魅 館 果 汁
<99年10月中旬>
10月20日(水)
防衛政務次官の発言とやら。
日本も核武装した方がええかもわからん、と雑誌プレイボーイのインタビューでしゃべってしまったというお話だが、これだから日本の政治家の想像力の貧困さにはあきれてしまう。
非核三原則を国是とし、自衛隊問題でも微妙な立場を取っている政府にあって、その一員であるという意識が全くなく、自分の発言がどういう事態を招くか考えることができないんじゃなかろうか。
プレイボーイ誌上では大川興業の大川総裁がインタビュアーだったようだが、そんなことで油断したのでもあるまいに。
しかも、言うに事欠いて強姦を喩えに出して、法律による抑止力がなかったらみんな強姦魔になってしまうという。
そういうレベルの問題か、というのもあるが、あんたは法律で禁止されてなかったら強姦しまくるんかい、といいたくなる発言だ。
喩えだといいたいんだろうが、そんな抑止力がなくても倫理道徳として強姦なんかせんやろ、って話にどうしてならないんだろう。
政治家などといっても所詮、低俗。
小さな集落の寄り合いくらいは仕切れても、国を動かす器じゃないことを喧伝しているようなものだ。
国会答弁の表舞台の補佐役として重要な役割を果たすべき人材にこんな人をあてがってるから、国民から見放されていくんじゃないのか。
大阪選出らしく関西弁でインタビューに答えていたらしいが、まったく大阪ミナミで酒に酔って気分ようなったおいちゃん以下のレベルに聞こえて、なんともその関西弁が気恥ずかしい。
昨日、『毒笑小説』(東野圭吾)を読み終え、今日、『とらわれびと』(浦賀和宏)を読了。
浦賀和宏はこれで最後にしてしまうかもしれない。
10月18日(月)
残暑が終わったと思ったらあっという間に肌寒く、秋はすでに過ぎにけり。
スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋といろいろな表現をされるが、人恋しい物思いの季節でもある。
いつのまにか高く澄み切った蒼穹。
突然のように帷が降りて訪れる黄昏時。
夏が過ぎて秋を迎え、時の流れは静謐になる。
そして冬を待つまでの間、人は温もりを求めて次第に優しくなるのである。
一人きりの夜は虫の声に聞き惚れる
この広い闇の片隅でもの淋しげに鳴いている
空気を酔わせる憂愁の声
宇宙に広がる無限の響き
その波動が鼓膜を震わせリンパ液を波立たせる
電気信号に変換されて神経回路を通り大脳に伝えられる
ただそれだけでもの憂げにさせられるのだ
憤怒も憎悪も和らげられるのだ
だから――
虫の声の聞こえない夜は一人きりでいられない
時を刻む単調な音が体内に蓄積されていくから
こんな夜なのに、読み終えたのは『怪笑小説』(東野圭吾)。
そして『毒笑小説』(東野圭吾)と『とらわれびと』(浦賀和宏)を併読中。
10月17日(日)
地方祭で朝からドンドコ太鼓がにぎやかである。
数日前から腰を痛めて動くのが辛い。
しかも、日を追う毎に悪化している。
急に寒くなったあおりで少し風邪気味なのだが、くしゃみをすると痛みが走る。
その程度なら仕方なかったのだが、車に乗っていてアクセルワークの度にずきずきするようになってそろそろ我慢の限界となった。
医者にいかなきゃいけないかなあ。
キーボードを叩いていても辛いので、今日はこのくらいにしておく。
読書についてだけ覚え書きを。
『幻想運河』(有栖川有栖)は14日に読了、15日から読み始めた『頭蓋骨の中の楽園』(浦賀和宏)を今日読み終えた。
相変わらずよくわからない作風であるが、これまでで一番よくできた作品だと聞いて読んでみることにしたわけだ。
感想は魅館箱にて。
それから昨日『怪笑小説』(東野圭吾)、『毒笑小説』(東野圭吾)、『臓器農場』(帚木蓬生)の3冊を買った。
東野圭吾は、少し前にTVで放映された「世にも奇妙な物語」の中の「マニュアル警察」がこの短編集にあると聞いて買い込んだ。
10月14日(木)
死について、少し(昨日のつづき)。
はっきりいって、死ぬのは嫌だ。
絶対に死にたくない。
よぼよぼになって生き恥を晒すくらいなら死んだ方がましだ、という人もいるが、私にはそう思えない。
怖いのだ。
そんなことで自分を飾っても仕方ない。
素直に恐ろしいのだ。
一体、死に臨んで何が怖いのか。
大きく分けて3つあると思う。
1つは肉体的な苦痛である。
これは誰もが感じることだろう。
2つめはこれまで自分が愛し信じてきたものと別れなければならない苦しみである。
死ねばどんなに愛する人も、心を支えてきた物も、我が肉体とさえも別離しなければならないわけで、これが苦しみでないという人は想像力が足りないといわざるを得ない。
そしてもう1つは、死んだ後どうなるのかわからない不安である。
地獄か、極楽か、あるいは無か。
まったく本当のことがわからないで真っ暗闇の中へたった一人で追いやられる怖さは、ある意味、最も嫌なのではないだろうか。
宗教とは死をいかに解決するかを示した教えであるといってもいいだろう。
死はすべての人に訪れ、すべての幸せを打ち砕く。
したがって、真剣に人生を考えた場合、死を抜きにしては語れないはずであり、そこに何らかの解答が与えられていなければ人生は空しい。
多くの宗教は死んだ後に幸せな世界に生まれ変わるにはどうしたらいいかを教える。
すなわち3つ目の苦悩の解決をもたらそうとするのだ。
それがあまりにも昂じた結果が今の"死んだら極楽"という寺の戯れ言になっているのだろう。
しかし、本当に死んで極楽に行けるのなら寺への布施でも寄進でも進んでやってあげようと思うかもしれない。
それをしないのは信じられないからなのだ。
と同時に、まだまだ先の話だからといって真面目に取り合わないからでもある。
死が怖いといいながら、自分が死ぬということが信じられないのも事実である。
100歳ともなれば死んでいてもまったく不思議ではないし、多分死んでいるだろうと頭の中で納得するが、心底そんな風には思えない。
死にたくない気持ちの裏返しなのかもしれないが、だからこそ死と真っ正面からぶつかって真剣に考えようとしないのだ。
そんなわけで、私にとっての死はまだ対岸の火事であり、机上で空論を闘わせる程度の出来事に過ぎない。
それが真剣に人生を考えている態度なのかといわれると辛いのだが……。
死を取り扱うことはとても難しい。
他にもいろいろと考えていることはあるが、このくらいにしておこう。
いずれにしても真剣に取り組むことが大切で、自分にはまだそれが足りないということだけははっきりしているようだ。
10月13日(水)
三浦綾子さん、死去。
といっても、まともには1冊も読んでいない。
「氷点」「塩狩峠」「泥流地帯」など名著と呼ばれる作品は多いが、キリスト教信仰に基づいている点が手に取らない理由のひとつだ。
はっきりいって嫌いなのである。
仏教には興味を持っている。
キリスト教とは圧倒的に深さが、そして広さまでも違うのだ。
ここでキリスト教批判をするつもりはないので、これ以上はいわない。
しかし、仏教である。
教えは深遠で広大なのに、日常には葬式法事でしか係わってこないのはなぜだろう。
寺の仕事がそれらを主にしているからではないのか。
ありがたいありがたいと言って金儲けに奔走しているからではないのか。
実家には仏壇がある。
浄土真宗では神棚をおかないし、正月の門松も立てないといわれ、その通りにしてきていた。
しかし、なぜだ、という話は誰からも聞かされない。
毎日、お仏花を代え、お仏飯を供え、南無阿弥陀仏と唱える。
それに何の意味があるのかと問われれば、先祖供養という言葉が返ってくるだけ。
それが仏教なのか。
死んだら自分ではどうしようもないから、生きている人に助けてもらわないと幸せになれない。
死んでから手厚く弔ってもらえるように、生きている間に善いことをせよというのか。
笑ってしまうね。
浅い、浅い。
こんなものは仏教じゃないだろう。
宗教というのは、実はものすごく人に影響を与えるものだと思う。
無宗教といわれる日本人だが、決して何も信じていないのではない。
金を信じてみたり、家族を信じてみたり、科学を信じてみたり、幸せになろうとして求めているものはすべて信仰の対象なのだ。
ところが、それらがことごとく相対的な幸福であって、いつか裏切れらるものだから、本当に幸せだと喜べない。
そこに宗教の役割があるはずなのだ。
決して安易に神や仏に頼るという意味ではない。
生きていく目的を与えてくれるもののはずなのだ。
今、宗教と言うとオウムや統一教会などの新興宗教は裏で何をやってるかわからない怖い集団であり、既存の歴史ある宗派は目的が薄まってしまっている。
その一方で"癒し"などという言葉が流行っている。
これが宗教の怠慢でなくてなんだろうか。
逆に宗教なんていらないよと思っている人も多い。
そんな人たちは何があれば幸せだと思っているのだろうか。
そして、宗教のことを本当に知っているのだろうか。
なんだかとりとめのない主張だなあ。
まあいいか、こんな日記があっても。
といいつつ、書き残したことがある。
死についてだ。
これは覚えていたら明日の日記に書こうと思う。
10月12日(火)
カクウのフユウさんのテープを聞く。
遊佐未森との出会いはある意味で衝撃的だった。
それまでの音楽の聞き方からすると決して続けて聞くことなどありえないタイプなのに、なぜか虜になってしまった。
歌声が音楽と一体となり、渾然とした世界を紡ぎだす。
曲の波に心を委ね、身体を浮かべ、緩やかに解放されていく。
すでに10年も前の話である。
フユウさんの声は遊佐未森を彷彿とさせ、カクウの音楽は空耳楽団に重複する。
しかも「匣の中」や「恋死館殺人事件」はミステリ好きの連想を豊かにしてくれる。
架空の力学、境界音楽。
「すぐそこの遠いうた」
それがカクウの方舟(ハコブ音)。
私はどこにいて、いつを待ち、何を求めているのか。
見えているのか。
聞こえているのか。
知っているのか。
匣は閉じているのか。
激しく、狂おしく、焦がれているのか。
叫んでいるのか。
嘆いているのか。
恋しているのか。
匣は……匣は、開くのか。
殺してしまいたいのか。
細くしなやかな腕で強く抱きしめて、その白い頚を絞めてしまいたいのか。
怜悧な刃物の輝きで、その温かい心臓を抉り出したいのか。
深く静かに眠らせて、淡く青い錠剤で呼吸を止めてしまいたいのか。
真っ赤な血の色をした唇で、死の接吻を交わしたいのか。
愛するがゆえに。
永遠の愛を勝ち獲るために。
そう言い訳したい自分自身の誇りのために。
そして、何もかもを詰め込むのか。
匣の中には、希望が残った?
それは私の、希望?
あるいは、絶望?
快楽か?
失楽か?
現実か?
幻想か?
生か?
死か?
探偵を待っている。
私が?
君が?
それとも……誰が?
10月11日(月)
阪神球団に実弾郵送。
という新聞記事を見てびっくり。
9月15日にはキャンプで使っている高知安芸のホテルに実弾3発が撃ち込まれ、26日には球団に実弾、10月9日にはデイリースポーツ本社に実弾と脅迫状が郵送されたという。
詳細は不明のようだが、タイガースファンには気分の悪い事件である。
確かに今年の阪神は浮き沈みが激しかった。
野村監督を迎えてチーム再生に乗り出したはいいが、戦力不足は否めず、だましだましの1年だった。
開幕直後はやっぱり今年も大したことはないなあ、という戦い振りだったのが4月後半からよくなりだして、6月には1週間ほどではあったが首位にも立った。
ところが落ち始めると早い。
同じ時期に調子のよかった広島がずるずると落ちていくのと連動するようにじわじわと負けを重ねていって、9月末には結局最下位にまで転落。
今年も定位置を確保することが決定した。
お陰でセリーグ6球団で唯一全順位を経験することになった。
選手個々では、遠山が鮮やかに再生したのを除けば、矢野が正捕手を射止め、新庄の三振が減ったくらいしか活躍は目立たない。
確かに田中や塩谷といった若手の伸びや新人の福原の頑張りはあったが、和田、大豊、メイと次々監督批判が飛び出したり、チームとしてのまとまりには欠けていた。
しかし、当然1年目からうまくいくはずがないので、来年以降を見据えないと野村監督もかわいそうだ。
とにかく、実弾というのだからそんじょそこらの人たちのできるわざではない。
真相をはっきりしてほしいとは思わないが、これ以上エスカレートしないことだけを願う。
今日は久しぶりに映画館へ行った。
お目当ては遅まきながら「マトリックス」。
あっという間の2時間だった。
キアヌ・リーブスもいいけれど、キャリー-アン・モスのかっこよさにほれぼれ。
それにしても格闘ゲーム的映像には、複雑な気持で唸ってしまった。
JOMOカップはやっぱりバッジオ。
ゴールは2つとも芸術的だったし、遊び心たっぷりのパス、ドリブル、シュート。
さすが、格が違うね。
レオナルドもよかったけれど疲れてたのかも。
日本人チームはオリンピック最終予選に若手を取られたせいで、ベテラン揃いといえば聞こえはいいが、見劣りするといわれても仕方ない。
まあ、お祭りではあるんだけれどもね。
夜は「HEY!HEY!HEY!」で坂本龍一を聞いて満足。
懐かしい「tong poo」とCMソングにもなった「energy flow」。
それにしても、娘に"教授"って呼ばれる坂本龍一って、若貴に"親方"って呼ばれる二子山親方みたい。
読書は『左手に告げるなかれ』(渡辺容子)を終えて、おととい買った新刊『幻想運河』(有栖川有栖)。
こうして振り返ってみると昨日に続いていい一日だったかな。