有形文化
| 建造物 | 仁 王 門 | 室町時代 | 弥谷寺山門(二天門) |
| 客 殿 | 桃山時代 | 弥谷寺(滅失) | |
| 多 宝 塔 | 文政時代 | 弥谷寺大師堂東にある二層二重の塔 | |
| 護 摩 堂 (県史跡) |
鎌倉時代 | 弥谷寺鐘楼から本堂への階段を上った正面にある洞窟を利用したお堂 堂内には鎌倉時代初期に高野山の紛争責任を取らされ,讃岐に配流された僧「道範」の石像が安置されている |
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| 水 場 (県史跡) |
弥谷寺護摩堂と磨崖仏の間の岩場(求聞持窟,納骨堂ともいう) どんな渇水時にも水が枯れたことが無く,常に岩の間から真水が湧出している神秘的な場所 かつて天霧城の水場でもあったと言われるが,弥谷参りおいて卒塔婆の経木供養がおこなわれる 洞窟は久保谷皿池付近に通じているという |
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| 碑 | 花 立 碑 | 鳥坂峠の南西約500mの旧伊予街道(南海道)傍に建つ高さ約2m花崗岩製の献花用の石碑であり,弥谷寺本堂に対座している 安永年間,里長の大井助左衛門唯義が建立したもので,表には「花立碑」の文字が穿たれ,横・裏には次のような謂われが刻まれている 【 讃州三野郡有山曰釼五寺称弥谷観音之名区也、行基菩薩草創之弘法大師 修飾之神秀奇異甲於南北、山下村曰大見村中之大道曰鳥坂、海南駅路也 路傍距山二里、而数歩名花立、至斯仰止則、闔山仏閣神祠輪鳥奐馬、不 違顔咫尺、古老伝言、行人挿花千瓶遙向山上致敬而去、所以有此称未詳 何人経世代、久遠、・・・・・】 意読すると 【 讃岐の三野の郷に剣五弥谷という千手観音で名高い寺のある山がある そこは行基菩薩が開き,弘法大師が修行をしたという近郷に珍しい神聖な所であるが, その山裾の大見村を抜けている南海道という街道の途中に鳥坂という駅場がある そこは弥谷山からほぼ二里の位置であり,その道端から少し入ったところに花立と称する 場所がある その側に暫し佇み,弥谷山を仰ぎ見ると,鳥が舞い,馬が嘶く辺りに人の顔までは定か でないが,仏閣・仏塔の屋根が遠望できるであろう かつて街道を行く旅人は,誰しも此処を通りかかると数え切れないほどの四季折々の花を 手向け,遙か向こうの山に向かって合掌礼拝して敬っていたのだと古老から聞いているが, それがいつの時代に始まり,誰がどうして始めたことなのか,もう遠い昔のことなので詳しい ことはよく分からない】 というところであろうか 今もなお,この碑の前に立つと眼前に弥谷山を仰ぎ見ることができ,その中腹に点在する寺の甍が陽光に輝き,碑の前には季節の花が手向けられ行き交う人の合掌遙拝する姿も目にすることができる |
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| 墓 石 | 天霧城主 墳 墓 (町史跡) |
桃山時代 | 香川氏は南北朝時代に讃岐の守護である細川氏について讃岐に入り,奈良時代以降を西讃の守護代として勢力を伸ばし,天霧城を牙城に三好氏侵攻,長宗我部氏侵攻をくぐり抜け,秀吉の四国侵攻で落城するまで代々にわたって西讃を支配した人物 古来,弥谷寺本堂付近には香川氏縁の墓が数多くあると伝えられてきたが,草深く樹木に被われたままであったのを昭和59年,当時の住職が現在の場所(鐘楼横)に収集されたもので,高さ50p程度の凝灰岩質の五輪塔等40基程が認められる |
| 讃岐領主 生駒一正の石塔 |
江戸時代 | 弥谷寺本堂下にあり,高さ3m余りの五輪塔で境内最大級 石塔の文字は風化摩滅のため判読できないが「金比羅参詣名所図絵」には生駒一正の石塔であると記され,「多度津公御領分寺社縁起」によると(生駒一正公御石塔一基法名玉竜院殿安岫崇泰大居士慶長十五庚三月十八日是は水洞之左辺に御建立)とあり,1611年に現在地である水場近くに建てたことが分かる 生駒一正は生駒親正の子に当たり,慶長時代の讃岐の国領主であるが墓所は高松市法泉寺である |
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| 丸亀城主 山崎氏の墓石 |
江戸時代 | 丸亀二代藩主山崎俊家及び祖母並びに縁者の墓石(上から順に空・風火・水・地と彫字された五輪塔)が弥谷寺本堂西の白土塀に囲まれた一画にある 「多度津公領分寺社縁起」によると,この墓石は当初山崎家の菩提寺である竜徳院に建てられていたのであるが,三代藩主治頼が八歳で早逝し,嗣子がなかったためたため,御家断絶・除封となり,俊家の弟豊治が備中で再考したのに合わせ,竜徳院も移転したため,この三基の墓石が俊家の親しく参詣・寄進していた弥谷寺に移設されたもの |
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| 絵 画 | 絹本 着色地蔵曼荼羅 |
一幅 弥谷寺所蔵 |
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| 不動二童子 | 智証作 三幅対 弥谷寺所蔵 |
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| 山水図屏風 | 江戸時代 | 山岳と老松,水面に浮かぶ船が描かれた山水画,三曲3双の金箔墨書屏風 狩野派の絵師による江戸後期の作 縦155p・横370p 弥谷寺所蔵 |
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| 十二天屏風 | 毘沙門天,帝釈天など十二天部の墨版画図1双の屏風 縦133p・横54p 弥谷寺所蔵 |
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| 古 写 経 | 天平時代 | 弥谷寺には讃岐の古刹にふさわしく種々の文化財が残されているが,中でも珍しいのが「仏説観音三昧海経」と「大方広仏華厳経」 前者は天平時代に書かれており,仏を観たり念じる方法が一行17字でしたためられている 後者は南北朝時代に書かれ,聖武天皇の后が父藤原不比等,母橘三千代の菩提のためしたためたものらしく,いずれも極めて貴重な巻教典と言え,巻物の伝来は定かでないが,いずれの巻物も見返しが付けられ,重厚な漆塗りの箱に収められている |
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| 絹本 著色不動明王 三童子図 |
倶利伽藍(くりから)龍がからみつく剣を持った不動明王を中心に矜羯羅(こんがら)童子,制?迦(せいたか)童子,蓮華(れんげ)童子が描かれた図案は珍しく,また明王の切金文様の着衣などから南北朝時代の作と考えられている 縦約115p,幅約58p 弥谷寺所蔵 |
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| 絹本 着色地蔵十王図 |
右手に宝珠を持ち,蓮台に半跏(片足を垂らした胡座)した地蔵菩薩の前に合掌した姿の道明和尚と無毒鬼王が,左右には閻魔大王など冥界の十王が描かれている 図下段には「嘉靖廿五年丙午春画」と記されていることから1546年に李朝時代の朝鮮で書かれたものと推定できる 縦約136p,幅約128p 弥谷寺所蔵 |
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| 書 簡 | 大淀三千風書簡 | 大淀三千風(おおよどみちかぜ)は江戸時代前期の俳人 本名を三井友翁といい,伊勢の国の住人で日々三千句を詠むことができたことから俳号を三千風とした 芭蕉と同様,旅を好み,全国の名勝旧跡を尋ねて名句を残したという 弥谷には貞享2年(1686)と元禄12年(1699)のそれぞれ暮秋に訪れているが,その元禄時の書簡が一通残されており,その文中に「弥谷の岩根枕に契置きし 月やむかしとめぐりあいぬる 東往居士三千風」と認めている 弥谷寺所蔵 |
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| 彫 刻 | 道範あじゃり | 弥谷寺水場横の求聞持窟(納骨堂)中に安置されている石座像 弥谷寺所蔵 |
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| 磨 崖 仏 (県史跡) |
弥谷寺護摩堂から本堂に至る北岩壁を見上げた位置に阿弥陀三尊像とその左に南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれている 何れも鎌倉時代後期に彫られたもので,風化摩滅が激しいが,江戸時代前期に書かれた「四国遍路日記」には「石面に阿弥陀の三尊,脇に六字の名号を三くだり宛六つ彫付け玉えり,九品の心持ちなり」とある |
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| 仏 像 | 深沙大将像 | 平安時代 | 「金比羅参詣名勝図絵」によると弥谷寺鎮守堂内に蔵王権現が安置されているとあるが,実在するのは深沙大将である 深沙大将とは昔玄奘三蔵が仏典を求めて中国からインドへ行ったおり砂漠の中で難儀している三蔵を救った武将だと言われている 大きく口を開け,大きく開いた両目を吊り上げ,逆立った髪の間からは7匹の蛇が頭をもたげ,開いた左手を前に,右手を右肩の横にして岩に腰掛け,手首足首には蛇を巻き付き,両膝が象の顔をして,首には髑髏の首飾りを被っていかにも周囲を威嚇する雰囲気である このことから古来地元の人はこの像を「蛇権現(じゃごげん)さん」と呼んでおり,古老によると像の周りには白蛇が数多く住んでおり,堂の周囲には大蛇が守護していたと言う 像高約140pの檜の寄せ木造りで,彫眼が施されており,平安時代中期の作と考えられているが,全国で数体ある深沙大将像は全て立像であり,座像は本像のみという珍しい像である |
| 吉祥天立像 | 平安時代 | 高さ約59pの一木作りであるが,面は再彫してある 弥谷寺所蔵 |
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| 鉄 造 不動明王立像 毘沙門天立像 |
江戸時代 | 弥谷寺の本尊である千手観音立像が安置されていた厨子の左右の扉に施された像であるが,現在は大師堂内に扉のみが保存されている 慶長5年4月河内の国広橋助忠作 不動明王 縦123p・横50p 毘沙門天 縦122p・横48p |
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| 金剛拳菩薩立像 | 江戸時代 | 弥谷寺境内参道の中腹に建てられた高さ6mの青銅製の菩薩立像で,地元民からは「かなぶつさん」と呼ばれている 台座や衣の裾に経文等が刻まれている寛政3年(1791)当時の住職が願主となり,文化8年(1811)に完成している |
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| 毘沙門天像 | 平安時代 | 宝城院は寺号を多門寺と言い,多聞とは多聞天のことで,別名を毘沙門天ともいう この毘沙門天は高さ約79pの栢の一木造り彫眼の直立像で,右手に載「げき」(欠失),左手に宝塔(後補)を持っている 姿形や宝冠が共木でこしらえているなど古代的な作風から平安後期の作品と思われ,同院の本尊である |
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| 地蔵菩薩立像 | 江戸時代 | 高さ約95pの一木作り 宝城院所蔵 | |
| 地蔵菩薩半跏像 | 江戸時代 | 神仏混淆時代津島神社に祀られていた 高さ42p 宝城院所蔵 | |
| 阿弥陀如来立像 | 江戸時代 | 神仏混淆時代正八幡神社に祀られていた 高さ56p 宝城院所蔵 | |
| 愛染明王座像 | 江戸時代 | 神仏混淆時代河上神社に祀られていた 高さ13p 宝城院所蔵 | |
| 聖観音菩薩座像 | 江戸時代 | 神仏混淆時代日枝神社に祀られていた 高さ28p 宝城院所蔵 | |
| 釈迦誕生仏 | 白鳳時代 | 誕生と同時に7歩き,右手で天を,左手で地を指し「天上天下唯我独尊」と唱えたと言われるお釈迦様の姿を形取った像高約9pの褐^による銅製の鋳造像 両手の指がまっすぐに伸びていること,細身の体系であること等から白鳳期から天平時代の古代仏であるとされる 今も花祭りに用い,全身に甘茶を掛けて供養する仏像で,かつては鍍金が施されていたらしいが,出所など詳細については不明 所蔵する西福寺は大屋敷北西に位置する |
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| 釈迦如来像 | 平安時代 | 西福寺の本尊仏 座高53pの檜材の寄木造りで彫眼が施され,右手は中指をすこし折り曲げた「施無畏印」を示し中空に表し,左手は「与願印」を示して左膝上に開いた座像である 螺髪の頭部,ふくよかで柔和な表情,柔らかい曲線に包まれた優美な姿態等から平安時代後期の仏師「定朝」の作 |
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| 工芸品 | 金銅五鈷鈴 (重文) |
密教における法具として金剛鈴というものがあり,その握頂部の形状(先端の爪)の形(数)から五鈷鈴・三鈷鈴・独鈷鈴の三種がある この金剛鈴は爪が五つあることから五鈷鈴と呼ばれ,密教修法のとき振りならす金剛鈴のひとつで,柄が五鈷の形をしている鈴で,鋳銅製で鍍金をしてある 全高約19p,五鈷部は5p,鈴部は高さ7p,口径6p,厚さ0.5pで握部6pである 握り部は,その上端と下端に反花状に花弁を表出する 五鈷は,獣口から出て中程で曲がり,逆剃のある鋒(きつさき)4本を吹き出し,その先端を曲げて中央の1本と先をそろえている 中国唐時代後期のものであり,鈴部の側面には持国天,広目天,増長天多聞天の四天王が彫像されている 鈴の下端の横断面は八弁の花形で,そのうち四弁はやや凸出し,その間四弁はやや凹入して木瓜(もっこ)の形をなし,各凸面には四天王を凹面には三鈷杵を交互に鋳出し,上部肩の部分に花,各像と三鈷杵の間やその下部には雲形を鋳出している 弥谷寺の伝えでは,弘法大師が唐留学から持ち帰ったものとされ,類似品は全国的にも極めて少ない |
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| 金銅五鈷杵 | 密教の法具に鉄アレイの形に似た金剛杵というのがあるが,本来は古代インドの攻撃用武具であったが,仏教の発展と共に自己の煩悩を打ち砕き堅固な心を表する象徴として用いられるようになった 金剛杵には脇鈷(両端の爪)の形(数)から独鈷杵,三鈷杵,五鈷杵に分類でき,この爪が五つあるのを五鈷杵と呼ぶ この五鈷杵は鎌倉時代前期の作で,全長約18pの金銅製であるが,鍍金が摩滅し,黒ずんでいる 弥谷寺所蔵 |
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| 平形銅剣 | 弥谷寺の山号「剣五山」は弥谷山の岩陰から銅剣五本が出土したことに由来しているが,現存する剣は完全なものが3本(全長46p・巾6p)と破片1個(全長12p・巾5p)で,残り1本はまだ岩中にあるという 銅剣は,本来青銅器製武器という実用品として今から約2000年余り前の弥生前期に朝鮮半島から伝来したものであるが,弥生期を通して瀬戸内一帯で中細形,平細形として改造され,もっぱら国内では祭具として使用されたと思われる 当時の里人は,郷祭りの神事で使用した後,祭具を住居区域から離れたところに保管していた風習があったことから,この山中に埋蔵されていたものと推定できる 弥谷寺所蔵 |
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| 亀型位牌 | 江戸時代 | 体長42p・巾32pの亀(玄武)に背負われた位牌で全高約60pの大きい物であり,位牌表には梵字で「為三界万霊合識離苦得楽」,裏には「元禄三庚午 助九郎」と書かれていることから元禄三年の作と考えられる 亀に背負われた位牌は松島・瑞巌寺に一基現存するのみで全国的に極めて珍しいものである 宝城院所蔵 |
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| その他 | 人形芝居の 頭と衣装 (県文化) |
讃岐源之丞一座が人形芝居の公演に用いる人形の頭42個,人形の衣装40枚 人形の頭の中には初代天狗久をはじめ人形富,人形忠,天狗弁,大江順などの有名な人形師の銘入りの優品が多く,無名の頭にも佳作が少なくない 主なものとして 1 天狗弁作 三勝半七のお園の頭 忠臣蔵鷺坂伴内の頭 2 人形富作 壷坂霊験記の沢一の頭 人形富は天狗久や大江順の師匠で本名川島富五郎とい い御所人形の塗りを会得し美しい頭を作る 阿波の作者 3 大江順作 鳴門巡礼おつるの頭 大江順は明治42年頃大阪文楽の人形師として勤め, 明治45年死去 4 天狗久作頭 天狗久は文政5年生まれで明治18年に死去するまで 70年間に作った作品は非常に多く,人形富の弟子 5 人形忠作 菅原伝授手習鑑の松王丸の頭,一の谷熊谷の頭 人形衣裳の中には奉納年号の書き入れがあり,例えば太功記十段目の久吉の衣裳には「賀茂社丁卯文化四歳九月吉日讃仁保北若連中世話人今屋弥兵衛」と,熊谷の上下(かみしも)には「文政三庚辰九月吉日賀茂社奉納操十一号操連中」とか「天保二辛卯九月吉辰賀茂社奉納操、喜捨今津屋伝治、永喜屋安右衛門24号等と墨書のあることから明かに文化・文政・天保にかけて仁尾町の賀茂神社の衣裳であったものを三好源之丞が買い求めたものと思われるものが多い |
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| 獅 子 頭 | 頭には祭用の大型から飾用の小型まで五段階あり,唐獅子と猫(毛)獅子の二種類がある 瓦製の獅子頭型に和紙を張り重ね,張り子原型を作り,さらにゴフン塗の粉を塗り重ねた後,色漆を掛け,箔置き等を経て本漆を掛け,目ガラス,金具の取り付け,植毛,耳飾り,紐付けを経て完成させる 明治初年,初代丸岡造酒治が独学で作り出した伝統工芸で,現在三代目が受継中 |