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− 龍の原っぱ −






《 二重の許し 》



今、二重の許しを自分自身に与えていくことができます。

しかしそれは、過去の馴染み深い影の世界に引き戻されることでは決してなく、深く広い智慧と包容力を必要としています。

二重の許しとは、苦痛、心配、不安、後悔、批判、判断、差別、自虐的、排他的な犠牲者的思考が生み出す闇の思考との決別を自分に許していくことと。

私たちには、まだ眩し過ぎて逆光の中に呑み込まれてしまうような虚空さを感じる未知なる変化を自分に許していくことの二つです。

この二重の許しは、誰かが与えてくれるものではなく、自分だけが自分に与えることのできる許可です。そこで許す為には、常に耳を傾けていることが必要になります。自分の声に耳を塞いでしまわないよう、観察者を完全に起こし再び眠りに落ちない意識的で持続した目覚めと注意力にかかっています。

新しい思考や流れを受け入れるには、古い思考パターンと新しいものが見えてこなければ許すことができないのです。

この二つを同時に実践して許し合っていくことで、どちらからも影響を及ぼし合っていくことができます。

このように、今、私たちには、自分に何を許していこうと意志していくのかが、ひとりひとりの段階おいて、また地球規模でも提示され始めていると感じています。

今までは、影の思考(変性自我)の声は隠され、外の世界や他者に投影されていましたから、外に向けて苛立ちや怒り、批判をぶつけることで、ある意味では折り合いがついていました。

いずれ自分にその数々が跳ね返ってくるにしても、この次元では時間がかかってしまっていましたから実感できることは少なかったのです。

しかし時間の経過が早くなっているのと、闇の勢力が衰えてきているので、何事も発覚するのが早くなっています。ところが私たちは、今まで習慣や繰り返しの習性で生きてきましたから、「一期一会」に生きることを忘れてしまいました。何かにせっかく気づいても時間が経つとまた元に戻りやすいのです。

とにもかくにも、この次元の特徴は、しつこい、回りくどい、長ったらしい…です(笑)。

変性自我の声を聞くということは、決して心地よいものではありません。自分は、こんなくだらない人間だったのか…と落ち込んでしまいます。その落ち込みが酷い場合には、精神分裂症、ウツ症、多重人格症になってしまったり、それと同じような症状を味わうことになることが考えられます。
ここにハマってしまいますと、自分の影の部分と向き合う状態が、自己欺瞞と自己逃避に向かおうとしてしまうのです。精神性がまだ未熟な場合、内面を深く見つめていく作業が、逆に見逃すことを選択し続けてしまうともいえます。

私たちは今、新しい進化を遂げるために、それぞれ一人一人が真我に戻るチャンスを目前にしているからこそ、この段階を踏んでいます。決して苦しむためではないのです。ここが大切なポイントになります。このことを知らないと一つ一つの段階を広い視点でクリアしていくことが難しいと思います。

この地上界を動かしてきた恐れや苦痛などを克服することが大切ですから、どんなに今までの認識では恐ろしく苦痛なことでも、それを恐れず苦痛とせず受け入れてしまえることがポイントになると思います。変性自我が恐れ苦しもうとしていても、それを達観して超越することができることを知ることともいえるでしょうか…。

もう、恐れと苦痛で人間を支配コントロールしてきた勢力に合わせることは全くないのだと気づくこと、そして、その社会意識や集合意識からドンドン離れてしまっていいのだと知り、そうすることを許していくことなのです。

極限の絶体絶命の状況によって、突然の目覚めや人生観の刷新が起きることがあるのは、その瞬間「もう!私は終わりだー!」と心の中で叫ぶからだろうと思います。まさしく、完全に自分を諦める覚悟が古い自我が終わらせ、新しい扉を開いた瞬間であるのだろうと思います。

このように劇的な目覚めや人生観の刷新、絶体絶命からの生還が少なからずも確かに起きてきました。

心の浄化に段階はあっても、最終的な変化は劇的に瞬時に起きるといわれています。

この次元にある時間の中での心の浄化には、やはり時間と準備や段階が必要だけれども、異次元に時間は存在していないので、この変化は瞬時に起きるのでしょう…。

このことから、完全に自分を諦める覚悟が古い自我を終わらせ新しい扉を開いた人が少数でも存在したのであれば、やはり、多くの人間が変性自我で生きてしまっており、新しい扉が開かれていないということです。その5次元の扉は、末期癌や重症な疾患を消滅させ、瀕死の事故から無傷で生還させ、人生観さえ刷新してしまう威力があるのです。

今、地球では、全員がそのチャンスを迎えています…。ですから、闇と影が浮き彫りにされ極限の状況を地球自体が、そして一人一人が迎えています。

光である真の私たちは、自分が光であることを知るために闇を必要とします。闇の存在は、自らが闇であることを知るために光を必要とします。この中間の「影」が現在の人間といってもいいかも知れません。光が射しているからこそ影ができていたのですが、5次元の扉が完全に開いた場合、私たちは、光か闇のどちらかを選択しなければならなくなります。これから起きる大転換に中間はないだろうと考えています。なぜなら、今、この地上に生きている私たちが中間の影であり、この影という間が消滅するのが5次元への上昇だからです。

時間という時の「間」が消滅し、あらゆる「間」が消え、全てが在るという存在そのものとなります。
その時、例えていうなら、裸の状態になり一人一人の本性が露わになるのです。3次元の特徴であった、逃げ隠れが不可能になるのです。

ですから、逃げず、戦わず、封じ込めず、苦しまず、恐れず…。ただ、新しい限りない可能性を選択するのだという意志だけを優先させ究極の目的とすることが重要になります。
ここでいう「限りない…」というのは、数がたくさんある限りなさではなくて、限界や限度を知らない思考です。限界のある思考のパターンに制約を受けているのが3次元ですから、その限界を無視し、限りない思考にチャレンジするのは、まさしく新しい思考なのです。

例えば、「私は死ぬのや〜めた!7万2000歳まで生きよう!」というのも、限りない思考、限りない可能性になります。こんなことを言うと、「そんなこと言ったって無理でしょう…」と一般的には苦笑いされてお終いですが、誰になんて言われようと関係ないのです。そして、明日には、「やっぱり、56億歳まで生きようっと!」と考えを簡単に変えてもOKなのです…(笑)。

ところが、みなさんもチャレンジしてみると気づくと思いますが、「どんなことでも必ず叶うから、どうしたい?でも、今は一つだけね。どうしたい?」と聞かれると即答できないものです。
多くの人が、例え幸せになれるかどうか確証がなくても、それによって苦痛を味わっている人が多いと知っていても、人と同じことをする必要を感じ、みんなと同じことをしているという安心があり、制約と制限のある考え方に守られていると錯覚してきました。こうして、限りないことを考えることができなくなってしまったのです。

限りない可能性、限りない喜び、限りない思考とは、新しい自己の目覚めでもあり、真我へのアクセスでもあると思います。「限りない…」では、習慣と繰り返しというパターンは消え、新しい瞬間の連続に変化していきます。自分自身が「一期一会」になるのです。

私とは、瞬間瞬間であり、新しい自己との出会いの連続である「一期一会」そのものとなります。

失敗を繰り返しながら学ぶ世界からの脱却です…。同じことを二度繰り返す必要さえなくなります。いつも新鮮で常に発見なのです。

思考がすべての原点ですが、思考は光となり「言の葉」として言葉を生み出しました。
植物が葉を茂らせるのと同じです。生命の葉です…。

思考プロセスが進化すると、言葉でのコミュニケーションからビジョンでの互換に変化していくだろうと思っています。五感(五官)から互換に変わるのです。
神の芸術の世界…。絵とは、意図との出会です。すなわち、霊的ビジョンとの出会い…。
描写とは、秒写であり、瞬間瞬間のビジョンが自己そのものとなるわけです。

今、多くの地上の人間がウイルスに潜入され好き放題にされているパソコンのような状態になっています。外界の現実に惑わされること更にテレビやパソコンの世界に二重にハマってしまいました。

テレビやパソコンのモニターが地上に存在しているのは、まさにこの地上がバーチャルな世界だからこそなのです。本来の私たちとは、観察者として異次元に存在し、このバーチャルな地上世界をモニターできるのですが、リアルな現実世界だけを真実と信じ込み、更にテレビやパソコンにハマっていては、二重に閉じ込められてしまいます。これから、色々なことを見極める視点が大切になってくると思いますから、もうリアルな3次元にハマっている場合ではないのです。

私たちは、眠っている間に夢を見ますが、いまだにどうしてどうやって夢を見るのかは解明されていません。夢とは、この次元で起きていることではないから解明できないのだと私は考えています。

夢の中の自分を観察してみますと、日中のようには肉体感覚を感じていないことに気づきます。
例えば、誰かに夢で追いかけられていて、早く走らなければと焦れば焦るほど走れない焦りから抜けられなく、走って逃げなければという焦りの感情を夢見ているだけです。お風呂に入っている夢を見ても、お湯に浸かっている熱さを感じてはいないのに、お風呂に入っているのを夢見ているだけです。


お手洗いに行きたいのに我慢して寝ていると、トイレで用を足している夢を見ますが、それは全く肉体的ではなく思考的なのです…(笑)。
歩いていても歩いているという感覚はなく、ただ、歩いている自分を夢見ているだけです。

死後に自分の一生を逆向きに回顧するといいますが、このときにも、自分と対象や相手とのどちらにも与えたことを味わうことになるそうです。しかし、苦痛などをこの現実世界のように感覚化することはなのと同じように夢も映像的に見ていても感覚化することはないのです。ということは、一層、夢とは異次元の世界で起きていると考えていいのではないかと思うのです。

毎晩、寝ている間にあの世と同じ世界に行っていると言われるのもここのところによるのではないかと思います。

夢は、眠っている間に見る夢という意味と、心に思い描くドリームという意味で二重の意味を含んでいたのですね。そして、実は、どちらの夢も私の思考が創り出しているのだと気づきました。

日中、観察次元である四次元で眠り込むことがなくなれば、眠る必要がなくなるかも知れません。日中のうちに見るべき内面を見逃してしまったものが、夜眠っている間に消化されていると考えられるからです。眠ることで日中の疲れが癒えるのも、日中隠されたままの内面の活動が寝ている間に消化されるからということができると思います。

私たちが、夢(ドリーム)世界の五次元に戻るためには、四次元の目を開き、この三次元のリアリティーを見抜きハマり続けることから抜け出さなくてはならないのです。
この次元でのリアリティーを与えられるままに信じハマってしまうことで、この世界を牛耳っている闇の勢力や低次元の存在や逸脱した存在に思うようにされてきたのが現状でした。そして、その勢力は力を失いかけているとはいえ完全に影響を受けないためには、テレビで報道されている情報だけが正しいという見方では難しく、新しい情報の開示を自らが受け取れるようになっていかなければならないと思います。

そのために、隣の人々や家族でさえ参考にはなる時代ではないのです。これから色々な選択肢が現れたときに自分自身で見極める目が必要になります。そして、その時までの瞬間瞬間の今何を選択するかの重要性にも気づいていく…とにかく準備が必要なのです。なんの準備が必要なのかは、それぞれ一人一人によって状況が違うでしょうから、やはり自分自身で段階を踏んで気づいていかなければならないのです。

私たちは、与えられる側にいるために欲しがってしまいます。欲しいものに注意を向けるために、消費者側の意識によってコントロールされてしまうのです。このコントロール下から出るには、供給側の与える意識をもつことが大切になってきます。それは無限の思考によって可能な領域です。

私たちは、自分で考えなさいと教育されてきました。そこで教育者や教祖が必要でした。創造的供給側にいるのが私たちであれば考える必要はなくなるのです。考えるために頭を使う必要はなく、心はすべてを知っているからです。

私たちは、この次元の探究者であり、この地球そのものが学びの実地の場だったのです。この実地の場の特徴は、唯一、個別化が可能な次元だということだと思います。それだけに、ここで個性が育てられるといっていいと思います。

学びとは、(まな)び。地球は、愛を学ぶための場所なのです。

個性、天性、霊性、神性のうちの、個性を磨く場所が地球の地上界だったのだと気づきました。この次元は、そうゆう意味においても非常に貴重な場所なのです。

学校で言えば、多くの人が今までの何百回という転生を経て学びの体験を積んできました、あらゆる感情、あらゆる体験をしてきたのは、これらがすべて授業の一環のようなものです、そして、最終的なこの次元の卒業論文を提出する時期に来たといえると思います。

卒業論文にあたるのは、一人一人の思考です。高次元の存在は、一人一人の行動や思考のすべてを見ており知っているといわれています。

今までは、嘘や誤魔化しが通用してきましたし、悪的な行いも許され見守られてきましたが、2012年12月23日に向けてそれはどんどん難しくなっていくと思います。また、その日からは、この地球上では全く通用しなくなると考えておいた方がいいかも知れません。

そのくらい人類は、最終的な一大転換の局面に近づいているのです。もちろん待望の光の世になるわけですが、心の浄化が完了していない人々にとっては、辛い状況が待っているわけです…。

悪人であれ善人であれ、同じ言葉を語ることを許されています。しかし、言葉には、光の言葉と闇の言葉があったのです。悪人ほど善人ぶっていますし、善人ほど謙虚で誤解されることにもひるみませんから、言葉だけでは見抜くことが中々なのです。言葉は見えないだけに自由に使うことができます。この言葉の見極めは、頭の判断では限界と間違いがつきものでした。頭は判断したがりますし、相手を悪く誤解することを好みます。しかし、心は、心の音を聞きとり、読み取ることが可能なのです。

ポジティブに生きることのパワーに注目されました。しかし、ポジティブさという仮面をつけてしまうことは、不幸(ネガティブさ)を人一倍恐れている証拠でもあるので、いつまでも「不幸になんかなるものか」「私は幸せなのだから!」というプレッシャーが追いかけてくるのです。

自分の中の闇の部分を見ることを許していくことで、他者の人々の闇も目をそらさず見る目が養われます。そして、自分と同じなんだ…という境地に至り、全ての在り方を許せるようになるのです。このとき自分に許しが起きます。

不思議なことにこの地上では、人と同じことをすることで安心をおぼえるのに、いつも、自分だけはみんなとは違うという思いが台頭しています。自分だけは癌にはならない。自分だけは詐欺なんかに引っ掛からない、自分だけは大丈夫、自分だけは…、自分だけは…と。

本来は、私たちは霊性として一体化しているので同じことをしようとする必要さえなく、自分だけが違うと思い込む自体オカシイのです。神は、決して奪ったりしません。奪うのは自分の中の闇の仕業であり、ましてそれは影に過ぎないのです。

また、高い精神性の境地に至れば、ネガティブもポジティブもなく、ただ完全さや完璧さが見出されるだけになります。ありのままでいい…。あるがままでいい…。常に、ただ在るという連続「一期一会」です。

最近、日常の生活の中で気づいたのですが、一見したところ以前の生活と変わったところはあまりないのです。何かを我慢しているわけでもないし、何かを特に止めたわけでもないのです。ただ、いつの間にか順が自然に入れ替わっていたことに…と気づきました。

精神的な作業が優先され中心となっていて、神は、順の正しさであるということが体験となっていたのです。そして、言葉の順の正しさを知ったことで、古い思考パターンが未だに続いていたとしても気にならなくなってきたのです。いつでも、神の順の正しさに拠ることができるようになったからだと思います。

心の浄化を「心の掃除・洗濯」というようにいわれることがありますが、まさに、日常見えない汚れが見え出すことで家の中を綺麗にし始めることが幸運につながるのは当然で、この行いは、自分の心の汚れが見えてくることと通じているからです。

汚れが見えると掃除をしなければなりません。だから、汚れが目に入らないように自分でしているのです。見るものは自分が常に選択できるのです。同じ人間の目であっても、同じ汚れが目に入らない人と、汚れが見えてしまう人といるのです。これは、心の目に通じているようです。

また、心の掃除とは=心と相似となることで、心の洗濯とは=心が選択することで、この二つ揃って心の浄化すなわち改心が完成します。
改心とは、すべてを神のみ心に返すということで、心は神のみ心と相似となり、心が選択するのですから迷いが生じることもなくなるのです。

心の浄化が進み、心が純化されるほどに、新たな選択肢が見えてきます。選択肢が与えられるといってもいいのかも知れませんが、とにかく、心の浄化をしないでいますと、いくら勉強しても選択肢が見えないわけです。非常に限定された選択肢の中からしか選ぶことができないわけです。全く心の浄化に手をつけていない場合は、選択する必要さえ気づけないまま全てを見逃すことになるでしょう。

改心の「改」の字は、己と文=(おのれ)(ふみ)を改めて、神にお返しし神のみ心となる、ということなのです。

許すためには見なければなりません。
汚れも目に入らなければ掃除も洗濯もできません。
すべては見ることから始まります。

(まなこ)とは愛子(まなこ)。見ることそのものが学びであり、愛の種子であり、光なのです。






《 大和魂 》



大和魂とは、精神と精魂の和合、和の心ひとつで繋がることだと思います。
日本人には、本来、和の心があります。
国旗を見ると分かるように、白地に太陽…こんなハッキリと他国との違いを感じる象徴はないのではないでしょうか…。(ひ)(もと)の国=(ひ)(もと)の国です。

私は、日本が大好きです。
いわゆるリゾート的な海外旅行をしたいと思ったことは一度もありません。
ずっと、日本人として生まれ、こうして日本で生きていることの有難さを理屈じゃなく感じてきました。

しかし、日本に今いるからといってすべての人々が大和の心の基をもっているかというと、人種が入り乱れていますのでそうではないようです。また、逆に海外の人で、大和の心の基をもっている人もいるわけです。

日本人は、礼儀正しく、頭を深々と下げて「おじぎ」をし、相手に敬意をはらいます。
深々とおじぎをすると、自分の胸を見ることになるのです。心臓がある位置、心の位置でもあります。

相手に頭を下げるという姿勢は、上目づかいに相手の姿を追うことなく、自分の胸(心)を、きちんと見るという姿です。

昔、就職先の研修時に接客マナーを教えていただきましたが、女性は、左手で右手の甲を軽く覆うように、そして左手の親指は、右手の親指と人差し指の間に潜り込ませ、手の高さは股間の辺りの位置で合わせ「おじぎ」をする練習を何度もさせられたものでした。
(男性は、おそらく逆になるのでしょうか…)

研修のときに、胸を見るようにとは教わりませんでしたが、自分で「おじぎ」の姿勢をふとやってみて気づいたのです。自分の片手のしかも親指を隠して四本のみしか見せない、そして、頭を低くくして心の位置まで下げる、そして合わせることで胸(心)を見つめ神のみ心に返す姿である「おじぎ」は、日本人の慎ましさと謙虚さの現れだったのだと思います。

古式ゆかしき、和式。生活の基本…衣食住。

お手洗いは、やはり和式が日本人には適していたようです、足腰が衰えませんし、長い腸をもつ日本人には、あの姿勢が良かったのだと思います。
座る形も、畳に正座だと姿勢も崩れず背骨や骨盤も歪むことが少なかったのだと思いますし、イスやソファーに腰掛けるようになってから、日本人の生きる姿勢まで歪み出してしまったと感じています。

私たちの住まいである家は、(うち)であり(うち)です。住んでいる人の内面がストレートに表われます。また、主の留守を家内が守るといわれることからも、家の中の女性の役割は大きいのですから、家の中をきちんとする女性がいる家は安泰といえると思います。

日本の食べ物、または、古来の食事の形をきちんとしていると元気に健康に長生きするといわれています。玄米に、五穀や、海・山の幸、野菜などの食の原型です。
私もそうでしたが、若者の体は、肉とお菓子で作られているようなものです…(苦笑)。

国際政治ジャーナリストの中丸薫氏が、ワクチンやインフルエンザなどの予防接種をしないようにと呼びかけています。ワクチンや予防接種などを受けると逆に免疫機能が弱るそうなのです。確かに、私も一度だけインフルエンザの予防接種を以前受けたことがありますが、翌年に、受ける前にOリングで確認すると受けなくていいと出るのです。それで、それからは受けたことがありません。
ですから、「あっ!そうゆうことだったのか…」と納得してしまいました。

少し余談になりますが、私は、もう7,8年ほど前に、何かの雑誌に中丸薫さんの記事が掲載されていて、その中でテレビの報道や世界のメディアは殆ど真実を伝えていない…というような内容のことを書かれているのを読んでから、一般に流れているニュースなどのメディアが発信する情報を鵜呑みにすることはなくなり、ニュースや新聞も見ることもどんどん減っていったのです。

最近、中丸薫さんの本を主人が送ってくれたので読んでみると、私の長年の愛読書(バイブル)である「ひふみ神示(岡本天明著)」(※「日月神示」も同じ内容)を中丸さんが参考にしておられ、ことあるごとに紹介されていることを知って驚きました。

中丸薫さんの一言が心に響いて、私は、メディアを冷静な目で見るようになったのですから、たった一度だけ雑誌で拝見しただけでしたが、中丸薫さんには、ずっと感謝していました。

話を戻しまして、今は、豚・牛・鳥の殆どが飼育の過程でワクチンを受けているのですから、肉食すると、当然その影響は体内に及ぶだろうと考えられます。

また、最近は自然食ブームもあって、キビ砂糖や黒砂糖、天塩や岩塩が見直されていますが、何故、体に負担のかかる精製された砂糖漬けにされてきたのか、同じく何故、精製された塩などを食べなければならなかったのか?…疑問で仕方がないのです。どうしてわざわざ体に害のある着色料を使うのか?…。

塩も体には必要な成分です、確かに精製塩は体に負担がかかりますが、天然塩や岩塩なら摂取した方がいいのだと私は考えています。それなのに、何故、減塩ブームなのか?

油にしても、精製油は、体に負担がかかりますが、体に負担がかからない必要な栄養分を含むオイルは、いくらでもあるわけです。
なんでも精製されてしまうと栄養分が変化して体に負担のかかるものに変質してしまうのに、どうして、なんでもかんでも精製されてしまうのか?不思議でならないのです…。

そして、ダイエットブーム。痩せることが美しいとどうして思ってしまったのか?痩せている人までダイエットしなくちゃ!と言っている奇妙な現象…(苦笑)。痩せたい痩せたいと太っていく人々…(汗)。油抜きダイエットで、痩せたというより枯れていく人たち…(冷汗)。

一言でいうと、みんな罠にハマってしまったのだと思います…。
自分の中の思考さえ変えれば、理想の自分にいつでもなっていくのに…。しかし、今、ハマっている人にいくら説明しても「耳に念仏」なわけです…(苦笑)。

罠という字は、目が横倒しになっている下に民がいます。肉体の目は横の関係を見る目で、第三の目(観察者)の眼は、縦です。天と地の縦の繋がりを見る目だと思われます。

「ひふみ神示(岡本天明著)」には、八方的世界から十方的世界に変わると示されています。八方とは横の広がりです。それに天と地が加わって十方となるのです。
地という字は、土(つち)也(なり)と書きます。土とは、+と−が一つに成るためにあるのだと感じています。
土に種を蒔きますが、実は、私たちの種も土の中にあると教えられているのかも知れません…。
種は、点(チョン)の形をしていますが、種は、天から降りてきたものだと暗示されていると思います。

字に点が打たれると、王は主となり、九は丸となり、艮は良となり、大は太となり…と、面白い発見が結構あります。
点とは、天でもあり、すべての字の基だろうと考えています…。

話を、また少し戻しまして、太っている人の殆どが早食い早飲みです。
よく噛まないから食べる量が短い時間で人の何倍も食べられるのですね。よく噛むと唾液が出るので消化が助けられますし、唾液の中には、ホルモンも含まれていて若返りの薬のようなものでもあるようです。食べ物をよく咀嚼することと、言葉をよく咀嚼することは、同じくらいとても大切なことなのです。

どちらも命なのです…。

辛うじて、お箸で食事をする形が続いているのは嬉しいことです。当たり前ですが箸は二本です。二本は=日本なのですから箸を上手に使う姿は美しいもので、食物の命を受けとる感謝の形です。すべては二本立てという暗示でもあると思います。

スプーンやフォークだと三本の指でつかみますが、お箸は、四本の指を使うのですね。一本のお箸は、親指・人差し指・中指にかかり支えています、もう一本のお箸は、親指と薬指で支えているのです。一本のお箸は、一二三、もう一本のお箸は、一四となります。

食事に用いる道具一つみても、日本は違うのです…。

糸や紐は、霊の伝導体となる素晴らしい働きをするそうです。糸とは、意図であり、一十(いと)=始めと終わりに繋がっていると考えることができます。この世界では物質的な糸しか思い当たりませんが、光の糸や、光の帯、光のコードが見えない世界には存在しているだろうと想像に難しくありません。

私たちの衣服は、すべて繊維で作られているわけですから、私たちが直接肌に接触させる衣服は、霊的な伝導体であるために、言葉や思考がいつも自分であるように感じてしまうのも頷けます。裸になったとき解放された気分になりリラックスできるのもそうゆうことだったのかも知れません。

ですから、やはり衣服も自然な素材がいいわけです。ポリエステルなどの合成繊維ではなく、綿や麻や絹がいいわけですね。下着などは特に天然素材じゃないと体は温まらないといわれているようです。

また、麻は、地球を救う植物だといわれていて、電磁波を防ぐ働きもありますし、神社では、神前に供えたり祓いに用いたりする布は、麻・木綿・(はく)で織られた布が使われるそうです。いずれも夏涼しく、冬暖かい素材で、肉体にも環境にも最適な天然素材なのです。

ということで、人間は霊衣を着ているということになるわけですが、霊といっても、低級霊から高度の霊まで様々で、現代人においては九割方は低級霊のいれものとなっていると「ひふみ神示(岡本天明著)」には書かれています。また、低級霊といえども完全に肉体に入ることはできず入ってしまったように多くは見えてしまう…というようなことも書かれています。これは、霊とは衣につく、または、かかるのだと考えるとすべて腑に落ちるのです。

まさに、肉体の一番近くで身を守ってくれているのは衣だったのです。
以前、何かの本で、霊媒体質や霊現象の起こる家では、すぐカーテンなどがボロボロになると読んだことがありますが、なるほど、カーテンは繊維でできているわけですから、そうゆうことだったのですね。

肉体の「肉」の字は、「内」の中にさらに「人」が入って肉という字になっています。
二つのヒトで、ひとつの肉体が成立しているということだと解釈することができます。
(にく)とは、二と九と考えることも可能で、二九(じく)とも読めますから、軸・時空・字句の三つの影響を受けていると思います。

ポールシフトを人間の軸・時空・字句がひっくり返ることと考えると、色々なことの辻褄が合ってくるように感じてしまうのです…。

また、人間は、見えないオーラと呼ばれる衣もきているといってもいいと思いますが、お釈迦様のオーラは、三六五里あったと聞いたことがあります。霊衣としての古里の大きさといっていいのかも知れません。

人間の光の衣が見えてくる時代は、もうすぐなのだと感じています。
このことは、一人一人それぞれが、どんな霊衣を纏っているのかが明らかになってしまうということで、嘘誤魔化しの通用しない世になるのです…。




《 日本の神々 》


古代の日本人は、自然の中に神が宿っていることや土の中にご先祖様がいることも知っていました。光の言葉=神でありました。しかし、時代の流れの中で、この基本は崩れて形を変えてしまったわけですが、自然界と天地がすべての基だという基本原理のもとに生きていたのだと思います。

自然とは何か?というと、自らが然りということです。そのままで、あるがままのビジョンを表現する世界です。意識が意図と意志で発信すると、それに応えて自然の秩序のもと形あるものとして表現します。ですから、肉体は、自然界に属しています。天地の意識世界と自然界が手を組んですべてが表現されていくわけです。

そこで、自然界に属する肉体と意識(高次のたましいの活動)が融合することが何より重要になります。一方的では、五次元への安定したアセッション(次元上昇)は不可能です。
自然界の形体世界に働きかけるのは、意識です。

意図と意志とは、糸と石に対応しています。糸と石を繋ぎ合せている数珠は、このことを示していると思います。意志は、目的や方向を決める置き石のようなもので、それを意図するビジョンで紡いでいくわけです。

しかし、現在は、意図であるビジョンは、過去の記憶にすり替えられており、意志は、変性自我の思考や妄想にとって変えられてしまい、真の自由自在な自由意志があることすら忘れられてしまいました。

直観がビジョンでやって来るのは、直観が意図と関係しているからではないかと考えています。直観は、文章ではなく、印象やビジョンでやって来るので、それを言葉や文章や図や絵に訳していく必要があるのです。そこで、同じビジョンを見ていても翻訳の仕方に個人差が出てしまうわけです。
しかし、同じビジョンを見ている人では、多少表現が違っていてもそれが同じビジョンだと理屈ではなく分かります。

この意図と意志が完全に機能するようになると直観さえ必要なくなると思います。

また、意識とは、魂に関連しており魂の活動している状態です。
現在では、まだ多くの人々が低次の魂である変性自我で生きているために、真に意識的には生きることができないでいます。低次の(かみ)のコントロール下にある状態だからです。

意識的に生きるということは、心の本音(本根)で生きるということです。真我の私たちは、ひとつの心、神のみ心で宇宙全体とも繋がっているのです。現代人は、頭と心が分離しているために、本当の響きや光の言葉を区別することができなくなってしまったのです。

脳には、何も刻み込むことはできません、心に刻み込まれるのです…。

肉体には死があると思っている人は、脳も死んでしまうので全てが終わりだと思ってしまいます。それでは、脳死した人には死後さえなくなってしまいます。
永遠の生命があるのは心・意識は死ねないからです。心・意識が永遠の生命だと知れば、心を開いて生きていくことを選択し、肉体を永遠の生命で生かし続けることができるのだと気づくのです。

現在の教育では、真の自然の原理や宇宙の法則を教えてもらうことはありません。宇宙の法則に沿って生きることを忘れ、自然界の一部として存在していることも忘れ、わがもの顔で生きている人間が自然の猛威に破滅してしまうというのは、まったく自然なことなのだと気づきました。

自然な在り方への反逆は、自然の力によって破壊されるのです。
低次の魂の活動(意識)に翻弄されて自然界は、荒れ狂っているのです。
地震や津波、火山爆発や自然災害に猛威をふるわれているのは、人間の在り方そのものの表れだったのです。

こうした状況のなか、益々、救われたい、助かりたいと必死になる人々が多くなると考えられます。
しかし、一人一人の心次第なのだと気づけば、何をしなければならないのかが見えてくると思います。

今回の大立替は、命がけのアセッションなのです。そして、人間の不死を受け入れた人は、命をかけられるのです。不死を選択したからです。ですから、救われたい、助かりたいと必死になるのではなく、まわりがどんなに混乱していようと、落ち着いて静寂の中で心の浄化に努めるのです。

心配や焦り、不安は、五次元の扉を開きません。開いていても入っていけないのです。五次元では、恐れも焦りも不安も心配、疑い、というようなものも一切受け入れないからです。
ここ三次元は、恐れが支配していました、恐れがないと生きていけなかったし、恐れという感情がこの次元を発展させたことも事実なのです。しかし、五次元ではもう必要ないのです、次には愛の感情で繋がっていくのです。

今、その準備を求められています、愛の目覚めです。

五次元には、様々な生命体が存在しています。私たちでは見慣れていない恐ろしい姿をした存在もいるそうです。しかし何故、恐れなどが入れない五次元に、そのような生命体が存在するのでしょうか?…。愛は、排除しないからだと思います。恐ろしい存在に遭っても敵意は持たないのだと思います、攻撃もしないし、戦いもしない、ある意味で、なんでもありなのかも知れません…(汗)。
もしかしたら、そのために私たちは、ここで鍛えられてきたのかも知れないです…(苦笑)。

私は今、ニセコの自然の中で、美しい鳥を見て微笑み、木々の葉がカサカサと手を振り歓迎してくれるので「ありがとう」とつぶやき、リスの走り回る姿を見て笑っていますが、虫の博物館なみに気持ち悪い虫にもたくさん出会ってしまいます…(冷汗)。でも、これも五次元に進む準備だ!と思うことで受け入れられるようになりました(笑)。

日本は元来、言霊(ことだま)の幸はう国です。言霊は、光の言葉であり、現代は、闇の言葉を使用しています。同じ言葉でも、光の言葉と光を発していない言葉があるのです。本などを読んでも光の言葉で書いてあるものや、話していても光の言葉を発している人は分かるものなのです。全く同じ文章であっても同じ言葉であっても違いがあるのです…。

では、光の言葉を発するにはどうしたらいいのか?といいますと、影の射す言葉を神にお返しすると、自然に今度は光が射して光の言葉を発することができるようになります。

例え、素晴らしい作品を盗作したとしても見る人がみれば一目瞭然だったのです…。
また、著作権があり侵害すると訴えられますが、逆に、本来は、一なる意識で、神のみ心のひとつですから、同じ言葉や文章を違う人が使ってしまうことは当然ありなのです。ですから一概に、すべてを盗作だと、または、全く同じこと書いてただ真似してるだけじゃないか?と決めてかかるのは無知さを証明しているようなものなのです。

単なる盗作と、一なる意識とつながった場合の同じような文章とでは、明らかに違いがあるのです。

また、一なる意識は、地球や宇宙とともに段階を進めますから、今日言ったことと明日言うことが違ってしまうことも多くなってしまいます。意識の拡大は、進化と共にするという証なのです。
真の「一期一会」では、同じことは二度ないので、言ったことを覚えている必要もなく、前と言ってることが違うじゃないか!と怒鳴られても困るということです…(苦笑)。

今、目まぐるしく進化へ向かっていますから、意識の拡大する速さも尋常ではありません。こんなときに、人の話だけを信じてついていこうとすることは危険なのです。自分自身で、いつも常に目利きと選択ができなければならないのです。

日本は世界の中心であり、一日も早く大和魂を甦らせ、ひとりひとりが光となり世界の道標とならなければならないのです。




《 黄金の国 》


日本は、黄金の国です。
神は、一円玉、五円玉、十円玉という人間に必要な基本原理を与えました。ところが、お金という価値で人を動かす道具に変貌してしまったのだと思います。

一銭硬貨が消え去り、そのため一円玉、五円玉、十円玉の価値は格下げ…。私たちが神の子である理解への道も閉ざされました。

お金にも、二つあります。
「お金は天下のまわりもの」と「お金は天力のまわりもの」です。
ただ、天の下を回っているイス取りゲーム化した強奪戦の道具に使われているお金と。無尽蔵に天の力が巡ることで現れるお金です。

まさに人間は、欲望のために金の魅力に心を奪われてしまったのです。心を閉ざしたままで、どうやって光明の世界になるでしょうか…。

お金のために働き、お金のために苦労し、挙句の果てに、借金にローン…。
このような天下のまわりものである強奪戦に参加する必要はないのです。天下でまわるお金で豊かにはならないのです。
何事もお金がなければ…という、お金の拘束。お金という価値観にひっかかっている以上、お金にまつわる問題や状況がつきまといます。お金を基準にする考え方をすべてやめれば、今この瞬間に人生薔薇色にはる人は多いはずなのです。可能性も無限大でチャレンジが尽きません。

そんなこと言ったって現実に…。もう少し景気がよくなれば…。家のローンが終われば少しは楽になるから…。これが罠なのです。

今この瞬間に喜びを選択できるのは自分自身だけです。心の浄化とは、思考へのチャレンジなのです。今、どの感情とビジョンを選択するかであって、その連続が喜びです。

天力のお金は、奪う必要がありません。神とは、無限の供給だからです。神とは豊かさであるからです。思考の豊かさと限りなさ…で生きる人には、必要な分だけ必要なときに与えられるようになっているのです。

物語では、黄金は、だいたい、洞窟や土の中、海の底に隠されています…。
黄金とは、物質的な金の輝きではなく、光の輝く黄金です。光の応言または、光の皇言といってもいいかも知れません。

日の光に透かして見ると浮かび上がってくるような黄金に輝く文字、心が純化し透明になることで見えてくる神の姿。真言の光の神であり、透神です。

虚空とは、何も無いことを示しているのではありません。すべての潜在状態、無尽蔵の大宝庫。アカシックレコードは、別名、虚空と呼ばれることもあります。

空海に未曾有の力を与えた「虚空蔵菩薩」は、神秘的虚空から有の知恵を生み出す知識の宝庫を司る仏神で、「虚空蔵求聞持法(こくぞうもんじほう)」という秘法で人々に、この宝物蔵の無限の知識を与えるといわれています。空海も、洞窟に龍と一緒に閉じ込められ、この無限の智慧を授かったといわれています。

私たちが掘り当てるべき金の財宝とは、錬金術に不可欠な思考を練り上げていくための光る石であり、古い魂を破滅させ新しく蘇生し不死となる生命そのものの輝きだったのです。
不老不死の秘薬とは、不老不死の秘役。秘役とは、、、あの目神、、、。

錬金術といえば“生命の樹”…木にからまる蛇または龍、男と女が象徴される場合が多いわけですが、蛇が進化して大蛇となり龍となるようです。邪神(蛇神)が進化を遂げ龍神と成す…。
龍が口から吹き出す炎は、私たちのルーツであり伊吹だったのです。
死(シ)に終止符の点を二つ打つことで、「ジ=字」「ジ=地」となり「不二」となります。富士さんがいつ爆発してもおかしくないと一部では言われていますが、実は、永遠なる不死の山、神聖なる爆発が、古い世界から新しい世界を生み出すと考えています。(現実的に爆発するという意味ではありません)


人生とは、「人・一(ひと)」を生むための人生絵巻だったのです。

『三万年の死の教え(中沢新一著)』の中に興味深い内容を見つけました。
「人間の胸のあたりには、四十八の静寂尊がいて穏やかな波動を放っており、大脳のあたりでは、五十二の憤怒尊がいて破壊的な力をもって波動を放ち、そのふたつの波動があわさって人間の活動をつくっていました。」

これを読んだときに、「あっ!そうゆうことだったのか!」と府に落ちました。
そこで私は、この四十八の静寂尊を「真言の神」、五十二の憤怒尊を「擬似の神」と仮定して考えてみることにしました。

「真言の神」は、「真の智慧」と現れ、「擬似の神」は、「擬似学問」として似て非なるものを人間の大脳に植え付けていったのでは…。
DNAは、神秘的な分子で、驚異的な記録媒体だということがわかっているそうです。DNAは、原語構造そのものだということです。

はるか昔、破壊的な地球強奪を目論む宇宙からの来訪者によって、人間の遺伝子に操作が行われたことは、数々の書物にも書かれています。私たちは、もうこの事実を受け入れ、真言の神と神のみ心に生きることを奪われ擬似の神で生きてしまっていることを知り、それを改めて光の言語に戻らなければならないのです。

人間は、「知っている−知らない」「聞いている−聞いていない」「考えている−考えていない」
見ている−見ていない」という両極性がありますが、思考が私であるという在るがままの状態では、分極は不可能です。

神霊と一体だった状態から引き離されている分離感が、人間を孤独な状態にしており、その孤独感を埋めるかのように両極性を行ったり来たりすることでプレッシャーの中に生きています。
考えなくては、決めなくては、知らなくては、憶えなくては…というプレッシャーです。

習慣性・性癖・中毒症・執着性が、一瞬一瞬の今を生きることから切り離しています。
覚えている−では、悟りが開いているのですべてが覚悟であるわけですが、憶えている−では、憶測から出ることはできないので、間違うのではないかと臆病になってしまうのです。

生存本能と遺伝的習性をもつ自然界に属する肉体、一なる意識と一体である神霊なる真我の二つの存在性が、それぞれの役割を理解した上で融合・統合していくには、地球上での回り道が必要だったのだと思います…。個を知り分離を知らなければ、融合・統合へ進化する力(意志と意図)を生み出せないからです。




《 二つの思考 》


真の自己(真我)とは、思考です。思考とは絶え間なく続く生命の連続です。限りない思考です…。また、私たち人間は、自分で考えるように…と教育を受けてきたので、当たり前に常に考えていると思っています。でも、この二つの思考は、やはり似て非なるものなのです。

どちらも絶え間なく続く思考なので、非常に区別がつきにくいのです。どちらも同じく連続性をもっています。真の自己の思考か、変性自我の思考か。特に、今この時期おいては、どちらも入り乱れているので混乱してしまいます。

この意識(たましいの活動)の違いは、本当に一人一人違うので伝えることさらに困難なのです。
高次のたましいの活動は、絶え間なく続く限りない変化へのチャレンジです。
低次のたましいの活動は、止めることのできない与えられるままの囚人です。

与えられる側でいる以上、いくらでも低次のたましいの活動が巡ってきます。与える側の意識・供給側の意識にシフトしなければならないのです―思考がわたしそのものである状態です。

真我では、もうすでにすべてを知っていているので考える必要はなく、そこからの常に今この瞬間の変化とチャレンジです。言・口・行の三つが揃って一致した状態です。私たちにありがちな、思っていることと、言っていることと、やっていることが違うということが不可能なのです。

感情とビジョンの一致、これが真我である思考だと思います。しかし、今、私たちの多くが怒りを感じながらも感情を取り繕いながら話すことができてしまいます。喜びや豊かさ希望などを感じると真我からビジョンがやってきます。それによっていくらでも私たちは一なる意識につながることができるのです。喜びは、遠くに求めるものではなく、ほんの一瞬のそばにあるのです。

神秘は、自然のベクトルを逆回転することによって実現していきます。時間とは、私たち人間を死に向かわせる呪縛で知らないという錯覚が時間の焦りにつながるのなら、その時間を打ち砕く“永遠”という視点が呪縛を解き放ちます。永遠という視点において流れは、後ろ向きに回転を始めるからです…。(後ろ向きとは、ネガティブな姿勢の意味ではありません)

みんなが知っています。この次元の誰にも教えを乞う必要などないのです。そうできたとき、ひとりひとりが自分で知り始める、または、想起が起き始めるのです。一なる意識からの開示です。
知ることと、語ることが一つ成ります。
私たちが多くの仲間とともにこれをやり遂げたとき、きっと無言で頷き合える…そんな光景が徐々にハッキリと感じるようになってきています。光のネットワークは、どんどん根を下ろし言の葉を拡げているように思います。




《 人間・時間・空間 》


みなさんご存知のように、2012年12月23日でマヤ歴が終わっています。このことは、今までの時間の拘束が終わることを告げています。
私たちは、時間の概念が大きく変化したことを目の当たりにすることになると思います。

人間・時間・空間の三つの存在性が変化することで、私たちに与えられていた「間」というスペースが外されます。「魔」が「(ま)」に変わるのです。
自分の思考が瞬時に実現していく光景を目の当たりにすることができます。目覚めている人々にとっては天国が実現しますが、目覚めていない人にとっては混乱となってしまいます。

このとき、天国に立つか、混乱に立つことになるのかは、今からひとりひとりが準備を始めて心の浄化を完了させていけるかどうかにかかっているのです。思考と心が要石です。

物質世界にだけ囚われ続け、社会的な動きに合わせることを安全で間違いないと信じてしまう人々は、宇宙法則に沿って新しい発言や行動と選択をする人々を見下げさえするかも知れません。社会に適応できない人だと思われることも多いかも知れません。それでも、光の道標になろうとしていく人々は、もう孤独でなかったと気づいていくので動じることはないのです。相変わらず囚われの身の人々を無理に引っ張ることも誤解を解こうと必死になることもないでしょう。

先日、5次元という字を眺めていると「5」の数字が突然、中心を軸に回転をしていくイメージが浮かんできて、早速、文字遊びをしていたわけですが…(笑)。
次に、これを「2012 12 23」の数字を回転させようと思いついてしまいました。

ノートに、イメージで浮かんだとおり縦に「二〇一二一二二三」と書いてみました。すると、すぐに縦に並んだ数字がイメージの中で回転を始めました。
中心が二重の同心円、その周りを○が取り囲んでいき、その周りを十一の同心円が描かれていきました。(この図を挿入しようとしましたが、うまくいかず…汗)

全部で、十三の同心円が完成!
中心を二つの同心円、そして○の連なる円環、そして十一の同心円。
外側が十一だというのが面白い…+(プラス)−(マイナス)になってしまった。上手く説明はできないのですが、「二〇一二一二二三」となる数の並びのただならぬ神秘を感じずにはいられませんでした。2012年12月23日…。

また、この度の天変地異は、七度目といわれています。また、最後のチャンスであるともいわれています。「七」という数字が「成る」という数であり、変化の区切りであるからだろうと思います。私たちが「七」をラッキーな数だと自然に捉えていることからもわかるとおりです。

ここでも、「七」を回転させようと字で遊んでいますと、「七」を上下左右に反転させえて重ね合わせると「卍」になることがわかりました。「卍」は、運動や変化の観念の結びつくものとされており、四つの基本的な点を動かし現象を生み出す太陽の通り道をも表しているそうです。

デイヴィッド・ヴィラセニュール
「卍の中心は、万物の源泉である大いなる霊、大いなる神秘の象徴である。」

ぜひ、七転八倒ではなく、七転び八起きとなりたいものです…(笑)。

「七」を代表する日本のお祭りといえば、七月七日に行う「七夕」がありますが、天の川で彦星と織姫が結ばれる物語です。七夕の日に、それぞれの祈りを綴った歌を短冊に結び天に届けるお祭りです。

古代エジプト人は、オリオン座のアルタニクをオシリス神、シリウスをイシス神と考え、オリオン座とシリウスの間にある天の川を天空のへそ(北極)と黄泉の国の中心をつなぐ星の通り道と考えていました。

オシリスのイシスによって生まれたのがホルス神ですが、イザナギとイザナミによって生まれた天照大神・月読命・スサノオノ命(スサナルノ命)の神話との共通点を感じるので、グラハム・ハンコックの『天空の鏡』に書かれていたものを少し抜粋させていただきます。

ホルスの物語は、オシリスの復活の物語である。また、これは奥義を授けられた者たちによる死の試練を乗り越える探究であり、「骨を集めて」再び意気揚揚と現世に舞い戻る物語だ。
また「最初の時」に、オシリスがいかにエジプトを統治したかを物語っている。
その王国は、宇宙の正義の法則にのっとって設立されていた。オシリスは、その全盛期に嫉妬深い弟セトによって暗殺されたが、伝説では72人の共犯者がいたとされている。
殺されたオシリスは、妹のイシスの魔法によって一時的に肉体を取り戻し、イシスは鳶となってペニスの上にかぶさり、オシリスの精子を受け止めた。
こうしてイシスはホルスを宿し、青年になったホルスはセトを征服して復讐を遂げ、父の地上の王国を回復した。
彼のこの行動で、父オシリスも魔法のように天界における霊的な生命を取り戻し、ドゥアトの王として復活して、死者の魂の審判を永遠に行うことになった。

また、神話や聖典では、オシリスは「神秘的な声」として示されていた、そして物事を正すように求めるのです―と伝えられていたようです。

日本の神話では、イザナギ命が黄泉の国へ行ってしまったイザナミ命を追って黄泉の国へ行きましたが、話し合いがこじれイザナギ命は一人で帰って来ました。そのときに穢を祓うために阿波岐原で禊をしたおりに、海神などの23神の神々を産み、最後に左目を洗ったときに産まれたのが天照大神、右目を洗ったときに産まれたのが月読命、鼻を洗ったときに産まれたのがスサノオノミコトと伝えられています。そして、天照大神は高天原を、月読命は夜の食国を、スサノオノミコトは海原の分治を委任したそうです。

こうして、男神のイザナギ命一神で生み出した神々だけに偏った世が生まれたともいわれています。

スサノオノミコトの興味深いところは、荒ぶる神から(まがつ)(かみ)を退治して世を平定する神へと変化する二面性を持っているところなのですが…。
スサノオノミコトは、スサナルノミコトと呼ばれることもあります。これは別々の神の混合ではないか…とされているようです。

しかし私は、スサノオノミコトは、タテコワシの神、スサナルノミコトは、タテナオシの神であると考えています。荒ぶる神から救いの神へと転じるスサナルノミコトの姿は、蛇が脱皮を繰り返して龍と成る、邪神から龍神への進化であり、私たち人類の意識進化の姿ではないかと思うのです。

天照大神は、スサノオノミコトの荒ぶる悪業に恐れをなし、天の岩戸へ御隠れなされてしまいました。しかし、岩戸(言答)が開けたことにより、荒ぶる声と真言へ返ろうとする二つの入り交じった状態に今混乱しているのも、大立替局面の真っただ中に立たされているからこそだったのだと確信することができました。

ウシトラの金神が鬼門といわれ、東北(ウシトラ)から救いの手が差し伸べられるのです…。
この(こ)(と)の仕組みを理解し目覚めて夜が明けます。

「不思議」とは、議論の及ばない、議論不在の思いの中に見つかっていくものだと思います。私たちにとっては、「(くう)」とは不思議なのです。その穴の中を覗いたとしたら、どんな気持ちになるのでしょうか…きっと、古いパターンの思考はすべて忘れてしまうだろうと思います(笑)。

また、「謎」とは、言が迷子になっているだけなので、言が正されると、問いが生まれることで解けるようになっていたのです。言うことと答えることの一致が「言答」ともいえます。

少し前に、沖縄上空に現れた「神の手」と騒がれた雲の写真が出回りましたが、あの写真を見た瞬間わたしは、「ありゃ!本当に空に穴があいた!」と驚きました。どうしてかというと、もう何年も前になりますが、「空に開いた穴」という言葉が、私の中に意味もわからないままにずっとあったからです。

あの写真も色々と議論の話題になっていたようですが、どれが正しいかではなく、見た人がどう見たのか?どう感じたのか…だけがすべてだと思います。

私は、あの写真からメッセージを感じました。
「空に穴を開けるには、雲が厚く空一面を覆い隠す必要がある…」




《 内なる光 》


私たちの本質が自然である状態では、内なる光が外へ解放されるようになるようです。瞑想したり、変性意識状態のとき、入眠時、夜中に目が覚める寸前など、内なる光を目の中で見ることがあります。その光は、外界には存在していないような眩しいくらいの美しい光ですが、私たちが光であるという本質を取り戻すほどに内なる光が外へと放出されるようになるので、これから光の輝きを放つ人々が増えていくかも知れません。

いわゆるオーラと呼ばれるものがハッキリと現れるようになるようです。
私たちは、自分の内を見つめなさい、自分を知りなさいと諭されてきました。それは、宇宙の唯一創造主が「わたしは誰なのか…わたしは何処から来たのか…わたしは何処にいるのか…わたしに何ができるのか…わたしは何処にいくのか…」と、自分自身を瞑思したときの意識があらゆるすべてのココロとして、ありてあるものすべてを解き放ったからだと思います。

ですから、私たち一人一人が、「私とは誰なのか…私は何処から来たのか…私は何処にいるのか…私に何ができるのか…私は何処に行くのか…」を知ることは、創造主のもとへ返る宇宙の真実を知ることになっていくのです。

ですから、ひとりひとりに真実があります。みんな同じになろうとすることは、創造主を限定してしまうことになってしまいます。創造主がそんなちっぽけなはずはありません…。ひとりひとりが想像の瞬間、同じではない面をもつように創造されているのですから…。しかし、創造主である一なる意識は、宇宙の法則と基本原理のもとで繋がっているのです。

顔は、時代劇などでよく「面を上げ〜っ!」というように、永遠に一人一人の特徴を示すことになる面です。顔=面(つら)です。心は、顔面に現れるのです。世の中のおっさん、おばはん達が、何故しかめっ面をして怖い顔をして歩いているのか気になったことはありませんか?(笑)

目の輝だけではなく、生命力は顔の輝きにも現れるのです。その人の感情や心の在り方がストレートに出てしまいます。笑顔では、怒れないのです…(笑)。

内面、外面…。内面とは無い面でもあり、外面とは害面でもありましたね…(汗)。

昔から、運命の人とは赤い糸で結ばれていると信じられてきました。
運命の赤い糸で結ばれている“運命の人”とは、理想の男性でも女性でもなく、実は、理想の真の自己のことだったのです。

「七つの子」という歌をよく口づさむのですが、先日も日が暮れる頃、山に帰って行く烏を見て歌っていました。そのとき突然ひらめいたのです!
「ガーッ♪カラスって空子(からす)(くう)の子ってことかぁーっ!」

 空子なぜなくの 空子は山に
 かわいい七つの子があるからよ
 かわいい かわいいと空子はなくの
 かわいい かわいいとなくんだよ
 山の古巣へ来て見てごらん
 かわいい目をした子があるんだよ

赤い糸には、結び目があります。結び目というのですから、それは目なのです…(笑)。
結び目、つなぎ目、割れ目。目は、人間と真我を結ぶ目です。

真実の書き手、語り手は、ひとりひとりの中に光として宿されています。
私たちに考えが浮かぶのは、「たましい」が活動しているからです。

苛々したり、悲しくなったり、落ち込んだり、迷ったり、悩んだり、腹立たしくなったり、焦ったり…しているのなら、まだ、低次のたましいが活動しています。かと言って、時期が訪れるまでは、そのことにも苛立たないでください。できるだけ、早く切り替え、喜びや笑いを選択することの方が大切なのです。

また、私たちは間違うことを非常に恐れてきました。失敗や敗北、過ちを犯すこと、人を傷つけること、自分が傷つくこと、裏切られることが怖かったからです…。この恐れの支配する世界から抜け出すには、恐れをとにかく手放すことです。たったこの一言ですが、やれることはたくさんあります。

ここでやはりポイントとなるのは、自分の思考を観察できているかどうか…です。
観察できていないと切り替えもできず手放すチャンスも見逃してしまうことになるからです。たとえ、変性自我(低次のたましい)の活動が止むことなく続いていても観察できていると大丈夫です、ときが訪れるまではOKのようです。

いくら助かる道を必死に探すために勉強しても観察者が目覚めていないと、自分自身の言答が開けていませんから「たましい」の入替が最終的に完了されません。何度も入替のやり直しを繰り返してしまい混乱が長く続いてしまいます。何よりも大切なのは「目覚め」と「心の浄化」です。目覚めずに心の浄化を意識的にすることは困難なのです。

観察次元ともいえる四次元が目覚めていないと五次元は開かないようです。また逆に、四次元が開くと五次元は自然に開いていくと思います。とにかく、三四五の結び目が必要なのです。

後での反省なら猿でもできます(苦笑)。そうではなくて、今常に観察という目覚めが必要なのです。いつもどんなときもどこででも自分自身の思考に気づいている…という状態です。

静かにしている時には観察も容易ですが、仕事をしている時や、主婦であれば、お掃除や家事をしている時などでは見逃しやすくなってしまいます。ですから、仕事もお掃除も家事も心の修行なのだとつくづく感じることができます…(汗)。

うっ!また見逃してしまった!…、またやっちゃったぁ!…というのは、後悔と反省を必要としてしまいますが、今この場で観察できていれば後悔や反省とはおさらばできるのです(微笑)。

内なる活動の観察−これが意識であり、真に意識的に生きるということになります。さらに意図的に生きるへ発展させることができます。高次のたましいの活動に入れ替えるには、このプロセスが必要なのだと思います。常に自分の内なる活動を観察できていると、自分自身で切換え、変更、解決、選択のすべてができます。自分の内から(内を通して)必ず神は現れるからです。

確かに、内面の観察は容易なことではありませんが、やっただけの結果は必ず自分で出せるようになります。他者に厳しくされたり、助言をしてもらったり、問題を解決してもらうのは、ある意味では楽な面があります。しかし、この態度は、自分に甘く相手に厳しいということができます。

自分できづくことは、キズつかないことなのです。ところが不思議なことに、人間は傷つくことを好むところがあるのです。ですから、自分も相手も傷つけないのが気づきなのです。
自分だけの都合で生きるのではなく、相手を気づかう姿勢が大切です。自分で気づくことができないと、相手は本来するべきではない個人的な判断や助言を強いられてしまうのです、この場合、相手を楽にして助けてあげるという姿勢が欠けていることに気づいてください。もう一歩成長して相手が辛抱強くあなたの自立を待っているかも知れないことに気づいて欲しいのです。

どんなに身近な親しい間柄でも家族であっても、相手にはいつも希望と勇気と喜びと笑顔と安心を与えられることを知ることができます。

また、内観が進むと、妙に自分の肉体の各部位が気になったり意識してしまったりということが増えるようです。例えば、今までこんなことは気にしたこともなかったのに、歯のくいしばりが気になる、舌の緊張が気になる、姿勢がおかしい気がして仕方がない、気づくと呼吸が止まっている、、手足のこわばりが気になる…等など様々なことがあるようです。

そこで、私はどこかおかしいのかな?病気じゃないかな?と不安になってしまうかも知れません。
そんなとき私は、「あっ!私はもう病気にならなくていいんだった」「不死を選択したのだから全ては大丈夫なんだった」と思い出しています。

そして、一人として同じ存在はないのだから間違うことは不可能…ということを受け入れることです。私は違っていいのだ…という基本を受け入れたときに、一なる意識とつながり、今、地球に必要な情報を同胞として受け取ることができるようになったように思います。
本当に不思議なことに、同じじゃなくていいんだ!と知ったとき、全ては一つという世界とつながるのです。

また、間違っている世の中だから恐れが支配できた…ということなのです。自分が間違うかどうかが問題だったのではなく、世の中が間違っていたのです…(笑)。

あらゆるものすべてに必ず反対が存在しています。同じなのに相反するものが二つ存在できるのが、ここ三次元だと考えています。ですから、非常に複雑な学びが多かったのです。
そして、いよいよ、一人一人が光を選択するのか闇を選択するのかを決断するときが近づいています。また、これだけ厳しい地球という環境と条件の中、どこまで心の浄化ができたのかが明らかにされます。

「一」   という字を書道家になったつもりで、ぐぃーっ!と書いてみると「」を打ってから、ぐぃ―っと横に線を引っ張ります。これが宇宙すべての現象化の始まりを示していると考えています。
さらに、この「一」は、○の真ん中に打った「ヽ」から360度どの方向へも伸ばすことのできる唯一の数字です。外から内へも、内から外へも向かうことのできる数ともいえます。
「一」   には、宇宙のすべての神秘が示されていたのです。

ところが、「一」は、邪(よこしま)なものたちによって神秘の門を塞ぐ「閂(かんぬき)」にされてしまいました。天国の扉は、「一」という閂を抜くことで開きます。天国とは、大いなる意識=一なる意識であり、人間が目覚めると「一人」に進化します。「一と人」で「大」の字が完成します。そして、「天」は、「一と大」であり「人と二(反転)」の結合です。

人間には、宿命と運命がありますが、もう一つ天命を開くことができます。天命とは個人的なものではないので、個を超えると天命が開花します…。
私たちは、多次元に同時に存在できる多次元存在です。異次元に存在する自己が自分に現れる人々も出てくると思います。




《 鏡にうつる 》


少し前に、私は鏡を見ながら歯を磨いていました。
すると突然奇妙な感覚に襲われたのです。

「ん?あれ?………私ってどっちだっけ?……」という奇妙な感覚でした(笑)。

それから鏡を見ると同じ感覚が襲ってくるようになりました。何度かこの感覚を味わったときに、鏡の前に立っている私と鏡に映っている私の目と目が合ってしまうからだと気づいたのです(笑)。
ふむ…。ということは、今までは鏡の中の自分と目と目が合ったことがなかったの?…(汗)

私は、この肉体に閉じ込められている存在ではないという理解が深まったことで、私は鏡にうつってしまったようです…(笑)。

“鏡に映るじゃなく 鏡に移る…だったのです”

御心鏡とは、御神鏡であり、御神体は、御心体であり、心を開いて神のみ心にお返しし始めたことで、鏡に映っている私は、鏡を見ている私を見つめ返し始めたのです…(微笑)。

カガミから真ん中の我(ガ)を抜くと「カミ」となる。といわれていますが、まさしく、自我を抜くと「カミ」を見ることになる…(微笑)。

 

 


「ひふみ神示」は、読む人によって八通りによめるのぞ。と書いてあります。最初は、中矢伸一著「日月神示」シリーズを数冊読んで、そして、そののちに2001年出版された岡本天明著の「ひふみ神示」をやっと手に入れ何度読み返したかわかりません。とても分厚い本で、始めは独特の文面に普通に読むことさえままなりませんでした。それでも、根気強く読んでいるうちにスラスラと読めるようになり、わからなくなると読み返し、何かがわかると読み返してきた私の大切なバイブルです。

なんともボリュームと充実した内容なので、読み返すといっても一気に何日もかけて全部読み返すのは無理なので、所々を辞書のように読んでいくことが多かったです。
この前読み返していて見つけてしまったのが、
「神は、愈々鬼となって規則通りにビシビシと埒あけるぞ。」…でした。

なんだ〜!ちゃんとここにハッキリ書いてあったじゃないか〜!と苦笑い…(笑)。
しかし、前回あれを書いたからこそ、今この言葉の意味がわかったんだなと改めて「ひふみ神示」の神秘の力に圧巻でした。

今振り返ると、最初の頃の自分の解釈がいかに幼稚だったのかがわかり苦笑いしてしまいます。

私たちは今、異次元への扉へ入っていくために、最終的な実地に入っていると思います。
体験と内なる神が一致をみること…ことが実地といえます。
読んで知っただけではなく、ひとりひとりが内なる神として体験しなければならないのです。
これが人生である「一人」なる真の自立です。

最後になりますが、大きなポイントを一つ…(笑)。
「ひふみ神示」に、小さくとるからわからないことになるのぞ。というようなことが書かれています。今回の一大転換は、小さく解釈していると準備と選択に誤りが出てしまう可能性があります。今回の大立替は、この世始まってない大立替ということを受け入れ、大きく準備と選択をすることが一番重要かつ大きなポイントなのです。

まもまく、いよいよ、地球ではダイナミックに幕が明け準備が進んでいくことと思います。
みなさま一人一人の限りない神秘のチャレンジが実現しますように…。




                                             2008年5月    ジコリ









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Last Update : 2008/5/4