月字の額
歴史に興味のある方もそうでない方も,「紀貫之」をご存知のことと思います。延長8年、60歳の高齢で土佐守として赴任し,公務を行うかたわら、「新撰和歌集」の編集に従事,年間の任期を終えて帰京している。帰京の途中の55日間に「土佐日記」を書き,また「古今和歌集」の編纂でも有名である。後述は大方町史から抜粋

伊田の松山寺
(明治初年の廃仏棄釈で廃寺となり、その後復興して観音寺と称し、国道沿線に移っている)には、紀貫之の書と言われている月字の額が残っていた。
観音寺は無住の寺であるため,月字の額とそれに関係した文書類は,現在,伊田部落の区長宅に保管されている。

この「月字の額」は、紀貫之が土佐守として比江の国府に在住していた時、自ら書して庁舎に掲げてあったものが松山寺に移されたと伝えられてきたが、貫之が幡多路へ巡察の足を伸ばしたことがあって、そのおり、松山寺へ立ち寄って書き残したものかもしれない。

ある年の暮れ,松山寺の煤掃きの際,梁上に片付けてあったこの扁額を寺僧の誰かが不用物と思って塵焼き場で焼き棄てようとして気がつき,その焼け残りの「月」の一文字のみを取り上げて置いてあったものを,
たまたま「尾池春水」が見出したものである。

尾池春水」は、後に幡多郡奉行となった政治家であり又歌人でもあるが、天明元年(1781)の春、高知への道中に松山寺松山寺に立ち寄って一泊している。
その時、住持台浄に、かねがね聞き及んでいた「月字」を見せてもらった春水は、これは紀貫之の真筆に相違ないと言って、その搨本(とうほん)を作り、京都の日野大納言資枝に送って鑑定してもらったのである。資枝は確かに貫之の筆になるものであるとして、所懐を一首和歌に託して送ってきた。

    世々遠くあるかなきかの影とめて
        月をかたみの水くきのあと

春水が寛政3年(1791)に書いた「月字額之記」と、同年篆刻(てんこく)の副本を作成した作成したおり書いた月字墨本後序」も現在も伊田の区長宅に保存されている。また、月字の額を天下に顕彰した春水の徳を讃えて松山寺の住持龍昌がその遺歯を埋めて建てた「えい歯の碑」が、松山寺の後身である観音寺に現存する。

尾池春水は文化10年(1813)に没したが,それより後30年余りを経た弘化2年(1845)の貫之没後900年忌にあたり,一橋家の執事野々山市郎左衛門包弘という人が,貫之の月字の搨本(とうほん)を手に入れて感激し,更にそれを模刻して諸方の文筆愛好家に贈って,それらの人々から和歌を求めて一帖を作り,これに「月字和歌集」と題して松山寺に奉納した。
上質の紙に筆写したその和歌集が,現在色なお新しくこれも伊田区長宅に保管されている。

この和歌集の序文は、和文では再昌院法印北村季文、漢文では朝散大夫源司直というふうに、紀貫之の撰した古今和歌集の序文形式に習っている。

作者は、一橋家に近い家筋の田安大納言斉匡、宰相慶頼父子をはじめとして、朝臣・法印・法眼・布衣・名家・検校・藩士・浪士に及び、一人一首で総計百三十七首、みな月字の額を詠んだものである。
その中から筆頭の歌三首

   かげ高くあふぐにつけて照る月の
        ひかりのこれる筆のあとかな 田安斉匡

   年経てもかわらぬものは月影と
        高きこころのひかりなりけり 田安慶頼

   ふりせずもさやけき秋の影とめて
        後の世てらす月とこそ見れ  松平斉典

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