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− 続・龍の原っぱ −





 

《母なる大地−地球》

 

 これから地球に起こる次元上昇と人類における劇的進化…。

それは、まだまだ先のこと…と思いつつどこかで期待しつつ…しかし本当なのだろうか?という思いで
過ごしてきました。

 

私たちはそのとき一体どうすればいいのか?それまで何ができるのか?

地球は滅亡するのか?新しい地球はどこにあるのか?

私も含めてみんなの知りたかったことだと思います。

 

それを知るためにも、人間とは…。宇宙とは…。死とは…。人間は何処から来て何処へ行くのか?
宇宙はどんな構造になっているのか?どうして死があるのか、死後の世界はどうなっているのか?
地球上の他に生命体は存在するのか?
など、学校や一般常識では知ることができない世界を探求しなければなりませんでした。

 

幸いなことに、たった10年では勉強しきれない程の著書がありました。
私は、神秘なる世界と人間の関わりを知る糸口になるものならどんなことでも参考にしたいと思って
きました。頼りない学力ではありましたが、できる限り偏らない視点を保とうと努力しながら取り組ん
できました。

 

また、多くの方が味わってきたと思いますが、現実の葛藤だらけの世界とも関わりながらの神秘なる
世界の探究は孤独なものであり、いつも見えない存在の助けと守護や導きを感じ感謝しながら、
大いなる声として存在してきた少数の人々の言葉に勇気を出して歩んできました。

そして、ときには希望に燃えてワクワクし、次の瞬間、なんでこんなことやってるんだろう?
と我に返り、通じ合うことの少ない現実に打ちのめされ…を繰り返してきたわけです。

 

 しかし、特に際立って去年あたりから大きく突破口が開き出しましたように思います。

人間とは?を探求するために自己と向き合うことや心の浄化に重点を置いていたので、
正直なところ、2012年の一大転換期も忘れそうになっていたのです。

何かは起きるだろうけど、1999年の時のように一般的には自覚のできない静かな変化だろう…と、
そして、また一部の人々以外は何も起こらなかったようにしか思えないだろうと…。
そんな風に考えそうになっていました。

ところが、全ては、第一ポイントの2012年に向かっていることを実感せざる得ない情報ばかりに
遭遇するのです。

 

そして今までと何より違う点が、今までは、大方ひたすら本を読み探究してきたわけですが、
去年あたりから、それが逆転して大方自分の気づきや直観が先行し出すようになり、
それを後押しするかのように驚くほど同じ情報に出会うようになったことです。

「ありゃ!あながち私の書いたことも外れてないんだ…(ほっ)」といった具合なのです。

 

さらに、そこにはまた新しい情報が付け加えられています。
そしてそれを消化し自分なりの言葉で伝えようとまた押し出されるわけです。

こんなことを続けているうちに、「あっ!これこそ言葉のバトンリレー!
続々と言の葉が広がり拡大していく…これがもしかして光のネットワーク?
そうゆうことだったのか〜!(笑)」

と気づいたわけなのです。

 

その始まりはやはり、「私はすべてを知っている!」−という言葉を真の意味で理解でき受け入れた
ときから変化が起き出したように思うのですが、しかしそれだけではなく、地球規模ですべての人々
が光を浴び光りにさらされ闇を克服していっていることが一番大きく影響していると感じています。

 

今、多くの人々が心の入替を起こしながら、この光のネットワークに加わり拡大し人類の周波数はぐん
ぐん上昇している。そして地球の次元上昇に合わせる準備が進んでいるととても感じます。

 

光のネットワークでは、言の葉が結び解かれ結び解かれしていきます。

このとき浮かんだのが「むすんで ひらいて」の唄でした。

 

結んで 開いて 手を打って 結んで♪

また開いて 手を打って その手を上に♪

 

なんて素晴しいんだろう!(拍手)(笑)

 

 それでも、最終的に地球と人間はどうなるのか?−の情報に辿りつくには数カ月を要しました。
自分自身の心の浄化および改心における日常的実体験とそれに準ずる許容範囲に沿って内的に
開示されていくのです。内的な気づきがあると、それを後押しする情報に出会う、そして、また新たな
段階の気づき、そして、それを後押しする情報、ということを繰り返しながら…。

 

 地球のポールシフトの可能性も依然として残っていますし、2012年12月頃に大接近するといわ
れている惑星二ビルの影響もあります、人間のネガティブな想念が自然界に破滅的な影響を及し
多発している地震・火山爆発・温暖化から氷河期への突入、暴風。太陽フレアの影響、フォトンベルト
の影響がどう地球人類を震撼するのかということもあります。

 

地球が最悪滅亡の危機に瀕する場合でも、宇宙から救助の手は差し伸べられUFO群により
ラプチャー(空中携挙)される準備も整っていると伝えられています。しかし、この場合、心が浄化
および改心されていない人は、光の周波数に上昇していないためにラプチャーすること自体が
不可能ですので救い上げたくでも出来ないそうです。

 

私もこの可能性に希望をもってずっと来たわけです。これだけでも待ちに待った念願の船出です。
しかし一昨年「永遠の生命=不死」ということを知ってしまったわけです…(笑)。

 

そしてある日、ふとこう思ったのです。

私が永遠の生命で不死ならば、その日地球から逃げる必要があるだろうか?

助かる必要はない、逃げる必要もない、不死を選択するなら究極の選択「生きる」がある!

ここ地球に「生き残る」ことができるのかも知れない…と。

 

そんな新しい可能性に気づき始めると、どんどんとそれを後押しする情報に出会いました。

アカシック・レコードのメッセンジャーとして有名なゲリー・ボーネル氏が著書の中で、その日私は地球
に残って地球がどうなるのかを是非ともこの目で見たい…と話していたのです。あっ!やっぱりそうゆ
うことなんだ!と俄然私も勇気が湧いてきたわけです…(笑)。

 

 さらに、地球の地底都市、地球中心の空洞表面に存在する都市の話に頻繁に遭遇するようになりま
した。

前に少し触れましたが、昔から私は地球空洞説にはワクワクしていました。常軌を逸したトンデモ話に
しても、私にとっては夢であっても存在していて欲しい世界でした。

 

そんなこともあってか、私は、神秘的な分野の勉強を始める少し前に、一度だけ短編の物語を書いて
みたことがあります。あまりにもお粗末なので御紹介はできませんが…(汗)。

最近頻繁に地球の地底や空洞都市の話に遭遇するので、前にこんな話を書いたことあったよな…
と思って探し出して読み返してみたのです。

 

すると、なんとも短編であっさり大雑把な物語であったのですが、ポイントは同じなのです。

なんだ…、私は知ってたのか…と思わず笑ってしまいました。

 

 私は十数年前のとある日、突然、ピカっ!と光る光を空間に見たのです。

その光は、今まで見たこともない小さな美しい光でした。何かの反射でもなく、この次元の電気的な
光ではなく空間から発した光であることは分かりました。私は、まだ何も知らなかったも同然でしたか
ら、素直に「光の天使」だと思いました。

 

そして、その「光の天使」の物語を書いてみようと思ったのです。そのときの天使の名前が実は
「ジコリ」といいます(私が直感でつけた名前ですが)。

思考のビジョンの中で、どんどん物語が展開していきました。私が光の玉の中に入って地球の中へと
ジコリと共に冒険するという内容でした。

 

どうしてか光の玉に入らなければ私は地球の中へは入っていけなかったようです。
これが今となっては、プラズマであったのではと思っています…(笑)。

地球の中は、とても凝縮されていて、すべてが大きく、水晶のような太陽があったことが書いて
ありました…。

 

そして最後にジコリは、もう当分の間姿を現すことはできないから自分一人でお勉強するようにね!
と言って消えてしまったのでした。今振り返ると、この物語を書いてから本格的に勉強を始めるまで
二年程かかりましたから、当時は、ジコリに言われたから勉強を始めたつもりは全くなかったのです。

 

しかし、まさしく、そのとおりに私はひたすら勉強してきてしまっていたのです…(汗)。

 

このことは、本当にもしかすると、想念で異次元だろうと地球の中だろうと何処へでも旅や冒険ができ
るということなんだと、今更ながら実感しつつあります…(笑)。

 

 私の夢となったことの数々が本当に現実化しようとしています。地球空洞説への夢。ある夜UFOの
艦隊が空一面に現れる夢。2012年12月23日をポイントに劇的に新しい世がスタートする夢。
人類が心を一つに手をつなぐ日が訪れる夢…。

 

夢を実現させていくという創造…これが永遠の生命でのチャレンジ。

チャレンジと冒険には終わりがなく無限である。

これが私たちがただ在り続けるということ…。

 

一人一人の夢へのチャレンジに違いがあっても、宇宙や地球規模の夢であれば、

それは一つに結ばれていたのです。

 

 地球は、母なる大地−女神であるガイアです。

母なる大地が人間に種をまき育てさせ栄養の実を与えてくれます。それは野菜や果物・穀物などで
あり、食物とは=植物です…母なる大地からの贈り物なのです。母なる大地のエネルギーを食するこ
とで人間は生きられるわけです。

 

これと同じように、人間に霊という種をうえ付け育て霊性を実らせようとしている…と考えることができ
ると思います。

 

地球は、母の子宮です。

私たちの帰る場所は、地球の温かい穏やかな母の子宮の中だったのです。

 

もちろんこれは一つの選択肢です。

ラプチャー(空中携挙)されるという救出劇が無くなるという意味でもそれが駄目だということでも、
それよりも母の胎内へ向かうことがいいという意味でもありません。みんな一人一人が自分が望み
知りえた選択肢の中から進む道を選択していきます。その人が望むとおりの選択または心の在り方
に沿って道が実現していくということに変わりないのです。

 

いずれにしても地球上に一時的にであってもいられなくなることは想定されています。そのために
一定期間地球上を離れるか地底に避難するかの手段は必要となる可能性が高いと考えておいた方
がよさそうです。新しい地球へと生まれ変わるまで…。

 

このどちらの場合も一人一人の心の浄化・純化を果たし光の周波数にまで自分自身を上昇させて
いなければ、天へも地へも移行することはできないということがあります。

 

このような話を聞いた場合に大きく分けると二つの反応が考えられます。

ある人にとってこの話は希望の道であり待ちに待ったチャンスと感じ準備を始めます。またある人に
とっては、その手の話に騙されてたまるもんか何が光だ…まったく…と感じるので古い生活を変えよう
とは思いもしません。自分が光である?そんなことは考えられもしないし受け入れられないのです。
ですから、どちらの場合もその人にとっての最善の選択をしているわけですよね。

 

自らが自分の信じた道を最善としてみんな歩いているわけです。

幸せになりたいあまり不幸な道を選んでしまう場合はあり得ても、不幸になりたくて不幸を選んでいる
人はいないと思います。

 

 また、今まで介入できなかった天地の異次元の存在たちが、もうまもなく私たちに現れると伝えられ
ています。まだ未熟だけれどアセッションを希望する人々を集めて教育していく機関が一定期間設けら
れるという話もあります。まだまだ地球の次元上昇におよぶまでの人類の集合的周波数の上昇が達し
ていないそうです。

 

今一人でも多くの人が一日も早く目覚めて準備を始めることが必要とされています。
しかし、忘れてならないのは焦らないこと慌てないこと助かろうと思わないこと、そして、
人に無理強いしないこと、それでも心が純化されると人を救ったり導いたりする心は自然と
育っていくと思います。もっと新しい形で宇宙の視点から人々と関わることができるように
なっていくのです。

 

 

 

《神への祈り》

 

 現代では、あらゆる情報が簡単に手に入ります。

色々な話も聞けます、教えてもらえます。しかし、いかに重要な情報を得たにしても自分自身の中で
処理できなければ生かされることはありません。

内なる私たちの姿は、思考であり言葉であり光です。自分自身で考えを巡らすほどにその情報が
消化され処理されなければ何の意味もないのです。

自分の内で、その情報やビジョンが普通の思考となったときに、自分自身の中に刻まれます。
これが神ととけ入るということだと思います。

 

私たちは、三次元の肉体に宿っています。宿らなければ人間は言葉をもつことができません。
他の動物より毛に覆われていず素晴らしく完成され美しい動物なだけなのです。
動物なだけといっても、動物の本能は環境や敵から身を守ることに関しては卓越していることも
忘れてはいけませんが…。

寝ているとき、大きな口を開いていびきをグゥグゥかきヨダレを垂れている姿を考えてみてください
(汗)。霊が離れると、人間はそんな動物的な状態にすぐに戻るのです…(爆笑)。

 

しかし逆に、霊(思考)は物質的な肉体があるからこそ宿れるわけで、
肉体に守られながら多次元的な冒険が可能なわけです。

本来、お互いに守り合い力を合わせ一つになることができるのが肉体と真我なのです。

 

私たちはよく、守護霊に守られている、守護神がついているという言い方をしますが、
守護霊も守護神も同じものを示していますが、一つだけとは限りませんし、
守護神にも神霊界の守護と幽界の守護と色々あるわけです。

幽界の守護となり長いこと生きてきてしまったのが現代の多くの人間のようです。

 

そして、この守護神の正体とは、自分の内なる思考−心のことでもあります。

守護神とは、主語であり、守語であり、守護してくれている神(言葉)のことで、
肉体を守っている思考である言葉を神と言っているわけです。

 

このことが理解できると、幽界の守護はもういいから神霊の守護に変えなくては!と思うようになりま
す(汗)。これが自分自身での改心ということになります。誰も守護神を取り換えてくれたりはしません。
自分で変える、または変えているということのようです…(微笑)。

 

幽界とは、心をエゴが占有してしまったために邪しき考えに自動的に操縦されていて、
その想念が大きく膨らみ作られてしまった世界のことで、本当はなかった世界なのです。

心の凹凸により直々の神との交流が断たれている状態で、妄幻の世界ともいえます。

 

神との直々の交流に、この世界での疑似教育による知識や理屈は必要ありません。
かえって邪魔になることが多いです。社会で通用する常識もほとんど必要のないものばかりです。
ほとんどが巧妙に正当化することで成り立った勘違いと思い込みばかりです。

また、ある意味では、人間自体には言論の自由はないといっていいかも知れません。
人間にとって思考というのは巡ってくるものだかです。
常時一人一人の感情が幽界や神界・霊界からの関わりによって影響を受けて思考が巡ってくると
いっていいと思います。

それを私たちは脳で処理して言葉を発するという自由はあるといえますが…(複雑な汗)。

 

ムッとするとエゴがしゃべり出し、喜べば神が心に現れる…(笑)

 

エゴで生きていると自動操縦されているも同然なのです。喜びや調和をうむ感情は真我とつながりま
す。それは直感的で、理屈なく判断なく迷いのない思考です。

 

 私たちは、古代から神に祈りを捧げてきました。ところがいつの間にか偶像崇拝という形に変化して
神への祈りも曲げられてしまいました。

 

神に呼びかけ、問いかけ、祈る…これは、自分の内なる神への呼びかけです。仲介者も偶像崇拝も
教祖も一切必要ありません。

自分の内なる神に呼びかけ問いかけ祈る、そうすれば神は自分の内を通して現れ、自分で自分を
守ることができるのです。誰もが同じくそうできます。何も難しい手法や呪文も必要ないのです。
なんでも難しくして金儲けや商売にしてしまうのはエゴの世界だけだと思います。

 

 

《龍の息吹》

 

 『霊界物語』の著者であり大本教の聖師出口王仁三郎氏は、龍は耳が聞こえないと伝えています
−聾。なぜかというと龍は神界に属しているために人間の言葉は通じず、神界に通ずる言霊の持ち
主のみが龍に命令し天然現象を自由にし得る権能を持っておる。と示しています。

 

また、「ひふみ神示」には、

地からの竜神は進化していくのであるぞ。天からの竜神は退化していくのであるぞ。
この二つの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ。

と示されています。

これからいよいよ交差(交叉)−天地人の融合が果たされると思われます。

 

 天気は、私たちの生活に大きな影響を及ぼします。

天気とは、まさに天の気なのです。いつもそばにありいつも変化していて常に地上の人間や生活や
環境を取り巻いています…私たちは天気の中で生きているのです。

 

天気は人間の心の影響を受けて変化していますから、昨今の異常気象は、人間の心の乱れに他
なりません。

日本は龍体であり世界のひな型であるといわれてきました。
日本人の心が甦れば世界へも影響を及ぼすのです。

 

日本人は、もっと素晴らしい本質を持っているのです。
このことをこれから益々多くの日本人が実感していくことと思います。

 

 

《掃除・洗濯》

 

 「ひふみ神示」には、頻繁に心の掃除せよ、心の洗濯せよ、改心せよ、と示されています。

私は、朝起きたら、まず歯を磨き身だしなみを整えたら、お部屋のお掃除とトイレ掃除をします。
毎日すれば、たった15分〜20分もあればできるのです。それから一日が始まります。

 

毎日すると毎日ホコリがたまるのがよく分かります。毎日汚れるのがよく分かるのです。

どこかに汚れがあるとすぐに見つけられるようにもなります。

 

先日、知人の家を訪れたときに、玄関に蜘蛛の巣が二か所もあるのを見つけたので教えてあげると、
「ぜ〜んぜん見えなかったぁ〜」というのです。その方の視力は私と同じくらいあるのにです…。

どうして同じ目がついているのに、こんなにも見えるものが違うのかと思ってしまいます。

 

散らかった部屋に平気で住んでいる人を信じられないと思ってしまいますが、当の本人にしてみると
その散らかりも汚れもホコリも目に入らないので気にならないのです。
それで掃除をする必要もあまり感じていないのです。
(中には気になるけど掃除のできない人も増えています。)

 

このように、人間は目に映るものを自分で選ぶことができるのです。

 

実は、心の掃除・洗濯もこれと同じなのです。

環境とは自分そのものです。自分の身の回りを綺麗にすることは自分の心を綺麗にするのと同じなの
です。

 

汚れもホコリも溜まってしまうと、どれほどのものか見当もつかなくなり手をつけるのも面倒になります。
新しいホコリも古いホコリも混ぜこぜになり、部屋中全体が汚く散らかってしまうと、蜘蛛の一匹や
二匹いて巣を作っていても見えないのです。私は、毎日お掃除していつも部屋がほどほどに片付い
ているので虫一匹でも目が合ってしまうわけです…(汗)。

 

心の掃除も同じで、ホコリが溜まりっぱなしだとそれが一面化して、綺麗な部分も汚れた部分も見分
けることができないのです。いつも心を見つめて掃除していれば、ちょっとした心の曇りにも気づくこと
ができます。古いエゴの思考と、喜びの調和の思考とを見分けることが、どんどん容易にできるように
なります。

 

自分の心や内なる活動も見ようと思わなければ見えてくることはないのでしょう…。

 

 いくら心のお掃除をして観察していても古いエゴの思考は、ちょぼちょぼと隙あらば顔を出してくれ
ます。でも落ち込む必要はなく、エゴの醜さを憎むことも恨むことも戦うことも殺す必要もありません。

「ひふみ神示」には、悪を殺すでないぞ、悪を抱き参るのぞ。と示されています。

 

私は去年まで、この「抱き参る」という言葉を「だきまいる」と読んでたのですが(汗)、ふとある日これ
は「いだきまいる」なんだと気づいたとき、恥ずかしさと嬉しさとの中一遍に謎が解けたのです。

 

また、喜びの裏の苦に捉われるから判らんことに苦しむのぢゃ。苦と楽共に見てよと申してあろう。
とも示されているのです。

要するに、喜んでいるとき苦は裏に隠れ、苦しんでいるとき喜びは裏に隠れてしまう。

だから時が来るまでは、そのままでどちらも共に見て参りなさいということだったのです。

 

今、このエゴが表面化してしまうことは、光にさらされているがゆえに起きています。これは大切な
プロセスなのです。今苦しんでいるもの幸ぞ。と示してあるのも、この一連のエゴの浮上による苦痛
を伴うプロセスを今味わっていることが、光の浄化によるステップを踏んでいる証拠であるから、
そのことによって後で楽となることを伝えているのです。

 

 

《愛と誠》

 

 与えたものだけが自分に返ってきます。
ということは、返ってこないものは与えたことがないものだけということになります。

これで誰に不満をぶつけますか?…すべては自分次第ということなのですね。

 

これが、本当にすべては自分のもの…ということの意味です(笑)。

逆から言いますと、すべてが自分になったときにエゴの自我は消えるということになります。
エゴの自我が消えるということは、制限や拘束から脱したということになるのですから、
限りない永遠の生命−真我にかえったことになるのです。

 

前にも書いたかも知れませんが、心配とは、自分の心を相手に渡すことになります。
自分の心を配るということです。配ったものが返ってきます。相手は自分ということでもあります。
すべては相手であってすべてが自分です。

 

相手に配ることのできないものは自分のものにはならないのです。このことを真に理解できたとき、
心配ごとも貪欲さも消えるのです。

 

自分がエゴから話すと相手もエゴで返してきます。自分が渡したもので返ってくるからです。
不快な思いをしたなら自分の心と向きを変えるだけで解決できるのです。

同じく、エゴで明日やこれからのことを予測していると、そのままのことが起きます。
しかし、このとき自分のエゴの動きに気づいて切り換えができると、こんなに現実が変わってしまうの
だと実感することもできます。

 

是非、日常の中でできることですのでチャレンジしてみて欲しいと思います。

驚くほど効果があります(笑)。カウンセラーや相談所に駆け込む必要もなくなります、
愚痴る必要もなくなります。全て自分自身だけで処理できるからです。

例えば、相手に苛々・ムッとして、心の中で又は面と向かって裁きたくなるところをぐっと堪え素早く
調和や喜びの波長に合わせます。

自分がすべて次の瞬間を作り上げていることが実感できます。

 

これもすべては自分であるという謙虚さがただ自分を幸せにしてしまうのです。

 

 愛は、すべてを結び付ける役割を果たします。愛とは、合い合わせることであるからです。

男女の愛というのもそこからきていると思います。しかし、男女の愛が悲しみやいさかいや苦しみを
生み出すことが多いのがこの世界です。自分が本当に結びつきたいものを見つけることが大切で、
神は愛善でなければといわれるのもここのところによると思います。

 

この世もどの次元においても、善と悪に、または善的(善のはららき)と悪的(悪のはたらき)に分けら
れます。中間のグレイゾーンが存在しているのはこの三次元だけかも知れません。

 

誠となるには、善と悪の知識と学びをどちらも知り体験する必要があったのだと思います。
すべての理解が必要だったのです。誠とは、言が成ると書きます。口だけで言葉を操つるのではなく
行いが言と一致して現れて実ることで誠実といえるのだと思います。

 

例えば、一人の女性が、夫のことがいつも心から離れなくて今何してるか何考えてるのかと
心配でさぁ〜と話しています。もう一人の女性は、私は夫を心から信頼してるから全然心配な
んてしてない…と話しています。

 

もしも後者の女性が、そのような女性のスタンスに憧れていてそう装ってはいるけれど、内心では、
いつも夫に昨日言われたことに憤慨し、いつも心の中で夫を査定し、夫を心の中であれやこれやと
想定してコントロールしていたとしたら…(汗)…そうすると案の定、
夫は自分の予想通りの不甲斐無い態度を取ってくる、そしてまたカリカリ苛々…(冷汗)。

 

前者の方が一見すると夫を信頼していないウジウジした女性に見えてしまいますが、
自分の心には誠実といえます。
一方後者の女性は一見すると夫を信頼する心の広い理想的女性に見えますが、
実は、言っていることと思っていることと行いが一致しておらず自分の心に不誠実な典型になって
しまうわけです。

 

エゴは、嘘をつくのが上手で、取り繕うのが巧みで、偽善を装います。自分自身に都合よくすべてを
肯定するために、それ以外のものを否定することで成り立つ肯定なのです。

自分を見極めること中々なほどエゴの振舞いは高度に成長してしまったのです。

 

地球の地上世界は、愛と誠に生きることを学ぶための非常に厳しい実地の場所でした。

 

地球の地上世界がそうなってしまったのは、何かの宇宙的な事故によるのか、
創造神の意図的な計画であるのかについては色々な情報がありますが、
私たちが真実を知る日も近いことと思います。
いずれにしても、五次元に上昇する時期が来たので、もうグレイゾーンは消えてしまうと思われます。
中間でいいという選択肢はないということになります…。
三次元と四次元は地球からは消滅すると伝えられています。

 

五次元の光の周波数へ上昇できない人々は、改めて三次元のレベルの惑星へと転生することになり
、また同じことを繰り返すことになってしまいます。
ですから、今身近に「う〜ん…(汗)」と思う人がいても最終的な段階になったときには後ろ髪を引かれ
ないでください。今回だけは後戻りはきかないのですから…。

 

まわりの状況や他者を相手にして混乱に巻き込まれるのではなく、
自分自身だけを相手にすることが何より大切です。
これからは自分だけが真の頼り(=便り)になるからです。

そして、このことを真に理解し実行できると、自然とまわりに影響を及ぼすようになっていきます。

 

輝石(きせき)なのは、たった一人の自分なのです…(笑)。

 

 

《希望の光》

 

 どんなときでも、どんな状況でも希望の光はあるものです。それを見つけることです。
そして、自分が希望の光となり、希望のあることを考え、すべての人に希望を与えられる会話をして
いくことなのです。

その希望が、自分に希望の光の道を切り開いていくのだと思います。

 

フォトンベルトや、太陽フレアの影響で、地上の電気やコンピューターシステムが停止する可能性が
あると感じています。もしそうなれば、今までの生活のパターンは大きく変わってしまいます。
銀行のシステムがパンクすればお金ですら用をなさなくなると思います。電気・水道・ガスの供給の
停止、自動車も動かなくなり交通機関がマヒしてしまうことが考えられます。
一時的に非常に原始的な生活に戻らざる得なくなる可能性があるのです。

 

それでも慌てることはないのです。今私たちがやらなければならないことは、
とにかく一人一人の心の浄化です。それによって闇の勢力がどんどん力を失い離れていきます。
そうすればストップのかかっている素晴らしい道がすぐにでも開けるように準備は整えられている
のです。私たち一人一人が光をどんどん拡大していき周波数を上昇させていけば、遅かれ早かれ
闇は消えます。

 

何も恐れる必要はなく、希望の光を心に保つことを常に選択することができます。

こんなときには焦るべきだとか恐れて助かることにしがみ付くなどのエゴ特有の反応や常識に合わ
せる必要はないのです。

光に限界はなく無限であることをいつも思い出し、常に無限の思考−永遠なる生命で肉体と共に夢
の創造へ向けて挑戦していくことができます。

 

挑戦に終わりはありません。人間が自分を守ろうとすることには限界がありますから、
人間が守りに入ると弱いのです、果敢にチャレンジしているうちは可能性だけが前にどんどん現われ
ていくのですが…。
しかし、人間はすでに守られているのですから、自分を守ることに躍起になる必要はないのです。

人間にできることは、感情を喜びや調和にフォーカスして、
神への祈りと問いかけと呼びかけなのです。
神はそれにいつでも応えてくれる、それが一人一人の内なる神です。

 

 すべてのあらゆることは、やはり紙一重(神一重)なのです。

裏と表があります。それを見極めるのは自分のことでさえ中々なのが本当のところなのです。
それを謙虚に受け入れ理解することで、少しづつ体験を踏みながら自分の内なる活動を二つに分ける
見極めができるようになっていきます。

 

すべてを体験的に現実として味わえるのが、ここ三次元の特徴といえますから、
内なる成長も体験を含みます。言葉の上だけでの理解で終わることはないのです。
今はまだ色々な一苦労があるとしてもそれは必要な体験からの古いパターンと決別するための脱皮
である場合が多いと思います。

 

今はいわば、地球上での長い長い時間のかかった学び舎での卒業試験を受けていると思ってみる
のもいいかも知れません。完全なる改心を求められているために神は試しに試すとあります。

 

いついかなるときも、自分と向き合っている相手が問題なのではなく、自分の在り方や処理の仕方を
試されていると私は思うことにしています。そうすると、先述しましたように古い自分の癖も出さずにい
られることが多くなりました。すると不思議なことに相手の次の想定された行動まで驚くほど違ってしま
うのです。

また、相手がいなく、自分自身だけの想念の課程においても、いつもと違う反応への切り換えも抵抗
なくできたりします。

 

どちらにしても、古いパターンを手放すと喜びの方が多いのは間違いないようです。やはりすべては
自分次第なのです。このことを本当に体験的に段階を踏んで、さらに喜びへさらに喜びへと進んで
いきます。

限られ囚われたエゴの世界で苦痛を味わうことに際限がありませんでしたが(汗)、限りない喜びの
世界を味わうことにも際限がないようです(微笑)。

 

 今、私がこうして文章を作成しているのも自分への自分でのチャレンジです。読書も同じく自分への
自分でのチャレンジです。

自分でものを書いているときも、本を読んでいるときも同じように自分を知るためのチャンスであり、
本の内容や著者を評価する必要などまったくなく、本を読んだり人の話を聞くということは、自分自身
の内を見つめるならば自分がどの辺を歩いているのかを知るための、そして自分の成長の礎となって
くれます。

 

すべてを、自分自身の希望の光と見ることが可能なのです。

すべてを自分自身に向けたときそれは光となるのです。思考や言葉が光だからです。

すべての思考や言葉を自分に向けることができるということは、自分が光になるということです…。

 

 自分の内なる声を持続的に観察できるようになる程に、直接的に同時的に観察できるようになる
程に、今この瞬間という現在−中今に生きることができるようになっていきます。

これが益々達成されるほどに光へと自らを近づけていきます。思考とは光だからです。

真我の思考との距離・時間がどんどん狭まっていき、いつも離れることがなくなります、
こうして最後には光そのものになるのです。

 

 先日、親戚の伯母さんと電話で話をしていました。
私が「思考が自分なんだよ…」といった話をしていると、
伯母さんが「だったら、あっちゃん(私のこと)!永遠にやることあるしょ!」と言ってきたのです。
「そうなんだよ〜」と二人で大声で笑い合いました。

呆気なく本質を見抜いた伯母さんにも驚きましたが、そうなのです、誰でも簡単に分かることなのです。

 

思考が私であるとは…永遠にやること見つけてしまったことなのです…(笑)。

 

 

                                         2008年5月  ジコリ

 

 

 

 

 



         







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Last Update : 2008/5/18