上林 暁(かんばやし あかつき)本名徳広巌城(いわき) 
明治35年(1902)10月6日大方町下田ノ口に生まれる。
高知県立第三中学校、熊本第五高等学校を経て、東京帝國大学文学部英文科に入学。
昭和2年卒業後「改造社」に入社。雑誌記者として働きながら友人達と同人文芸誌「風車」を創刊,上林暁のペンネームで小説を書き始めた。

昭和3年8月田島繁子と結婚,一男一女をもうけた。
昭和6年初めて商業雑誌「新潮」に「欅けやき日記」を発表,昭和7年同誌に発表した「薔薇盗人ばらとうにん」が好評で,新進作家として文壇に登場した。

文筆一本で暮らす決意を固め改造社を辞めたが生活の不安にさらされ、父の病気もあって一時帰郷、一年半近く悶々の時を過ごした後11年に再度上京して杉並区に住居を定めた。

心身ともに衰えたこの時期、遺書のつもりで小説を書き始め、先の帰郷の体験をありのままに書いた「安住の家」を「文芸」に発表したのをきっかけに私小説の道が開け、文壇にカムバックした。以来,暁は私小説一筋の道を歩み続け、私小説作家の第一人者と言われるようになり、昭和の文壇に大きな足跡を残した。

昭和14年に妻が精神病を発病、病院を転々として療養することになった。
戦争が激化、食糧難や空襲のため苦難に曝されながらも東京に踏みとどまり、妻を看病しつつ創作活動を続けた。

その実体験を書いた「晩春日記」や「聖ヨハネ病院にて」は、戦後の21年に発表されたが、妻の死(昭和21年6月)後書かれた「嬬恋ひ」などとともに"病妻もの"と呼ばれ、その一連の作品は単に私小説の傑作というだけではなく、我が国の文学史上にも確固とした地位を占めるものであると高く評価された。

妻の死後、酒におぼれ一時期スランプに悩んだが「小さな蛎瀬川のほとり」・「真少女まおとめ」など郷里の風物や人々を題材にして書いた小説、「開運の願」・「姫鏡台」など身辺を取材した小説、「お竹さん」などのいわゆる"酒呑み小説"を続けて発表。

昭和27年(1952)1月、軽い脳出血を起こしたが、2ヶ月後には執筆を再開、昭和33年に出版した第20創作集「春の坂」によって、その年の文部省芸術選奨を受賞した。「春の坂」は"郷土もの"の一つで、浮鞭の通称カラト坂と従姉をモデルに書いた好短編である。

37年(1962)の11月、暁は脳出血の再発で倒れ、右半身不随で半ば寝たきりの生活を送るようになった。しかし、創作意欲は全く衰えず、妹徳広睦子の献身的な手助けによって、左手であるいは口述で次々に短編や随筆、感想を書いて発表した。

口述筆記により書かれた最初の作品白い屋形船」を表題とした第24創作集は、39年度の読売文学賞を受賞、
更に48年に発表した「ブロンズの首」は、49年4月第1回川端康成賞に選ばれた。

18年の病床生活を送りながら、その間に創作集6冊、(没後更に1冊)、句集1冊を刊行、ほかにも幾冊かの共著書を出版した。病床でこれだけ多く作品を世に問うた作家は、世界にその類を見ないであろう。暁の文学への執念の凄まじさを思うべきである。

昭和44年に芸術院会員となり、47年勲三等瑞宝章を受けた。しかし、清貧に甘んじて純文学一筋に生き、
55年(1980)8月28日、東京で脳血栓のため77年の生涯を閉じた。墓は下田ノ口石崎にある。

創作集29冊、自選創作集9冊、評論・随筆・感想集10冊、「上林暁文学全集」(筑摩書房刊)19巻そのたの著書がある。

郷土の人達によって入野松原に建てられた上林暁の記念碑は、ノーベル賞作家川端康成の染筆であり、文学碑の方には暁の自筆の言葉が刻まれている。

   梢に咲いてゐる花よりも
     地に散りてゐる花を美しいとおもふ  上林 暁
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