【頭と顔…】 初回『鬼退治を解く!』で「霊魂」と「顔」に注目したことから、今日の内容へとつながりました。 頭は顔を支えており、一つの球形体をなしています。 人体の中にも頭部は他の部位とは異なる非常に精密な深遠さ、不可解さを感じさせる一方、顔面は私達がコミュニケーションを行う上でも感情を表現でき、個人を特徴づけるという分かりやすさを備えているように思います。 脳は、文字通り、一人一人の能力により起動し、活動機能範囲・神経回路の順路・接触ポイントなどにより様々に作動するコンピューターに例えることができると思いますが、個人差が非常にあるにもかかわらず、外見上では差が明らかになることがなく、外界には固く守られ閉ざされています。 一方、顔面においては、先程も書きましたように、一人一人を判別する上で外見上、識別対象として明らかに外界に開かれています。 ところが内面の世界においては、逆になってしまうのです。 脳は、神聖なる情報の伝導回路として宇宙に柔軟に開かれますが、内面における顔面は様々な仮面を被ることを許されるので、閉ざされてしまうのです。 肉体の顔は外界に開かれ情報を表現しますが、内面(霊体)の顔面には、内の情報が集約されるということだと思います。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ また肉体における顔面は、目・鼻・口・耳・表皮があり、人間の五官を全て合わせ持っているわけです。 視覚・嗅覚・味覚・聴覚・触覚。 この五官を使って外界と接触し、見て、聞いて、味わって、嗅いで、 また見られ、聞かれ、嗅がれ、触れ合い、味わい合って生活しています。 そして、外界においては、見た瞬間にそれは過去となり、聞いた瞬間に過去であり、嗅いだ瞬間過去に去り、触れ、味わう瞬間的に過去に流れ記憶となります。 ここ地上現実界は、過去の連続体の流れで成立している世界なのです。 しかし内面世界においては、例えば「雪が昨日降っていた。」という情報を思い起こそうとした時に、文章上では過去形であるにもかかわらず雪が降っている情景を思い浮かべてしまうわけです。 たとえ「雪が10日前に降った」になっても、1年前に変えても同じなのです。 内面世界では、時間は関係なくなり「今この瞬間」がただ在るだけになります。 そこで内面世界は、「雪」と「降る」の言葉だけが認識されるのではないかと考えられます。 内面世界では、あらゆる全ての言葉が、その「言葉」としてただ在るという世界…。 10万年前であろうが、100年先であろうが、「雪」は「雪」でただ在るだけ全てが永遠なわけで 内面世界においては、私も同じく永遠にただ在る存在なのです。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ ここ地上世界では、意識の流れが2つあると考えることができると思います。 ◎肉体の五官を使って見せられている外界と関わり、それらを受け取ろうとする意識の流れ。と、 ◎内的な感覚を使って、宇宙全体に関わりながら万物と活動を起こしていく意識の流れ。 どちらに気づいていこうとするかの、意識の流れが私たちにはあるのだと思います。 現在、私たちの多くが見せられている外界を、自分が意識することで生きていると思っていますし、意識するもしないも、それがあたり前になっています。 しかし、見ようとして見ている意識、聞こうとして聞いている意識が、先に存在していると思えてきたのです。 この見せられている世界を、何がなんでも見よう聞こうとして、かたくなに努力している自分…、そんな感覚です。 そこであの観察者にご登場願うわけです…。(笑) 霊的(内的)な目と耳をもつ内面世界(霊的世界)を観察する意識です。 この状態では、霊的な視覚は自立した自己意識となり、真の表象を見ることができるようになり、霊的な聴覚においては教えられつつという想起が起こり、真の判断力が聞かされるのだと思います。 何を知りたいのか、何に気づこうとしているのか、何を(思考として)思い浮かべていくのか、この意識の流れが自分自身と映る世界と現れ、また次元上昇を進んでいく鍵となっていることは間違いないように思います。 この現実世界と内面世界は反転関係にあるようです。 ですから内面世界へと潜入するには、常識に捉われない柔軟な見方が必要になります。 ですから、ものごとを逆の視点から見ると、隠れていたものが明らかになってくることが多いのです。 「世の中のこと全てが逆さになっている」という見方を取り入れますと、最初は非常に幼稚な例しか見つけることができないのですが、徐々にこの認識力で深い洞察が可能になっていきます。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 私達は、この地上世界では、真偽のほどを見極めようととても神経質になっています。 複雑に細分化され発展を遂げるほど、私達の神経は削り減っていくようにさえ思えます。 言葉が複雑に増え続け情報社会となり、知(智)的に進化を遂げるほど、覚えなくてはいけないことが山ほどあり、見極めなくてはならないことに始終頭を使っています。 食品を選ぶ時も、これは体に良いとか悪いとか、食べる時もこれを食べたら太るからやめるか、それでも食べるか…、いつでも常に最低大きく分けて2つある答えのどっちにするのかを迷っています このように私達には、相対的迷想が常につきまとっています。 自分は常に良い方を選択したいが為に、悪方が必要となります。 その為に内面世界に自分の影の要因を全て押し込めていったのです。 良い人間でありたい私は、悪い人間であったらどうなるかという部分を全て影として内面に押し込んでいきました。 私に何か起ころうと、私は自分を良い人と解釈しようと、あの手この手を尽くします。 私は間違いを犯したかもしれない、私はひどい事を言ってしまったかも知れない、私は違う態度を取るべきだったのかもしれない、私はあの時こう動くべきだったのかも知れない…などの失敗と思われる解釈、ひどい人悪い奴と思われるような解釈たちが、どんどん影に投げ込まれます。 やがてこの影が力を増し主導権を持ち始めます。 この影が外に投影を始めるのです。 これが、あの人も、その人も、どの人も、悪く解釈してしまう原因のようです。 私の中にはないもので、人を解釈することなどできませんから…。 もっと言えば、悪く解釈しなくてはならないために、相手はそうなっていくのです。 これが現実に起きている投影世界で、私が全てを造り上げているということなのです。 私が傷つかないために…。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ それではもう一度、あの観察者にご登場願います…。(笑) 霊的(内的)目と耳をもつ内面世界(霊的世界)を観察する意識です。 実は、目と心は、非常に関係があるのです。 目は「心の窓」と言われますし、混乱している人に「目を覚ませよ!」と言いますよね。 目は心に向けるものなのです。 これが「目(まな)ざし」で、→ 「愛(まな)ざし」なのです。 前に神には内面からしか接触することはできないと書きましたが、 唯一、心が神なのです。 神とは、心「ココロ」なのです。 宇宙の核心に触れるのは心なのです。 全ての核には心があるということだと思います。 直感というのは直流ですので、心で響きを受けるのです。 直感とは閃きでもありますから、この前書きましたように、間に「スゥ−」っと入ってきます。 変化と変化の間です。 心は福音の響きを受けた時に「ハッ!」と止まるのです。 直感や閃きが来た時に「ハッ!」と一瞬止まるのはそのせいのようです。 人間は通常の状態で、一日に5万〜6万の思いを抱いていると言われています。 観察者が目覚めなければ、この思いたちは、どんどん脳に上がってきて外界へと投影されていきます。・・・(汗)・・・ 観察者が目覚めると、影の思いたちを通過させずに解放することができるようになってきます。 そして影の思いたちは、徐々に姿を消して行きます。 「頭が固い」とか「石頭」とは、的を得ていたんだナっと今思っていますが、外界の情報処理と影の思いたちに固く閉ざされた中、格闘を続けてきた脳が、宇宙に開かれ柔軟さを現していきます。 脳は待機状態が徐々に多くなり、神聖な接続へと変換されていきます。 みなさんが私と同じ経験をされるかどうか分かりませんが、もしかしたらご参考になるかも知れませんので、私に起きた、また起きている変化をいくつかご紹介したいと思います。 ●まず2年前から、自分の中のうっとおしいおしゃべりで目が覚めるようになり始めました。私はまだ寝ぼけているというのに、「ペチャクチャ、ペチャクチャ」としゃべりまくっています。 人の悪口・文句・言い訳…、「あー、うっとおしい…。」 今となってはこれが変性自我を観察し始めた始まりだったのだと分かりましたが、その頃はどうしてこんな事になったのか、前はこうじゃなかったのかも分からず、ただただそんな朝が続いていきました。 もしかしたらこの状態をウツ病と悩み沈んでしまう方が多いのかも知れませんね。 ちなみに今でも、寝ぼけていようと寝返りを打った時であろうと、私の勝手なおしゃべりが聞こえます。でも内容が徐々に変化してきています。 最近では「あっこれ書こう・・・・!」とか、寝ぼけていても教えられつつの状態であります…。(笑) ●次に、レコード版の針が飛んでいる時のように、何度も何度も同じワンフレーズが自分の中でくり返すようになりました。これにも本当にしつこくてウンザリするのですが、この現象もかれこれ2年近くになると思います。 これがどうゆうことなのかに気づいたのは半年ほど前になりますが、要するに私の古い情報処理回路といえるようなものが壊れかけている現象の一つだと気づきました。 人間が造ったコンピューターロボットも、壊れる時に同じフレーズをくり返しながら段々と声が小さくなっていき、最後には全回路がショートして壊れてしまうのと同じですね。(笑) ●あと非常に物忘れがはげしくなります。(笑) このことにつきましては「思考と言葉について」のテーマの方で詳しく説明しようと思います。 ●最後に体調の変化です。 私たちの身体は、何十兆という細胞の集合体です。 この細胞の数は、地球人口の数と常時比例していると聞いた事もあります。 そして細胞は、印象を受ける力、記憶力、判断力、選別力を具有しているそうです。 ということであれば、私達の内面に変化を起こすということは、全身の各細胞に変化をもたらすことになります。 当然それに伴う症状が出ると考えられます。 この症状として感じる各細胞の機能反応は、一人一人違うはずですので一概には言えませんが、様々なレベルの不快感、痛み、奇妙な感覚、眠気、だるさ、身体の重みとして表れるようです。 主に、頭・腰・足・手などの部位の神経が痛む、心臓・喉・内臓・仙骨周辺・肺などの不快感が多いようです。 もちろんなんでも全てこの転換プロセスにおける症状と思ってしまっていいものか、そこのところは自己判断でお願いしたいと思います。 でもこのことを知っていれば、この人類を含めた一大転換期における個人レベルでの起こりうる変化を、不安を持たずに乗り切ることができると思うのです。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 喜びとは、実は観察者に起こるようです。 ここでまた文字遊びをやってみましょう。 まずは「喜び」の三文字をカタカナと平仮名に直して「ヨロコ‐び」とします。 次に「ヨロコ‐び」のカタカナ三文字を分解して、「ヨ」の上に「ロ」、またその上に「コ」というように、それぞれ上から順番に重ね合わせて一文字にしてみて下さい。 「日」の一文字になるのです。 そこで「喜び」とは、「日の神」が現れることだと私は考えました。 喜びを内面に受け入れる観察者は、愛(まな)ざしを向けることで日の光が直接流れ込むのではないでしょうか。 「神」とは「心(ココロ)」だと先ほど書きました。 今度は「ココロ」の頭の二文字である「ココ」の、左側の「コ」の字を反転させて右側の「コ」に重ね合わせると「口」になります。 そしてこの「口」を、「ココロ」のお尻の一文字「ロ」の上に乗っけてみると、 なんと、、、「日」になるのですねーっ!(ふむふむ…) ということは、「神」=「心(ココロ)」=「日」となるわけです。 ・・・・・・・と気づき、ひとり喜びまわる私でした。(笑) どんな気づきが起きる瞬間も、 喜びと伴にやって来るのはそのせいだったのですね…(笑)…。 できるだけいろんな場面で、「喜んでみよう!」という切換えを行ってみてください。 今までとは何かが変化していることに気づかれることと思います。 【言葉と思考…】 前に少しだけ言葉の迷いということを書きましたが、まず私たちの多くは、イメージ思考をしているということです。 知らないことは思い出せないし、思い起こせないし、イメージができないという前提があります。 例えば、お腹の痛みがある時に、 「食べ過ぎただろうか? 食あたりだろうか? 胃炎でも起こしたかな? 胃潰瘍だろうか? もしかして胃癌の初期症状?・・・」 などなど、短い時間で想像がふくらみ続けます。 次に、ちょっと心配になり過ぎたので、 「いや、この前もこんな症状はあったけれど、すぐおさまったもの、少し横になれば治るさ。あっ、整腸薬を飲めば治るか…。」 このような相対的な迷いの想像を常に、プラス思考→マイナス思考→プラス思考→マイナス思考と続けています。 ここ現実世界は、このような虚構から現れたものが本物の実体であるかのように見せかけられている虚幻世界です。 なぜなら人間の妄想への迷いが外に現れたものに過ぎないからです。 人間の中で閉ざされた影が、外へ外へとリアルさをもって現れています。 あまりにもリアルなので、私達はここから抜けられなくなってしまったのです。 だって、本当にお腹は痛いのですから…(汗)…。 実は、私たちにおいては、善いこと以外は全て神経に吸収されていたようです。 ですからマイナスな情報やどうでもいい情報等は、いくらでも神経を刺激し現れ続けるとなると、痛みも持続し感覚化されていたということになります。 それでは、善いことはどこに吸収されるのでしょうか? …血液だそうです。 これが、善いことは覚えられない…ということだったのです。 きっと次のことを読まれますと、みなさんの中にも「それ、私と同じだーっ!」と言われる方が多いと思うのですが…。 私はこの道の学習を10年やってきて、まずこの手の本を読むと異常に眠くなって、読み始めてもすぐ眠ってしまう。さらに、やっと読み進めても、読んだ先から忘れてしまう。 「これは友達に教えなきゃ!」と思っても、イザとなると全く言葉が出てこない…(汗)…。 本当に、この道のことを伝えるのは、どうしてこんなに難しいのだ…。 言葉では伝わらないんだろうか…。 私が、本の内容を全部覚えていられるぐらい頭が良かったらな…(しゅん)…。 それなのに胸の奥では、新しい世界への希望でいっぱい…(フツフツ)…。 そんな10年間でした。 せっかく直感や閃きがあってもすぐ忘れてしまい、覚えていることができない事に気づいてからは、すぐにメモを取るクセがついていました。 本当に次の瞬間には忘れてしまうのです メモを取るまで、ずーっとその言葉を忘れないようにくり返すのです。 いつもすぐそばに筆記用具があるわけじゃないですから…。 でも、だいたい直感は「一つの言葉」か「印象」なんです。 非常に圧縮された一言なのです。 しかし、やっとなるほどそういうことだったのか…と実感している今日この頃なのです。 善いことは普段出てこなくても、必要のある時に現れるものだったのです。 ですから転換プロセスが進むほどに、私達にとってはひどい物忘れに陥ったように感じてしまうのです。 そして逆に、今までしつこいぐらいだった雑多なマイナス→プラス→マイナス→プラスと偏向ばかりを続けてきた数々の妄想たちは徐々に忘れ去られていきます。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 相対的思考の作用・反作用をもう少し説明してみたいと思います。 例えば、ある日私は顔に小さなシミを見つけました。 「ギャーッ!私もシミの出る歳になったか…とうとう…(悲)」と、あわててシミ取りクリームを購入し、毎日シミに塗ります。 1ヶ月が経ちました…。 「どうかな、少しはシミは薄くなったかな…」とシミをしみじみとながめます。 毎日、それからもシミに注目し続けます。 私たちは見ているものを体験していきますから、、、 これでは毎日シミを見ることを待っているのと同じでした。 そしてシミを見つけ、老いに対処しようとした時点で、私は若返りを期待したのに、老いを受け入れたことになってしまうのです。 シミに注目するほどにシミは大きくなり、若返りを目指した時点から老いが始まるのです。 相対的思考の作用・反作用のダブルパンチです…(汗)…。 それではどうしたらいいのか…ということですが。 この現実世界は虚幻世界だと気づき受け入れてしまうことです。 賢いことをやめることです。情報社会から脱出することです。 妄想ばかりのイメージ思考から、新しい転換プロセスへ進むことを決心することです。 相手を見るのではなく、完全さに目を向けることです。 ところでチベットという国がありますが、 チベットでは神秘には関わらない殆どの人々が、 この地上世界は虚幻世界であることを受け入れ生活しています。 ですから、とても怠惰な生活をしてしまう人々が多いそうです。 「どうせ幻だから…」ということのようです。 しかし、この地上世界は虚幻だからこそ、私達の学舎の場所なのです。 2つの意識の流れを学べる貴重な機会を与えられているのです。 ですから、先進国とチベットでは、 非常に極端な方向性で一方へと偏ってしまった対照的な例だといえるのかも知れません。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 私達は今まで、既成概念・推論・類推からイメージ思考で走り続けてきました。 その為に情報をできる限り入手し、賢くなって対応していかなければなりませんでした。 でも今、新しい思考のあり方が姿を現し始めました。 それは観察者が現れることで実現していきます。 内なる流れの獲得を意味し、真の実感を伴なった喜びの直感と想起思考です。 人間から「真の人」へと自立していく「道」です。 イメージ思考である場合、妄想に消費されてしまうエネルギーがあります。 それは生命エネルギーです。 この生命エネルギーが毎日毎瞬消費されてしまうので疲れ、眠らなければならず、長年消費されるとついにはなくなってしまうので、本来ならば永遠にも近い人生を早く終わらせなければならなかったのです。 それでは、その「生命」とは一体なんなのでしょうか? 「生命」とは、宇宙のあらゆる万象万物を現すための名であり「言葉」です。 全ての万象万物に流れ込んでいる「生命」=「言葉」です。 ところがある時、何者かが人間だけに「生命」を与えようと考え出しました。 それが「生命」=「姓名」です。 この時、真の「生命」への理解は閉ざされてしまいました。 これは自然界万物万象すべてに対する裏切りです。 人間だけに特別な「姓名(=生命)」を与える為に奪ってしまった「生命」によって、逆に私たちから永遠なる「生命」が奪われることになってしまたのだと思います。 生命とは言葉ですから、「生命エネルギー」とは、「創造エネルギー」でもあります。 人間は、思春期の頃、全身に広がっていたこの生命エネルギーを、一つの場所に降ろします。いわゆる「クンダリーニ・エネルギー」と呼ばれてもいますが、私達はこのエネルギーを「性エネルギー」としても消費しています。 人間において大切な活力源が、現代では混乱で低俗な妄想と性交渉で失われてしまっていたのです。 真の男と女の交わいとは、現在のような動物的本能のままの野蛮さのある淫乱で激しいものでは本来ないようです。 皮膚と皮膚との優しい接触から発する、それぞれのエネルギーを融合させるための行為であるようです。 根本的不変原理から考えますと、誰かが生まれ誰かが死ぬということ自体受け入れ難くなってしまうのです。 遥か遠い私達のご先祖さまは、一回の生を何千年と生きていた記録もわずかながら残っています。 大胆な逆説を恐れずに言ってしまうと、地球上から性交渉がなくなれば、生も死も発生しなくなり、輪廻は終わると思います。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 私たちの肉体を成長させ維持している栄養は食物です。 食物を摂取することで身体は生存しています。 現代人は美食ブーム、料理ブームもあって、食べること又は食べ物の妄想で一日中かなりの時間を占領させている方が多いのではないでしょうか? 頭の中は、すぐにショートケーキでいっぱいになり、ステーキをジュージュし、ウニのとろけるような甘みと磯の香りでいっぱいになります…。(笑) あらゆる食料が並ぶスーパーマーケット、コンビニ。 テレビをつけると、ズラリと豪華な料理の並ぶ『温泉宿番組』が映し出されている…。 こんな中でダイエット…??? フィットネス…??? 溜め息が出てしまいます。 飲食店も、あれやこれやとブームに乗り増え続けています。 食べることが悪いというつもりはないのです。 自然と内面が変化してくると食生活も変わってくるので、ここはいきなり菜食主義などに偏らずに、やはり内面から自然に変化させていくのが一番良いと私は考えています。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ このように、身体は食物を欲求し栄養として肉体を維持し造っています。 霊体も実は食べるのと似た行為をしているのです。 霊体の栄養は言葉です。 言葉を欲求し、言葉を食べて成長しているのです。 神聖なる言葉は、霊体を進化させます。 言葉は霊体においても、もちろん生命エネルギーなのです。 ですから食事をしている時には、できる限り悲惨なニュースや新聞記事、ネガティブな会話、くだらないおしゃべりなどは避けた方が良いと思います。 食物は、「まず先に神に供えてからいただきましょう」と言われています。 これは神の喜ぶ言葉を「噛む」ことで、先に神に捧げてから体内に入れましょうということなのです。 「噛む」は「カム」ゆえに「神(=かむ)」で、捧げ「かむこと」は「神事」に通じているのです。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 話すこと、意志の疎通、コミュニケーションの方法、このようなことを改めて考えてみますと、私達はこの会話の仕方・話法が当然と思ってしまっていますが、実はこれさえも違うのだと思い始めています。 無口だと「根暗」と言われ、 話しが下手だとバカにされ、 思っていることが伝えられないと悲しい思いをする…。 なんだか、頑張らなくてもいいことに必死に頑張ってきてしまったのだと、今はつくづく感じています。 きっと、こんなにベラベラとしゃべるんじゃないんだ。 口からも内面でも…。 今は複雑な気持ちだけど、どこかで「ほっ!」としている自分が居ます…。 「やっと元に戻れる…。」 そんな声が、かすかに聞こえたような…。 |
Last Update : 2008/2/4