第1若松丸沈没


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 日本軍は、9月28日から30日にかけて、コロンバンガラ島からの第一次転進作戦、10月2日夜第2次転進作戦をもって、コロンバンガラ島からの転進作戦を終了した。しかし一方連合軍は、既に、9月22日ダンピール海峡西岸アント岬に上陸しているのである。
 9月30日、大本営は、ラバウルの司令部に対し、「極力持久」を命じている。極力持久のその先は、「玉砕」に通じることは容易に推察できたが、ラバウルの司令部が後方移動を行えば、日本軍は総崩れになるおそれがつよかったからである。
 結局、大本営には、ラバウル撤収の計画はなく、ニューギニア(本島)方面の部隊は、戦局の急迫に伴い、撤退させていくことになるのである。
 連合軍は、10月12日二百数十機をもって昼間堂々とラバウルを空襲した。この昼間空襲はラバウルに対する鼎の軽重を問うものであり、日本軍の海軍基地航空部隊は、延べ約150機でこれを迎撃した。しかし、この迎撃は、日本軍反撃力の意外に低調なことを連合軍に知らせる結果に終わった。
 連合軍は、その後も連日にわたって、ラバウル等に空襲を反復している。
 第1若松丸は、昭和18年10月13日ラバウル在港中空爆により沈没、船員6名戦死。とされている。この記録は、12日の誤りなのか、12日に被弾し13日に沈没したものか、13日に小規模の空襲があったものか、そこら辺りの真偽は確かめる術もない。
 私は、12日に被弾し、13日に沈没したと考えることとした。
 とにもかくにも、この時、第1若松丸は沈没したが、八郎平は死ぬことはなかった、けれど入院する程度の怪我をしたことには間違いない。
 ハルキは、次のように述べている。
 「昭和18年11月の終わり頃、お父さんと一緒に船に乗って居った福岡の常岡という人が、お父さんからの手紙を持って伊方に来たことがある。そのお父さんの手紙には、怪我のことは書いてなかったが、常岡さんの話では、爆風に吹き飛ばされて海の中を泳いでいた。怪我で入院したが、私が帰るのに1ヶ月ほどもかかっているので、もう治っていると思う。と言っていた。」
 その時、常岡さんが持参した手紙は、次のような非常に簡単なものであった。

前略御免下され
 その後お変わり無く一同達者ですか。 小生も相変わらず元気です。
 今般、本船乗り組の常岡君 徴兵検査のため内地帰還と相成り、小生宅に立ち寄るようお願いして有る故、1泊休養さして、宜敷招待する様。
 帰宅の節には、右常岡君に酒1升並びに蜜柑を進呈されよ。
 暇の節、金刀比羅宮に礼拝に行き お札を受け御送付願います。
 何事にもご注意、達者で、9月3日信書拝受しました。
 親類御一同様に宜敷お伝え願います。

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