大方町入野松原今昔物語昭和38年版大方町史より

入野高知県立公園は、昭和31年(1956)1月17日高知県知事(溝淵増巳)により指定されたのであるが、それより先昭和3年(1926)2月17日、内務省告示第27号によって名勝として指定されている。

  それで、県立公園としてこれに含まれる入野松原と、内務省告示による名勝入野松原との二つが形式上重複している。入野松原は国有林と民有林が存在し、国有林については四国森林管理局の管理下にあり四万十森林管理署(旧中村営林署)が管理している。

一方県立公園としての入野松原については、その区域内での原形の変更などについては、知事と営林局長及び文化財保護委員会の相談によって行われる。

入野県立公園(高知県知事指定)
高知県告示第28号
  高知県公園条例(昭和30年高知県条例第7号)第7条の規定により県立公園として次のとおり指定する。
    昭和31年1月17日  溝淵増巳
1、名称 入野県立公園
2、面積 90町(内35町5反7畝国有林)
3、指定地字名
  幡多郡大方町字小島灘、月見浜、横浜、松ケハナ、神崎、西ノ宮、松中、ヲイマモリ、一本松、二本松、小松崎、浪津浜、鞭浜、吹上の浜、田の浦、磯浜及び入野浜、国有林第1、1047林班のイ小班、ロ小班、ハ小班、ニ小班の全部(以上)

なお、昭和24年(1949)高知新聞主催の土佐八大公園コンクールにおいて、194,902票を得てその第4位に当選した。その際は、名称は「入野」で井の岬から入野松原を結ぶ線と定められてあった。

名勝入野松原(内務省指定)
1、名称 入野松原
2、所在地 幡多郡大方町入野字西浜林字東浜林
3、地域 字西浜林六九ニ七番地、山林6町5反8畝20歩。字東浜林六九三一番地、山林21町8反7畝5歩。
4、所有者 国(農林省)
5、現状
  長さ約1里幅5町、入野の海岸在り。松樹数数十万本並木林をなし、大なるものは囲数尺高さまた数間に達す。
  樹々幹嵯峨として横枝互に交り、恰も龍の蟠るが如く、然して翠岱天を掩い鬱として日を見ず。海浜は白砂一帯珠の如く海上の碧波と相映じ、一大画観を呈す。実に南海九十九里沿岸中最も柔媚なる松林地なり。
(原文のまま)
6、由来伝説
  天正中長宗我部元親の臣谷忠兵衛忠澄が中村城代であった時罪人に課して植えしめたものと伝う。
7、指定の事由
  指定基準3及び8による。
内務省の定めた「指定基準」に、「左に掲げる物の中、わが国の勝れた国土美に 欠くことの出来ないもの、
又はその自然的風致景観のすぐれたものとしてその3に茂樹・茂草の叢生する所、8に砂浜・砂嘴・海浜・
島嶼等ある所」とある。)
8、指定年月日等 昭和3年2月17日、内務省告示第27号
9、保存の要件 公益上止むを得ざる場合の外風致を損傷すべき現状の変更は之を許可せざることを要す。
(以上は高知県教育委員会社会教育課文化台帳による)

入野松原と谷忠兵衛忠澄
入野松原の起源については異説も有るが、谷忠兵衛とこの松原との関係もまた一般に言われていることなので、谷忠兵衛の事歴についても述べておく。

土佐の西南部、太平洋岸入野の海浜に広がる延長4km、数十万本のクロマツからなる松原。この松原は天正年間(1573〜92)に長宗我部元親の家臣、谷忠兵衛忠澄が中村城代であった頃、囚人の使役によって植栽し、また、宝永4年(1707)の大津波後の復旧策として各戸からクロマツを6本づつ植えさせ防潮に備えたものといわれている。(文化庁ホームページ文化財選集記載
谷忠兵衛は忠澄は元、土佐神社の神職であったが、長曾我部元親に仕えその重臣となった。天正2年(1574)元親は一条兼定を豊後に逐って、弟吉良左京進親貞を中村城監に置いたが、親貞が天正4年(1576)7月に没すると、忠澄は後任となって中村に来て天正8年(1580)まで在職し、この間に囚人を使って入野浜に多数の小松を植えさせて、いわゆる入野松原の初めを造ったといわれている。

忠澄の城監時代は足掛け5年の短い間であったが、それは彼の知略が元親の四国制服に必要があったためとも思われる。
天正13年(1585)7月豊臣秀吉が四国征討の大軍を起こした時、元親は白地に陣して諸軍利あらず、遂に降って土佐の知行を許されたが、此れに先立つ4月、二条城の大広間で、忠澄は秀吉と対面し、時めく秀吉を「天下の盗人。」と放言し、「珍しき男かな。」と言い返されたと言うのは有名な話。
こうした肝の人だけに、あらかじめ知った主家の滅亡に、命を掛けて元親を説き伏せて、遂に一国の安堵にこぎ付けたのも忠澄の力と言えよう。
彼は情の人でもあり、翌14年(1586)10月元親父子が豊臣氏九州征討に従軍し、12月嫡男の信親が豊後の戸次川で戦死した時、忠澄は敵の島津軍に自ら使して、その屍を乞い、遺骨を持ち帰って高野山に堂を建て、同時に死亡した700百余名の土佐武士の霊を弔うた大石塔をも建てたという。


新浜松原・千谷松原
旧来の入野松原の外、その後下浜に防潮林として増植したものがある。昭和9年(1934)頃、時の東方電力株式会社に在職中の入野村出身の宮川竹馬重役((みやがわたけま)1887-1964。幡多郡入野村早咲に生まれる。九州博多電燈株式会社入社後電力業界を歩み、1951年電力九分割により誕生した四国電力株式会社の初代社長となる。また、その電力九分割案を松永安左衛門と協力してつくったことでも知られる。)が個人として、当時の金額で700円を野村誠一村長に託してその植樹計画を委ねた。

ところが、その頃間もなく高知県においても海岸防潮林造成の計画があったので、前記の七百円はそのまま入野小学校の教育費として寄贈した。

高知県の計画事業は、先ず第1期植樹として昭和9年度から約8ヵ年間に凡そ5万本の植樹を行い、現在約4・5mに成長している(昭和38年当時)。
第2期植樹は昭和29年度以降次のとおり行われたが、その経費の1割が地元負担負担となったので、その負担額は全て前記の宮川竹馬氏が寄贈されることとなり逐次進行された。

入野浜第二期植林(植林の主体は高知県)
植林年度
面積ha
本数 本
経費  円
昭和29年度0.69
6,900
173,000
昭和32年度1.71
17,220
720,000
昭和33年度2.81
35,176
1361,000
昭和35年度0.49
4,196
552,000
合計
5.70
63,492
2,806,000

なお、別に千谷松原と称する松林がある。東方吹上川の右岸に沿うて、長さ約200m位、明治43・4年頃大方町入野早咲の千谷本次郎の植樹したものである。樹齢も前記したものより長じており、一段の偉容を添えている。現在(昭和38年当時)の所有者は宮川春次郎。

入野球場
入野松原の東端にある。昭和34年(1959)5月、高知県交通安全協会入野支部の総会において、自動車練習場兼運動場建設の議が成り、その後、綜合運動場建設までに発展し、先ず球場としての構想の基に同年7月末これに着工、翌35年4月末第1期工事、第2期工事(36年9月)、第3期工事(37年5月)を経てほぼ完成に至った。
経費は800万円、県内外の寄付金と大方町の助成金の外、町民の労力奉仕により、総面積10ha(1町歩)、県下最大規模のものである。

入野浜(月見が浜)
松林の雄偉は、海上の遠望と長い水泉に沿う白砂続きの浜と調和的総合美にまつものが多いことが見逃せない。松原前の入野浜は、古来「月見が浜」の美称さえあって、四季観月の勝地ととされた。「土佐物語」によると、長宗我部元親(1539−1599)が幡多巡廻の帰途下田通り入野に来てしばらく遊覧あって
誠に無双の景地かな。心あらん人に見せばやといいし。難波あたりにも劣るまじけれども、
    あまさかる鄙なれば知る人もなく名所の数に入らず、夜の錦の類なりと宣へば
所の翁居たりけるが罷り出でて、此処は昔はいる野と申候を、いつの頃よりかいり野と唱へ誤り候。萬葉集とやらんに
        小男鹿のいる野の薄すすき初尾花
               いつしか妹がたきくらにせん
と柿本人丸の詠じ給ひしは此所の事とこそ申候へ。昔の歌人は斯る田舎の果てまでも居ながら名所を知り候へども、末代に至りては其国所は知らずといへども、古歌をとりて読みたりと覚えて、入野の歌其歌多く候へども、名所の名歌に入野は其国未勘とある由承り候と申しければ、元親手を打ち芻蕘すうじょうの詞迄も捨てずといふ事誠なるかな」とある。

編者いう。小男鹿の歌は萬葉集にあるが作者は明示されず。また「入野」も山城乙訓郡入野を詠じたものといい、大方町の入野でないことはいうまでもない。

「備考」
この「土佐物語」には特に「浜」とはないけれども、難波あたり云々と海の近い地形に比べ、すすきの歌などを引用しているところからこの頃に置いた。松原の項に引いた「西浦巡見日記」の続きに「すべてこの浜本田なりしが、その時(亥の大変)に浜となれりとぞ云々」とある。総合的に考えると、宝永以前にあった田野が地変のため浜となり、同時に松原が崩れ落ちて同様の砂浜が出来たことになる。
元親が来たのは、この変動以前に属するが田野は有ったものと思われる。但し、物語や軍記類は必ずしも史実そのままではないが、「西浦巡見日記」は筆者が実地の見聞を記録したものであることを付言して置く。

横 浜(千鳥が浜
鞭鞭から西吹上川まで細砂の打ちつづく浜辺を俗に、横浜といい、入野県立公園の一部をなす。横浜は一名を千鳥が浜とも言い、明治中期頃まではこの波打ち際に沿うて歩き、吹上の渡しを過ぎ松原を抜けて入野に通じる重要な往還をなしていた。五月雨の頃には、未明に海亀の産卵の秘密を砂底に見つけたり、或いは波のしぶきを腰みのにあびながら網を打つ人や、熊手を操ってハマグリをかく人がそここに見られた。

辺りを千鳥が鳴きながら小走りに駆けて行く。カモメは波頭に戯れながら飛ぶ。えもいわれない風情。夏の日ざかり時には塩浜が打ちつづく。冬の日は八丁おろしの強い北風の抵抗を半身にあしらいつつ、砂にくい入る足元をさばきながら歩き進む。路があるようで無く、無いようでしかも自ずと踏み迷うことがない。明治頃までのこうした横浜の交通風景も今は昔の思い出でしかなくなってしまった。
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