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- 龍のしっぽ -


いつものように雑に書きなぐったものを数冊の本と一緒に送ると「これ中々面白いから節分近いしHPにアップしよう」という事になりました。(ちなみに、これだけじゃなく、いつも面白かったのですが…。笑)

今回は節分が近かったので、節分と言えば鬼だなぁ〜と考えていたら、ふと、いわゆる変性自我と言われエゴと呼ばれるものを自分の中の鬼というように考えてみたら面白いのかも!と思い付いて書き出したものです。

ですから、この試みとして『霊魂』を二つに分けてみるなどの思いつきが今回はありましたが、もう『霊魂は二つに分かれている』と結論を出した訳ではないので、一つの可能性へのチャレンジとご理解頂けると幸いです。

 

私は、人間と宇宙の関わり、見えない領域の探究を進めるほどに、自分自身を知ることの重要さを悟り、最終的に今回の一連の取組みを飛ばしては先に進めない事に気づきました。

 

今回は自分の中の鬼の顔としました、いわゆる変性自我を克服し決別するという取り組みです。この自分の中の鬼の顔を見つけ出すごとに、人生の謎や矛盾や真相が解かれ始めています。私にとってもこの一連の取り組みは、全く予期せず期待とも程遠いものでしたが、今までのどんな説得や言い訳も一瞬にして打ち砕き納得させるだけの威力をもっていました。そしてこれからどうやって生きて行けばいいのかに気づかせてくれるのでした。『汝を知ること!』この言葉に尽きますが、本当に自分の謎や矛盾が解かれていくと同時に、宇宙や神のことやあらゆる謎が知らされていくのです。もしかしたら、皆さんの中に同じような事に取り組んだ場合、自分の中の隠されていた影の声を聞き明らかになるごとに、その自覚症状化した痛みや不快感が暫くの間続くことがあるかも知れません。でも、それで嫌になったり不安になっても諦めないで欲しいのです。今私を通過している不快な症状は、人やものなどに私が与えてしまった不快です。自分の蒔いた種は、自分が刈り取る事になるといいます。

が、今回のところは、自分が蒔いた豆は自分で食べて消化させるにしたいと思います…(笑)。

私達のバラバラになってしまった力を取り戻し、しっかりと自立した人となり生きられるように、誤解を恐れない気づきたちが、少しでも皆さんの真の姿を取り戻すキッカケになれたらと思っています。

 

今、新しい考え方や新しい認識や気づき、突然分かり出してきたという感覚を体験している方がとても多いだろうと感じています。一連のプロセスが完了し完全なる癒へと立ち上がり、みなさんと共に輝く未来に向かって手と手を繋ぎ合える日が訪れますように、お祈りしています…。

 

もう何年もこの類の書状や話に、主人は懲りずにいつも付き合ってくれます。探求の旅を続ける上で最高の大切な私のパートナーです。(正直なところ、ずっとこう思って来たわけではなく、そう思えない辛い時の方が多かったです。でも出会った頃から忘れられない思いがありました。私が漠然とずっと帰りたかったところに私を連れて帰ってくれる人だ…という思いでした。この思いが何のことを指していたのかも最近徐々に分かって来たのでした)。私達が一緒に帰ろう、次へ進もうと思った時に、それぞれに出来る事があるのだろうと思うのです。

 

私は10年かかって、やっと、やっと分かり始めたという実感の中で今も毎日探究を続けていますが…。この10年での大きな学びの一つは、答えを得るには、まず問いを生み出さなければならないということでした。そしてその問いは常に自分に問いかけるべきであって、その答えも自分で受け入れるべきだということでした。

 

あなたの中で、新しい問いかけが一つでも多く生まれていくことを願っています。

 

 


                   (二千八年二月節分を控えて…)

【鬼退治を解く!】

(人間の可能性を探究する上で私たちに訪れた気づきから独想としてまとめたものです)




私たちは、見える物質的体と、見えない心・感情・思考というような世界に同時に属しており、見える存在と見えない存在、見える世界と見えない世界が関わりあって今人間として生きていると考えてみました。

 

しかし私たちの多くは、見える世界だけが現実で、見えない世界はなぜか触れることのできない、触れてはならない領分なのだと合意しているかのような生き方しかして来なかったように思います。

 

ところが、ある年齢を過ぎると大体こう考え出します。

 

何か納得できないなぁ…。

何かへんだなっ!

何か違うんじゃないかぁ…?

こんな人生だったはずじゃないんだけどなっ…。

 

と、このような疑問がわいてくる。

 

でも人生とはそんなもんなのだろう…、と思ってしまったら、その先に何か新しいものを見つけることは難しくなります。

 

しかし、何かがあるのです。

多くの人が同じようなことを考え出すのだから、必ず何かあるのです。

あるから、そう思いつくのだと私は考えました。

 

逆に、私たちはその事を…、その何かを見つけるために此処に何度も生まれて来るのではないか?

 

そうすると、その問いかけをいつまでもボヤけさせていられなくなります。

 

この一人ひとりに起きる、漠然としたものへの追求…。

これが見えない世界を知るための第一歩となるのです。

 

見えない世界の仕組みや構造を知りたいのであれば、自分の見ることのできない心・感情・思考という部分があることに気づいてみる必要がありました。

 

しかし、他人の心や感情や思考も、自分のその領域が見えない不確実さであるのと同じく比べようもなく、「大体こうだろう…、こんなもんだろう…」と探り合いながら人間関係が成立しています。

 

もっとじっくりと相手を見抜かなければ、

私は騙されるかも知れない…。

裏切られるかもしれない…。

損をするかも知れない…。

などと考えて、

 

相手の仕草を見、

相手の動きを見、

相手の表情を見逃さないぞ!と…、

 

相手の言葉のちょっとした矛盾も聞き逃さないぞ!と…、

平静を装いながら必死に観察するようになっていきました。

 

自分も相手に本心を見抜かれないように、

あれやこれやの手を常に尽くしています。

そして沈黙も怖いのです。(笑)

 

だから私も含めて多くの人は、

もう疲れ果てているのだと私は感じ始めました。

 

そこで「ハッ」と気づきました。

本心を見抜かれないようにぃ…???

 

そもそも、どうしてそんなことをしてみんな生きているのでしょう?

見えない心や感情や思考の世界です。

 

どうしてそこを取り繕い、隠し、見抜かれないように必死になるのでしょうか?

いったい誰が誰に、その世界を隠しているのでしょうか?

 

実は私が、私自身の見えない心などの世界を知らないからではないのですか?

見えない世界は隠されているから見ることができないのではないのですか?

 

「ん…?」、

・・・・・どうしたことでしょうか・・・・・

私に誰かが疑問を投げかけてきます。

いつの間にか…、私の問いかけのはずが…。

 

私はいったい誰…?

・・・(混乱)・・・(汗)・・・

問いかけてくるのはいったい誰…?

・・・(苦笑)・・・

 

そしてある日、大胆な気づきがやって来ました。

まずは、見えない世界が、心や感情や思考の世界だとします。

そして、見えない世界に、意識やエネルギーと言われている世界があります。

 

「これは同じものなのではないのか!!」

という直感です。

 

それならば、私たちに氣やエネルギーなどが見えなくて当然です。

私たちの多くが、自分の心の領域にすら、まだ足を踏み込み始めたばかりなのですから。

 

そうすると同じ答えに戻って行きます。

 

自分の見えない心といわれる領域を完全に知ることができれば、私は氣や意識やエネルギーの見えない世界を知ることになるのでは…。

 

「それは同じものだった!!」・・・と。(驚)

 

私は肉体として生きているのだと思っています。

そしていつか死ぬのだと思っています。

 

ところが、死んでも霊魂は不滅だと言われています。

 

私の見えない霊魂の正体とはいったい…(ハッ)…

率直に大胆に、「それは私の心や思考」ということに…なってしまったのです。

 

私たちは今までこの肉体だけだと思い、

この肉体が私だと信じて生きてきました。

 

しかし私には、

心の領域 = 意識とエネルギー = 霊魂

という存在が宿っていました。

 

霊魂は不滅だとすれば…、

私がこれから不滅の霊魂とともに意識的に生きるのであれば…、

私は死ぬのでしょうか?

どの時点で死ぬのでしょうか?

 

霊魂は何のために私に宿り、

何が終わったら私から去っていくのでしょうか?

 

肉体は物質体だから、年老いたか、病気になったりして、

また何等かの事故に遭うなどで死んだときにでしょう?

 

と、あなたは言うかもしれません。

でもそれは物質的常識側からの考えです。

 

私には霊魂が宿っており、

私はその霊魂でもあると知りました。

そう知ってしまうと、

物質世界だけの考え方がとても限定されていると感じるのです。

 

何を知り、何かを受け入れ、何を信じることにするかによって、

こんなにも考え方が変化するのだと実感しました。

 

霊魂は何のために肉体に宿り、

霊魂としては何が終わったら去っていくのでしょうか?

霊魂とは心や感情や思考でした。

そしてそれは意識とエネルギーでもありました。

 

かなり物質的な表現になりますが、

それがいっぱい詰まっているのが霊魂であり、

現代風に例えれば、記録として残すための圧縮されたフロッピーディスクのようなものでは…ないのかということです。

 

私の記録そのものであり、

私の思考そのものであり、

私の意識とエネルギーそのものである。

 

まったくそれは私でした。

 

そう考えると肉体が死んでも、

霊魂の私は肉体以外のほとんどを持ち帰れそうです。

私の人生のエッセンスは精神的に持ち帰ることができるのだと思います。

 

だから死後に『霊界通信』が成立するし、

死者は肉体以外のものは失っていないのです。

 

死者は私たちと同じく思考存在なのだと思います。

それが見えない世界。

 

生きている人間にも存在しているし、

死んだ後にも存在している、

まったく同じ存在領域なのではないかと…。

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

私は、自分の後姿を永遠に自分のこの目で見ることができません。

(鏡や写真に写して見るは当てはまらない)

 

そしてもう一つ、

自分の目では永遠にたった一度も、

自分の目では見ることのできない部分があります。

 

顔です。

 

この二つの面は、

私たちに隠されているのでは…と考えつきました。

 

この謎を解くカギが子供の頃の遊びに見つかりました。

『だるまさんが転んだ』と『カゴメ カゴメ』です。

どちらにも、ある共通点があります。

 

◎どちらも、鬼が中心か主役です。

◎どちらも、後ろを振り向きます。

◎どちらも、鬼は目をつぶり、顔を隠しています。

 

まずは…、

『だるまさんが転んだ』は、唄はこの言葉の繰り返しです。

 

どうして「だるまさんが転んだ」という言葉にしたのか

を考えても中々意図が見えてきませんでした。

 

ところが、私の好きな作業である、言葉をいったん音に戻して再構成してみると、

「『堕留魔』さんが転んだ」

となるような感じが一番落ち着き、しっくりしました。

 

私の背後には見えない領域(心・感情・思考などの)が重なり合っています。

この『堕留魔』は、堕ちた魔の本性として、

見えない領域に隠れ留まるものたちです。

 

『堕留魔』は、私が振り返り見つけようとすると、

動きを止めて見つからないように隠れてしまいます。

・・・(汗)・・・

 

しかし、私が顔を手で覆い、目をつぶっている間、

背後でゴゾゴゾ、ソワソワ、ペチャペチャ、ガリガリと、

巧妙に活動するのが『堕留魔』に与えられた仕事です。

 

堕留魔にしてみれば、そう易々と見つかるわけにはいかないのです。(笑)

 

私は何度も何度もゆさぶりをかけ、

今までのパターンを崩し、

何度でもゆさぶりゆさぶり振り返らなければなりません。(笑)

 

堕留魔が活動しているのを見つけ出し、

次々に見つけ出さなければ堕留魔は増え続け、

私を圧倒し、いつか呑み込まれてしまいます。

 

でも、堕留魔たちの活動を見つけ出していくと、

堕留魔は背後の世界から姿を消していき、

いつかは一人残らず退散することになります。

 

こうして、堕留魔たちに占領された場が、

神聖なる聖霊の場に転じていきます。

 

次に、

『カゴメカゴメ』から…、

一応、私の解釈は()で書いてみました。

(※ 正面を位置ではなく、正しい面と解釈できたときに、この唄の深い意図を知ることになりました。)

 

♪カゴメ カゴメ

(物質的世界構造)

カゴの中の

(閉じ込められた)

トリは いついつ出やる

(十理)

夜明けの晩に

(最も暗い闇世)

ツルと

(生命)

カメが

(甕←器としての人間)

スベった

(統べる)

うしろの

(背後の見えない心などの世界)

正面

(正しい面)

だ〜れ♪

(神)

 

『だるまさんが転んだ』と『カゴメカゴメ』では意図が違いました。

 

「カゴメカゴメ」は、背後の見えない領域では神聖なる活動が回り巡っているのだということを暗示しているのだと知りました。

 

背後の見えない領域の正しい活動は全て神である。

ということを伝えたのだと気づきました。

 

私に喜ばしいことが起きたときには、

全て神がなされたのだということを知るためです。

 

実は、私みずからが鬼の顔をしていたことに気づき、

私が全ての苦しいことを呼び寄せ起こしていた鬼そのものであることに完全に気づき、

うしろを振り返ると、同じ場所に神がいてくれた事に気づきます。

 

そのとき私は、神聖なる活動の輪の中に戻っていけるのです。

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

どちらも主役は鬼です。

鬼は目をつぶり、顔を隠しています。

そして、うしろの見えない背後の世界が強調されています。

 

これは素直に受け止めることができれば、

「わたし」ということになります。

 

私の正体は鬼だったのです!!

 

私の思いの姿は、背後の構造に隠されているのです。

そうです、見えない心などの領域のことです。

私たちは、うしろを振り返り見つけ出さなければならないのです。

 

取りつくろった人間の顔をした私の中に、

「鬼の顔をした私」が隠されていたことに気づかなければならないのです。

 

そしてこの鬼を主役とした遊びを子供の頃にしていたのは偶然ではなく、

ただの遊びではなく意図があったのだと気づいたのです。

 

私たちがある時期に来たら、

この遊びに込められた意図が起動するように…。

 

ある時期が来たら私たちは、

この自分の中の鬼の顔を見つけ出せるように

セットアップされていたのだと気づいたのです。

 

この現実の壁を打ち破り、打ち砕くためには、

隠れて暴れまわっている鬼を見つけださなければならない…と。

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

もうあと数年で、地球人類の一大転換の時が訪れると言われています。

その時代の中心となる年代層の多くは、

この「だるまさんが転んだ」と「カゴメカゴメ」を何度かやったことがあるのでは?

 

そして私たちが、新しい人類へと進む道標にならなければならないからではないかと…。

気づいたのです。

 

そこで子供の頃に戻って、この遊びの意図したイメージを思い出してみて欲しいと思ったのです。

 

今の世の中と私自身の人生もが、苦痛と悲しみと恐れと疑いでいっぱいなのは、

私たち一人ひとりの中に鬼が住みついているからなのではないか。

 

私は謙虚になって、一度そう思ってみることにしたのです。

 

世の中が悪なのではなく、私がこの世を闇にしてしまった闇の中の一員だったのだと…。

 

どうしても、もう変化させたい方や、世の中を本当に変えたいと思っている方は、鬼が私だったという見たくもない話を目にしてしまったという苛立ちを少し脇に避けて下さり、先に見える光に気づいてくれることと思います。

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

私はここで今回は、霊魂を二つに分けて考えてみようと「ふっ」と思いついたのです。

《霊魂といい、魂(みたま)といい、4つに分かれ、3つの働きともなれば、ひとつなり、様々にとらえどころがあるようです》

 

『魂(たましい)』と『霊詞意(たましい)』です。

この二つの「たましい」です。

 

「魂」の方は、

低次の私の「たましい」の帳面(書)だと考えてみます。

 

これは字のままに「云っていたのは鬼」=「隠れていた自分の意思」だったことから…。

いわゆる「変性自我」と呼ばれ、「エゴ」とも呼ばれる存在です。

 

「霊詞意」の方は、

高次の私の「たましい」の帳面(書)だと考えてみました。

 

目覚めた意志を行使する神聖なる聖霊。

聞く耳を持たない、しゃべる一方の鬼から、神的言葉を聞き、話し始めることのできる霊へと上昇します。

 

私たちにとって、うしろは過去のイメージがあります。

「過去をふり向くな」と「うしろを振り返るな」とは同じことを言っています。

今までは、このように教え込まれてきましたが、今は、うしろをふり向く時です。(笑)

 

それは過去を見るということです。

 

まだ若いうちは過去の要素自体が少なく振り返りようがない訳ですが、ある年齢になると過去を基準に賢く振る舞う事に抜け目なくなってしまい、そうすると、若い頃のように純粋にただ進むことが困難になって来るのです。

 

そして、山積みとなった過去に埋もれて過去の連続の中でしか生きられなくなっていたのです。いつの間にか、とても臆病で、疑い深く、怒りっぽく、焦り、体ばかりが気になり、いつも何かの犠牲になっている状態でした。

 

私が犠牲者になるには加害者が必要です、人だけじゃありません、物に対して苛つけばそれも同じことでした。

もう心の中はパニックでした。心の中は全て過去に囚われてしまったのです。

私の心も思考も世界への認識も全てが過去に属していました。

 

どんなものが過去に属するのか知り始めると、

「あっ、これも過去か、これもか…ありゃぁ…」

私は過去で成立していると言っても過言ではないと思うほどです(笑)。

 

私は、少し神経質だけど気配りの効く思いやりのある優しい人、自分でもそう思っていたしそう思われていたし、それを裏切らないように頑張って生きていました。

でも、本当に現実を背後で牛耳っていた私は全く違う鬼の顔をしていました。

 

大泣きすればいいのか大笑するしかないのか分からないほど情けないものでした(汗)。

しかしそれが今まで味わった事のない新しい感情だったのではないかと思っています。

深い嘆きのそばだけにたたずむ解放への微笑み。

 

私達は、後ろを見る必要がない限りあまり後ろは振り向きません。自分の前に広がる世界は目を開けてキョロキョロすれば見えますが、後ろを見るには振り返らなければならないのです。

 

この動きは、一つの自分の意志なのです。

 

だから、ある時期が来たら後ろを振り返り見なさいと、子供の頃に遊びながらそのプロセスを教えて貰っていたのだと気づいたのです。

 

未知なるものを探求しているとはいえ過去しか持たない者に、どうやって未知なる可能性を渡せるでしょうか…。『未知なる』側になってみれば途方にくれてしまうはずです。

 

ですから、自分の意志で過去と決別してやっと、全く新しいことを受け入れる変化の準備ができたのだと見なしてくれるのだと思うのです。

 

しかし、全く過去と決別した者に、果たしてどうやって未知なるものを既知にできるのでしょうか…。それは、全く一般的な形式ではなくなると考えられますが…。

過去の積み上げが不可能になった場合、当然分からない状態から学んでいくという従来の経過自体が成立しなくなると思うのです。

 

私は以前よりも、ただ答えが先に分かる!という状態が増えて来ていますが、全てこの状態になっていくのだとしたら、なんて素晴らしいことだろうと思います()

 

分かる知っている状態から始まっていく・・・・。その為には、神の御心のままに、私の頭の状態を明晰に純化しておくことではないかと思います。

そうしますと常に教えられつつ歩んでいけるのです。

 

私たちは、顔を隠していた手を放し、うしろ(過去)をふり向き、ふり返り、鬼を見つけ出します。

 

こうして私たちは変性自我の正体を知ります。

そして変性自我は過去を特徴としていることが分かってきます。

 

常に過去に囚われ続けて、後悔、疑い、失望、反省、否定、自他を裁き続けてきたのです。

ゆえに闇夜は、幻影の世界です。

しかし今、神世(光の世)が訪れ始めているからこそ、私たちと世界の闇の部分が光で照らされて見える状態になっているのです。

 

もしそれでも、あえて見えているものにまだ目をつぶり、耳をふさぐなら、覚醒のチャンスを失うことになってしまいます。

この場合の覚醒とは、目覚めること…、ハッキリ目を覚まして見ることだからです。(笑)

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

私たちが完全に過去を克服し許したとき、私の変性自我「魂の書」を閉じることができます。それと同時に「霊詞意の書」が開かれます。

 

「魂」が過去を特徴としていたのなら、「霊詞意」は、今この瞬間です。

過去を克服したので、時間の拘束が解かれるのだと思います。

 

(※今まで『魂という言葉』を素直に受け入れていた人にとっては抵抗ある説明なので、一時的にでも『魂』を鬼に関わるものとして解釈されてしまう事に抵抗のある方は…、多くの人は魂を込めているのではなく、こん(困・恨・混)を詰めた状態になってしまっている。『入魂(にゅうこん)』ではなく『入こん(混恨困)』と考えてみて下さい。)

 

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

「うしろの正面だ〜れ!」

私が気づいたとおりに、背後の見えない意識構造(心の世界)の正しい面だけが神。

・・・と言うことになれば、

心や感情、正しい態度、正しい思い、これらは全て神であるということになります。

 

となれば、正しい面の神以外は、私の鬼の面だったということにもなります。

 

鬼の顔…、変性自我が克服されたら…、自然と正しい面だけが残るのはないでしょうか?

 

これが時々、ごくまれにしか、神が私の中に現れてくれなかった理由でもありました。(苦笑)

そしてこれが、私の内に神はいるということではないでしょうか。

 

今までも、いつも神は私の中(内)にいてくれました。

でも私たちは、いつも悲しみに暮れ、怒りに暮れ、否定に裁きに忙しく、

神を忘れてしまっていたのです。

 

ですから、隠れていた鬼を見つけ出しても恐れないで欲しいのです。

そもそも私たちの恐れが鬼を作り出したのだと思います。

 

自分の鬼を正面切ってふり返り、

見つけ出してあげることで鬼たちは解放され、

私はそれを力として取り戻すことができるのだと思うのです。

 

恐れが完全に克服され、完了し、去った時、次に私たちを満たし始めるのは喜びです。

 

心の中で苦しんでいるとよしとし、喜んでいると白い目で見ていた時代が終わります。

 

私たちが失いかけ、嫌悪感さえ抱いていた愛が再びよみがえります。

愛は喜び事を現す魔法のようなものです。

愛が言葉で説明できないのは、そのためでしょう。

愛があれば喜びがやって来るし、

愛があれば、あなたと私は結ばれます。

 

愛とは二つのものを一つにする力です。

 

そして私が愛になれば、私自身から喜びが溢れ出し、私は輝き出します。

 

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節分に豆をまきながら、「鬼は外、福は内〜」と言うのは、

自分の内から鬼声(奇声)を外に退治して、神聖なる福音で内を満たさなければならないからではないでしょうか。

 

それが分かれるということでは…。

 

鬼を見つけ出し、区別し、分けることで外に出すことが可能になります。

自分のうちの鬼の顔を持つ面と神聖なる面とを分けなければならないのだと思います。

 

この二つに分けるという作業がいかに大切なのかと気づいた時、私の中で一つのイメージが完成しました。

 

みなさん頭の中で次の図形を想像しながら思い浮かべてください。

実際に絵を描かれると尚一層わかりやすいと思います。

 

一つの心が、

   ↓

(ハートの図形)

 

2つに分かれ、

   ↓

(ハートが真ん中からギザギザした大き目の波線で分かれる)

 

天使の翼に変化したのです。

   ↓

(真ん中から波線状態で2つに分かれたハートを、今度はそれぞれ左右に、まるで両開きの扉のようにくるりと180度開き、また真ん中に寄せてみてください。ねっ!天使の翼のできあがり。笑)

 

ですから心を閉ざさず、心は開く!!

これが大切なポイントになります。

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

そして、鬼の目にも涙…。

私は自分の鬼の顔たちを最初に見つけ出した時、怒涛の涙を流しました。

 

「今まで一つも私の思いが叶わなかったことなどなかったのだ…」

と知ってしまったからです。

 

でも鬼の正体を知る程に、鬼の目に涙がにじんでいるのを見たのです。

 

確かに自分の内に鬼がいることを認め、その鬼の姿を克服していくことは簡単なことではないですし、それぞれに掛かる時間も違うでしょうが、ある程度長い時間を必要とすると思います。

 

あまりに複雑な情報社会に巻き込まれ、その中で生き抜くために、とてもシンプルで純粋な流れを見ることが出来なくなっていきました。

 

私はあるとき人生最大の困難にぶち当たり、打ちのめされ、深い悲しみや、憤りや、怒の嵐の中、深く傷ついていました。もういくらポジティブに考えようと、無理してとりつくろっても、私の中では矛盾が渦巻いていました。

 

体調も最悪でした…。

 

ふと、もう自分で前に進むことすらあきらめた時、後ろを(過去)ふり向いたら、私の中で隠れていた鬼の顔たちが一斉にぞろぞろと私の中に姿を現し始めました。

今までもなんとなく気配は感じていましたが…、とうとう私の現実を今まで造り出していた思いや感情や思考たちが現れたのです。

 

複雑な涙がとまらない中…私は同時に笑っていました。

複雑な笑いでしたが…(笑)。

 

「やっと私は変われる!」

本当にそのことを実感できたのですから・・・(汗)・・・。

 

それはすっかり忘れてしまった「基本」でした。

 

そして間違いなく全てが変わり始めています。

世界が変わるのを待つのではなく、私から先に変われることを節分前にお伝えしたかったのです。

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

私たちは言葉を数多く、数え切れないほど学び、覚え、持ちながら、複雑なコニュミケーションをとっています。

 

それゆえに、一人ひとりが一つの言葉をどのように解釈するのかは私たちの壁となり、限界を作っています。

 

『鬼』という一文字を本当に伝え合うことはとっても難しいことです。

 

私は以前から、その言葉の意味を深く知りたいと思ったときに、その言葉をいったん音に戻して違う漢字で造り直してみたりと、面白く解いていくうちに新しい発見や真相に近づけることが多いのです。

漢字は、後からあてはめられたものですから、漢字にとらわれず、もとの音の響きに近づいていこうとしていきます。

 

例えば、

「鬼(オニ)」とは、「王似」で、王に似せてある。

         「王二」で、王として2つの働きを暗示している。

         「鬼(キ)」を克服し、「喜(キ)」へ帰ることもできるし、

         「鬼(キ)」を無視し、「飢(キ)」ままを続けることもできる。

(※「王」とは、今のところ「治めるもの…」と考えています)

 

といったように、「鬼」のただならぬ物語が見え隠れし始めるのです。

 

私たちの見えない背後の領域でも、いつも善的か悪的かの双方のあり方が存在して活動していました。

 

『天』とも呼ばれることのあるこの領域は、私たちの遥か彼方に存在するのではなく、私の心や感情や思考といった見えない背後の活動は、いつも『天』でなされていたのだと私は気づき始めました。

 

また、『神』という一文字でさえ、誤解にあふれています。

神について話をしたいのに、お互いの『神』の定義がまず一致していなのです。

 

それなのに神について話をしなければならないのなら、それはとっても誤解の避けられない時間のかかる話です。

 

まず、神とはいったいなんであるのか?

を知る必要がありますが。

 

わたしは勉強を始めてから、『神』が何であるのか知るのに10年かかりました。

いいえ、神の誤解を解くのに10年かかったと言うのが正解かもしれません。

 

たくさんの本に神は何であると書いてあるのですが…、

私には気づくことができなかったのです。

分からないことは通り過ぎてしまうのです。

 

神が・・・・であったことを知る為には、たくさんの誤解を知り、謎を解き、多くの事を学び、バラバラの断片を自分でまとめ上げなければなりませんでした。

その気づきに近づき始めて、やっとその言葉を目にした時に立ち止まることができたのです。

 

そして一度分かり始めると、面白いようにパズルははまっていきます。

 

それゆえに、自分の言葉からなる思考の世界は限りない探求の領域だと思います。

永遠に続く領域です。

 

ひとり一人それぞれが、絶対に全く同じにはなり得ないのが思考の領域です。

永遠に私たちが違う存在であり続ける構造がここにあったのだと私は知りました。

 

この一人ひとりがもつ言葉の辞書の器量や完成度によって、道が狭くなったり広くなったり、またそれで作られた個人の法によって態度や選択が行われていくわけですから、これらによって統合的に吸引と反発が起こり、居場所に常に影響を及ぼしているのではないかと考えています。

 

そして、私たち人類あらゆるもの全てが、創造主から生まれた存在なのですから、

全てのあらゆる存在が神聖であったのです。

神聖であるが故に、みな同じことで喜びあえるのでして、逆に皆が違うことでそれぞれに苦しみあってしまう理由といえるでしょうか。

 

喜びでは、私たちは一体となりますが、

苦しみにおいては、バラバラになってしまうのです。

 

私は、みんなで手をつなぎ、輪になって一つになりたいというビジョンをずっと持ち続けてきました。これはもしかしたら子供の時、手をつなぎ、輪になって「カゴメ カゴメ」を唄った頃がなつかしいのかも知れません。

 

それはそれは私が、ずっと真ん中にいる鬼だったからかも知れません。

早く手をつないだ輪の方に戻りたかったのかもしれません。(笑)

私にとって鬼を見い出すことは、想像以上の気づきであり発見でした。

 

鬼は逃げるのが特徴ですが…、

私たちも苦しくなると逃げたくなります…(笑)…。

もう道がふさがれてしまったように感じるからです。

そんな時、死の中にさえ逃げ込んでしまいたくなります。

 

ある意味では、死とは、そうゆう逃げ場所であり、救済の場でもあると思います。

だから、苦しくても追い詰められた時、死という場所に帰りたくなってしまうこともあるのだと思います。

 

でも私は、永遠なる生命の領域にも生きていることを知りました。

私が私の中の鬼の顔を克服できれば、もう逃げることも帰る必要もなくなると気づきました。

 

私は、永遠に生命で溢れ脈動し続ける領域で、永遠に存在して行くのだと、存在していって良いのだと知りました。

 

私は、この体とともに永遠に生き続けられる可能性のあることを知りました。

 

ある時から、鬼の目には涙が浮かび恥じているのを知ったと書きましたが、鬼の目がいつも赤くまぶたが腫れているのは、そのせいだったのかも知れません。(笑)

 

そして鬼は攻撃する為に金棒を持っているのではないと私は考えつきました。

鬼は私たちの変化を受け入れる心の準備ができるまで、その領域の前で門番もしてくれていたのだと知ったのです。

 

鬼には2つの役割があったのです。

 

ですから、決して節分に、

鬼に豆をぶつけて退治するのではないと私は思います。

 

自分の歳の数だけ豆を食べるのは、

年を重ねるごとに私の中の鬼達が増えていくことを暗示しているのだと私は思います。

 

豆を食べるのは、

その豆を自分自身で『消化』しなければならないということだと私は思います。

 

 

『 鬼は外  福は内 』

 

― 結び ―

 

みなさんの中には、『死後はすぐに自分の一生を巻き戻しの方向に再体験し、人生を振り返る。』と聞いたことのある方が多いと思います。

このとき、私は自分の一生を外から見ることになりますが…。

 

自分の一生のあらゆる瞬間に登場した、自分・相手・対象となったものに起こったことを、与えた者、受けた者として、どちら側も再体験します。

そのとき、すべてを見ている私は観察者(観測側)となっているのです。

 

この後、私は自分で自分を審判します。

自分で天秤にかけて重さを量ります。

天秤に自分でのせるものは『言葉』です。

天秤にのせるには、2つに分けなくてはなりません。

 

そういうことです…。

 

死後においておこなうことになっているこのプロセスを、生きているうちに取り組むことができる…。ということです。

 

ここ地球は、現実化するまである程度時間をかけています。ですから中々すべてを自分が現実化させていることに気づくことができません。

しかしもしも、ある程度の時間がかからなかったら、私たちの精神レベルでは、「あっ」と言う間に大混乱となってしまい、すべてを崩壊させてしまうでしょう。

 

私たちは直感的時間の世界で、自分の想念や思考が、どう形となって現われるのかを様々な関わりの中から学んでいたのです。

 

そろそろ、この壮大な学舎大周期の終結点を通過する日が近づいているようです。

闇から脱出して、光の船出です…。

 

これが善と悪とを自分の意志で立て分けるということだと思います。

善を知って、初めて善の誤用である悪が存在していくからです。

また悪にとっては、悪が正しいことなのです。

こうしてまた、それぞれの新たな世界が始動し展開していくのです…。

 

全宇宙は、善から始まっていたのです…。

ですから現在の地球は、善を知っているものたちの、善を誤用した虚影世界だということになります。

 

ここ地球に私たちは、自由意志が最初から与えられていたことと、その責任の重さを学ぶために来ているのです。

 

神聖とは全てが善ですから、宇宙全体存続の危機に直面する場合を除いては、善の誤用(悪)が裁かれることは決してありません。

 

「神聖=善」の中に、裁くという要素(言葉)自体が含まれていないからです。

どのレベルへ進化しようと、自由意志が優先される為に、悪の可能性も常に許されているのです。

 

しかし唯一神は裁きはしませんが、善なる神聖に反しているので、神の目には映らず、聞こえず、気にかけてももらえませんが、自らの行いのはね返りを自ら受けることになります。それでもそこにいつしか光が射していけば、その罪は減ざれ許されていくことになるので、愛善から完全に出てしまうことはできないようです。

 

このことが神聖なる進化を望んでいく存在への厳しい謙虚さとなり、善の誤用に誘惑されていく存在の無知なる弱さです。

 

そしてどちらにも、宇宙において居場所があり、役割と学びが与えられていきます。

 

今、地球全規模の立替えと立直しが一度に行われているようです。

立替えには、破壊の力が必要なので、破壊は闇の力によって動かされていきますが、立直しは神と人によって直(ただ)されていくのです。

 

私は、このようなことを知る程に、ここ地球の存在する深い意図を感じ始めています。

確かにここ地球は、今とても悲しい状態なので、進化した次元へ早く進みたい…と考えてしまいます。

 

でも、今、逆に、「地球には全ての可能性がある! だからこそ、ここは宇宙の貴重とも言える場所なのだ!」と…。

 

唯一神は、愛善、大歓喜であるのですから、統合・調和・共感の動力源から、吸引と反発の集約作用によって、網羅されたあらゆる道を踏んで消化吸収し、可能性を開花させながら神のもとへと帰って行くのだと思います。

 

自らを省みて、改めることの重要性を知り、

そして悔いることなく、許して許して勇み、

またその中で、

神のみ心と気づき委ねきることを知っていく。

 

― 完 ―

 

 

私の不慣れな文章を最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 











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Last Update : 2008/1/31