尊良親王 哀歌

 尊良親王は後醍醐天皇の第一皇子として生まれ、一の宮と申し母は大納言藤原為世卿の女為子の方である。
生まれながら聡明で容姿端麗、吉田大納言定房卿の家で成長された、後世に親王が”歌の宮様”として称えられるのも、歌の血統を受けられ、旦歌の家元で人となられた由緒によるものと思われる。
 嘉暦元年(1326)元服して中務卿となられた。人々はやがて皇太子におなりの事であろうと期待していたが、時の執権北条高時は両統迭立の掟を縦にして、自家に都合の良い後二条天皇の皇子邦良親王を立てて皇太子としたのである。それ故宮に仕えていた人々は申すに及ばず、皆望みを失い、宮もまた落胆されて明け暮れただ詩歌に心を寄せ、風月を詠じては心の憂さを晴らして居られた。

元徳二年(1330)春の頃、清涼殿で和歌の披講のあった際、宮は「花契萬春の序に寄す」と題して、

         長閑なる雲井の花の色にこそ
                萬代ふべき春は見えけり(増鏡)

また翌年(1331)三月、天皇が無量光院に行幸のあった時、宮はご随伴になり「桜花に寄せて」として

         代々をへてたえじとぞ思う此の宿の
               花にみゆきの跡をかさねて(増鏡)

などと詠じて居られる。又、四季折々の事に触れて詠まれた歌に

        うきものと身をしら露や氷るらむ
               たもとにむすぶ秋のはつしも(新葉和歌集)

           おのづからまどろむ程に氷るなり
                  なみだひまなきしきたえの袖(新葉和歌集)

       さらば身の浮瀬もかはる飛鳥川
               涙くははるさみだれの頃(新葉和歌集)

           かくばかり世は宇治川の早き瀬に
                  しばしも月のいかですむらむ(新葉和歌集)

春・夏・秋・冬夢の間にも涙のひまもないご心中、有為転変住み難くよこしまな世に対する悲憤哀愁の跡切々として身にせまるものを覚える。
           身はかくて沈み果つとも和歌の浦に
                  名をだに照らせ秋の夜の月(新葉和歌集)

沈み果てた我が身を嘆かれ、せめては和歌の世界にだに名を残されようと志されたであろう。誰か一人でも、お側に仕えて宮のご日常をお慰めする姫でもあればと、侍従の人達は日夜心を砕いたけれども、これといってお気に召す人とてはなかったであろうか、その事もなくてただひとり寂しく年月を送られた。

或る時関白左大臣の家で絵合わせの会というのがあった際、宮もご出席になられたが、洞院の左大将の出された源氏の優婆塞宮(うばそくのみや)の女の絵が大そう宮のお気にかなったらしく、召し置かれて繰り返し繰り返しご覧になり、せめてもこの世にこのような人があるならばと、日夜思い慕われていた。
ある日宮は心のやるせなさを晴らされようと、賀茂の糺(ただす)の宮に詣でられ、御手洗川の水にお手水をすくわれ、何心なく川辺をそぞろあるきして居られると、昔有原業平の中将が

          恋せじと御手洗川にせしみそぎ
                    神はうけずもなりにけるかな

と歌たった事などそぞろに思い出され、今の我が身の哀れさに思いくらべて、悲しさのあまり、

          祈るとも神やはうけん影をのみ
                    御手洗川のふかきおもいを(太平記)

と、詠ぜられてしばしたたずんで居られると、折しも村雨が急に降って来たので、木陰に雨宿りして居られたが、日も早や西に傾き暮色があたりに漂うて来た。宮は急いで車をうながされて一条を西にお帰りになる途中、誰が住むであらうか、老松が屋根を覆い秋を粧う草花はそこらあたりに咲き乱れ、優雅にもまた物寂びた一つの家があり、そこからばち音高く「青海波」の曲を弾じる琵琶の音が、切々として詩情ゆたかな宮の心に浸み込んで来たのである。

 宮は夢うつつの如く車を止めさせて、どうした雅人(みやびと)の手すさびであろうかと、うかがつて見られると、湧くかのように鳴きしきる無心の虫の声の中に、妙齢の品の高い麗人が簾を高く捲き上げて、雲間をもれる仲秋の月影を浴びながら、秋の別れを惜しむかのように琵琶をあるいは高くあるいは低く静寂な空気を振わして弾いているのであった。

 宮はつくづくとその様をながめられるに、常日頃から心を尽くして思い煩わされて、夢にもせめて見たいものと恋い悲しまれていたかの絵姿に少しも違わず、なおあでやかにろうたけて言いようもない美しい方である。宮は心も空にときめく胸を押し静めて車から降り、築山の老松の小かげに歩を運ばれると、かの麗人は見られているのに気付いたであろうか、琵琶を几帳の傍にさし寄せて置き、静かに室内奥深くに姿を消してしまった。宮は再び立ち現れることもあろうかと、暫しその場でお待ちなされたが、つれない御所侍の格子を降ろす音がして、内は早や人もなきかの様に静まりかえったので、何時までもこうしてはいられないと、跡に心を残しつつもそのまま還られたのであった。絵に描いた姿にさえあれ程にお心を悩ませられたのに、実の人を見られては如何したものかと思い煩わされて、ひたすらに恋慕の心だけがつのるばかりであったが、さすがに言葉にも出されず、ただ独りやるせなく過ごされた。

何時も和歌の会で一緒になられる二条中将為冬卿が宮のご心中を察して、彼の麗人は今出川右大臣公顕卿の女で御匣殿(みくしげどの)と申し、先頃徳大寺の左大将と婚約をなされたまま、未だ左大将の許には嫁してはいられなかったのであるから、いつか歌の会を公顕卿の家で催される時には宮ご自身でお心の中をお打ち明けなされるようにと申し上げると、宮は大そうご満足気に打ち笑まれて、その時の来るのをお待ちになられた。

 やがて公顕卿の邸で和歌の会が開かれた。その夜宮は夜もすがら常日頃のやるせない恋々の情をこまごまとお語らいになられたのであるが、御匣殿は徳大寺の御方を憚られたのであろうか、ただただ思い悩む体で御返事も申し上げない内に、明け難い初冬の夜も早やほのぼのと開け始めたので、力なくお還りになった。

           さりともと頼むに更くる月影を
うき人よりもなほや恨みむ(新葉和歌集)
とは 此の夜のご心境を詠ぜられたもので ある。

 それから後も宮は幾度となく お文を遣わされて やるせなさの情を 御匣殿に訴えたけれども、固く結ばれた御匣殿の心のつぼみは容易に開く由もなかったものか、終に一度のご返事もなかったので、宮はいよいよ深くご悲嘆に沈まれた。

つらい思いに燃えこがれ、千々に心を砕かれて はらはらと落ちる涙に明け暮れを嘆かれる宮であり、又

         よしさらばただつれなかれ恋ひ死なむ
                  報いは人のためにしあらねば(新葉和歌集)

 と、時には余りにもつれなさを恨まれて、恋死なんとまでに一途に思い定められた宮でもあったのである。
このようなおいたわしい日常を 徳大寺左大将が聞き及んで、いたく恐れ多いことに思い、御匣殿とのご婚約をば解かれたので、宮も今は誰憚るところもなく、

         知らせばや塩やく浦の煙だに
                  おもはぬ風になびくならひを(太平記)

 と、おん文を送られると はじめて御匣殿もあまりにつれなかった自分を恥じ、かつはご愛情の程が身にしみてうれしく
         
                立ちぬべき浮名をかねて思はずば
                        風に煙のなびかざらめや(太平記)

との返歌があり、これから後は心の中もうち解けられて、生きては偕老の契りも深く、死しては同じ苔の下にもと思い、千万年もと睦み合わされ、きのうに変わる今日の春を うち楽しんで居られた。 しかし、満れば欠くる世の習いに漏れず御匣殿は少しのわずらいではかなく世を去られたのである。

これより先宮のおん父後醍醐天皇は執権である北条氏の専横無道をお憤りになり、かつ又朝威の衰えたことをいたく嘆かれて、早くから北条氏を滅ぼして朝権を回復されようとのお考えがあった。
 そこで、前の天台座主護良親王や尊良親王、それに時の天台座主妙法院の法親王宗良親王を始め、資朝・俊基の両朝臣、源中納言具行卿をと計を廻らせられたが、機のまさに到らうとしたやさき早くも六波羅の知るところとなったので、元弘元年(1331)八月二十四日天皇は三種の神器を奉じて宮中を密かに逃れ出て、笠置(かさぎ)に行幸なられたのである。

 宮も又、後から馬に召されて天皇に追い付き、共に笠置に入られた。この頃、河内の国赤坂では楠木正成が聖旨を奉じて兵を挙げ、義軍の先駆けをして「非理法権天」の正義の旗をひるがえしはしたものの、なお関東の勢いは盛んであって多勢を如何ともする事も出来ない内に、関東の賊兵は九月三十日笠置を陥れたのである。笠置が危なくなると天皇は藤原藤房・秀房兄弟を随えて笠置を出で赤坂の城に入られようとしたが、早くも賊将大仏貞直のために捕らわれの身となって宇治に送られ、次いで十月三日、鳳輦(ほうれん)は数万の武士に打ち囲まれて京の六波羅に入らせられたのである。

宮は笠置の陥る前そこを出られて楠木正成の赤坂に入り、正成と力を合わせて大いに義軍のために力を尽くされて居たが、笠置は既に陥り天皇は捕らわれの身となった由をお聞きになっていたく嘆かれ、吾が身ただ一人こうしてはいられないと悲壮にもご決心の上城を出られて京に入り、佐々木判官時信の家に到ったが、宮もまたついに捕らえられる憂き身となられたのである。

 こうした宮はお側に仕える人もなく、いぶせき時信の館で、寂しくも悶々の起臥を過ごされた。時は十月のなかば、もの悲しくもはらはらと過ぎ行く村時雨の音を耳にせられて、

               世の憂さを空にも知るや神無月
                        ことはり過ぎて降る時雨かな(増鏡)

とご哀愁の情を漏らされていられる。
 当時、宮は彼の千万年もと思い交はされていた御匣殿は既に亡き人となったので、この頃は大納言の典侍の君ばかりをこの上もなく寵愛されていたが、その典侍の君のお宿は時信の館のすぐ傍にあったけれども、ご拘束の事とてご対談などは申すに及ばず、文の便りさえ通わされるすべもなかった。

かかる動乱と大義名分の地を払うた世に元弘元年(1331)も早や暮れて、明くれば二年の春三月、早くも北条高時は承久の故事にならって天皇を隠岐の島に遷幸と定め、月の七日咲きほこる都の花をよそに、網代ばかりの粗末な御車で六波羅を立ち出でられ、三月十三日出雲の見尾の湊に着せられ、やがて潮風に帆をはらませて隠岐の国へお着きになられた。

 天皇の立たれた次の日の三月八日、尊良親王は佐々木判官時信の警護で、為明中将らを随えられて土佐に、妙法院宮宗良親王は讃岐にそれぞれご遷下の事と定まり、父天皇の後を追うかのように悲しくも都をご出発なされた。
宮は今日まで、「たとえ秋刑(注、重刑)の下に死し、骨を龍門原上の苔に埋めようとも、せめて都のほとりにて如何ともなれかし」と、天を仰ぎ地に伏してご祈誓なされたがのしるしもなく、早くも心なき関東の兵共が来て中門に御輿を寄せ着けたので、時信のいぶせき館にもさすがに名残を惜しまれて、傍にあった花瓶にさされてある一輪の花を見られて

               花は猶とまるあるじに語らへよ
                        われこそ旅に立ち別るとも(増鏡)
と詠じられ、又
               せきとむるしがらみぞなき涙川
                        いかに流るるうきみなるらん(太平記)

と悲痛なご心境を吐露され、せき来る涙の中に遠流の国土佐の畑へと京都をご出発なされたのである。
かくて四月十一日、宮は兵庫の福原にお着きになったが、天皇のご宿所もごく近くにある由と聞いて、

               いとせめてうき人やりの道ながら
                        同じとまりと聞くぞうれしき(増鏡)

又、妙法院の宮も十一日の暮れ方に兵庫に着き、兄宮がこの福原の島から土佐に向かわれる由を聞いて限りなく嘆かれ、文に添えて、
               今までは同じやどりを訪ね来て
                        あとなき波と聞くぞ悲しき(太平記)
宮もご返事をつかわされて、
               明日よりは跡なき波に迷うとも
                        かよう心よしるべともなれ(太平記)

配所は共に四国とお聞きになられて居たので、せめては同国であれかしと念じて居られたのに、悲しくも此処での生別はすなわち死別を意味することであろうので、宮はこの日心を残されつつもたゆとう波に身を浮舟に任せられて、土佐の畑へと船出されたのである。

長い船路もつつがなく、親王は三月下旬現在の大方町王無の浜にお着きになった。
お船が無事目的地である畑に着いたので、時信ら警護の武士共はお暇申して京をさして立ち去ろうとした時、宮は何時また立ち帰る日があるやも計り知れないご境遇をいたく嘆かれて、日頃は身を監視した心ない武士共ではあるがそれ等の者に、お歌を示された。
               思いきや恨めしかりし武士の
                        名残を今日は慕うべしとは(増鏡)

恨めしかったおつきの武士にさえ名残を惜しまれたご心情、実に天下孤独四囲全て北条方、吹く風の音にも、磯打つ波のひびきにさえも、お心を許すいとまさえないご境遇、しかも地理も分からぬ遠流の国幡多の磯辺に立たれて、雲煙万里遙かに東天を涙に曇る眼で凝視され、こう詠ぜられたご心中お察しするに余りがある。
 時に入野郷奥湊川の領主、大平弾正は率先して宮をこの浜辺にお迎えしたのである。宮は闇夜に光明を得た心持ちにもまして喜ばれたことであろう。
              土佐の海身は浮き草の流れ来て
                          寄辺なき身を哀れともしれ

と、ご信頼に満ちたお歌を賜わると、光栄に身を震わせつつ地上にひれ伏した弾正は、やがて恐る恐る頭をもたげて、

              雲の上いかで仰がん及びなき
                          土佐の入江の藻がくれにゐて

と返歌を申し上げたのである。
弾正は入野郷に聞こえた豪族であり、しかもその性勤王の赤誠に堅く、四囲の危険を顧みない決死の士でありながら、斯くも素直に申し上げたのである。
やがて、宮は大平に向かいこの浜の名は如何に申すぞとお尋ねになられたので、大平は「”戻る浜と申し候とお答えすると宮は大層お喜びになられ、これこそ正に再び京師(けいし)に戻る日のあることを意味するよい名であると打ち笑まれ、間もなく大平等一族郎党に打ち護られながら湊川大平の館に向かわれた。

 ところで、大平は己が館の下も口湊川には、当時北条氏の一族であ安藤某に属した米津山城守の居城があったので、山城守がどんな心であるかが計りかねて、元の七郷村浮津から大森山を越え、道のない山腹の難所すなわ今も名に残る”弾正横通り”を踏破して己が館に入り、宮を警護申し上げたのである。

 ここに有井川村主有井三郎左衛門豊高もまた勤王の志の深い人であったので、宮のご着船と承り、早速一族共を引き具して有井川村と上川口村の中間にある椎の木坂まで来て、そこに皆の者を待たせ置いて、自分は急いでお出迎えのため戻る浜に馳せつけたのであったが、宮は既に大平に擁せられて立ち去った後であったのでせん方なく己が館に引き返したのであった。これから里人はこの浜を「王すでになし」との意から「王無し浜」と称え、又、一族共を待たせて置いた坂を「待つ王坂」というのである。

 やがて有井庄司もまた大平弾正の館に行って赤誠をこめて大平と共に忠誠を誓ったので、この草深い辺鄙(へんぴ)の土地にこうした忠臣の二人までも居ることを宮はいかに心強く悦ばれたことであろう。そして、大平・有井の両人は日夜細心の注意を払って宮を警護すると共に宮の旅愁をもお慰めしたことであろう。
天下の情勢日々に官軍に不利で、北条方の重圧監視の目は鋭く、宮ならびに彼等両人の上にも注がれ、うわさによると京から北条方の刺客が三人も下って、宮を害しようとその機を窺っているとのことでもあったので、その警護は並大抵の苦労ではなかったと察せられる。
それで、宮の日常のお食事は彼等が自ら山野に狩りをして獲た物をぢかに調理し且つ試食した上で差し上げたと伝えられ、宮も亦民草の日常生活を隣察されて一汁一菜で満足されたとのことである。

このような情勢下ではご身辺に萬一の危険があってはと苦慮し、弾正は大平と計って宮を奉じてその館を出て、北東に一里あまり蜷川の王野山にお遷しすることになつた。居城を出て城が谷にある国王ざこ(「さこ」は「せこ」で小さな谷の義、谷に向かって傾斜をなす所をも言う)を登り、今も宮がお休みになられたと言い伝えられる湊川と蜷川の分水嶺「休み場」から北に尾根をたどり、道なき道を踏み分け、更に闇夜に一時休息されたと言う「腰掛岩」のある山の背を北に下り、又おどろの下道を抜けて王野山の山峡にある仮の御所に着いたのである。
王野(今は大野)というのは仏が森の東山腹一帯を云うので、海辺から三里余りの深山幽谷であって、雑木が生い茂って昼なお暗く、蘚苔は岩を蒸し落葉は谷を埋め、四時雲は峰に懸かり霧また山あいを覆うという僻地である。宮のご日常は云わん方なく淋しさの極みであったと察せられる、

             谷かげに積もる木の葉のそれならで
                       我が身朽ちぬとなげく頃かな(新葉和歌集)

と詠ぜられた宮であり、又日夜寸時の暇もなくお護りした大平・有井であったのである。
 宮の仮ご殿の跡といわれるところには五段になつて石垣の崩れを残してあり、其所には数百年来さながらの落ち葉が積み重なり、そぞろ陰惨の気が昼なお暗い密林の間に漂っており、音する物とては水のせせらぎが岩をかむだけであって、鬼気の迫り来るのを覚える。(今は森林の処理により余程形相を異にする)

この王野では次のような伝説が残っている。それは
宮に供御(くご)を差し上げるために、遠く有井川の庄司の許から食物をこの地まで毎日運んで来た可憐な庄司の婢千代という者があった。千代は庄司の命によって、かよわい少女の身で毎夜深更人目を忍んで庄司の館を出て、一番鶏の鳴くまでに王野の仮御所に着いて一日の供御をささげ、往復六里余りの険路を館に帰った。
可憐な千代は時刻を知るためにいつも鶏をふところに入れて往復したと云はれるが、或る夜供御持参の際、未だ御殿に達しない中にふところの鶏がを告げたので、千代は自分の任務を果たされない自責の念やる方なく、哀れにも悲壮な決意をして、郷の谷の淵に身を投じてあたら花のつぼみを散らしたといわれる。今、王野宮址の東南2・3百メートルばかり下に「千代が淵」の名を止めたところがある。
当時、宮は千代のことを聞かれてご痛心になり、可憐な少女千代のその死体をここに葬り、毎夜その墓前に跪いて日頃の苦労に感謝され、その冥福を祈られた。というのである。
 この伝説の真否を定める由はないけれど、当時宮の日常の生活がいかに悲惨なものであり、また奉仕する忠臣達の苦労や警護がいかに難事であったかを想像することができよう。

 このように不自由な宮の日常のご生活は、ただ明け暮れ猿の声と松吹く風、彼ら忠臣の他にはこと問う人もない寂しさ。夜毎夜毎の夢にも都の空がしのばれ、北条の無道を憤られる涙には枕の乾く暇もなかったこの王野のお住まいを、有井・大平等はいかにも恐れ多いことに思い、そこで彼等は三たび目の地、有井の庄内米原へお遷しすることになったのである。
 宮も快くお聞き届けになり、有井・大平等に打ち護られて王野山の御所を出発された。行く手には中尾山の急坂、すなわち今の「王ざこ」の険しい道があった。又その先には絶壁の如くそそり立つ山鹿さえも通わぬ崖道、今にいう「わるざこ」などがさえぎっていた。宮は難儀されつつもそこを登り下りされて伴太郎と言う所に出られ、また箸木殿(はしきでん)のつづらおりの坂道を休み休み登り、此処で昼食をとられ、それより更に羊腸たるだらだら坂を下って有井川の上流である米原にお着きになった。

宮のお着きになった米原の御所は、先の王野山の如く人里離れた深山ではないが、人家と言えば僅かに数戸、海辺からは二里にも余る草深い田舎である。宮のご心中を常に去来するものは、過ぎし日の雅やかな都のまぼろしではあったであろう。夜な夜な里人の衣打つ砧の音を聞かれては

             聞きなるる契りもつらし衣うつ
                     民のふせやに軒をならべて(新葉和歌集)

と山家(やまが)のお住居を嘆かせられた。
元弘二年もはや暮れようとする一夜、寒月は澄み切った中天にかかり、下界の萬物は墨絵の如き地に映ずるをご覧になり、

                我が庵は土佐の山風さゆる夜に
                                    軒洩る月も影こほるなり(新葉和歌集)

と、詠ぜられた。都門の繁華を慕われ現在の境遇を嘆かれた宮であった。また、そま人の木をひく音を聞かれては我が身の上に思いくらべて、
            山人のとるや杣木のかくばかり
                       苦しき世にもひく心かな(新葉和歌集)

と詠歎され、御所の窓打つくれ竹を見られては、

                  うちなびく窓の呉竹とにかくに     
                           世のうきふしの繁き頃かな(新葉和歌集)

又、ままならぬ憂世の宮は現在の配所の身をかこたれ、夕暮れ寂しく山あいにこだまして人の涙をさそう入相の鐘をお聞きになり、
           さらでだに涙こぼるる夕暮れの
                       ねなうちそへそ入相の鐘(新葉和歌集)

暁の夢を破る鳥のさえずりを聞かれては、

                  鳥の音の驚かさずば夜と共に
                          思ふさまなる夢も見てまし(新葉和歌集)

などとも詠まれた。
かくてその年も暮れて元弘三年(1333)を迎えたのである。しかし宮は彼等両人の忠誠には感謝されつつも、ひたすらに都を恋い慕われて御所のすぐ東上の月見山の頂上に立って東方に佐賀の海、興津の沖を眺め

           春霞かすむ波路はへだつとも
                       便り知らせよ八重の高潮(新葉和歌集)

と、波にさえ都の便りを知らせてほしいとはかない望みを寄せられ、又闇夜一声五月雨の空に鳴きわたる時鳥の声を聞かれては、
                 鳴けばきくきけば都の恋しさに
                           この里すぎよ山ほととぎす

都恋しさの念切々として胸に迫り、時鳥にさえ「なかずに行き過ぎてくれよ、聞けば都恋しさのあまり断腸の思いがしてならぬ」と願われたのである。

 これより先、有井・大平等は、このような宮のご悲嘆を見るにつけても何とかしてご胸中の悩みを解き、お慰めする法はないものかと日夜苦心していたが、宮の、

           めぐりあいて同じ雲井に眺めばや
                       あかで別れし九重の月(新葉和歌集)

               わが中は八重立つ雲に隔て来て
                           通う心や道まよふらん(新葉和歌集)

などの歌によって庄司等は、これは宮が都に残し置かれたご寵愛浅からぬ典侍の君をしのばれてのことと推察し、宮の許しを得て随身秦武文をお迎えの使者として京へ差し上らせた。

京に着いた武文は都の中をあちらこちらと御息所(みやすどころ典侍の君)の在処を尋ねたのであるが、世は武家専横のさ中であって容易に訪ね当てることが出来なかった。やっとのことで嵯峨野の奥に世をひそんで居られたのを訪ね当てることが出来、お迎えの由を申し上げると、御息所も大層お喜びになられて直ちに土佐へ出発されることになった。

 兵庫の福原まで来て、明日は宮の居られる土佐の畑をさして船出することが出来ると喜んで居られる夜の事である。
にわかに御宿泊所に盗人が数多入り来って火を放ち狼藉の限りを尽くした。 武文は大いに怒り、ただ一人で数多の賊を相手に防ぎ戦っていたが、これではならんと遂に御息所を背負い、その場を逃れて海岸に出で、一時御息所をそこらの船にお隠しして置き、再度宿に引き返して賊を平らげようと、海辺に向かって船はなきやと呼ばわると、折よく一艘の船から返事があったので武文これ幸いと大いに喜び、早速御息所をその船に頼み置き、急いで宿に帰ったところ、その時宿舎はもうとうに焼け落ち、賊は引き去っていたので、武文は再び元の海岸にとって返して彼の海を探したが、御息所を託した船はそこに居らず、早や帆をあげて沖辺をさして船出したところであった。

 武文は大いに驚きその船戻せと叫んだのであるが、船からはただ笑いと罵りの声だけが聞こえるばかりで、船は次第に遠ざかるだけである。これこそ海賊の筑紫の松浦五郎という者であって、宿を襲った賊はまさしくその手下の者共であった。五郎は御息所のいとあでやかなを見て、我が者にしようとのよこしまな心からの振舞いであった。

 武文は斯()くと見るや大いに怒り、他の小舟に飛び乗り、自ら櫓をあやつって松浦の船を追ったのであるが、しかし一方は順風を得た大船こちらは手抑しの小舟、距離は刻々に遠ざかり行くばかりである。武文は残念やる方なく、今はこれまでと悲壮な覚悟を定め、松浦をはったと睨みつけ今に見よ、われ龍神と化して此の恨みを晴らさんと高らかに叫びながら、腹十文字にかき切り海のもくずと化して行った。

 松浦の船が順風に帆をあげて阿波の鳴門の早瀬に差しかかった頃、にわかに風向きが変わり潮は逆巻き上がって船を翻弄し、進まんとして進まれず、陸地に着けようにもそのかいなく、船は潮に引き廻されて、三日三夜というものその場に過ごしたのである。船人達はこれは必ず龍神が財宝に目をかけためだと信じ、有り合わす弓矢・太刀・鎧・腹巻などあまた海中に投げ入れたけれども波は少しも静まらず。さては色もあやなる衣装に見入ったのであろうかと、御息所のお衣と赤い袴をはぎ取ってこれを海中に投げ入れた。海は時ならぬ紅葉を散らし、うず巻く潮に呑まれゆくえも知れずになってしまった。
船中では誰一人として起き上がる者もなきまでに皆船酔のために船底に打ち伏して声々にうめき叫び、五郎もまたこうした貴人を奪い取ったために龍神の怒りに触れたのであろう。詮無いことをしたものよと後悔したところへ、かじ取りの一人が起き上がり皆にこれこそ龍神が彼の貴人に見入りたるためである。彼の貴人一人のために我等皆々命を落とすは残念である。早く彼の貴人を海に入れて龍神の心をやわらげ、我等の命の助かるに如くはないと。

五郎もこれを聞き、今はこれまでと御息所を海中に投げ入れようとした。この時、同船にに便乗していた一人の僧がこれを止め罪深きことは止めよ、この貴人をば小舟に乗せて海に浮かべなば龍神もかならず怒りをやわらげんと言うので、五郎もげにと承知して、小舟に御息所と水主(かこ)一人を乗せてこれを逆巻くうず潮の中に放ったのである。
すると不思議にもにわかに風が変わって五郎の船は西に吹き流されて行方知れずになり、一方御息所の船は東に吹かれて遂に淡路の武島に漂い着いたのであった。

さて米原にわびしくもまた寂しく日常を過ごしていられる宮は,武文を都に差遣わしてから後は日夜御息所の無事安着を祈られ,久々でのご対面の有様などを胸に描かれてはときめく心で一日千秋のお待ちであった。
然るに武文が都に上がってから早くも数ヶ月も立ち,元弘二年(1332年)も早や暮れて翌三年(1333)となったのに都からは何の便りもない。

 宮のご心配は一方でなく,又お側に仕える有井・大平等は慰め奉る言葉にも苦しんだ。
そこへその頃京から下って来た旅人の話しによると,御息所はたしかに去年の九月武文をお伴に都を立ち出られて土佐に向かわれたという事を承ったというのであった。さてこそ日頃の杞憂は正しく現実となって,あるいは道中で人に奪われたのか,または難船にでもあって海底のもくずと化したのではなかろうかと,この世もなくなげき悲しまれたのである。

 間もなき一日のこと,有井川の一漁師が,沖から帰る途中この沖合い二町ばかりの所にある礁(後に名を得た「衣掛礁きぬがけばえ」)に美しい衣がかかっていたとて庄司のもとへ持参した。これを手に取って見ると,これこそ去年武文が都に上がる時庄司自身がま心込めて造り,御息所に差上げた衣であったのである。

 念の中にも一縷(いちる)の僥倖(ぎょうこう)を頼っていられた宮は、もはや絶望の外なく,そのご悲嘆はまことにお気の毒であった。それから後はただ一途に、御息所と武文は共に世に無き者と思い定められて、せめて早く三界の苦界を出てすみやかに九品(くぼん)の浄刹(じょうさつ)に至れかしと、自らお経を書写され、日夜ご念仏を唱えてひたすら冥福を祈られた。
さてお衣がかの礁に掛って以来、そのお衣の模様と少しも違わぬ模様を持つ小袖貝が入野の浜に産すると云い伝えられる。

畑に於ける尊良親王の一年有余の数奇なご生活中に、全国には所々に官軍が決起して北条氏の運命も旦夕(たんせき)に迫る状態となった。すなわち楠木正成が義軍の先駆けをし、護良親王のご活躍によって九州に菊池氏、播磨に赤松氏、伊予に河野・得能氏の奮起するがあり、又親王の令旨(りょうじ)によって新田義貞、足利尊氏が官軍として之に応ずるに及んで五月七日には六波羅、五月二十二日には鎌倉が陥り、さすが専横をほしいままにした執権の高時も自殺して北条氏も此処に滅亡するに至った。

 先に情勢の好転らよって秘かに隠岐の行在所を立ち出られた後醍醐天皇は伯耆(ほうき)の船上山に名和長年の奉護を受けて居られたが、間もなく都へ還幸されることが出来た。この報はいち早く尊良親王のもとにも通達されたので、親王のお悦びは一方ではなかったであろう。やがて宮は都に帰られる準備も整ったので、有井庄司を京まで伴って帰ろうと切に望まれたが、庄司は心に感泣はしつつも余りの老齢の故でお断り申した。宮は致し方なく遂に大平弾正の息大膳等を伴われて都へ帰られることが出来たという。

 憂き節の多かった過ぎ来し方の事ども思い出されるにつけても、今のご帰京はいか程かお悦びの事であったであろう。又時に触れ折に際しては苦しかった畑でのご生活を思い起こされては、大平・有井等の純朴な忠誠の数々を如何程かうれしくも又なつかしく思われたことであろう。そして間もなく有井庄司が病死したとの知らせが都に達すると、それを聞かれた宮は大層お悼みになると共に、庄司日頃の忠誠をよみされて、その冥福を祈るため、五輪石を多数送ってよこされた。現在、有井川部落の長尾山の畝先にある庄司の墓は、宮から送られたもので出来ていると伝えられている。

都に帰られた宮は、かねて松浦五郎の難に遭われて淡路の武島に居られた典侍の君を迎えて日を過ごされて居たが、四海太平の夢は久しく続かず、建武二年(1335)十月には足利尊氏の反逆によって世は再び乱れ、中興の業はつかの間に失われた。宮は勅命に依って関東管領となり、新田義貞を随えて尊氏討伐のため東下されたが、その軍は武運つたなく箱根竹ノ下の戦で敗れて都に退陣のやむなきに至った。地方の伝承によるとこの役に畑から随って来たという弾正の息大膳は従軍して奮闘したといわれる。なお、この陣に従軍するに際し、大膳は武士の従軍は生還を期し難いと宮から賜った正宗の短刀を郷里湊川の妻(米津山城守の女、綾姫)に送って来たという

 尊氏は弟直義と共に勝ちに乗じて官軍の後を追い、遂に京都を侵したので、後醍醐天皇は延元元年(1336)正月十日神器を擁して比叡山に行幸された。そして同年正月廿七日の戦いでは尊氏の軍は新田・楠木等の官軍のために打ち破れ、遠く九州に落ちのびて京都は再び一時の平安を取り戻したので、天皇は間もなく京都に還幸になられたが、然しながら九州に逃げのびた尊氏・直義兄弟は日ならずして九州を従えて勢いを盛り返し、同年四月海陸両道から都に攻め上った。之を兵庫に迎え撃った正成は遂に湊川で戦死し、義貞も敗れて都に退いたので、天皇は再び皇太子恒良親王を随えて比叡山に避難されたのである。

 やがて天皇は尊氏の請を許し都に帰られる事となったが、なほ北陸の経営を義貞に託された。そこで義貞は恒良親王・尊良親王を奉じてその年十月越前金ヶ崎に向かって出発した。途中木目峠での猛吹雪の遭難は筆舌に尽くしがたく、凍死する者また数知れぬ有様で辛うじて金ヶ崎の城に入ることが出来たのであった。しかし義貞の北国経営は意の如くならず、城は遂に数萬の賊軍に長囲の計を以て包囲され、城中の将士は次第に糧食が尽きて、或いは川の魚をあさり或いはいそ菜を採って其の日を過ごすばかりとなった。いなそれさえもが途中賊兵にさえぎられて今は何一つ頼みとてなく、金ヶ崎城の陥落は旦夕に迫ったのである。

 このように城中では宮を始め皆食に窮したので、毎日大事な名馬まで二頭ずつほふって(屠って)食としていが、遂にそれも尽きてねずみを捕えあるいは壁土を食としてようやく城を保つという有様で、将士は皆飢餓に堪えかねて刀持つ力さえなく、全く餓鬼地獄さながらの有様であった。

 そこで義貞は一旦城中を脱出して杣山に入り、味方の軍勢を促して賊軍を追い払おうとの決心から、延元二年(1337)三月五日の夜半主従僅かに七騎が城中を脱出したのである。ところが賊軍は城中に糧食の尽きたことを知り、三月六日の六ツ時を期して一成に大攻撃を開始した。城中の兵は防ぐ力なく、ただ切歯しながら敵のなすがままに任せるより外なかった。

この有様を見て新田義顕は尊良親王の前に参り合戦の様今はこれまでと覚え候。我等力なく弓箭<キュウセン>の名を惜む家にて候間、自害仕らんずるにて候。上様の御事はたとへ敵中へ御出候ふ共、失ひ進らするまでの事はよも候はじ、唯斯様にて御座あるべしとこそ存候へと涙ながらに申し上げると、宮はいと快げに打ち笑ませられ主上帝都へ還幸成りし時、我を以て股肱の臣たらしむ。それ股肱無くして元首持つことを得んや。されば吾命を白刃の上に縮めて怨を黄泉の下に報いんと思ふ也。抑自害をば如何様にしたがよきものぞ。といわれたので、義顕は感涙にむせびながらかように仕るものにて候と申して言いも終わらぬ中、刀を抜いてさか手に取り直し、左わきばらに突き立ててから、右のあばら骨二三枚かけてかき破り、その刀を抜いて宮の前に差し置き壮烈な一生を終えたのである。

宮はその刀を執ってご覧になると、柄口が血ですべるので衣のそでで刀の柄をきりきりと巻いて、雪のように白い膚をあらわし、胸のあたりをただ一突きに突き抜いて義顕の死体の上に打ち伏された。お側に居った者ども三百余人はみな同音に念仏を唱えてから、それぞれ宮のお共をして壮烈な最期を遂げたという。

実に尊良親王はただに歌の宮だけでなく、その詩人であった上に、また真の英雄でもあったといわれよう。ともかくまことに数奇な運命に終始された宮であった。

参考文書:大方町史(大方町教育委員会編昭和38年発行版)
○大日本史○太平記○増鏡○土佐紀要○国史大事典○高知県史要○安光南里書○南路志・・等を参照
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