遺族代表追悼の辞

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遺族代表 河 田 節 子
 本日、ここ観音崎戦没船員の碑に、畏れ多くも、天皇皇后両陛下をお迎えして開催される、第三十回の追悼式にあたり、遺族代表として追悼のことばをのべさせていただく光栄に浴しましたことは、私の生涯をとおして忘れることのできない深い感銘であり、身のひきしまる思いでございます。
 毎年、新緑の五月、この地において六万二千余人の御霊の慰霊と鎮魂を祈って追悼式を執り行っていただくことは、私達遺族にとりまして誠に有り難く、関係各位の皆様のご努力にあらためて深く感謝申し上げます。
 かえり見ますれば、主人は、神戸高等商船学校を卒業、川崎汽船に入社し航海士として乗船勤務いたしておりましたが、戦争が次第に激しさを増してきた昭和十七年、結婚間もなく、私には行く先も告げられず徴用船に乗船し出航いたしました。
 私は、毎日毎日、主人の無事を祈る日々を過ごしましたが、出航以来六ヶ月目にペナン島から無事に勤務しているという便りをいただいたときは、嬉しさでいっぱいでした。
 主人の乗船した船は、ペナン島から帰国途中、トラック島付近で敵潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没しましたが、その時は幸いにも護衛艦に救助され、九死に一生を得て帰国し、主人と嬉しい再会をすることができました。
 その後主人は、海軍徴用船能代丸に乗船、昭和十九年四月、船団を組み、武器、弾薬を積載し護衛艦に守られ目的地トラック島に向け横浜港を出港しました。もうこのころになりますと、敵の潜水艦が思うままに日本商船を攻撃していたとのことでした。
 能代丸も出航から間もなく、小笠原諸島方面で潜水艦の攻撃をうけ沈没、昭和十九年四月二十六日、主人も船と運命をともにして二度と帰らぬ人となりました。
 戦後五十年が過ぎいまふりかえって想えば、これまで色々と苦労の多いこともありました。しかし、兄弟をはじめ多くの周囲の方々の心あたたまる思いやりに助けられ、元気で今日まで暮らして来ることが出来ました。
 父の顔も知らない息子も、母子家庭の中で入学、就職と色々ありましたが、今は五十歳を過ぎ、二人の娘に恵まれ、立派に社会人として成長しました。私もお陰様で健康にも恵まれ、今は息子夫婦と孫に囲まれ幸せな日々を送っております。これも、私達遺族に寄せられた。世の人々の善意とご支援があったればこそであり、改めて厚くお礼を申し上げます。
 一年に一度、ここ観音崎の碑の前に立って、遠い水平線の彼方を眺めながら私は、南海の海に散った主人のおもかげを思い出しております。
 また、追悼式に参列し、全国からお集まりの遺族の方々と、苦労話や思い出話をさせていただくのも、私の何よりの楽しみであります。私も年々老いていきますが、生ある限り、御霊の鎮魂と平和への祈りを続けていきます。

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