ちに首を刎ねたことからこの城を別名「尼斬城」と呼ぶようになった この伝説は,天正6年の長宗我部の讃岐侵攻時のものとして伝えられ,「日本城郭大系」においても支持されているが,史実的にはこの年に籠城戦の事実はなく,このモデルとなった籠城は永禄6年(1563)に阿波三好氏が侵攻して来た時のものと考えるのが相当であろう |
伝 説