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− 龍のしっぽ 七−


【鬼を解く ― 再び ―】
   


ご近所のHさんは、札幌に自宅がありニセコには、たまにしかいらっしゃらないのですが、こちらへ来て時間が空いた時には、温泉やニセコの各所へ連れて行ってくれるとても親切な方です。


先日、もう一人のご近所さんも交えて、ちょっとした遅い新年会をHさんのお宅ですることになりました。

キムチ鍋の湯気の立ち上る中、ふと横にある本棚に目が行きました、すると『鬼の研究』と書かれた本があるではないですか…、鬼の目と目が合ってしまった瞬間のように、私の目はそこから動けなくなっていました…(汗)。

「ちょっと、この本拝見してもいいですか?」と承諾をいただいてから、本の中身をパラパラとめくってしまいました。

「うわぁっ!」・・・・・・(ニタニタニタ〜っ)・・・・・・

「あのぉ〜、この本、お借りしてもいいでしょうか?」と聞くと、「どうぞどうぞ…」と快くいって下さいました。

鬼は鬼に引き合わせるのか…こうして鬼同志の思いがけないご対面となったのです(笑)。

『鬼の研究』馬場あき子(著者)
喜び勇んで読み出しましたものの結構むずかしい・・・(汗)・・・。
早々に、要所々々を拾い読みですませることにしました・・・(微笑)・・・。
それでも、私の「鬼」の原像を後押ししてくれるに充分でした。以下に、本文より解りやすく興味深かった箇所のみ抜粋したところをご紹介させて頂くことにします。

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日本の鬼が土俗学的束縛を脱し、その哲学を付与されたのは、中世において鬼女(般若)が創造されたことをもってはじめとしてよいと考える。

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世阿弥は〈鬼の面〉にふれて、「形は鬼なれど、心は人なるがゆへに」という一風を想定している。

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「鬼と女は人に見えぬぞよき」というすばらしい警句が、あるとき按察使(あぜち)大納言の女(むすめ)、合理主義で変わり者として有名な〈虫めづる姫君〉の口をついて出たということは、警句として二重のおもしろさを感じさせる。――――――――『提虫納言物語』の作者は、なお不詳というべきであるが、この「虫めづる姫君」という短篇をみるとき、そこにあるものは美意識の倒錯という以上に価値感の破壊と転換への積極的な自問の姿である。

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「鬼」字を解けば、それは招魂によって帰ってくる死者の魂であることは明らかである。鬼字に後世添加された「ム」字の音も「シ」であったし、「?1」もまた「シ」である―――「魂魄」ということばも「云」は雲であり、「白」は「晒」された状態であって、死者の世界をそのまま示唆する字形である。

すなわち、死者の「魂」は上昇し、「魄」だけがのこって、この「なきがら」となった「魄」祭祀をうける。いつの日か、ふたたび「魂」がもどって来た時の宿り処だからである。魄を祀られぬ魂が永遠に帰所を失ってさまようすがたに悲怨の魂が想定されてゆくのもこのゆえであろう。

 ※ (?1の漢字は、このホームページビルダーでは表記されませんでした…。ちなみにその漢字は「田」のうえに「ノ」が、ちょこんと乗っかって、音読みでは「フツ」と読むそうです。)

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「鬼」字が、「もの」「かみ」「しこ」「おに」など場合々々に応じてよみ分けられていたことが述べられており、「鬼」字のよみが日本で「おに」というよみ方に落ち着くまでには意外と長い時間がかかり「もの」と「おに」とが「鬼」字の獲得をめぐって長く結着をつけかねたと同時に「かみ」もまた「おに」との分類のむずかしさに苦しんだことがよくわかる。

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「神代記」の高皇産霊(たかみむすび)が瓊々杵(ににぎ)を葦(あし)原国を派遣しようとした時の国情観察で、つぎのように書かれている。
「彼(そ)の国に、多(さは)に蛍火の光(かかや)く神、及び蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神あり。復(また)、草木咸(ことごとく)に能(よ)く言語(ものいうこと)あり。吾れ葦原の邪しき鬼(もの)を撥(はら)ひ平(む)けしめむと欲(おも)ふ」

ここで「もの」とよまれている「鬼」は、「蛍火の光く神」や「蠅声なす邪しき神」あるいは「咸く能く言語」がある草木などの総称である。
つまりこれらの例によって知られる、よろずの、まがまがしき諸現象の源をなすものが〈鬼〉の概念に近いものとして認識されていたのである。それは、はっきりとは目にも手にも触れ得ない底深い存在感としての力があり、きわめて感覚的に感受されている実体である、畏るべきものであり、慎むべき不安でもあった根元の力を〈もの〉とよんでいるのである。

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〈鬼〉字の源に死者の魂を招く〈鬼頭〉の本義が、象形からも形声からも考察しうることを見て来た。
その〈鬼〉とは、すなわち〈帰〉であり〈?2〉であり〈死〉であるという原則が、われわれの風土のなかで、いつの頃からか〈鬼〉と〈幽霊〉とを区別していったことを考えねばならない。
そこに「死者のうち祀られたものは神であり、祀られぬものは鬼となる」という解説が生まれたとしても、しかしなお、例の『今昔物語』の伝える羅生門上層(うわおこし)の話を想起すれば、当時すでに鬼の認識は祀られるか否かをもっては足らなかったことがわかる。

 ※ (?2の漢字は、このホームページビルダーでは表記されませんでした…。ちなみにその漢字は「サンズイ」に「斯」と書き、音読みでは「シ」と、訓読みでは「つ」とか「きる」と読むそうです。)

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国つ神は、じつにさまざまな形で没落の跡をたどった。
〈鬼〉とは、国つ神の末裔であるといいうる一面があるくらい、国つ神のすえは衰えて、惨澹たる生をいきあえぐことになった。
たとえば、大峰の前鬼(ぜんき)、後鬼(ごき)などという鬼も、もとは国つ神の末でありながら役行者(えんのぎょうじゃ)の使役に服したものである。そのほかこの行者にはもっと大きな国つ神一言主までが呪縛された。―――――『今昔物語』には「役の優婆塞(うばそく)呪を誦し持(たも)ちて鬼神をつかうものがたり」として伝えられ、役の行者小角が葛城山と金峰山(きんぷせん)に橋を架けることを、一言主の神に命ずることになっている。―――――大国主・大物主とならんで一言主は葛城一円を支配した大国つ神であり、ずいぶんな衰運を歩んだものである。

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以上です。


まさしく「鬼とは女とは人に見えぬぞよき」とは、すばらしい警句そのものではありませんか…。鬼とは、無意識構造の中に隠れて現われずとも私たちの現実に深く関与していた変性自我の正体であり、女とは物質性原理のことで、この現実界を見える次元として構成するために物質がリアルな幻影として現われているのですから…。

次の一行は、文中の前後が抜粋しにくかったために、はぶかせて頂いたのですが、非常にこの言葉に尽きる…という一文がありました。
「人びとが 姿なき鬼をいかに幻影に見ようとしたか…。」

さらに「鬼」が「もの」と読まれていたのを今回初めて知りました。
「鬼」と「女」…妄想を投影させるこの2つの力。

「死者のうち祀られたものは神であり、祀られぬものは鬼となる」
まさに、死後、自分自身で行う言葉の審判のことではないでしょうか…。

一言主の神といえば、日本古来の言霊信仰を表わした神といっても過言ではないでしょうから、その一言主の神までもが呪縛されていた。
日本が神々の国と語られてきたのは、言霊の幸はう国、言葉は神ですから言霊信仰が日本の本来の姿であったはずなのです…。

鬼は、「帰」である…。
鬼は、確かに帰還のシグナルでした。

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時代の移りゆく中で、巧妙な偽装を受けながら影へ影へと押し込まれていった意図と構造…。
混乱した恐れに満ちた世を投影させるには、恐れの実体そのものは、影の世界へ押し込まなければならなかったのです。
はるかに私たちの人知を超えた力が脈動し続け働いていました。
このような人類に対する深い意図を知るほどに、宇宙を舞台とした神性なる次元の智慧と叡智によって全てが起動しているのだと感じています。
人間レベルでは中々壮大過ぎて全体像を見抜けないほど、完璧見事な完全さと秩序が働いていたのです…。

少し話がそれますが、見事という言葉で思い出しました…。
私は、だいぶ以前から「神の絶妙なるタイミング」に委ね切ることのすばらしさを幾度となく体験してきました。

「う…ん…(汗)…」と人間心では考え込んでしまうような場面でも、不安・心配・恐怖心を脇に置いて思い切った行動が取れることが多かったのも、そして、全てが見事に解決してこれたことも、神の絶妙なるタイミングの完璧さに惚れ込んでいたからでした。
迷いがあっても、心配があっても、そんな時には、力強く「神は見事ぞ!天晴れぞ!」と心に勇む言葉が響き出すのです。(もちろん自分の内の声ですよ…笑)

今は、まだ、影の暗い心と、神聖な喜言とが入れ替わり立ち替わりめぐりめく毎日ですが、「神の絶妙なるタイミング」で見事!天晴れ!ひっくり返ってくれることと思います。(笑)

言葉の切り換えを早くできることは、本当に未来を書き換えることができます。
「これは大問題だ!これを解決するのは至難の技だぞ!」
という状況に現実的に本当にぶちあたった時でも、上記の文章を簡単に書き換えることが、私自身にだけはできてしまいます。上記の文章を考えて思考したのも私自身なのですから、当然置換えも自分自身で行わなくてはいけないですよね。

私はいつもできるだけ素早く切り替えます。例えば、こんな風に・・・・・・

「いや、これは何かのチャンスなはずだ!必ずチャンスにできる!」
というように、「大問題」「チャンス」に変換してしまうのです。
すると「大問題化の為の脚本」が「チャンスの為の脚本」へと書き換えられていきます…。この脚本の詳しい中身まで自分で考え抜く必要はありません。もう既に全ての状況に対応できるだけの言葉の組み合わせが存在していますから、あとは、チャンスを造り出す為だけに言葉たちが脚本を完成させてくれるのを待つだけでいいのです…。

でも相手がいるじゃないか…そんなに簡単にはいかないでしょう…と思われると思います。それは、自分が相手を、「あの人は、こんな人だから…」という古い見方を手放せない程度に応じて、その通りになるでしょうけれど、その思い込みを捨ててしまえば、その部分さえも本当は簡単に変換してしまえるもののようです。全てはやはり自分次第だったのです…。

子供の頃、悪さをしたり嘘をついたりすると「そんなことばかりしてると鬼に舌抜かれるぞ」と脅かされたものですが、心と舌とは密接な関係があるそうで、「心は舌に開竅する」「舌は心の菌となす」と言われているようです。緊張しているときは舌に力が入っていますから、ほんの少しでも笑顔をつくりますと、舌は自然な位置に落ちつき、舌と心が連動してリラックスできるそうです…。







       【宇宙の同胞】


鬼が不必要に私たちの歴史や文化に浸透していたのではありませんでした。架空的存在でありながら気迫をもって人間に近づき印象を深く刻みつけた上で、あえて影に隠れる如く退いていきました。
ところが、それは一つの深い意図があってのことでした。

宇宙全体のもと、完璧なる順序で完全なるリサイクルに沿って全て顕現されていました…。

鬼は、私たちの内面世界の警句そのものとして存在していたし、また、帰還の警告ともなるように仕組まれていました。

そうなると実は、もう一つ空想的存在でありながら、私たちの歴史や文化に突如として浸入してくる存在がいると思いませんか?

UFOと宇宙人ですよね…。最近では、宇宙人とは言わず異次元生命体とか高次の生命体、上次元知的生命体と呼ばれるようになったようですが…。
鬼が、最後まで隠れ続けてこそ力をもつ存在であったのに対して、UFOと異次元生命体は、空想だと処理されてしまうのにもかかわらず、突如として大胆に姿を現してきました。

鬼がそうであったように、UFO・異次元生命体も完璧なサイクルで深い意図により完全な計画をもって現われていると考えた方が良さそうです。

一部、テレビ番組などで悪質な一面ばかりが強調されてしまう場合が多いので誤解を受けてしまっていますし、確かに悪質な宇宙人が地球の進化を邪魔しようとたくらんで浸入したりすることもあるようですが、それをのぞけば、私たちの心を惹きつけ、あこがれと郷愁さえ抱かせる不思議な力をもっているように思います。

私は、小学5・6年の頃だったと思いますが、この目でUFOが飛行しているのを見ました。隣りの家の女の子が双眼鏡を走って取って来たので、窓までしっかりと確認できました。窓が見えたのは、アダムスキー型のUFOで、葉巻型のUFOも少し離れて飛んでいましたが、そちらには窓は見えませんでした。

ですから、私にとっては疑う方が難しく、当然のようにUFOも異次元生命体の存在も信じているのです…。

私の母は、私の言っていることも、やっていることも、信じていつも応援してくれましたが、集合的な信念体系の影響を強く受けていて、死んだら終わりに決まっていると言うような人でした。ところがUFOは信じていたのです。それは、私とは別な時に実際に目撃したからだそうで、何度かその時の目撃シーンを聞きましたが、思い出す度に興奮がよみがえるのか、まるで少女のように目をキラキラさせて教えてくれたものです…。

やはり、ここは見る次元…、見たものは強い印象をもって深く刻み込まれるのですね。

UFOが突如として現われるというパターンを私たちに定着させているのは、いつの日か、ドラマチックに私達を圧倒させる程の迫力で、まさしく突如として天空に現われるからだろうと思っています。

もちろん、私だけの前にではなく、地球人類全ての人々の上空にです。
異次元の知的生命体ですから、上空をスクリーンとして、ホログラフィ的投影によって天空を数えきれないUFO群でおおいつくすぐらいのことは、できるだろうと思うのです…。

そのときに、どんなイベントが起こるのか具体的には分かりませんが。
決して全員が連れ去られるわけではありませんので心配はご無用かと思います。
ある意志を示した人だけに何かが起こるようです…。

これから迎える一大転換に備えて、『破壊』の役目を担っていたのが「鬼」でした。となりますと、「異次元生命体」が担っている役目は『守護』にあたるのではと考えています。
『創造』『破壊』『守護』という3つの面において存在の役割が分担されるようなバランスがあるだろうと考えられるからです。

しかし一方では、異次元生命体が創造的行為にまで介入してくることはないと思います。創造的行為自体においては、それぞれその天体の住人だけで行っていかなければならないとする宇宙の統一原理があるように思うからです。

当然、時々は反逆者が現われてしまうにしても、それさえも宇宙の根元創造主の完全さの中での現われなのだろうと私は受け止めています。

私たちの段階は、今一番下にあたりますので、さらに私たちの下の段階を守護したりすることすらまだできませんが、いずれ私たちが上次元へと段階を上昇させることができれば、今度は、私たちの現段階にあたる人々を守護していかなければならないと思います。

私たちが、妹や弟、幼い子を守護するように、宇宙の異次元生命体は、私たちの宇宙の同胞(きょうだい)だったのです。
私たちも含めて宇宙に存在するどんな生命体も全て、宇宙の同一唯一の創造主から創造されたのですから…。

私たちが自力で自立できるよう余計な手助けは一切してくれませんが、いつでも自力である段階に到達した場合には、望めばいくらでも情報を与えてくれるという神聖なるネットワークがあるようです。

しかし、特別にどこかの組織に加入しなければならないようなレベルでは当然ありませんのでご安心下さい。(笑)

この神聖なるネットワークの連帯では、宇宙の絶対基本原理と統一法則に沿っていますから、個人の関わり合いにおいても、お互いの真我同志でのしっかりとした連結状態のコミュニケーションになると思いますので、ここ地上の人間関係のように自分のことを理解してもらえない悲痛な状況に陥ることはないと思います。

そのかわり、全てを見透かされているような、隠し事をできないという、そんな感覚も出て来るでしょうけど、神聖なレベルでは、私達よりはるかに高い道徳心と謙虚さを兼ね備えているのですから、愛善の精神に包み込まれているような、安全な暖かみを感じるのではないかと思います。

また、私たちも、その段階へと近づいていけるわけですから、今まで味わった厳しい体験の学びがあってこそ、そこへ辿り着き、人の辛苦や無知を見下すことなく共感できるのだと思います。



昔の神話では、天から舞い降りて来る存在:空を飛ぶ見たこともない物体…そのような名の分からないものを光や神、悪魔、雲、船、動物などに例え空想的に扱うしかなかったのだと思いますが、今こうして、宇宙には様々な次元の異なる多様な生命体が同胞として存在していたことが分かってくると、色々な謎が解けていくようです…。

代表的な日本の昔話「桃太郎」、川から大きな桃が、どんぶらこ〜、どんぶらこ〜と流れて来て、川で洗濯をしていたお婆さんが見つけ、その桃を割ってみると中から「桃太郎」が生まれた、そして、桃太郎は日本一の旗を掲げてイヌとサルとキジを連れて、いざ鬼退治へ! 見事、鬼退治を果たして沢山の金銀財宝(お宝)を持ち返ったのでした。簡単に説明しますと、ざっとこんな話だったと思うのですが…。

この大きな桃はどう考えてもUFOだったと思いませんか?(笑)
川に例えられたのは、おそらくエネルギーの波動帯だった、そしてUFOから現われた桃太郎は、異次元生命体・・・、鬼退治を果たせるのは、私たち一人一人の中で眠っていた新たな上次元の「たましい」ですから・・・、ゆえに、この新しく生まれた「たましい」とは、・・・・私たちの中の異次元生命体ということに・・・・・。

実は、この異次元生命体とは、私の内なる世界の観察者次元の目覚めにより覚醒する5次元に存在する「わたし」・・・のことでは・・・。
昔話の中にこんな風に未来が託されていたなんて本当に驚いています。

やはり、全ては、ここで達成できる。
私たちは今、想像をはるかに超えたチャレンジをしているのです…。
地球が次元上昇して新たな星に生まれ変わるとき、これなら肉体にも負担なく再生できるでしょう…。
(宇宙的超パラパラまんがを一時ストップさせるだけでいいのですから…笑…)

私たちとは、肉体よりはるかに常軌を超越した荒唐無稽な存在なのです。
そしてここ現実より圧巻のごとく壮大で、戦慄し気絶する程なのが霊的世界です…。
ところが、私たちは、認識力が物質だけに偏向しているために、それを理解し合う言語能力も知識も受け取ることができない状態なのです。
光り輝く至高の世界を説明することにも及ばない虚脱感と無力さに何度も落ち込みながらも、伝えることに挑戦せずにはいられない力によって、私はまたペンをとってしまいます…。

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私は誰で、私はどこから来て、どこに行こうとしているのか…を、しっかりとやはり理解することが一人一人にとってとても重要です。

私たちは、陸、海、空の3つの背景の世界に存在しています。
この3つの背景のうち、いずれを背景として選ぶかで、私の位置が変化すると考えることができます。

よく「エーテルの海」「アストラルの光」といわれることがあるように、陸は物質的肉体、海はエーテル体、空はアストラル体に対応させることができると思います。

この陸・海・空の3領域を全て背景とする私の位置の認識力を獲得し、一枚のキャンバスに統合できると「私の自立」が起き、5次元へと上昇、神人合一を完成させ精神界へ参入していくと思われます。

物質原理を認識し反転させ、過去記憶の海から原像記憶の想起へと変換し、真逆たちの対消滅を起こし、光が充ち、神聖な感情が新たに生まれゆく…。







                   【光の玉…】


前に「あやとり」のことに少しだけ触れたことがありましたが、私達は子供の頃たくさんの神遊びをしていたというお話でした…。

そこで次に、「あやとり」で思い出した毛糸の話をしたいと思います。
昔は、おばあちゃんやお母さんが毛糸でセーターやチョッキなどを編んでくれたので、サイズが合わなくなると、またほどいて編み直してくれたものでした…。
贅沢になってしまった今では、ただただ関心するしかありませんが…、それは決して何百年も前のことではなく、ほんの40年もさかのぼれば、そんな時代があったのですから驚きですね…。

セーターの毛糸をほどいていくとき、おばあちゃんは、私の両手首にグルグルと巻きつけていきました。(私は、前へならえをしている感じです)
手首に上手に早く巻きつくように、私は斜めに傾け、右へ左へと両腕全体をを書くように旋回させていきます。

セーターの毛糸が全部私の手首に巻きつき終わると、今度は、おばあちゃんが、私の手首に巻きついた毛糸の束から一本を引っ張り出し、またグルグルグルグルと毛糸の玉を作り始めます。どんどことおばあちゃんは毛糸玉を360度回転させ、大きな毛糸玉を作っていきます。最後には、大きなまん丸い毛糸玉が完成します。

実は、私たちの永遠の生命とは、この毛糸玉のようなものだと思うのです…。
一本の長い長い毛糸の中には、私たちの人生が全て畳み込まれるように内蔵されているのだと、ふと感じたのです。

私たちは線を横でも縦でもなく、真っすぐ奥行きとして見るときに、その目の前にある先端を点として見ます。
ですから点の向こうに毛糸玉があっても私達には見えません。

その点は現実として現われる瞬間に、一コマ一コマの世界として顕現されますが、毛糸玉自体は、光の糸ですから、もちろん3次元を見る感覚では見ることはできないものです。

また毛糸というものは、実は一本ではなく、たくさんの細い糸がねじりあげられて1本の毛糸になっています。ですから、光の糸も、この際気前よく200本位の光の糸でねじりあげられているとしてみましょう…(笑)。
これは、一瞬の一コマとして現われる現実が200通りは常に用意されることを意味しています。

この光の毛糸玉の中に、一人一人の永遠に続く宇宙的超パラパラまんがが内蔵されているのではないかと…(笑)。

糸はねじられ、さらにグルグルに巻かれていますから、あらゆる交点が存在し、点が線化しているだけなので、いつでもどこでもドアなのです。(笑)

そこで、ハタとまた思いついたのが「つるの恩返し」でした。
「つる」が夜な夜な部屋に閉じこもって、絶対見ないでほしいとお願いしていたハタ織りの作業…。
やはり昔話ですから、「つる」に例えるしかなかったと考えると、月に関わる異次元生命体の光の衣をまとった姿だったのではないかと思うのです。光の衣とは、生命であり、言葉である神の衣です。

「恩返し」の「恩」は、「因の心」と考えてみますと、「つるの恩返し」とは、因の心を返して、一人一人の永遠である生命で光の衣を織り上げる作業といっていいのではないかと思いました。

それはまさしく、私たちが今取り組んでいる作業である、一人のヒトとして自立し「5次元の衣(ヒト)」を完成させることと同じでは…と気づいたのです…。

光の衣=霊衣といってもいいと思います。

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また一方で、私たちは、四大元素(空気:気体、火:熱、水:液体、土:固体)から、鉱物、植物、動物という進化段階を辿ってきたようですが…。
全ての原形質といえるものは、ゼリー状の超極小な一つの単細胞だったようです。

こう考えていくと、「竹取物語」の話にあるように、私たちは、元は草木から生まれていたというのは、真実に近いのかも知れませんね。
虫も動物も、草木から生まれていた…。

ですから、元をたどっていくと、こうして進化の道から退行して原初の原形質へと還元されるのでしょう…。

私たちは動物に接することで癒され、植物を育てることで癒され、海岸川岸の石を拾うことで癒され、土に触れ、水に触れることで癒され、炎を見つめることで癒され、そよ風に吹かれることで癒されます…。

これらの全てのお蔭で、私たち人間の肉体は完成されたからです。
全てが、私たち人間の源だったのです。

今目の前に広がっている万象万物全ての命で私は完成されたのですから、私と全てのものは、同一であったのです…。
私達を造り出せるのも、破壊することができるのも、四大元素の自然の力なのです…。

そして、全てのものに生命を吹き込んでいったものは言葉です。
光と音=声=心技
全てのものから、音と光が放射されていて、私たちはその内なる声を心の枝のように聞き取ることができるはずなのです。

それは、内なる精神との世界に立つ観察者が見る(知る)ことのできるものだと思います。
神の目であり、言葉の目であります・・・。

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人間の常識的概念の制限内では、どうしても上次元の世界を表現することに限界があります。
私自身が、イメージや印象を言葉にする段階で制限してしまいますし、他の人にも伝えようとすると、できるだけ共通した言葉の定義や概念に整理しなければならない作業も出てきてしまいます。

しかし今ここで、人間界で、人間とは何だったのか?の理解に及ばなければならないので、人間同志で知ったことを語り合い、この段階を乗り越えていくことが、やはり必要だと思うのです。

私は、真我が一人として同じではない「完全なる理想の成就」と知ってから、人と違うかも知れないことを恐れなくなりました。
私には、私以上のこともできないし、私以下のこともできないし、またしなくていいのだと知ったら、私のままで恥ずかしいという感覚なしに勇気が持てるようになっていたのです。



前に、改めて昔読んでいた本を読み返すと、面白いほど理解が深まったように書きましたが、今まで苦手だった数学や専門用語までスラスラ理解できるようになったという意味ではなく、私にとって苦手なものの多くは、やっぱり苦手なままなのです…(笑)。

ただ、どんな結論や真理を伝えようとしていたのかが、ただわかる…。
といった感じで、私の方法はそれとは違うけど、それなら「知ってる!」という感覚に近いです。

おそらく昔のように本や著者を評価する必要が、私の中で無くなってきたせいだと思います。
これは人間関係でも同じで、今までは相手が、ブツブツ文句を言いまくっている時には、その内容をしっかり聞き取り、助長するか抑制させたらいいのか判断しなければなりませんでした。聞く側は、暗黙の了解で、この役割をいつも引き受けなければなりませんでした…(汗)。

でも、今私が足を踏み入れ始めた世界では、答えは分かるけど理屈は必要ないのです…。理屈が通らなくても、理屈がなくても分かる「認識」なのです。
これが、私たちがこれから味わうことのできる「共感」の世界なのかも知れません。・・・

例えば、異次元知的生命体には名前が必要ないそうなのです(私たち人間は名前がないと不便なので、私たちのために名前を考えてくれるようですが…)。
ですから、今私は、「名前がなくても、その人を認識できるには一体何が必要なのか?」と問いました。すると30秒もかからずその答えがわかりました(いつも30秒ではなく、何日もかかるときももちろんあります…)。

「その相手が見ているものと同じものを見ることです」と・・・・。

理由や理屈を先に考え出してから答えを出すという、今までのパターンとは全く違うようなのです。

「その相手が見ているものと同じものを見ることです」と答えが分かったのは、この思考のイメージ像ともいえるものが先に脳裏に浮かんだからです。
しかし、一瞬脳裏に浮かんだ、このイメージ像と言葉にしたものを、他の人に伝えるとなると、何ページにも渡る文章が必要になってしまいます。

そして、読んでくれた方が、私の伝えたかった内容をそのまま理解してもらえる可能性は極めて少ないです。

でも、「その相手が見ているものと同じものが見える」状態が成立するなら、説明する言葉は必要ないか…もしくは補足程度で充分になると思います。

現在の私たちの3次元的認識力では、「その相手が見ているものと同じものが見える」という答え、この言葉は成立できませんよね…。私たちは、肉体を自分だと思っているうちは、絶対に相手が今見ているものと全く同じものを見ることができないからです。

言葉や思考がホログラムにより投影されるホログラフィを私として見ている私、このホログラフィを相手も見るという表現が近いかなと思います…。

5次元世界では、私を私の外に見ることが可能になります。ですからこれと同じものを相手も見ることができるのですから名前は必要ないのだと思います…。

これから私たちが進んでゆく上次元の世界では、私が見ているものと全く同じものを相手も見ることができるために、言葉による誤解の生じない「共感の世界」が成立しているのだと思います。

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私たちは、言葉を持つものだと思ってきました。
言葉でもって、人とも自分の内でも話をしていました。
ところが、私が言葉でした。
それなら言葉の私が、言葉を持てるのはオカシイですよね。
自分の肉体に、「肉体をもってみろよ」と言っているのと同じことです。(笑)

「―――(思考)―――」が、私であり、肉体側の外の現実を創り出していたのですから、私たちが今まで考えていた自分と言葉の関係を入れ換えなくてはならないのですが、だからといって肉体が今度は消えてしまうのではなくて、逆に妄幻世界で崩壊を迎える定めである物質的肉体を、不滅の思考である私だからこそ死という運命さえ滅し、神の生宮へと変えていくことが可能になるのだと思います。

言葉や思考が私だと知ったわけですから、これからは言葉を慎重に選び、自分に体験させたい善きことだけを思うようになっていくはずです…。あたり前のようで見過ごしてしまった中々なことでした(笑)。

本来、自らの心を持つように人間は創られたのではなかったのです。私たちは神の息であり息子たちの生命で…、神の息がかかっていないものなど一つも存在せず、みんなが神の子たちだったのです。

しかし、それにしても誰が一体、言葉が本当の私たちだと決めたんだ!言葉が私たちだったという証拠でもあるのか!
と疑問を持たれても仕方のないところです…。全く、この目で見ることもできないものを私たちだと言っているわけですから…。

私たちが人間の両親から生まれて来たように、思考の私たちは創造主の分魂分霊として創造(誕生)したのです。

創造主の瞑思=(思いの戯れ)から誕生したのが、私たちと宇宙に存在するありてあるもの全てなのです。
ですから「瞑思=(思いの戯れ)」が、私たちの在り方なのですから、そこに、それ以上の理由は存在しなくてもいいのです…。
これが、私たちは創造主の似姿であるということだと思います。

瞑想をされる方はよくご存知だと思いますが、思考にお願いだから1分間だけ止まってくれ!と頼んでも止まってなどくれません…(笑)。
これが永遠に続く生命である私たちである証しですから、思考そのものである私たちは死ぬことなんてできなかったのです。

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『愛言葉=合言葉』、これが肉体からの解脱を完全化させていく上でとても大切な合言葉になると気づきました。
実は先日、自分自身を本当に愛するという感情に圧倒されたのです。
ずっと、この私が私だった。
この私が私だと思ってきた今までの長かった人生。
心配もした、泣きたくもなった、腹も立った、期待もした、苛々もした、死にたくさえなった…、全ては、この私が私だと思っていたから。

今まで私は、自分を愛することがどうゆうことなのか見当すらつけられなかった。

でも今私は、この肉体を自分だと思うことから完全に決別しようとしている。
私は、この肉体から解脱しようとしているのだった。
その自覚と決意が同時に起きた時、私は自分を愛するということを知りました…。

私が、私自身を愛するまで、ここを出られなかったのですね。

「自分を愛する」――この言葉を体験できるまで、随分と長い歳月がかかってしまいました。本当に長かったです…。

この肉体は、私の化身だったのだと完全に自覚でき、受け入れたとき、私は自分(化身)を愛せずにはいられませんでした。

私は、この肉体を自分と信じてけなげに必死に生き抜いてきた化身を抱きしめてあげたくなりました。

でも・・・・・・・(絶句)・・・・・・・
思考である私が肉体を抱きしめることなんてできるわけがありませんでした。

この瞬間、なぜ人間を創ったのか? その理由に触れることができました。

抱きしめ、抱きしめられたかったのです。

ここ地球は「創造主は、全てを愛する」であることを学ぶことのできる場所だったのです。
「私は自分(化身)を愛する」ことのできる存在であると知ることによって…。
不本意とはいえ誤ちを倒錯し続けてきた私の化身を愛することを知りました。
そして、創造主とは至高なる感情「愛」だったのだと知る門までも同時に開いてしまうのでした。

″宇宙の至高なるものとは思考です″
思考姿とはです″

これからは 光が 私たちの姿となる乗りものです。
〜 光+波 〜 コトバ 〜 とは 〜光と波 〜 です 〜

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私は今回、人に伝えようと真剣に思考に深く没頭し、自分の言葉で自分なりに話そうとすることがどんなに大切な取り組みなのかを知ることができました。正解か不正解かが気にならない解放感の中で、知っているという状態から取り組むと、想起があらゆる形でやって来るのです。雪だるま式に、どんどん思考の私が拡大していくようです。
自分自身として思考の実行を見ること。まさに思考である存在が私であるという体験をしているのだと気づきました。

神とは、言葉で連なる思考の世界ゆえに、思考が二重三重に巻き込むように結着を見ていく円心力と、自我を跳ね除けてしまう遠心力のような力も実感することができました…。
しかし、「神出鬼没」とは、よくいったものですね…、私はこの言葉を創作した人にぜひ会ってみたい気持ちが、今しています…(笑)…。

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今日が最後になりますので、一大転換をいよいよ目前に控えて死にゆく人びとをどう受け止めればいいのかについて、少しだけ私の思いをお伝えして終わりにしたいと思います。

人間は、表面には現われることのない深いレベルで決断が下される場合があるのだと思います。
少なくとも、一大転換を目前にして亡くなられた方は、地球の滅亡をともにすることは免れます・・・。

ですから、一つの救済手段(措置)と考えてよいのではないかと私は受け止めています。
深いレベルでの決断理由や原因は、それぞれに違うでしょうけれども、それはやはり本人自身の選択であるのだと、私はその選択を心から尊重し、新しい星での再会を待ち望みたいと思っています・・・。

みなさまの永遠の生命に 心から感謝いたします







    【龍のしっぽ −船出−】



私たちが、この次元で与えられたのは「自由」でした。言葉と思考とは何であるかを知るための「自由=字遊」です。この自由が与えられていたことを知らなかったので、それは私たちの悲痛な現実の原因となってしまいました。しかし、言葉や思考が何であるかを知ることは、「それである私を知る」ということと直結していました。
まったく、してやられたものだ・・・と、ただただ今、敬服の思いです・・・(汗)。

私たちは「私の原像=ただ在る」状態から、自分自身のことも何も全く分からない状態まで降りて来なくてはなりませんでした。そして、自分を知ろうとする力でそれに成っていき、観じ知る目的を果たしながら創造の源(思考原像)へと帰還して行きます。『創造』から出発した創造を知るための創造の旅です・・・。

昨日、フっと『見えてきた宇宙の神秘(野本陽代 著)』という、とても美しい宇宙の写真が掲載されている本が脳裏に受かんだので、その本を本棚から取り出し、宇宙の神秘に魅せられていました。

いつも美しい天体写真に引き込まれるばかりで、著者の文章を殆ど読んだことがなかったのですが、昨日は「星は死して元素を残す」と「宇宙の蜃気楼」の2つの目次と私の目がまた離れなくなり、そこの説明を読んでみることにしました。とても興味深いので要約して少しだけご紹介させていただきます。



★「星は死して元素を残す」―――私たち人間にとって、超新星は単なる花火以上のものである。もし、この超新星が存在しなければ、そもそも私たちが生まれることはなかっただろう。私たちの身体、そして地球をはじめとするすべてのものを構成している元素、その多くをつくったのが超新星だからである。―――いまから50億年ほどまえ、星と超新星がつくりだしたさまざまな元素が全体の質量の約2パーセントをしめる星間雲のなかから、私たちの太陽系が生まれた。この2パーセントがなければ、地球も、私たち人間も存在しなかった…。私たちはまさに星くずなのである。そして50億年後、太陽の死とともにふたたび宇宙空間にもどり、いつか新たな星の一部として再出発することになるだろう。


★「宇宙の蜃気楼」―――広い宇宙とはいうものの、これだけ数多くの天体があれば、遠くと近くにある二つの天体がほぼ重なって見えることもあるだろう。このとき、宇宙の蜃気楼がつくられる。―――はるかかなたの天体と地球のあいだに、重力をおよぼすもう一つの天体があれば、本来なら地球とは無関係の方向に進むはずの光がそこで曲げられ、地球にやって来ることも考えられる、ということから「重力レンズ(効果)」と呼ばれている。二つの天体の並び方と、レンズの役割をする手前の天体の質量分布によって、遠くの天体は円になったり、弧になったり、二重、三重、場合によっては四重の像がつくられる。

「50億年前という過去」は、宇宙空間では「50億光年のかなた」といわれます。
宇宙望遠鏡では、50億光年のかなたの銀河団が写し出されます。
私たちでは、昨日というたった一日前の過去ですらもう姿を消してしまうのに、宇宙空間の天体は永遠です…。それは、光は永遠なる姿だからだと思います。

50億年前の過去であり、50億光年のかなたに帰ろうとする中心に今私たちは存在しているのです。
宇宙空間において私たちは、時空を超えて同時に存在することのできる、宇宙的存在なのです…。

人間と真実の私の間に、観察者次元を覚醒させ、5次元を開き、50億年の距離をもつ人間と真実の私をピタリと重ねることにより、重力レンズ効果が起動を開始し、宇宙空間に人間・神の目・真我(神我)を貫通させる三重の同心円が完成できると考えられます。

こうして、私たちは、もう宇宙の中で孤立した迷子ではなくなるのです・・・。




                    − 龍のしっぽ 完 −












『龍のしっぽ』は、全文手書き原稿をそのまま四国へFAXし、その打ち込みを遠く高松に住む主人にお願いしました。
私より、はるかに文才のある主人が、私の文章を編集もできずに打ち込んでいくのは、さぞかし歯がゆい思いをしたことだろうと思いますが、最後まで快く協力して頂いたことには、心から主人に感謝しています。


また最後まで、私の文章に目を通してくださいました皆様に厚く御礼申し上げます。

                        どうもありがとうございました。

                                              20082月吉日 
                       北海道ニセコより 玉川 朱美







         







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Last Update : 2003/5/17