入野松原の存亡
大方町入野海岸を彩る入野松原は大方町が天下に誇る名勝である。
入野松原は元来大潟の海中に出来た砂洲の上に,自然生の松が萌えそれが成長して松原になったものである。

その砂洲の内側の潟が,入野氏の代々の干拓事業によって美田となり,室町初期にはほぼ現在に近い入野平野ができ,砂洲は砂丘となり,砂丘の松は松原としての景観を見せるようになった。

天正3年の渡川の戦で一条兼定を破り,幡多全域をを手中に収めた長宗我部元親は宿毛から渭南回りに足摺岬を経て下田に出,海岸沿いに入野の浜に来て休息している。

その時,入野松原野のすばらしい景観を「土佐物語」の中で元親は

 誠に無双の景地かな。心あらん人に見せばやといひし難破わたりにもおとるまじけれど,あまざかる鄙なれば知る人もなく,名所の数に入らず。夜の錦なり。

と嘆賞している。

入野松原を語るとき,「谷忠兵衛忠澄」植樹の入野松原という記述が見られる場合があるが,
これは1928年(昭和3年)内務省が昭和3年2月17日「名勝入野松原」を指定したときの由来伝説の中に「天正中長宗我部元親の重臣谷忠兵衛忠澄が中村城代であった時,1576〜1580年に罪人に課して植しめたものと伝う」という起源によるものである。

しかし,前述したように「土佐物語」から推すれば,谷忠兵衛忠澄植樹説は補植説の間違いであろうということになっている。

忠兵衛が植えたとするのは,松原の両翼,蛎瀬川と吹上川の河口に広がっていた砂浜に植樹したのではないかと思われる。

忠兵衛は慶長5年11月7日中村で死亡し,中村の正福寺に葬られた。明治になって旧正福寺の境内に中村区裁判所が建てられ,その改築が昭和53年に行われた際,彼の墓地がその敷地内に取り入れられ,改葬しなければならなくなった。

忠兵衛の末裔で佐川町在住の谷俊宏氏の希望で,忠澄ともっとも縁の深い入野松原の長泉寺の境内に改葬され,いま彼は長泉寺の大銀杏の陰で静かに眠っている

忠澄の墓が長泉寺境内に改葬された昭和53年の秋,大方町と大方町観光協会協同で,入野松原を今日あらしめた捕植造成の先覚者忠澄の彰徳碑を,近代において松原野造成と擁護に尽力された宮川竹馬・堀内雍喜両氏の既設の頌徳碑に並べて,松原中央から浜へ出る広場の一隅に建立した。碑面の文字は高知県知事中内力氏の揮毫である。

営林署管轄の松原とは別に,その外側に通称小松原と呼ばれている下浜松原がある。
昭和9年ごろ,早咲出身の実業家宮川竹馬氏(当時東邦電力株式会社重役,戦後四国電力株式会社社長)の物心両面の援助により,高知県の海岸防潮林造成事業として第1期8年間,戦後第2期4年間継続して植樹されたものであるが,その一部となっている東端吹上川一帯の比較的古い松林は明治の末年,早咲の千谷本次郎の植樹によるもので,別に千谷松原と言われている。

賀茂神社から砂浜に出る中央道の東側,下浜松原の裏手に「宮川竹馬翁頌徳碑」が立っている。
碑面の大文字は元総理大臣吉田茂の染筆になったもので,昭和34年3月下浜松原造成に功労のあった宮川翁の徳を偲ぶ地元の有志によって建立されたものである。

前述した忠澄の彰徳碑と並んで中村営林署長堀内雍喜の頌徳碑が建っている。

太平洋戦争の末期1945年(昭和20年),本土防衛軍が敵の上陸を阻止するための防衛陣地構築用資材に入野松原伐採計画を立てた時,身を賭してこれに反対した氏に対する,大方町民の感謝の意を表したものである。

1975年(昭和50年)頃からマツクイムシの被害が広がり始め今日までに8000本におよぶクロマツの老齢木を枯死させ,昔の景観を知る者にとっては,再起不能を思わせたが1989年(平成元年)に入野松原保存会が結成され,保存に向けての活動・調査が本格化し,小中学生の植樹や地域住民参加の清掃などにより,現在の松原が保たれている。

入野松原の中の国有林については,現在4つの法指定が行われ,立木の保護や工作物の設置などを規制している。
1923年(大正11年)3月防風保安林指定。1928年(昭和3年)2月史跡名勝天然記念物指定。
1968年(昭和43年)10月鳥獣保護区(特別保護区)指定。1956年(昭和31年)1月県立自然公園普通地域指定。
入野松原は町有林の部分もあるため目下工事中のところが多い。土佐西南大規模公園の完成が待たれる。

入野松原由来伝説{歴史的には訂正有り}

入野松原浮鞭海岸からの入り口駐車場

入野松原思い出の小道


入野松原キャンプ場付近

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