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− 龍のしっぽ 四−


【宇宙の卵】

 

 

私は昔、「あらゆる次元は、ここに全て畳み込まれている。」ということを知った時に何とも言えない喜びを感じました…。

「重畳している」「畳み込まれている」「折り重なっている」「巻き込まれている」といった言葉がとても好きなのです。

 

この宇宙は10次元と言われていますが、7次元以上になると宇宙次元をあまねく統括する次元になるのではないかと考えています。

私達人間は、この肉体(物質的身体)だけではなく他の6つの肉眼では不可視な体(オーラ)をもち、7つの体に同時に属しており、7つの主要なチャクラで結びついている存在だからです。

 

7つの体は、ご存知の方が多いと思いますが、物質的身体・エーテル体・アストラル体・メンタル体・コーザル体・キリストボディ・セレスティアル体などと呼ばれています。

ですから人類が人類として関われるのは七次元までではないかと考えています。

 

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人間は、神の造った最高傑作だと言うのですから、人間は宇宙を知る全ての答えで完成された作品であるはずだと考えたのです。

 

親鳥は、卵の形で子を生み落とします。卵の中のヒナ鳥は自分で殻を破って一羽の鳥として天で飛び回っていたのですが、自分に何ができるのか知りたくなったのです。そして、とてもリアルな体験のできる地球の大地へ降り立ったのです。

 

自然の中で様々な生物や物体と関わり合いながら色々な体験を味わいました。そして満足して天へと再び飛び上がっていき、天からまた卵の中に還り、そしてまた親鳥の体内へと還って、親と最終的には一体となります。

 

あのいつも食べている卵(玉子)の中でヒナ鳥が育ち、にわとりになるのですから。

少しの間このことを思い浮かべて考えてみると全く奇跡ですね。

 

私達人間も、お母さんのお腹(子宮)の中で発生し育ち外へ出て、こうして人間として生きています。

全く奇跡です。神業としか思えません(笑)。全ては神業です…。

すべては神原理から生まれた被造物なのですね。

 

宇宙の万象万物は2つの原理によって造られ現れているようです。

一つは、基本原質料で、もう一つは形相です。

宇宙のあらゆるものは、この基本源質料と形相から生じます。

では基本原質料は何かと言うと、神であり言葉であり光であり生命である潜象微粒子だと考えました。

形相は、四大元素(空気−気体・水−液体・土−固体・火−熱)から構成・構築され形相されているのではないかと思います。

 

あらゆる人間は、父親の精液と母親のきれいな血から誕生するそうです。

またアリストテレスは、胎児は母親の血液だけからつくられ、父親の精液は蒸発してしまうと主張していたそうです…。

人類史においては単性生殖による処女懐胎の事実もあるようです。

 

ちょっとここで思い出してみますと、善きことは全て血液に吸収されていきました。

血液とは、霊(言葉)=生命の流れでもあるとし、また精液というのは性エネルギー(生命エネルギー)の変質して物質化したものだとすると、もちろん根元は同じ生命エネルギーでも偏向性が異なっていると考えることができると思います。

人間の父親の変質した精液ではなく、純粋な生命エネルギーが直接母体へと流入し、処女懐胎を可能にすることもあるのかも知れないと思えてきました。

 

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人間の胎児は、子宮内でまず牛乳のような乳白色液の状態で、次に濃い血の色へと変化し始め、そのうち四肢が現れ始め、それぞれの器官が形成され、およそ40日ほどで胎児がつくられるそうです。

 

まさしく宇宙の卵ですね…。

 

もう少し詳しく胎児になるまでの胎胚の状態を見てみると、外側世界の外胚葉小胞と内側世界の内胚葉小胞という2つの相対的代謝機能が形成されるそうです。外胚葉小胞では、分解的な排泄機能・内胚葉小胞では再生的栄養吸収機能が行われるそうです。母の子宮の中、羊膜液で包まれ羊膜壁に触れた状態を羊膜嚢という空間が支えています。

 

外胚葉は、表皮性の感覚器官(目・鼻・口・耳・皮膚)を形成し、外界を意識するように形成されます。

内胚葉は、精神的内面空間として内部器官を形成するようです。

誕生の時、胎児は母の子宮の中で羊膜嚢を破り最初の皮膚を脱して、世界へと出現します

 

私たちは、いずれ完全から辿って降りて来た道を逆戻りで上昇し、完全な宇宙の胎蔵
界へと帰り、天宮の皮膜の中へと還っていくのではないでしょうか…。

 

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少し話を戻して、私たち人間も基本原質料と形相からなる存在だとすると、創造のはじまりに「私として定義された基本原質料」という原因があったはずです。そして「四大元素から構築され進化してきた形相」という原因もあったはずです。この2つの原因から私は今ここにいるはずです。

 

宿った私と、宿られた私…。(笑)

 

ですから、今まで一面的な囚われの身として外界だけを信じて生きていたわけです。

内面世界で完全に全てを知っている私を忘れてしまっていたのですから。

私を忘れてしまう…なんて信じられない話ですが、この世に生まれてくる時に、あえて忘れて生まれてくるんですね。そうじゃないと逆にこの地上界に生まれてくる必要も基本的にはなくなってしまうのです。

 

もし今回の人生でも、霊魂である私を思い出せずに忘れたまま死に、あの世に帰り、この一生をふり返り見た時に「あちゃっ! また肝心なこと忘れたまま帰って来てしまった…」となるわけです。

 

「あ〜あ、また行って気まぁ〜す!」と転生をくり返していたようです(汗)。

 

この時に、忘れて生まれないと「忘れたことを思い出す」という、生まれてきた目的がそもそもなくなるわけです。

 

そこで今回は、しっかり思い出したいわけです。

 

宇宙は大きく分けて、精神界(天国・神界)・心魂界(霊界)・物質界(地上界)の構造になっているようです…。そのために人間も、精神(たましい)・心(思いの場)・体(肉体)の構造をもっています。

 

私たちの多くは、今までこの物質界だけが現実で真実で、ここの中でしか生きていないと思っていました。ですから、上位の存在を無視し、宇宙の天体から受けている作用にも気づけず、好き勝手に人間の我だけで世界と関わってしまったのです。これでは思うように生きようもなかったのです。

 

自然界について理解が深まっていくと、常に下位の存在は上位の存在に導かれていかなければ動くことも、何も行うこともできないということに気づいていきます。そして被造物は天体と黄道十二宮(ここでは地球)の影響を強く受けていることも気づき始めます。

 

私たちは宇宙に属せずには存在していないからです。

あたり前のようですが、ほとんど意識されていないわけです。

 

いまだに地球人類が一番進化した人類であり、宇宙の中で他に生命体が存在することを知らない人々が多いからです。

地球上では、この事実が認められてしまうと困る人達がいるようなので様々に隠蔽されておりまして、自分から知ろうとしなければ、知ることが難しいのは確かです…。

 

私たちは、そもそもここ地球ではなく、他の星に起源をもっていることが分かってくると、多くの謎が解かれ始めていくのですが…。

 

「私はどこから来て、どこへ行くのか…?」

「私はいったい誰なのか…?」

 

この2つの問いをぜひ自分のうちに問いかけてみて下さい。

必ず、その答えへと近づいて行けると思います。

 

この答えが分からないと、私達は帰る道を忘れたままで、ここにとどまり続ける道を選ぶしかなくなるからです。

 

ちょっと砂時計を思い浮かべてみて下さい。

私達は砂時計の真ん中に今います。

真ん中から上は「未来」で、下は「過去」だと考えてみます。

砂は全部下の過去に落ちてしまいました。

このことに気づかずにずっとそのままにしていると、いずれ私も過去に落ち込んでしまいます。

 

しかし、「あっ、砂が全部過去に落ちた!」と気づいて、砂時計をクルッと引っくり返すと、今度は砂は未来へと流れ込んでいくのです。

 

今私達は、この状態にあるのだと考えてみることもできます。

方向を決めるには、中心を作らなければならないです。

今自分がどこの位置にいるのかを知り、どっちを選ぶのかを決めていく時なのです。

 

まだ現実に目を向けると、相変わらず変わりのない世界しか見ることができないので、中々ピン!と来ないかも知れませんが…。

この現実世界は変わらないのです、これからも…。

 

変わりたくない人々の為には必要な世界なのですから…。

地球一大転換の日まで(またその後もしばらくは…)、この世界はこのままなのです。

ですから、世界が先に変わったら私も…などとは、決して考えないで欲しいのです。

地球滅亡の日に気づいても、もう間に合わないのですから…(汗)…。

 

20121223日は、25,920年かけて、春分点が黄道十二宮を1周するという周期の転換ポイントにあたります。これが神の一呼吸にあたります。人間の一日の呼吸数は、約25,920回で対応しており、72年に一度ズレる歳差運動と、地球、人類、全てが相互に連動して影響を与えあっているようです。この約26,000年の周期は2つに分かれています。「分離」と「統合」の周期で、今、私たち人類は「分離」の13,000年の周期を終えようとしているところなのです。歳差運動は永遠の周期ですので、当然この転換期は初めてのことではありません。ですから私たちは「分離」から「統合」の転換へと、一人一人が今準備をしていかなければならないのです。》

 

自分自身で砂時計をひっくり返した人だけが新しい世界へ参入していくのです。

ここ地上にいても、同じ環境や人々を違った目で見ることができるようになるだけなのです。

もしかしたら小さな光を見ることが多くなるかも知れません、今まで見えなかったものが見えることもあるかも知れませんが、でも決してそちらを期待して始めることではないのです。

 

内に光はあるのですから…。

必ず内から始まるのですから…。

 

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宇宙は10次元と書きましたが、「10次元」は「十字元」とも表わしていいのではないかと考えてみました。

 

本当に漢数字は美しいと思います。

10」を「十」にするところなんて本当に美しいです。

 

「 〇 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 」

 

今この三次元で、既に四次元を覚まそうとしているわけですが、「四」を縦にしてみると「目」になりますね。私たちは今四次元の「目」である「観察者のまなざし」を起動させようとしているわけです。

 

もうここで四次元が開くわけです。

天の岩戸開け(言答開け)にあたるとも考えています。

 

そして四次元が開いてしまうと…、もう五次元が存在しているはずなのです。

三次元を知覚する為には、四次元がもうここに存在していたように、人間次元の1つの境界となるのが五次元ではないかと思うのです。

 

「三(ミ)とは、身(肉体)」

「四(ヨ)とは、観察者のまなざし(天目)」

「五(イツ)とは、一(ヒトとして統合)される」となり、統合されたヒトとして、神の生成の世界へと上昇していくのではないでしょうか?・・・・

「三四五」「五六七」へと進んでいきます。

いろいろな周期性がありますが、極大が「3〜4」で急激な変動を起こすという物理的現象的周期性があるようです。

 

「六(ムユ)とは、無有(ヒトの生成力)

「七(ナナ)とは、大文字(そのものの光であり、天上の星)」

   

(ナナの片方のナを左右に反転させて一文字にすると漢字の「大」の字になる)

 

「八(ヤ)とは、ヤタノカガミ(基本・八葉院)」

「九(ココノ)とは、宇宙の完成数」

「十(タリとは、キリストの象徴・永遠の生命の源・十字象を表わす)」

「〇(レイ)とは、潜象天球」

 

「○」の真ん中に「・」が入ると、「宇宙あまねく御統合(しろしめす)神原理」で、、絶対唯一なる神、創造主だと考えています。

「○」に「十」が重なると、潜象天球と十字象の生成原理になるのではないかと考えています。「〇」「・」の真ん中の「・」は、真空(しんくう)ではなく、神空(しんくう)で無尽蔵なる「神空」であって全てが潜在的に存在しています。

「○」は、天空で天の全象です。

 

ですから「唯一なる神」とは、人格をもって支配するような存在ではなく、「神」と表わした場合の「神」と「唯一なる神」は、全く違った側面からの理解を必要とするのです。

 

「神」とは、本質的質料であり、コトバである・・・・超微粒子なのです。

この「神」をもととして、1つのモノが統合されると世界に現われ、本来は、この一つ(ヒトツ)に統合されたものが総称して「ヒト」と呼ばれていました。

 

天地創世の記録などに残る神々の名を見てみますと、万物万象の物理現象にそれぞれ「○○○神」と付けられていることが分かります。

ところがいつの間にか、長い長い時代を経て、神様として祀り上げる偶像崇拝が始まり、「創造主一唯一神」と「神」への理解も閉ざされてしまったようです。

 

「創造主唯一神」とは、無限なる供給…与え続けるということなのです。

 

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人間の第三の目(天目)の覚醒は、先程も述べましたように四次元を開きました。このことによって自立した意識が目覚め新しい自己感覚として統合されていきます。

目覚めた意識で世界と関わる自己の自立です。そして外と内の統合により、天と地が統合ざれ、天地人となると考えていいと思います。

 

私たちは、天と地の中心に立つ新しい人間「ヒト」として、宇宙の中心にも立っていくことになります。

 

そして、もはや病気や死や老化が自然の側にあるのではなくて自然界を導く主導権をもつ霊的な存在の側に身を投じていけるのです。

私たち人間がこの伝授(私たちはいつでも地球を包容している形相力グリットと宇宙指導原理の双方と純粋な意志があれば、つながりを持てるようです。)を受ける存在であることが、創造主の最高傑作である形相に宿った理由ではないでしょうか…。

 

私たちは植物の形相と動物の形相から進化した最も完璧な形相なのです。

この最も完璧なまでのここまで進化をとげた身体を不自由に不完全に欠陥品のように扱うのは、全くきっと不自然なことなのだと思います。

 

しかし、不完全で不自由が先にあったからこそ、ここまで人間心で発展してこれたのも事実です。知らなかったからこそ必死に研究を重ね、技術を磨き、汗を流し、涙を流し、努力してきた多くの素晴らしい人達がいらっしゃいます。それが決して無駄になるのではないと思います。そにような人々は、どこへ行っても素直に実直に必要な努力に転じ、今までの経験を役立て進む人々だと思うからです。

 

私たちが「一つにする」という統合に取り組んでいくには、新たな「天の目(天を見る目)」を目覚めさせなければなりませんでしたが…。

見ている側と見られている側、語る側と語られる側、聞く側と聞かれる側…。

私と他者、私と家族、私と社会、私と地球、私と宇宙、そして、私と真の自己…。

 

これらのバラバラに分離していたものを統合していく作業を可能にする観察者の出現…。

いずれも、宇宙にあまねく行き渡っている−絶対なる統一法則−、そして−根本基本原理−、この2つが原因として宇宙ははじまりから動いている。

 

動いている、動ける、動くということは、そもそも、動重なる力が原因しているからなのだと思うのです。動かされている原因がある…。

地上を統一、規制、支配するために後から権力者たちによって考え出された法律とは違うわけです。

 

全てにおいて、統合という活動を開始させる再発見の旅。

「天の目」を開くということは、「聖霊=神の子=生命=神的言語」を自分の内に出現させることになります。

 

見ている側と見られている側の仲介的存在でもあります。語る側と語られる側をつなぐ神の道でもあります。

 

この道が開くことによって、新しい思考過程や新しい認識力が生まれてきます。

これには、集中力と注意力、緊張力を失わないリラックスの持続、神性なる態度などを

強化していく必要がありますが、徐々に間違うということが難しくなっていきます…(笑)。

 

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次元の差をうんでいる原因に距離と時間があるように思います。私たちは日常、非常にあらゆるモノとの距離間を基準にして生活しています。

それともう一つ、直線的な時間の長さ(幅)も基準にしています。

 

これは、奥行きを作って感覚化しているということでもあります。

昔の絵画を見てみますと、奥行きのない平面的な抽写なのです

これは技術が劣っていたのではなく、そのような世界を感覚化していたのです。

 

そこで私たちが、この奥行きを感じている視覚世界を一枚の写真として捉えてみます。

距離と時間はこのとき消失してしまいます。

宇宙では、本来の曲線が直線に、逆に本来の直線が曲線に認識されてしまうそうです。

立方体や球体であっても、その中心から凸に拡がるか凹に拡がるかするのではないかと思います。

 

例えば胎蔵界マンダラをちょっと思い浮かべてみて下さい。中心には大きな「大日如来」が座しています。その周囲をもう少し小さな諸菩薩が取り巻き、さらにその周囲にはもう少し小さな仏の諸菩薩が取り巻き、さらに、さらに…とどんどん小さな諸菩薩などが描かれています。

 

これは一枚の仏尊集会図として描かれた平面的なマンダラです。

しかし、小さな小さな諸菩薩になるほど、小さいのではなく中心から遠く離れていると考えることもできます。

凸凹のどちらの曲がりで遠ざかっているのかは、進化か降下か、また未来か過去の方向をとっているのかで違うのかも知れません…。

 

どちらにしても、距離と時間の幅を平面に投じることで、宇宙構造では距離と時間を短縮したり、進めたり、退行したり、消失させたりできる可能性がありそうです。

宇宙の基本原理に従えば、宇宙の旅もそんなに難しいことではないのかも知れないですね。

 

今まで、未知の世界だった全く新しい世界が開ける日は、本当にそう遠くないように思えてきました。

 

しかし、ただ一つ注意しなければならないことがありそうです。

あまりに強行に見えている世界を一枚のビジョンとして平面的に投げ込んでしまいますと、重なった部分が融合してしまう可能性があると思うのです。

何らかの意図や意志が働いてない場合は問題ないと思いますが…。

 

例えば、私の部屋を平面的にイメージして、テーブルの上に100万円の札束を置き、ただ物と物を重ねて強行にイメージして現実化を計ろうとした場合、100万円の札束はテーブルにめり込んで融合して取り出せないかも知れないということです…。(爆)

 

日本の漢数字は美しいと書きましたが、それは数の形相が様々な要素を(くら)しているからです。

これは、同時に、日本のコトバの美しさとも言えるのかも知れません。

 

実は、「一」は「一=マイナス」を蔵し、「十」は「十=プラス」を蔵していると考えることができるからです。

 

 ←
(+) (+) (+) (+) (+) (+) (+) (+) (+)
 一    三        七    
(−) (−) (−) (−) (−) (−) (−) (−) (−)
 →


 

「〇」は「十一(プラスマイナス)=〇」、「十」は「十一(プラスマイナス)=十」で、この〇と十の数は、プラスとマイナスの作用により変化しません。

 

上の十から降りてくる流れは、「+(プラス)」の力を常に蔵しています。

下の〇から上昇する流れは、「−(マイナス)」の力を常に蔵しています。

 

そこで「十(プラス)」から各数字へ合わせて二桁となり「十一、十二、…十九」となり、「−(マイナス)」から各数字へと合わせると「一一、一二、…一九」と、同じ二桁を現わす数が、異なる力を受けていると考えることができてしまったのです。

 

これは、重さで降りて来た「重力」と、軽さで上昇していく「反重力」と考えることもできそうです。

 

これが精神の降下と上昇の流れであり、この流れの方向が次元の下降と上昇への影響を分けていると考えたのです。

 

またさらに・・・

「重い=想い=思い」と考え、「重さの中に重なりあり」と考えると…、

 

「一二三 / 想い(心の上にある相対による思考)」

「三四五 / 思い(心の上にある、田とは、口と十からの構成と考え、

キリストが露になっていく思考)」

「五六七 / 心(日=ココロの超微粒子である)」

 

このように、数とコトバの世界が、宇宙において深い意図を持って存在していることを、私は感じることができたのです。

 

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地球は、十二面体と二十面体からできていると何かで読んだ記憶があります。

地球の周囲を網目構造が覆っていて、ネットワークのような役割を果たしているようです。このシステムが私たちの肉体と銀青色の光の紐でつながっている「たましい」は、さらに結びつきます。

 

そして私たちの身体にも実はこのような網目構造のクモの巣のようなネットワークシステムが存在していて、7つのエネルギー体とチャクラとが影響を及ぼし合っているようです。更に、宇宙全体もこのような構造をもっていると考えてみますと、全ては影響し合っていると思います。

 

私たち一人ひとりが抱く想念のたった一つでも、地球そして宇宙へと影響を及ぼしているということになります。

 

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大自然、万象万物は、円や球へと均衡状態を保とうとする力と不均衡へバランスを崩そうとする力とで、全体が運行されているように思うのですが。

 

相対的な思考が、新しい中心点を生み出し、先へと進み、またさらにそこでも相反する作用が存在し、新しい中心点を見出し先へと進むというように…、このような永遠性が宇宙にはあるように思います。

 

自然は山と谷を生み出します。

私たちは、潜在的に山は神の空間であることを知っています。

そこで、私たちは神のふもと、谷に住みつくのです。

山の頂上から見下ろす景色に思いを馳せながら…。

しかし山の頂上に辿り着いてみると、そこは天の一つの谷(窪み)であることに気がつくのです。

 

逆に谷は天からすれば山に転じます。

田は、山の傾斜に谷底へ向けて棚田を作るのが理想的な造成だそうです。

谷底は洪水にあう危険をはらむそうですが、山頂での緊張と似ているように思うのです。

 

自然がそのような形状をつくり出すように、私たちも同じく凸凹の構造をもっていると思います。

 

宇宙は、平面に畳み込もうとする力と、超立方体へと拡がろうとする力の2つの力があるように思えます。

 

数年前、親族が亡くなりまして、その火葬の時に驚くものを見てしまったのです。

病室で折った千羽鶴を、納棺の時に一緒に入れたのです。なんと!? 火葬のあとその千羽鶴がそのまま燃えずに全部残っていたのです。それも、元の大きさの10分の1ほどに見事に圧縮といったらいいのか縮小されていたのです。

 

色こそ抜けていましたが、焦げているわけでもありません。

私達が驚いてそれを見ていると、火葬場の方が「なぜだか紙は燃えずに残るのですよ」と教えてくださいました。

 

あんなに長時間高温の火の中で…、どうして燃えずに残るのでしょうか?

確かに「カミ」と呼ばれるものは神と関連しているようです。

 

髪の毛は、霊線のような働きをしているそうですし、噛むことも神に通じているようですし、紙が神につながっていることも当然考えられることではありますが…。

 

もしかしたら「折り紙」にも何かありそうですね…。

「降り神」なのかもしれませんし…。

 

やっぱり、折り畳んだりすることが、何かのエネルギーを生み出すのでしょうか…。

神の思いを折り込んでいることになるのでしょうか。

 

そう言えば、あや取りも子供の頃よくやりましたね。

糸で立方体を作って遊ぶなんて、今思えば、ずっと子供の頃の方が神とつながっていたようですね…。

 

「かるたとり」もありましたね。

神は非常に歌を喜ばれるそうです。

「五七七」「五七五」「三五七」を基本にしたリズムは特に…。

 

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「神とは順である」という言葉もまた、私の心にとても響いた言葉の一つでした。

私たちは順を誤ると混乱するようになっていたのだと思います。

私たちがいくら新しいことに飛びつき、自分の満たされない思いを埋めようと努力しても、すぐに空虚なむなしさをくり返していたのは、順を間違っていたからなのだと気づいたのです。

 

「体は霊に従う」と言いますが、霊を閉ざし神の道を塞いでいたのですから、それで不足と文句ばかりが出てきていたのです。

 

神をいつでもどこでも先にできれば、神は豊かさであるのですから、そもそも不足から始まること自体が不可能になっていきます。

不足感や欠乏間、虚しさやうらやましさ、いやしさ等という基準が姿を消していきます。

神を先にすれば、初発の思いが変わるのです…。

当然、虚しさで終わるということもなくなります。

 

私たちは賢く見せたい、分からない状態は恥なのだ…というような錯覚の中で苦しんでいます。私も長年、多くの著書に書かれていることを、それぞれに見習い、それを信じて、そこへ向かおうと努力しました。

 

確かにたくさんの様々な準備がされてきたと今では分かりましたが、決してどれも私の真理にしてはいけなかったし、信じてもいけなかったのです。

私は人に答えを聞くのが嫌いな性分だったので、その分自分で勉強し自分の力で知ることに努力しました。

 

しかし、それもあまり覚えることができなくて、人にもうまく伝えられず歯がゆい思いもしましたが、今はそれで良かったのだと本当に心からこの10年に感謝しています。

 

真実や真理は、決して人から与えられるものではなく、人には聞くものでも、合わせるものでもありませんでした。

人に聞くということは、自分の内の神の道を無視することになってしまうのです。

自分の真実と心理は、必ず自分の「たましい」の中から見つけなければならないものだからです。

 

私たちが、唯一持ってもいいものは、「無(心)」の状態だけだったのでした。

 

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自分の顔を自分では永遠に見ることができません。

これが私たちが永遠に旅を続ける理由でした。

自分を知るために…。

 

私たちは最初に全てを持った状態(完成された)で創造されています。

創造主は完全で絶対なのですから欠陥のあるものや未熟なものは創造できませんでした。しかし、全ての存在が同じく完成されたのではなく、一人として同じではないように創造主は完全に創造されました。

 

であれば私とは、あらゆる私の定義(神の瞑思)が詰め込まれているはずです。

これを神惟(カムナガラ)というのではないかと考えているのですが…。

 

しかし、どんなに動いてみても、回り込んでみても、自分自身を見ることができませんでした。

そこで私を何か別の対象に反射させて自分を見ることを思いつきました。

私たちが自分の姿を見るために鏡を作ったのと一緒ですね。

私たちは、いつも自分を知るために、環境を選び人と関わっていたのです。

 

私たちは、こうして「真実の私」=創造主が創造された神の瞑思と、これから想起という形で出会いながら真実の私の実相へと帰還の旅を続けていきます。

 

先程も述べましたように「一人一人それぞれが、創造のはじまりの瞬間に一人として同じではない独自の完全なる成就」の状態で誕生しています。

 

そしてそれは、宇宙あまねく全ての万象万物を統括している

『宇宙創造の絶対基本原理』が放出させたのです…。

 

例えば、このことを一つの例で考えてみることにします。

私たちの地球そのものが、全人類が入学した様々な学科をもつ学舎であると考えてみます。

 

建築科・土木技術科・文学科・言語学科・医学科・地質学科・天文学科・数研究学科・空間研究学科・食物学科・教育科・体育学科・・・・などなど・・・・。

 

あらゆる分野があるので、自分がどれに興味があり向いているのかを考え選択し、学んで、将来の生活や職業に生かして、一人一人の人生が成就されていきます。

 

ところが、私達は創造のはじまりにおいては既に完全なる成就の状態で誕生していました。これは『宇宙創造の絶対基本原理』を卒業したところから始まっていたと考えることもできます。

私達の一般常識とは順が逆なのです…。

 

それであったのに、今私たちの多くが、この全ての記憶を失っています。

ですが、今までのような、何かを学び、覚え、修得していくことは、逆に私たち一人一人の最初の始まり「真実の私」にとっては邪魔になってしまうという結果になっていたわけです。

 

ですから今、私たちの多くが地球全体としても、個人としても、混迷した混乱状態にあると思うのです。

地球人類が崩壊を始めることで、地球全体と個人の再成復活の旅へと流れが転じ始めていたがゆえ…と言うことができると思います。

 

『宇宙創造の絶対基本原理』から誕生した、一人一人同じではない独自の『私の思考の創造』そのものが、「真実の私」ということなのです。

ですから、一人一人の意志で、自分が帰る自分だけの帰還の旅でもあるのです。

 

ちょっとここで参考になるかも知れませんので、私個人の話をしてみることにします。

私は、印鑑業を営む書道家でもある父の娘として生まれました。

ですので、いつも字に囲まれて育ったわけです。

 

色々な姓名が彫られている印鑑や、あらゆる字が並ぶゴム印などが、小さい頃の私の遊び道具でした。

中学校の頃には、ゴム印を造るための版下を作るのに、活字拾いを手伝って毎日を過ごしました。(今はパソコンで全て作業ができますが、昔は一文字一文字の活字を枠に並べ入れていました)

 

その活字の数となれば何万字であったことと思いますが、壁一面も覆ってしまうほどの大きさのある棚にびっしりと活字が差し込まれているわけです。それは「へん」や「つくり」などの構成で並んでいるので漢字が読めなくても探し出すことができました。

 

高校を卒業してからは、父の印刷技術を見よう見真似で覚えてしまい、一人で黙々と印刷機械を動かし印刷作業も手伝いました。

 

こうして、今思うと、いつも私は「字の宇宙」の中で生きていたのです。

ですから、私にとっては、字で遊ぶことは自然なことだったのだと、今となってはじめて分かってきたのです…。

 

しかし当然、年頃になると男性へと興味は一直線・・・(笑)・・・。

父の印刷業を継ぐ気などさらさら無く、家から早々に飛び出して、我が道へと進んでいきました。我が道といっても、もちろん、UFOを見てワクワクした小学生の頃…、『ムー』を読みふけった中学生の頃…、そんな私さえも姿を消して、外へ外へと向かっていった我が道です・・・(笑)・・・。

 

私が「字の世界」へと戻ったのは、35歳の頃でした。それは本を読むことで始まりました。(それまでは雑誌は読んでも、本を読むことなどありませんでした −汗−)

 

「字の世界」・・・「活きている字(活字)の世界」が私の帰還の旅のエンジンとなり始動を開始できたのです…。

 

私のエンジンは「字の世界」でしたが、みなさんはそれぞれに違うエンジンで動き出すのです。

 

この道は、「道(ミチ)=三千(ミチ)」の道です。

この道は太い一本道ですが、三千の道があるのだと思います。

 

しかし、結局のところ『宇宙創造の絶対基本原理』の太い一本道なのですから、一つと同じではない、『私の思考の創造』である『神が私と瞑思したもの』は、同じ原理を語ることになります。

 

決して真似しようとしたのではないのに、似たものとなり、同じことを言っているのだということが分かり合えることになるのです…。

 

ですから私とは、長い長い「生命の輪」そのものなのです。

「ウロボロスの蛇」というのがありますが、復活と再生を象徴しており、蛇が自分のしっぽの先を飲み込んだ状態で一つの輪になるというものです。

(「クラインの壷」いつの間にか内側が外側になる不思議な構造と同じ構造になります…)

 

蛇の動きはクネクネと進むので、エネルギーの波に例えられるのはピッタリだと思うのですが、蛇は通常は丸まるときにはトグロを巻いてしまいます。

 

そこで私は、龍がピッタリだと思うのです…(笑)。

龍は、空中・水中・地上・火の中、どこでも自由に飛び回ることができるからです。

手も足もあります。

玉だって持ってます。(笑)

 

ですから最終的に長い長い円環の旅をしながら、

自分の口の中へと呑み込まれていき一体となるのです。

 

私たちは子宮の中で40日目頃、

本当に龍の赤ちゃん「竜のオトシゴ」のようなのです…。

 

しっぽがあるんですヨ…(笑)。

 

 

 

《龍のしっぽ完》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 裏話 

 

実は、これを書き終えた日が節分の夕方だったのですが、夕食に長い太巻きに「ガブリ」かぶりついた時に、笑ってしまいました…。もしかしてこれって自分のしっぽにかぶりつく練習…???   すると、この巻物は、、、、、、、、、、、、。(ニタニタニア〜っ)

 

実はタイトルに「龍のしっぽ」と付けたのは、主人のHPのタイトルが『ツインドラゴン』であることと、私が以前「しっぽ」と呼ばれていたことがあったからでした。それ以上の意味もなく、主人とパァッ!と決めたものなのです…。ですから、最後に龍のしっぽで話しを締めくくれるなんて想像もしていなかったのです…。

そして今、太巻きにかぶりついている私…。

 

よく作家さんは、神が降りて来ないと本は書けないという方が多いそうですが…、なるほどこうゆうことかと改めて実感しています。

 

神は完璧な脚本家であり、演出家だったのですね…。




         







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Last Update : 2008/2/6