【覚醒のポイント!】
その@ 覚醒するには、そもそも覚醒とは、特別な人にだけ与えられる稀少な出来事ではなく、多くの人々が同じく到達できる事でなければオカシイ! と気づくことが、私にとってとても重要でした。 逆の言い方をするなら、特別な人だけに与えられる稀少な能力を手に入れたい!と思うこと自体が、自らを覚醒から遠ざけているということです。 これはいくら謙虚さを装っていても、特別意識が刺激されて、勘違い・取り違い・思い違いの中に迷い込んでしまうのです。 みんなが等しくできる!誰もが既に持っている!誰にでも共通する要素や基本…そうゆうものがあるのだ。 そして、それらが可能性を拡大していく…という視点を常に忘れずに様々なことに取り組んでいくのが良いかと思います。 『神秘』という言葉がありますが、『宇宙は神秘です!』。 実は神秘とは、何か曖昧な説明のつかない不思議を現す言葉ではなく、『神は必ず示される』ということなのです。 ですから神秘体験も、特別な選ばれた存在だけが体験できるのではなく、『神は必ず示される』ことに焦点を合わせることのできる人が、常に体験していくことだったのです。 そのA 次に「神」「神様」の誤解を解いていきたいと思っていますが、このことはこれから随所に盛り込まれると思います。できれば単独のテーマでお伝えしたいと考えています。 それでも、その@に書いたことから「特別に選ばれた人」=「神様」ではなかったようだと、なんとなく分かって頂けると思います。 ですから私達は、何かしら特別な能力を持っているように見え、また真に世の役に立って生きている人をさえ「神様扱い」してはいけないということなのです。 誰かや何かに強い魅力を感じた時は、心が惹きつけられるものですが、しかしその周りを、どんな手段にしても、まとわり付くような傾向を示した場合には、一度自分自身の動機を探るための作業が必要です。 しかし、私達が魅力を感じ、強く惹き込まれ、私もあの人のようになりたい…と思わせる人には、確かに何かあるはずです。 ですけれども、その人が本物か偽物かの判断よりも先に、自分を見極めた方が早いのです。 たとえその人が本物であったとしても、その人にまとわり付き、ただ真似したり、答えばかり欲しくて質問を浴びせても、私は決してその人と同じことはできませんし、まして超えることなどもないと思います。 そして、その人のそばに居れば、何かを避けられるわけではありませんし、何か特別な取り計らいを受けられるわけでもないのです。 その人は確かに、私達を助けてくれることがあるかも知れませんが、それはその人がそのような気持ちと態度で私達に接してくれるからであって、私側によるものではないということなのです。 その人から何かを与えられることを期待しない方が賢明なのです。 その人から答えを聞き出せるとは思わない方が安全なのです。 この2つの態度は決して自分の何かを開花させることはなく、逆に自分の可能性を閉ざしてしまうことになりかねないのです。 しかし、その人の態度や自分との違いを知ることによって、私達には学べることがたくさんあるはずです…。 貧欲であるのに無知な段階にある人が、その人達を特別な選ばれた人だと見ている場合は、次のようなことがありがちです。 ◎ その方の身内や友人が亡くなった時…。 「何もやらなかったのだろうか?」「何もできなかったんだろうか?」 「やっぱり死んでしまうのか?」「助けてあげられなかったのか?」 ◎ その選ばれた特別な人が体調を崩したり、何かの病気にかかったり怪我をすると…。 「そんな病気にかかるのね…」「ケガなんかするのかぁ〜…」 ◎ 何かトラブルに巻き込まれたり、問題を起こすと…。 「あんな事に巻き込まれる前に、なんとかできなかったのかね…」 私も確かに昔は同じような事を考えていました…(汗)、私も何も知らなかったのです…。 神秘とは何かを書くことができましたので、「神秘の人」とあえて言わせてもらいますが。 それでも神秘の人は、今日、目に前にいる人が理解できるだろう段階まで降りてきて、分かりやすい言葉に変えて、なんとか質問に答えてくれるでしょう。 また全く相手の中に理解できる要素が見つからない場合、 「それは分かりません」「それには答えられません」と言うしかないでしょう。 こうして相手に伝わった時点で、神秘の人が真に伝えたかったことの何分の一にも規制を受けた答えになってしまっているのです。 ですから結局のところ、自分の理解の及ぶ範囲でしか受け取ることができないことを前提に置く必要があります。 極端な場合には、受け手は、神秘の人の一般常識からは尋常じゃない奇蹟的な現象のみに心を奪われてしまいます。 こうなると、ただ外に現われる結果だけを修得しよう、またそれでいいのだという表面だけの世界に迷い込み、技法だけにとらわれてしまいます。 神秘の人は、先にも書いたように、『神が必ず示される』ことに焦点を合わせることのできる人なのです。 神には、自分自身の内からしか接触することができません。 そのためにも自分の内へ内へと深く探求し、解き明かし、同時に、この現実世界の仕組みと構造を解き明かし、更に、神・宇宙・万象へと意識を拡大させるのです。 ですから神秘の人とは、こうした努力に果敢に挑む人達なのだと分かってきました。 神秘の人にとって「神は必ず示されるは」、「必ず示されているのは神である」という文脈に変化していると思いますが…。 しかし、神秘の人ともなれば、全ての人が同じ努力と長い道を歩ませたくはないと考えるのです。 できる限り分かりやすく伝えようとしてくれるのですが、逆にそれを理解力の乏しい無知な人達は難しく解いたりしてしまいます。 また神秘の人達は、神・宇宙・万象へ心を向けさせるために癒しを行ったり、奇蹟を見せたりするのですが、それもまた逆効果になってしまうことが多いのです。 このようにして、中々思うようにこの道が開かれていくことは難しくなってしまっていたのです。 最近、私はやっと神秘の人々の努力を少しづつ垣間見始めたばかりのところですが…。これをやり遂げた神秘の人々には、本当に尊敬と感謝の念に打たれます。 そして確かに神秘の人々がおり、宇宙ではこの階段を卒業した存在がたくさんいて、私達を見守ってくれることに気づき始めました。私達は勇気を持って更に望む進化レベルへと進んで行かなければならないのです。 そのB 覚醒とは、常に目覚めた状態でいることです。 目覚めた意識で、外の見える世界ではなく、内の世界を観察(観測)し、また内の世界から外象を観察するということです。 それには『鬼退治を解く!』に書いたように、自分の背後に隠され無意識化されていた変性自我のい声を聞けるようになることがどうしても必要なのです。 このことに気づいて初めて、真の「言・口・行」の3つの一致が完成されていくからです。 このことによって、自分の認識・判断・在り方・思考の古いパターンが解体され、真の認識・判断・在り方・思考の新しいパターンへと変換されていくわけです。そして、自分の内が変わることによって自然と次に外の世界の見方・判断・人間関係までも全てが変わっていきます。 自分の霊性の段階においても、これと同じことが言えます。 ある日突然降ってわいたように、思ってもいなかったレベルの進化を渡されることはないと思います。 あるレベルの進化と思える何かが起きた時には必ず先に、自分自身でその世界のことを知り、受け入れる準備をし、許可できた時だと考えています。 ただしこの場合は、あまり意識的に準備がされていると自覚されている方は少ないようです。 このことは宇宙においては、どんな場合も、どんな進化したレベルにおいても常に自己の自由意志による選択と信念が最優先されるという法則を知ることで明らかになります。 ですから逆から言うと、自分が霊的に上昇することをとても強く望んでいるのに、そうなっていない場合、自分で壁を作り限定してしまっています。 それは、勉強不足による無知が原因だったり、自己探求を後回しにしているか、特別な能力だと思ったために、特別になれないことに気づかないか、新しい変化が怖くて許可できないでいるか、自分にはそのような能力を開花させるわけがないと期待と失望という矛盾が同居してしまっているか…。 などが原因かも知れません。 単純には、自分の知ったこと、信じたことが体験となっていくわけですから、知らないこと、知りたくないことは体験していけないのです。 ですから、自分の無意識下に沈んでいる、恐れ・期待・ねたみ・貧欲さ・不安・心配・攻撃性・競争心などをしっかり把握しておくことが必要なのです。 また目覚めている覚者は、一般の人々から見るととても禁欲的だったり、非常に自由奔放に見えます。 しかし、またここでもその外面だけを見て、表面だけを真似してしまうと、かなりの痛手を受ける場合があります。 覚者は内的な充足や解放に達しているので、普通の人々のような価値感や快楽を必要としていないということなのです。 ですから、このような場合には「禁欲的であるのに、あの自由奔放さ…、いったい何がそうさせているのだろう?何でいつも満たされているのだろう?」というような問いを持ってそれが何であるのか知ろうとすることが大切なのです。 そのC 分からないという状態が、私達にとって最大の不安・心配・恐れ・苛立ちの原因を作り出しています。 がしかし、「この分からない状態に何故私達はされてしまったのか?」 と考えてみたのです。 分からない状態が私達を不安と恐れなどに投げ込んだ入口であるなら、その入口は出口になるはずです。 「わからない状態」・・・これは私たちの新しい世界の扉であるはずなのです。 すべての門は、私の内にあります! ここに今私が通りたい門があるとします。その門を通るためには、ある問いを発しなければなりません、するとその門は開くのです。 心を閉ざしている人の門は、自分でしっかり閉じています、 このような人の心は闇の状態です。 外にばかり気を取られ、門の中の音に気づくことができません。 心がふさがれ、いつも悶々と不安とストレスでおおわれています。 自分の心を開き、耳を澄まして内の声を聞き始めると、その人の内に間ができてきます。その間に、神聖なる言葉や印象・響きは入っていきます。 それが閃きです。 門の中には、人となった存在(私)がいるのです。 門とは、実は『文』であるのかもしれませんね。 変性自我の状態では、鬼が門番をしていましたが、 この一連の作業を克服し始めると、もはや私が門に立つ人となっているのです。(笑) そのD 覚醒を自然に自分から起こしていくには、日常の過ごし方がとてお大切です。 「言・口・行」の3つが正しく同じである事が重要だからです。 この3つは「身・口・意」とも言われることがありますが、『ミコト』とも呼ばれ、「思うこと・言うこと・行うこと」の3つの「コト」が揃っている人格を指し、『尊』または『命』とも呼ばれたようです。 このことからも、いかに「言・口・行」の3つが正しく揃った状態が難しいことかをうかがい知ることができます。 今、世の中では悲惨なニュースが一日中流れ、殺人が当たり前のドラマに映画、苛めやウツ病の話題、不安ばかりあおる健康番組、ダイエット、フィットネス、美食番組、性情欲を刺激するもの…。 このような状態が氾濫していること、更に私達までもが日常まったく同じ話題を中心にしてしまっています。 ニュース通、情報通であることが偉いことで、問題や事件、他人のうわさ話ばかり、どうでもいいことばかりに詳しいのです。 そうしないと世間から外されてしまうと感じてしまっているのです。 それが普通で正しいことになってしまったのです。 これらの情報社会の混乱が、人間の「言・口・行」に影響しあい、人間の「言・口・行」が又、外の世界に影響します。 こうした悪循環が今の現代社会を形成しています。 ですから、まずこの集合体の外に出なければなりません。 自分が見ていること、聞いたこと、知ったこと、受け入れ信じたことが自分の内面となり現実を現わしていくのですから…。 「自分が体験したくないことは見ない、言わない、聞かない!」 これが大切です…。 私は、テレビも新聞も一切見ませんが、一日が長いと感じることもなく、退屈だと思うこともなく、なんの不足も不安も感じません。 一度、現代の混乱した情報社会の外からながめて見て下さい。 色々なことが見つかるはずです。 世の中は、裁判官と批評家でいっぱいです。テレビを見ている時、人と話している時、私の中には、裁判官と批評家がいつもおしゃべりをしています。 裁判官と批評家を元気にさせているのは、事件と悩み苦しむ人々と問題やトラブル・・・すべての混乱です。 この人達が、この混乱を好むがゆえに、それらはなくならないのです。 社会においても、組織においても、会社においても、個人においても、この混乱がこの集合体を強く結びつけています。 現代では、善がとても嫌われる時代なのです…。 このような現代の混乱の中で、本当に善いことを話し、真に善いことを行うのは非常に難しかったのです。 偽善者と犠牲者の中にあっては、本物の善は邪魔ものなのです。 ですから多くの人々が、この流れから外れないように必死に努力していたのです。 こんなことはありませんか?・・・・・ 「あの人に、こんな事話しても、何キレイ言を言ってるのって言われるのがオチだから、適当な世間話でもしてレベルを合わせなければ…。」 もしみんながそれぞれに、こう心の中で考え、相手と会話していたのだとしたら、どうやって向上を目指した、調和と平和の善き世になるでしょうか…。 「だって私だけが変ったって相手も変ってくれなくっちゃ!」 「それに子供の親同士の付き合いもあるし、職場関係だってあるし、言っていることは確かに分かるんだけど、生活もあるし、やっぱり無理な話だよ!」 そう言われてしまうと、もうこれ以上は何も言えないのですが…。 自分がどれだけ新しい世界へ歩み出そうとするかに全てがかかっています。 それでは、こう聞いてみることにしましょうか? 自分の現実は自分が作っているんですよ…と。すると、 「それも分かっているんだけど…」と言葉をにごします。 次に、自分の思うように全てがなっているんですよ…。と言ってみると、 「まさか、私の思うようになんてなってないさ」と殆んどの人が答えます。 ほら…、やっぱり分かってないじゃないですか…(笑)…。 くどいようですが、自分の現実をいかにもれなく自分のお思い通りに現われていたかに、しっかり気づくことはとても大切な覚醒なのです。 今までの自分の人生をふり返って、全てのことが、いかに自分の思いが完全に現れたものであったのかを知るのです。 辛かった人間関係・トラブル・病気、又、幸せだった時、うれしかった時も…。 完全だったことを知ること、そしてこれからもあらゆるものの関わりに完全さを見ていくこと。 そうすると、とても混乱のない完全な流れを体験していくようになっていきます。 こうして、自分の中にはとても大切な力が宿っていたことに気づいていきます。 今まで分からない混乱に満ちた毎日が、分かる喜びと共に味わう人生へと変化していくのです。 バラバラだった「言・口・行」が、完全さに近づこうと揃っていきます。 そのE ここ地球は恐怖の絶叫を楽しむための危険なジェットコースターに乗っているような世界でした。 ジェットコースターに乗るには、安全器具を体に固定させ、手はしっかりと座席をにぎって、そうしながら恐怖の限界を楽しむわけです。 危険と隣り合わせの場合は、いくら安全が保障され、しっかり固定され守られていても多くの人は、そこでは手を放すことができません。 しっかりと固定され、拘束された囚われの身だからこその恐怖と安全です。 もしも、そんな危険な遊びに夢中になって、しっかり座席に固定されている時に、全く新しい世界から、何もしばられない自由に空を飛び回る光り輝く存在たちが現れました。 その時、固定され身動きできない人々は、どうやって新しい世界の仲間入りができるでしょうか…? 「えっ?そんなことがこれから本当に起こるの?」と言う方も少なからずいらっしゃると思いますが…。 私としては、こんな世界に生きていて、情報通でいて終末を感じないでいられることが不思議でなりません。 終末が来て地球が崩壊して、みんなも死んで、それで終わりでいいのでしょうか? もし、その先や、他の選択肢すら考えたこともないのでしたら、ぜひこの機会にその先や他の選択肢があるのだとしたら「何だろう?私には何ができるんだろう?」と考えてみて欲しいのです。 多くの人が、今このジェットコースターから降り始めています。 気づかれている方は多いと思いますが、今地球には急速な早さと勢いで、膨大な変化のエネルギーが押し寄せているからです。 そのF 古いパターンを新しいパターンに変換していくためには、自分の内面に変化を起こしていく必要があります。 古いネガティブで攻撃的な思考パターンを、新しい思考パターンに変えていきます。 私達の内から忘れ去ってしまっていた、神聖さを取り戻すために呼び覚まさなくてはいけない言葉たちです。 信頼・感謝・豊かさ・平安・くつろぎ・喜び・永遠・生命・美・穏やかさ・ぬくもり・希望・平和・共感・真の同情・清らかさ・愛・調和・無く・宇宙・太陽・月・叡智・笑い・神。など・・・・・。 できるだけ、このような言葉一つ一つについて考え、このような態度や気持ちで思考を作り出すようにしていきます。 次に、口から出す言葉も、とても慎重に配慮するようになります。 これは相手がある話なので、かなり厳しいですが、しかしいずれ内面の変化と共に、人間関係も自然と変っていきます。 次に態度や動作、行動になります。 できるだけ「ゆっくり、ゆっくり」「リラックス、リラックス」と自分のリズムに気を配り、焦らず、緊張せず、日常を過ごせるようにしていきます。 又、日に何度でも、くつろいでいる自分を感じてみよう!と心がけてみることもいいです。最初は無理しているように感じても、そのうちくつろいでいることが自然になり、苛々したり、焦っている時の方に違和感を感じるようになるので、切り換えが早くできるようになります。 また自分の周りに人がいる居ないに関わらず、自分の態度に注意を向けるように心がけてみます。 ◎ 自分の内面を観察する集中力 ◎ 気が散漫にならないように、ゆったり、リラックスして過ごすこと ◎ 言葉によらない態度に常に注意を向けること この主には3つのポイントに配慮しながら一日を過ごす努力をします。 常にこのような目覚めた観察力が必要ですので、夜はとてもよく眠れるようになります。(笑) しかし、最初のうちは、まだ変性自我の勝手なおしゃべりも続いていますし、集中した観察力が必要ですし、かなりキツイです。 この克服に一生を費やす人もいれば、ある程度の期間で終わる方もいるようですし、本当に様々のようです。又、完全に戻ってしまわれる方も多いようです。 しばらくの間は、変性自我の引き戻しの力が強力に作用してきますから、強い意志が必要ですし、「フラ〜」っと戻ろうとしている自分にきちんと気づいてあげる為にも持続した観察力にかかってきます。 そして一日何度でも、神聖な言葉たちを思い出して助けてもらいましょう。
― まとめ ― 私達は今、恐れから発生した様々なベールの向こう側に隠されたものに気づく時なのです。 もう既に、恐れ・不安・心配・ねたみ・貧欲・悲しみ・怒り・競い・争い・攻撃・苛め・傷付け合い・苦痛・・・・・これらのネガティブな側面から、もういいというぐらい全ての人生の中で味わってきました。 ですから、「もういい!もうたくさんだ!」と叫んでいいのです。 (次回からは、もう少しテーマを絞り込んでいきたいと思っています…。それではまた…。)
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Last Update : 2008/2/3