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 大方町史旧版が発刊された昭和38年当時の大方町の史跡は、明治40年松田徳治が発見した古墳時代後期の「横穴式石室古墳」田ノ口古墳、昭和36年田辺作造が発見した弥生時代遺跡「奥湊川遺跡」からの出土品の局部磨製石斧の二つだけであった。その後、昭和40年代から50年代にかけて、郷土史家の手によって数多くの遺跡が発見され始め、幡多郡の遺跡が注目を集めるようになった。

昭和60年高知県教育委員会は、ようやく、高知県下の遺跡の分布調査を実施することを決定し、昭和61・62年度にかけて幡多郡の遺跡調査に取り組んだ。2年間の内計34日間、高知県教育委員会文化振興課・大方町教育委員会文化担当者及び大方町文化調査員、延べ200人による合同調査の結果、複合遺跡を含む古代遺跡数は161カ所で中村市に次ぎ、幡多郡下では2番目に多く、今後の調査により更に増加する可能性は高いと思われる。

教科書で学ぶ日本史には故郷の足下に眠る歴史は出て来ません。せめて、小中学校では故郷の歴史を取り上げて欲しいものです。 あなたの故郷ってどんな所ですか答えられますか?風小僧


旧石器時代

 ここは高知県幡多郡大方町、太平洋を一望できる入野浜。澄み切った大気を切り裂くかのように真紅の太陽が水平線を黄金色に染めながら昇ろうとしている。寄せては返す白い波の泡沫が陽光を浴びて、美しくそして切なく消える。足元に広がる砂粒の1つ1つが宇宙時間を通過してこの濱邊に辿り着いのかと思えば、波の騒めきも彼等の声のように聞こえる。

大地が裂け、地鳴りの中にマグマが噴き上がり、真っ赤に燃える溶岩が斜面を焼き尽くしながら流れ落ちて漸く怒りを静める頃、彼等砂粒の母岩が小山のような姿を現し割れて崩れ落ちる。崩れ落ちた岩石群は再び溶岩流に飲み込まれて冷えて吐き出される。拳大よりも大きかった彼等の旅が始まったのだ。彼等の中には地球誕生46億年以前から宇宙空間を彷徨っていた変わった奴も居るらしい。

変わり種という奴が言うには
地球が出来たのは地球次元で約50〜46億年前、生命が海中で誕生したのが約30〜40億年前、ほ乳類は恐竜が絶滅した後の6500万年前に誕生し、人間らしい動物が誕生したのは400万年前の猿人「アウストラロピテクス」、次いで原人「ジャワ原人」と「北京原人」そして20万年前の旧人「ネアンデルタール人」、最後に新人(現生人類)「クロマニヨン」が氷河時代の末期(約4万年〜1万年前)になると登場して来たと言う。

少し大粒な別の奴が
黒色人種ネグロイド、白色人種コーカソイド、黄色人種モンゴロイド知っているか。アクア説を知っているか・・何かを話し掛けてきたが風に吹き飛ばされて見えなくなった。

砂粒達は
私は「礫岩*砂岩*泥岩*流紋岩*安山岩*玄武岩*花崗岩*閃緑岩黒*ハンレイ岩*チャート*石灰岩・・」
口々に自己紹介してくれたが覚え切れるものではなかった。

模様入りの変成岩粒がこんな事を言い出した
知ってるか?こんな話を、名古屋大学博物館蔵に日本最古の岩石”上麻生礫岩”が保存されているという。
20.5億年の年齢を持つ日本最古の岩石(片麻岩)中にさらに10億年も古い30.5億年前,あるいは35.6億年前のジルコン粒子
が含まれている点がすごい、と言うが私には理解できない。
さらに、現在知られている地球最古の岩石は”カナダ,スレイブ地域に分布するAcasta片麻岩と呼ばれる花崗岩質片麻岩 ”
だと言う。

山々は未だ火柱を噴き上げ大地が大きく揺れておった。星が凍て付くように寒い夜のことじゃったミシッミシッギリッっと音がして割れたんじゃ、水牛の角よりも黒光りする山よりも大きい俺の親父が、俺が人間を見たのは其の時からじゃ。

 人間が誕生した頃は氷河時代と呼ばれる寒な時期が何万年も続く時でな〜・・産まれた子供達は何人も何人も死んでいったよ。食う物が無いんで母親の乳も出ない、焚き火の火炎も弱々しくなって飢えと寒さに震えながらなあ。父親は仲間達とナウマンゾウやオオツノジカを追って出かけている最中じゃしなあ」、前置きしながら話し始めた。

彼の言う人類とは、多分歴史的に言う原人以降の人間を指しているだろう。まさか藤村新一が発掘した遺跡の原人じゃないだろうけど。又、岩山が裂けるような寒い氷河時代は、地質学的区分で言う新生代の第四期のビーバー氷期、ドナウ氷期、ギュンツ氷期:(10万年間)、ミンデル氷期:(2万年間)、リス氷期:(2万5千年間)、ヴュルム氷期:(5万年間)などがあるが、其の内の何れかのことだろう。
旧石器時代
縄文時代
前期旧石器時代
中期旧石器時代
後期旧石器時代
6期に分けられる
(猿人・原人段階)
400万年〜15万年前
(旧人段階)
15万年〜3万5千年前
(新人段階)
3万五千年〜1万3千年前
1.3・1.2万年前に始まる
アウストラロピテクス類
ジャワ・北京原人
ネアンデルタール人
ホモ・サピエンス
クロマニヨン人

ビーバー氷期・間氷期
ドナウ氷期・間氷期
ギュンツ氷期・間氷期
ミンデル氷期・間氷期
リス氷期・間氷期
ヴュルム氷期・亜氷期
ヴュルム氷期・間氷期
ヴュルム氷期・亜氷期
ヴュルム氷期・間氷期
ヴュルム氷期・亜氷期
ヴュルム氷期・亜氷期
21000年頃から気温上昇
後氷期
上高森遺跡*注1*
総進不動坂遺跡
山田上ノ台遺跡*注1*
北前遺跡、
座散乱木遺跡*注1*
辻田遺跡
市ノ久保遺跡
白滝遺跡

打製石器
礫石器・握斧
頁岩製の斜軸尖頭器、
各種のスクレイパー
石刃技法(石の剥片を製造)
ナイフ形石器
磨製石斧
細石器
細石刃・細石刃核
尖頭器
台形石器
縦長のナイフ型・ヤリ型石器


年数字は目安程度として考えてください風小僧
更新生の初期には地殻変動によって日本列島の骨格が出来始め、東アジア大陸との間に日本海が広がったが、東シナ海北部では陸続きだった。その後、氷河期の海面降下のため、二万年前のヴュルム氷期には現在より約100メートルも海面は下がっていた。
当時の日本列島は亜寒帯から冷温帯気候に属し、気温は現在より四〜七度低かった。
 
 更新生はまた、火山活動が活発な時期で、富士山や浅間山が噴火し、関東ローム層を代表とする火山灰層を堆積した。
日本列島の最古の時代を表すのに、先土器時代と言う用語を使ってきたが、それは縄文土器時代に先立つ日本独自の文化段階という意味で使われてきたが、現在では世界史的視野で石器文化を位置付ける旧石器文化(時代)と言う用語が、広く使われている。
○ 姶良(あいら)カルデラ
 旧石器時代には,列島各地で火山が活発に噴火していた。しかし,その影響はさほど広い範囲に及ぶことはなかった。
鹿児島湾奥部にあった姶良カルデラの噴火は今から約2万4000年前,ほかの噴火とは比べ様もなく,日本史上最大級の規模だった。
この時,姶良カルデラの噴火によって空高く吹き上がった噴煙と火山灰は,上空の偏西風に乗ってほぼ列島全域に運ばれている。
 旧石器人を震撼させた姶良カルデラの噴火は,生活の跡をそのまま厚い火山灰で保護する結果になり,旧石器時代の研究に多くの成果をもたらした。姶良カルデラが大規模な活動を行い,多量のシラス(入戸火砕流)を噴出し主として低地を埋め尽くし,鹿児島市周辺では比高100m前後の台地を形成した。(鹿児島大学岩松暉教授HP)
○ 約2.2万年前に九州で 姶良(あいら)カルデラ という巨大な火山爆発があった。この時に噴出した 火山灰 (テフラ)は、 AT ( 姶良Tn火山灰 )と呼ばれ、ほぼ日本列島の全域に降下堆積した。(OBS)

 ヴュルム氷期最盛期、21000年前には大陸規模で厚さ3キロメートルにも及ぶ巨大な氷河が北米(ローレンタイド氷床)とヨーロッパ北部(フェノスガンジア氷床)にあり地球上の陸地の27%が氷で覆われ平均気温が現在より7℃程低く地球規模の寒冷化によって氷が溶けず、川となって海に流れ込む水の量が減少したため、海退現象により海底の一部は海上に姿を現し陸地化したと考えられる。
海面が140メートルも低下したと言われており、そのため、ベーリング海峡は陸地化し(ベーリング陸橋)、アジア大陸と北米大陸も陸続きになっており日本は朝鮮半島やサハリンと陸続きになり、勿論瀬戸内海などは平原で多くの大型動物(ナウマンゾウ、オオツノシカや北海道までであるがマンモスなど)植物(ミツガシワ)が日本に渡来している。

又、瀬戸内海の底引き網漁でナウマン象の化石や旧石器が掛かるのも陸地化していた事を表している。1954年に北海道幌泉町襟裳で日本で最初のマンモスの臼歯化石が見つかっている。ただし、日本でのマンモスの化石は 北海道までで、本州以南では発見されていない。滋賀県犬上郡多賀町、山口県美祢市などでナウマンゾウの骨の化石が発見されている。

 日本ではヴュルム氷期の終わり頃(今から1万年ほど前)には、雪線*注*の高さが今よりおよそ1000メートルも低く、北海道の日高山脈や東北地方の高山、北アルプスには氷河があったと推定されている。
*注*「雪線」:降雪量と雪の溶解量がちょうどバランスが取れている地点を結んだ線で、その線上の場所は一年かけて「降る雪」と「溶ける雪」が同じ量である。これより寒い所(北半球なら線の北側、南半球ならその逆)は、「万年雪」が残っている所である。

大分県姫島産れだという黒曜石の砂粒がこんな話をしてくれた。
原人に進化してから彼等は言葉といっても大したものじゃないが、相手に意志を伝える”叫び声に近い言葉”と”火”を用いることを覚えていたんじゃ。北京原人も火を使用しているが、宮城県上高森遺蹟*注1*から焼け煤けた石器も発見されており、この時代約60万年前すでに火を使っていたこのも解っており、約1万5000年前(後期旧石器時代)の集落跡といわれる水迫(みずさこ)遺跡竪穴建物跡(鹿児島県指宿市)からも、炉跡三基、が発掘されている。水迫遺跡からは道路状遺構が発見され、定住生活が始まったことが示されておる。
*注1*最新ニュース:遺跡捏造事件
つい最近まで、宮城県の上高森遺跡の発見によって、約60〜70万年前にすでに日本列島に人類が住んでいたと考えられていました。しかし、この遺跡が捏造されたものであることが発覚し、旧石器時代の遺跡の見直しが進められています。

 この時代の獲物はナウマンゾウやオオツノシカ、イノシシなどの大型の動物が豊富におったから不自由はなかったなあ。
獲物の集まる場所は、水場が近くにある草原。水飲み場の在る川岸。ぬた場と言ってな、イノシシ・シカ・ゾウなどの獣が、体に泥をこすりつけるために転がる、一定の場所のことじゃ。こんな場所を見付けるために人間達は小さな集団を作り、川沿いを中心に獣や魚場を探して移動しながら狩をしたておったのじゃ。彼等は動物の鞣し皮を身にまとい、蔓紐で締めた腰には石斧を挟み、寒気に晒らしながら震える手には石穂先のヤリを握り締め、岩陰に身を寄せ合いオオツノシカやナウマン象の気配に耳を澄ませて居り、獲物が来ると石槍や石斧を振り翳し石を投げつけて獲物を谷の狭い場所へ追い込んだり、深い川や急流へ追いやって動けなくなったところを石穂先の槍や石斧で仕留めるんじゃがの。
最初、群で狩りをしておったが、収穫の多い群と少ない群があることに気付いたようだ。また、獣との格闘などあって怪我人や死者がよく出ていたなあ。指令を出す者が居ると居ないじゃ収穫量が格段に違うし負傷者の数も違ったよ。また、良くない材料を使った槍や石斧はよく折れたりしていたなあ。
集団は近隣地域の知り合いの家族集団や移動中に知り合った集団などであったりしたのだろう。新しく知り合った集団から情報を得たか貰ったりしたんだろう、今まで使ったことのない石材料で作った石穂先を使ったり、石斧を持っていたりしたからなあ。石器時代から人間達は広範囲な地域との交流があったと言うことだな。つまり教えられたり教えたりじゃよ
獲物が少なくなったり居なくなると、別の土地へ移動して行く生活を繰りかえしている内に、色々な技術や知識を獲得していったじゃよ。
 狩の後ではこんな光景がよくあったよ
ある群では、獲物を追いかけながら号令を出していた親分らしい頑丈な奴が手振り身振りを交えながら
「速くしろ肉が腐って食えなくなる」、「骨や皮の肉は残さず削ぎ落とせ」、「女や子供の多い者は多く取れ」、「皮は良く鞣しておけ」
ある群では、口々に
「おまえは多く取りすぎる」、「獲物の追い方が下手だ」、「肉を残すな」、「道具が悪い、割れる石斧や刺さらない槍を使うな」
するとな
獲物の少なかった群の長老格らしい奴が、獲物を多く取った群のところへ畏る畏る近づいて
「お前さん方は何処から来なすった、初顔のようじゃが」、「お前さん達の石は何処で手に入れたんじゃ」
先程、命令を出していた頑丈そうな男の傍から、少し小柄な目の鋭い老人が出て来て、此も又身振り手振りを交えながら、地面に山や河らしいものを描きながら説明していたのお。

何??<そんな事してると肉が腐るって>落ち着きなされ・・外は寒いんじゃよ。何しろ時代は氷河時代・・間氷期と言ってな氷河時代と氷河時代の間は比較的温暖な気候とはいえ、今より平均気温が7度から低い、夏でも秋の気温じゃよ

讃岐出身だと言うサヌカイト砂粒が突然に、「旧石器時代に使用していた石器の歴史を知ってるか?」と聞いてきた。
大きく分けて打製石器と磨製石器を思い浮かべているんじゃないかな。正解じゃ。狩猟するにしても土を掘るにしても素手では無理だろ。石が道具になることは誰でも気付くだろうな。人々は大きな岩を割れば、たくさん石が取れると考えて、岩めがけて石をブチつけた。
ところが、割りたい岩は割れずに石が割れたんじゃよ。つまり、「これは硬い石、これは柔らかい石」、見分けることが出来るようになった。

最初の頃、つまり、前期石器時代には、礫石器(れきせっき)と呼ばれる、手で握りやすい河原石の一端を打ち欠いただけの単純な石器が手斧(握斧)として使われていたらしい。

岩石について少しだけ知っておこう
堆積岩
  地表の岩石や地層が、水や風などの働きによって機械的に運ばれたり、水の中に溶解して運ばれて堆積してできる。
火成岩
  マグマが地表や地表近く、あるいは、地下深くで固まってできる。鉱物組成の違いでも分類される。
変成岩
  元の岩石が、形成された条件とは全く異なった温度や圧力を受け、新しい鉱物組成や組織となってできる。
堆積岩 砕屑岩
陸上の岩石や地層が機械的風化により細かく砕かれ、
砕屑物となって堆積してできる。粒子の大小で分類。
礫岩*砂岩*泥岩*頁岩注5
火山砕屑岩
火山の活動により、地表に噴出した個体物質
(火山灰など)が堆積して出来る。
凝灰岩*凝灰角礫岩
生物岩
石灰岩(CaCo3成分)や珪酸質(SiO2成分)の殻をも
つ生物の遺骸が堆積して出来る。
石灰岩*チャート注1
化学岩
海水や湖水の中に溶け込んでいる成分が科学的に沈
殿したり蒸発して出来る。
石灰岩*チャート*岩塩*石膏
火成岩 火山岩
マグマが、地表や地下の浅い場所で急冷されて出来る。
流紋岩*安山岩*サヌカイト注4*玄武岩*黒曜石注2
深成岩
マグマが、地下の深い場所でゆっくりと冷やされて出来る。
花崗岩*閃緑岩(黒みかげ)*ハンレイ岩
変成岩 接触変成岩(熱)
マグマの貫入時に、周りの岩石が熱により変化して出来る。
大理石(結晶質石灰岩)*ホルンフェルス注3
広域変成岩
造山運動の際の強い圧力や熱により、広い地域の岩石が
変化して出来る。
千枚岩*結晶片岩*片麻岩

チャー注1
古生層中によく発達している岩石で、ほとんど潜晶質の石英からできている。層状地層が岩石化したもの。
ホルンフェルス注3
粘板岩など、泥質の堆積岩が接触変成作用で硬い岩石に変化したもの、または再結晶作用が完全に行われ、微粒状組織をなすもの。
黒曜石(和名は黒曜岩)注2
流紋岩(ryhorite)質から石英安山岩(dacite)質のマグマが急冷して生成される。冷却の速度が大きいほどガラス質が強くなり、遅いと結晶が生成してしまう。
マグマの性質と急冷などの条件のために特定の火山地域でしか生成されない。
割れ方は、貝殻状に割れ(貝殻状断口という)、ガラスを割った時と同様に非常に鋭いエッジができる性質を持っている。この性質を利用して石器が作られた。
(長野県) 霧ヶ峰・和田峠、(東京都) 神津島、 (静岡県) 鍛冶屋、(大分県)姫島、(北海道)十勝、(山形県)月山、(新潟県)板山、(栃木県)高原山、(島根県)隠岐島
サヌカイト注4
サヌカイト(和名は讃岐岩)
 安山岩の一種で,斑晶が少なく,黒色で非常に粒のきめ細かな岩石。たたくとカンカンという金属音を出すため,カンカン石とも呼ばれる。石基は主に輝石の非常に細かい結晶とガラス質からなっている。「サヌカイト」という名前は1891年(明治24年)に,ドイツの岩石学者ワインシェンクという人が命名したもの。このサヌカイトが産出するのは,世界中でも香川県の五色台周辺と奈良県・大阪府にまたがる二上山などのごく限られた地域だけである。
*斑晶・・・マグマが冷え固まるときに結晶となった,比較的大きな鉱物の部分。
*石基・・・マグマが急に冷えたため結晶になれなかったガラス質の部分や非常に小さな鉱物の部分。
香川県(五色台、金山)、広島県(冠山)
頁岩けつがん注5
粘土が水底に積み重なって固まった岩。色は灰色または黒褐色。板状でたいらにはがれる。泥板岩。

打製石器は旧石器時代を通して叩く・掘る等の作業には使われているが、細かく切る・削る・突き刺す・穴を開ける等には不便じゃ。

礫石器は脆くて破壊力も少なく、大型の動物を一撃で仕留めるのは困難で、獣との格闘が屡々起き死人や怪我人が多く出ていたもんじゃ、
そこで人間達は手斧よりも遠くから突き刺したり投げ付けて深く突き刺さるような石器「ヤリ」を考え出した。
穂先は石片を加工して尖頭器(せんとうき)と呼ばれる石の穂先で,木の葉の形にしたものや断面が三角形になった細長いもの,石片を剥いだままのものを木や骨の先に付けて「ヤリ」として使用したんじゃ。

日本の土壌は火山灰が降り積もって出来ておるため酸性度が高くて、残念ながら、この時代の骨器や木器は火山灰で溶けてしまい、殆ど見つかっていないんだ。
<何??>
ナウマンゾウの骨を利用した打製骨器が長野県野尻湖の立が鼻(たちがはな)遺跡で発見されておるんじゃと。

そこで、彼等は石塊を砕いて硬くて砕きにくい残った核の部分<石核>を握斧として利用した石器を考案したんじゃ
比較的大型で、樹木の伐採や土掘りに使用されたらしい。
 西南ヨーロッパ・西南アジア・インドに、石核石器を主とする文化が栄え、これらの温帯・熱帯の地域では、植物採集の機会が多く、握斧が盛んに使用されたものと考えられる。と言うんじゃ。

ところが、一つの石塊から一つしか製造出来ないという問題が起きたんじゃよ。しか、人間という奴は頭脳が発達する動物だと感心した。「石塊の種類」を変えたんじゃ。

岩石の種類によって、割れる方向・割れた形が一定しているものがある。人間達はこれを利用したのしゃ。

黒曜石や頁岩(けつがん)の石核は、獣骨や鹿の角の様な石よりか柔らかいも物でたたくと、剥がれる感じで割れ口鋭くてものを切ったり、削ったりする石器を作るのに適している剥片が何枚も出来ることに気付いたんじゃなあ。つまり剥片石器と呼ばれる石器の事じゃ

ひとつの石核から無数の石刃をつくりだす方法を石刃技法と言うそうじゃ
石器の製作は、猿人の時代には、材料の石の角を叩き落として石器をつくるだけの、簡単な加工を行っておったが、原人段階から旧人(ネアンデルタール人)段階では、ルヴァロワ技法と言われる、石核から剥片を打ち欠いて、剥片の方で石器をつくるという技法が盛んになっておった。さらに新人(クロマニヨン人)頃から、石刃技法を覚えたらしい。

も少し詳しく言うと
縦長の整った剥片を連続的に剥離するために整えられた石核のことを石刃石核。石核はそれ自体が石器ではなく剥片を生産するために整えられた素材だ。
その石刃石核から剥離される剥片を特に石刃と言い、縦の長さが幅の二倍以上であることをその定義とする場合が多い。
と言うことしゃ。

核石から剥ぎ取った石片に片面から修正を施し、小型で薄く、毛皮を剥いだり、肉を切るのに用いたらしい。
 ヨーロッパの大部分・アフリカ・西南アジアの一部に、剥片石器を用いる文化が栄え、これらの寒冷地・乾燥地帯では、狩猟が主となり、剥片石器が使用された。と言うんじゃ。

旧石器時代、黒耀石で作られた石器には、ナイフのように動物の皮や肉などを切るためのナイフ形石器、木や骨などに溝などを掘るための彫器(ちょうき)、木などを削るための削器(さっき、皮を鞣(なめ)したり骨から肉を削ぎ落とす時や木などをひっかくための掻器(そうき・クレイバー)などがある。

知ってたか?旧石器人も細やかなところがあるじゃろ。<何??>旧石器人は髭剃りしたかって

シェービングクリームは無かったが、髭剃り位のおしゃれはしたと思うよ。証拠じゃと!!

石鏃(せきぞく)、石槍(いしやり) 、きり、ナイフなどには割れ目の鋭い黒曜石や頁岩(けつがん)、斧を作るには片岩や泥岩を使い、砥石(といし)には砂岩、ものを擂り潰す為のすり石には安山岩をと石の種類を使い分けていたくらいなんだぞ。

旧石器時代の最終期頃には、細石刃(さいせきじん)と呼ばれる長さ2p・幅5o・厚さ2oぐらいの細長く小さいカミソリの刃のように薄く剥がされた石器が作られているのじゃ。こいつは1個だけで使うのではなく,何個も一度に木や骨に溝を掘って作ったもの(植刃器と言う)に装着して使い、ものを切ったり,またヤリの先として利用されていたようじゃ。

実際シベリアでは細石刃が装着された植刃器が見つかっておる。細石刃は【押圧剥離法(おうあつはくりほう)】と言ってシカの角などの先端を石材の縁に強く押しつけ、その圧力で石を薄く剥がす技法で作る。
このように後期旧石器時代以降になると、なかなか手の込んだやり方で石器が作られるようになり、この技法は縄文時代にも受け継がれておる。

ヌカイト砂粒が得意げに これなら、髭剃り位には使えただろうな。

思えば、人間達の暮らしも道具の進化や自然環境の変化と共に変わってきたもんよ

日本には60万年も昔から人間が住んで居ったと。
宮城県の上高森遺跡よ。日本最古の遺跡じゃと言っておったが例の捏造事件で又有名になったろ。<何?、あれを知らん?

最初の頃は彼方の洞窟に一家族、此方の岩陰に三家族と、生活して居ったが、彼等は狩猟生活を主体としており、狩や漁をするには集団が有利だと気付いたのじゃ。ナウマンゾウやオオツノシカに一人二人では太刀打ちできないからなあ〜。
集団は群(寄せ集め)と違って暗黙の内に掟というかルールのようなものが自然に出来上がり、集団での狩や食料の分配等の行動が維持されておる。集団生活ともなれば狭い洞窟や岩陰では不便なため、獣の毛皮で造ったテント式住居が平地に建てられるようになり次第にムラのような佇まいを見せ始める。

人間達に取って必要不可欠な物が、「石器」と「」じゃ。何しろ時代はヴュルム氷期じゃ、夜間の寒さは並大抵なものじゃない。
暖房は焚き火と毛皮じゃ・・家族の者達は火は絶やすことなく燃やし続けたことだろう。火が消えれば彼等の命取りになる。
夜の寒さと熊や狼など獣の攻撃から自分や家族を守るために。また、火と道具を使うことによって、今までは堅くて食えなかった食物を、叩く・焼く・蒸す等の調理方法により柔らかくして食べることが出来るようになった。

旧石器時代も後期、今から1万2千年前頃になるとヴュルム氷期もようやく終わりに近づいて気候が変化し、環境が変わって来たのじゃ。大陸氷床は約2万〜1万8000年前に最も拡大し、その後の気候の温暖化と共に急速に溶け始め、約6000年前には北米・北欧の大陸氷床はほぼ完全に消失したから大変じゃ。何がって?<海が攻めて来るのじゃよ。海が>

地球の海面は最終氷期の極大期(今から2万1千年前)の真っ只中では最も低下し(-80〜-130メートル)、その後大陸氷床の融解と共に上昇し始め、海水が内陸部へ入り込んで来るようになり(縄文時代中期の海進)、後氷期になると日本列島は日本海によって完全にアジア大陸から隔離されて、日本特有の気候風土が出来上がっていく。

気温の上昇と共に針葉樹林は後退し、ブナやナラなどの落葉樹林が西日本から東日本にまで拡大していく。ところが、日本列島独特の地形から気候の暖かい西日本には照葉樹林帯(照葉樹とは常緑広葉樹の一種)、やや寒冷な東日本には落葉広葉樹林帯と日本列島独自の気候により植生は二分される。

照葉樹林の森には、シイ、カシ、クスノキなどの冬も落葉せず、樹高も高い常緑樹が繁茂し、日差しも差し込まず、暗いじめじめした場所になり、森は閉ざされ、動物資源も少なく、木の実などの植物資源も採集しにくい環境になる。

実際、縄文時代の西日本の遺跡は一般に、海岸線や、河川に沿ってに発見されておる。
それに対し、東日本の落葉樹林は明るく開けて住みやすく、遺跡も西日本に比べて高い密度で発見されておることからも分かる。
同時にナウマンゾウ・オオツノカモシカ・ヘラジカやマンモスゾウ等の大型動物が絶滅し、狩猟の対象が小型動物へと変化していく。

森の中で暮らす敏捷な小型動物を、重い石ヤリで追いかけても捕まえるのは難しいから困っただろうな〜。

大型動物から一回に得られていた肉の量に比べて小型動物からでは少なく、肉食中心の生活が崩れていったのではないだろうか。
彼等が住んでいるその土地が、狩猟や漁撈或いは採集に適しており、居住する人口を維持できうる食料を提供する条件が成立すれば移動する必要性がなく定住生活が始まると思われる。

大型動物よりも小型動物は繁殖力が勝っており数的には居住する人間達の需要を満たすには充分だったと思われる。来るべき縄文時代には定住生活がいち早く始まったのではないだろうか。


縄文時代の新しい文化として、縄文土器の出現があり、「石槍から弓矢」へ狩猟具が変わったことだな。
土器で煮ることでドングリ・トチや野生のイモ類などの「アクヌキ」「消化よくすること」が出来るようになり、植物性食料資源の利用が可能になった。また、弓矢によって、新しい狩猟(イノシシ・シカ・クマ・ウサギ等)や漁撈技術の開発もあって、豊かな食糧の供給を可能にしたのだ。

サヌカイト砂粒が<質問>していいか?
北海道と大陸が陸続きの頃シベア大陸からマンモスやヘラジカの後についてヒョコヒョコヒョコヒョコやって来て未だに北海道に居着いている生き物を知ってるか。 だって

エゾナキウサギって奴だよ
 エゾナキウサギは今から3〜4\万年前(ヴュルム氷期)にシベリヤ大陸から北海道に渡ってきたと考えられておる。こ。ナキウサギは涼しい山岳地帯に生き残ったので「生きた化石」といわれておるのだ。と


  辺りを見まわすと、夕暮れの気配が山々の稜線を濃くしていた。砂粒人達は、寄せては返す白い波とお喋りに夢中のようだった。今夜も月明かりの下で語り続けることだろう。一陣の風が吹いた位に私のことなど忘れて。



土佐国の遺跡

私達が、今を生きているように、遠い昔の人々もこの大地の上で生きていたのです。石の道具てマンモスと戦った石器時代、土器で煮炊きをした縄文時代。稲作の始まった弥生時代、山のような墓を作った古墳時代、生きて来た時代は、様々な形でその姿を今の我々見せるけれど、時代の中を生きて来た人間の本質は、我々が人間である以上全く変わっていない。、寧ろ命への執着は彼等の方が純粋ではなかっただろうか。

遺跡を一覧表にして見せられると 「こんなところに遺跡があったなんて知らなかった。」と感じるのは、遺跡の発掘調査が終わると、その土地で予定していた工事を進めたり、農耕を続けたりするために元の状態に戻して痕跡を消してしまうからです。そして又、遺跡があったことを示す看板が立てられる場合は非常に少ない。だから余計に「えっ!ウソ」と言うことになるわけです。

遺跡とは、人々が残した生活の証です。例えば住居跡・柱の穴・溝・土坑・貝塚・土器や石器・木製品・金属器などのほか食料となった残滓である貝殻や鹿や猪の獣骨・人骨・糞等を言います。
遺構とは遺跡の中で土地に刻まれていて動かすことの出来ない遺跡を言います。
遺物とは遺跡の中で石器・土器や装飾品などのように動かすことの出来るものを遺物と言います。
河岸段丘とは、河岸段丘は、河川が長い年月をかけ川筋を少しずつ変えながら、川底を下方に削っていったために出来たものです。

四国地方南部
 この地方にも黒曜石の原産地は知られていない。
 地元考古学研究者の木村剛朗によると、高知県西部の縄文時代遺跡に姫島(大分県)産の黒曜石が利用されてことが確かめられている(木村「九州姫島産黒曜石よりみたる西四国縄文期の交易圏(上・下)」土佐史談124・126, 1969・70)。
 この地方の遺跡から発見される石器は、地元のチャートを使用したものが多い。

遺跡は人間が残した生活の証ですから遺跡が発見されるはずの場所、発見され易い場所も想像できる(?)

@ 日当たりのよい斜面  A 水が得やすい所…川が近くにある段丘など  B 地盤の安定している所
あなたが住むとしたと場合、@〜Bの逆条件を選んで住みますか。多分、NO!と答えるとおもいます。

 四国には火山がありません・・・・というと厳密には正しくないのですが,有珠山や阿蘇山,桜島のように現在噴煙を吹き上げている火山はありません。たとえば,香川県の小豆島や琴平山,愛媛県の石鎚山から久万高原にかけての山々などは火山なのですが,活動していたのは百万年以上前や数十万年前と考えられています。有史以後,一切活動していないわけですから火山であると言われてもピンときません。 多くの火山学者,地質学者の努力によって,日本国内の最近(といっても,ここ数万年間を指しますが)の大規模な火山活動の概略が明らかになってきました。たとえば,九州の鬼界カルデラは6300年前(アカホヤ火山灰)に,姶良カルデラは2万数千年前(姶良火山灰)に,西日本全域に20cm以上の火山灰を積もらせるという(図-2欠),想像を絶する規模の爆発を起こしたと考えられています。火山ガラスは,顕微鏡で見たときの外観の特徴や,屈折率などの光学性,元素組成などの特徴から,ある程度その起源を推し量ることができます。今回の調査で検出された火山ガラスの形態や光学性を調べたところ,それらはおもにアカホヤ火山灰起源であることが明らかになりました。 6300年前の火山灰が土壌の材料に含まれているのですから,土壌というものは非常に長い年月をかけて育まれてきた貴重な資源であり,今後も保全されるべき財産であると言えます。さらに長い地質年代的な時間スケールの中では,いつかは山は浸食され火山灰も流れ去るか風化して消失してしまいます。<林地保全研究室 鳥居厚志>

以上のような文献から高知県には火山灰による地層と言えるものは存在しない。日本列島は九州から北海道まで火山地帯であるため、通常、遺跡の年代を測定する場合、埋没してた火山灰地層は重要な手掛かりになります。

遺跡の年代を決定する手段には火山灰地層の年代から推定する。発掘された石器の形態から推定する。C14年代測定法で推定する等があります。石器の素材が黒曜石やサヌカイトであれば、その岩石の産地から交易地域も推定できます。そうした推定を総合的に判断して、遺跡の年代を決定します。


岩宿遺跡
日本には旧石器時代はなかった。と言うのが僅か50年前まで定説でしたが、アマチュア考古学者相沢忠洋が群馬県の岩宿遺跡を発見し、この定説は覆されたのす。
 相沢忠洋は行商を営んでおり、1946年のある日、群馬県岩宿の山道にさしかかった時、切り通しの関東ローム層から小さな石片を見付けたことに端を発し、その後、1949年に正式に調査が行われ、日本で初めて見つかった旧石器時代の遺跡だと分かった。
余談−−−「ニホン列島には、縄文時代よりも前の文化は存在しない。」−−−それが今から50年あまり前までの、「常識」でした。
ところが、この「常識」を覆す発見が、今から53年前にありました。敗戦間もない1949年の7月のことでした。
●史料  
「(以上略)山寺山(やまでらやま)に登る細い道の近くまで来て、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突き刺さるような状態で見えているのに気がついた、近寄って指をふれてみた。
 指先で少し動かしてみた。ほんの少し赤土が崩れただけでそれはすぐ取れた。それを目の前に見た時、私は危うく大声をだすところだった。実にみごとというほかない、黒曜石(こくようせき)の槍先形をした石器ではないか。完全な形をもった石器なのであった。われとわが目を疑った。考える余裕さえなくただ茫然(ぼうぜん)として見つめるばかりだった。
「ついに見つけた! 定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に・・・」私は、その石を手にしておどりあがった。そして、また我にかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突き刺さっていた赤土の断面を顔をくっつけるようにして観察した。たしかに後からそこへもぐりこんだものでないことがわかった。・・・中略・・・
 もう間違いない。赤城山麓の赤土のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。
(以下略)」
(出典:相沢忠洋『「岩宿」の発見』1969年、講談社文庫所収)
 
相沢忠洋さんは、この時23歳。彼は考古学者を訪ねてこのことを伝えますが、最初は誰も彼の言うことを信じようとはしませんでした。
相沢さんは、小学校を出ただけで、1944年に海軍志願兵として入団、敗戦後は桐生市に住み、納豆などの行商で生活していました。考古学界の長老たちは、大学卒の学歴もない無名の青年によって、自分たちが唱える「学説」がくつがえることを恐れたのです。
 しかし、幼い頃から考古学に興味をもつ相沢さんの熱意は、やがて明治大学考古学研究室を動かし、ついに発掘調査が行なわれたのでした。 発見から4ヶ月後の1949年11月のことでした。
 その後、ニホン列島における旧石器時代の存在こそ「常識」となり、相沢さんの名は、日本史研究において忘れてはならないものになりました。 と同時に、「常識」とか「権威」が、学歴にとらわれずに学問への情熱を抱く人に対して、いかに脆弱(ぜいじゃく)であるかを証明する出来事にもなりました。 1989年、岩宿の発見から40年目に相沢さんは亡くなりました。 63才でした。


1万2千年以前の高知県における旧石器時代の遺跡について少し触れておく。
発見発掘された遺跡の数は少なく散発的で、高知県西部と中部に次のような遺跡が見受けられる。
市町村遺跡名称備考
宿毛市 宇須々木遺跡
池ノ上遺跡
楠山遺跡

中村市双海中駄場遺跡
高知市高間原遺跡
南国市奥谷南遺跡
夜須町手結遺跡
池川町坂本大平岩陰遺跡
佐川町不動が岩屋洞窟遺跡

【西部では】
|宿毛市: 宇須々木遺跡、池ノ上・楠山遺跡|高岡郡檮原町: 初瀬影野地遺跡|大月町: 竜ヶ迫遺跡|
池ノ上遺跡 宿毛市橋上町楠山
時  代:旧石器時代後期(25,000年ほど前)〜縄文早期
出土品:国府型ナイフ形石器・ 押型文土器 石鏃 スクレーパー
  国府型ナイフ形石器は国府遺跡(大阪府)に代表される石器でこの時期を代表するもの。

 高知県内では最初のもの。この時期、瀬戸内地方との関連も考えられる。
 土佐の歴史 土佐の歴史を掘るより
【中部では】
|高知市介良: 高間原遺跡|南国市: 奥谷南遺跡|香美郡夜須町:手結遺跡|
奥谷南遺跡 南国市岡豊町
時  代:旧石器時代後期〜縄文草創期〜 旧石器時代の岩陰遺跡 ナイフ型石器60点以上(2万年前)
出土品:チャート製細石刃400点 隆起線文土器(縄文草創期)、隆帯文 土器

氷河期の終り頃の岩陰での生活の様子が知れる、火をたいたあとや石 器を加工した跡もある。
細石器の原産遺跡として四国最大級。南四国に旧石器時代の空白をう める貴重な遺跡として注目される。
縄文草創期(12000年前)の隆起線文土器や、南九州系の隆帯文 土器、縄文晩期(BC1000年)の遺物も出土し、長期間の生活がうかがえる。

これらの遺跡の出土品からはナイフ形石器や細石器、また細石器の原石である細石核(さいせっかく)が見受けられる。池ノ上遺跡から出土したナイフ形石器は頁岩(ケツガン)を材料とし、横長剥片を加工して作られたもので、この時期瀬戸内海地方を中心に広がった大阪府国府遺跡に代表される「国府型ナイフ形石器」に類似している。また、宇須々木遺跡から発見された石鏃(セキゾク)は大分県姫島産の黒曜石が使用されている。これらの発見は12000年以前に高知県には人間が住んでおり、驚くべきことに、瀬戸内海地方や九州地方と何らかの方法で交流があり文化的享受を得ていると言うことである。

坂本大平岩陰遺跡 吾川郡池川町坂本字大平
時  代:縄文早期〜前期〜弥生〜中世
出土品:縄文早期 押型文土器、山形文土器、 楕円文土器
長期間にわたる岩陰での生活状態が知れる。
キャンプ地的性格の遺跡であり、出土遺物から狩のための雨やどり的な場所とも想定できそう。
土佐の歴史 土佐の歴史を掘るより

不動が岩屋洞窟遺跡(高知県高岡郡佐川町)
時  代:今から約1万年前の旧石器時代から縄文時代へ移る頃の住居跡で、奥行き約8mは場約4m高さ約6mの主洞とそれとほぼ同規模の支洞とからなっている。S、39年に発掘調査が行われ旧石器時代終末期の特徴とされる有茎尖頭器(石器)や細隆線文土器と呼ばれる日本で最も古い時代の土器などが発見された事で知られておる
土佐の歴史 土佐の歴史を掘るより
縄文草創期 BC11,000(13,000年前)〜
縄文早期 BC7,000(9,000年前)
出土品:細隆起線文土器 、有茎尖頭器、イモガイ・タカラガイの垂飾品
ハイガイ、ハマグリ、ヤマトシジミ、マルタニシ、シカ、 イノシシ、カモシカ、テン、タヌキ、ヤマドリなどの骨
聖嶽の中腹に開口する石灰岩の洞穴遺跡で、 第1洞 入口幅4m 奥行8m 高6m、 第2洞 幅4m 奥行8m 高2m


以下平成6年発刊大方町史より

高知県下最古の石器としては、昭和41年(1966)12月に宿毛市宇須々木遺跡から出土した灰色チャート(玉髄質石英の一種である潜品質岩石)製の「ナイフ形石器」が最初であり、次いで高岡郡檮原町影野地で同じく「ナイフ形石器」が、また、高知市介良の高間ケ原山で「細石器」が出土していたに過ぎなかった。ところが
双海中駄場遺跡
昭和62年6月、元大方町であった中村市大字双海字中駄場遺跡で、中村市の考古学協会員木村剛朗によって、硬質頁岩製の「ナイフ形石器」が発見された。
この石器は岩宿時代(注)の第U期に属する3万年〜1万3千年前のものである。この貴重な遺物が出土した双海中駄場遺跡は、字西駄場・ムラカミ・タワツリ・カミヤシキ一帯の畑地で、大方町の中心部より約8キロの土佐湾に面した海岸段丘に立地し、畑はテーブル状に開けた平坦部に南北に帯状に広がっており、表土は黄褐色火山灰で、現状は全面葉煙草耕作地です。
遺物はこの畑を南北約350メートル東西約150メートルの広範囲に分布するが、特にタワツリ・ムラカミと呼ばれる畑に集中的に出土する。遺跡の標高は約35メートル、海岸に接する東側は急傾斜の崖となって砂浜に接し、後背地は標高30〜50メートルの丘陵となっている。
(注)岩宿時代
奈良県国立文化財研究所の佐原真指導部長は、日本の文化の起源とその発展について「大系日本の歴史」で
人が住み始めてから1万2・3千年といわれる日本の食料採集段階の第一の時代、そして石器時代の第一の時代を本書では「岩宿時代(イワジャクジダイ)」とよぶことにした。人類学ではこの時代の人「岩宿人」を日本の先祖とみとめている。食料採集段階のの第二の時代、そして石器時代の第二の時代が「縄文時代」である。1万2・3千年前から2千数百年前にいたるというこの時代にこそ、日本文化の原点がある。と述べている。また同書では「岩宿時代」をT期〜V期に呼び分けいる。

本遺跡は昭和53年6月大方町浮津の田中専助によって発見された縄文遺跡で、遺物に石鏃(やじり)、打製石斧・叩石その他石器剥片など多数の石器類が採取されている。その主なものは石鏃で、九州姫島産の極めて見事なものも含まれている。
中村市双海地区は、昭和32年までは大方町大字伊屋と呼称されていたが、中村市と合併して双海と改称されたもので、中世から砂鉄の産地として知られている。
なお、ナイフ形石器を発見した木村剛朗は双海地区と隣接している大方町の海岸段丘からは「今後も旧石器時代の遺物の発見される可能性が高い」と話している。(双海中駄場遺跡を中心に土佐湾に面した海岸線に沿って大方町側「本駄場遺跡」「長門駄場遺跡」「小坂口遺跡」と連なり、中村市側へは「平野茶園遺跡」「根の首遺跡」がある)
双海中駄場遺跡に隣接する本駄場遺跡で、平成元年9月木村剛朗会員が同時代の石器「三稜尖頭器」(サヌカイト製の断面三角形)を発見している。

同氏の著書「幡多のあけぼの」にこう記している。
「宇須々木遺跡と双海の2例を合わせ、三カ所で宿願の旧石器を自らの手で探り当てることが出来た。これで縄文時代以前に幡多に人間が住んでいたかどうかの疑問もはっきり解けたのである。」


これから先は想像の世界に入ります、あなたも古代のロマンを彷徨ってください。



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