朝鮮国女の墓大方町史より
太閤秀吉の朝鮮出兵についてはご存知のことと思いますが,その影に日本文化に寄与した面と悲哀があることを御存知でしょうか
有田焼,薩摩焼,萩焼などの陶磁器の文化は,朝鮮から連行されて来た陶工達によって始められたことは有名ですが,陶工達にとっては迷惑至極なことであったと想われる。
長宗我部軍によって土佐へ連行された朝鮮慶尚道秋月城主朴好仁ら30名は,山内氏入国後,浦戸から高知城下へ移住し,豆腐商いの特権を与えられ,高知城下の営業を独占したと言う。彼らの住居した町を唐人町と言い,その町名は今も残っている。
大方町上川口から出兵した小谷与十小郎が,職工として連行した朝鮮国女も,幡多地域の機織り技術の向上には,大いに役立ったのではあるが,見も知らぬ異国へ連れてこられた朝鮮国女自身にとっては,言いようのない不幸な境涯であったわけである。
上川口駅の近くにある朝鮮国女の墓は、反戦平和を願う大方町民の拠りどころとして、いつまでも大事に守ってゆきたいものである。
昭和56年(1981),元大方町長小野川俊二氏等世話人の奔走と、在日朝鮮人総聯合会高知県本部の協力により、「朝鮮国女の墓を守る会」が結成され,なかば放置されていた墓域を整備し、この墓の由来を刻んだ碑文を墓域の中に建てた。碑の文は「朝鮮国女の墓を守る会」の関田英里会長の撰したものである。
朝鮮国女墓の由来
往昔文録慶長の役に出陣した長曾我部元親に従って朝鮮国に渡った入野郷上川口村の土豪小谷与十郎は,帰国にあたって若い機織りの女を連行してきたという。
彼の国の進んだ機織りの技術を近郷近在に広めた彼女は美しく優しく,土地の人々に愛され慕われたと言い伝えられている。
祖国朝鮮への望郷の念を抱いて寂しく異国の地に果てた機織女は,上川口村桂蔵寺の小谷家の墓域に葬られた。墓碑を建てたのは与十郎の四代子孫小谷安次である。
天正年中来と刻んだのは,文録慶長の役の強制連行の痛ましさを隠したかったからであろう。卒年を刻んだのは尊徳の念からと思われる。
代々,土地の人々に守られてきた墓は桂蔵寺跡から,移されて現在地にある。
いま,この朝鮮国女墓を世に顕さんとするわれわれの志は,この悲劇の一女性の霊を慰めるとともに,それを通して,日本と朝鮮両民族の友好と連帯を誓うところにある。
1981年7月7日 朝鮮国女の墓を守る会
「朝鮮国女の墓を守る会」では、結成以来毎年秋、墓前において慰霊を行い、朝鮮国女の霊を慰めるとともに、式終了後、上川口集会所などを借り、簡素な懇親会を開き、地域の有志ともどもに、友好を深めている。
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大方町史より