山本倉丘
本名伝三郎。明治26年(1893)10月12日、大方町伊田に生まれる。
伊田尋常小学校、入野高等小学校を卒業後、高知市の呉服店の店員として働いたが、絵が好きで独学を続け、大正7年(1918)京都に出て山元春挙の画僕となり、画塾早苗会に入って本格的に日本画を学ぶようになった。

大正15年、第7回帝展に「麗日」が初入選、その後も帝展に続けて入選、花鳥画(動物を含む)を次々に発表して日本画壇に揺るぎない地歩を固めていった。この間、京都市立絵画専門学校に入学、昭和8年(1933)に卒業した。

第14回帝展では「菜園の黎明」が特選を受賞、昭和11年京都在住の画家池田遙邨・上村松篁その他と水明会を結成。

昭和18年師の山元春挙没後は早苗会も解散し、翌年義兄堂本印象主宰の東丘会に入塾。戦後は日展をはじめ東丘社展・京展・関西展等に次々と力作を発表し、注目を浴びた。

昭和28年の第9回日展で初めて審査員となり、以来度々審査員をつとめ、33年に日展が組織替えして社団法人となると、評議員に就任して日展の発展に尽くした。

36年には紺綬褒章を、41年には前年の日展出品作「たそがれ」により日本芸術院賞受賞、49年には日展の参与に推挙され、勲四等旭日章を受賞、55年には日展参事に就任、名実ともに日本画壇の重鎮と目されるようになった。

倉丘の画風は、戦前期において伝統的な花鳥画をきびしく追求し、戦後は油絵を中心とする西洋的な方法を取り入れるようになって華麗な世界を展開し、しかも毅然たる品格が漂っていると言われている。

昭和58年(1983)4月、百号前後の大作47点(時価約20億円)を高知県に寄贈し、県立郷土文化会館で「山本倉丘展」が開催された。
その中の代表作として「」・「黄昏」・「爽日」・「刈田」などが挙げられる。
倉丘の作品寄贈が動機となって、高知県立美術館建設の気運が盛り上がった。

郷土大方町の入野松原に、昭和58年建設された「ふるさと総合センター」の大ホールの緞帳どんちょうの絵「翔」は、倉丘の作である。

山本倉丘氏 平成5年没

倉丘の長男山本知克(昭和2年生まれ)もまた日本画家として活躍している。

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花菖蒲
山本倉丘  八重椿
絹本 共箱   竪42.2糎 横50.7糎
時価:1,000,000.

高知県幡多郡大方町入野 ふるさと総合センター大ホール(ステージ)の緞帳は山本倉丘画伯の「翔」が描かれている