1.どこまでも探究… 私たちは、いま、審判的段階と浄化段階とを同時に通過しています…。 なぜ同時に通過しているかというと、同じ一つのプロセスの二つの側面だからです。 私もたまに分けわからなくなるのですが(汗)、だからといって、自分が審判官になる必要はないのです…(笑)。 何かを判断しようとする習性は長らく人間が自分を守るために必要とした慎重さでもありますが、もうすでにその学びの段階を終え地球全体は大きく変化し始めています。 もう一歩深く進む必要がありそうです…。 価値観や価値判断を超えて、真の輝く価値へと克ち進んでいきます。 今までのように価値を基準にする必要がありません、そのかわり、どこまでもあくまでも探究精神を貫いていくんです。 常に価値という重さを量りにかけ、こっちより、あっち、あっちより、そっちと、いつも左右に揺れてきました。 これは、ある意味で、言葉や気持、考え、心というものの価値に重さをつけていたと考えることができると思います。 物の価値をお金に換算して定めるかのように、言葉や考えにも値打ちをつけてきたも同然だったのです。 価値の重さ…それは、自分にとって不利か有利か、損か得か、責任を追うか追わずにすむか、相手を非望中傷し相手に必要とさせる優越感、自分に都合よくどれだけ立ち振舞えるか、などをいつも考えるために考えていたのですね…。 本来、価値とは、私たちが付けるものではなくて、元々ある、あらゆるものが既にもっているものであって、それらすべてで宇宙はつくられています。 それらすべてで…というよりも、宇宙そのものが創造主ですから、その中に生きている万象万物に価値がないということがあり得ないのです。 そこに優劣はなく、限りない可能性を発見していくために、すべてに価値があるということであり、価値ということでいえば、価値のないものが生まれる可能性がゼロです。 創造主であるのが宇宙ですから、宇宙にあるすべてのものに優劣も価値も付けようとすること自体が本来、創造主への侮辱になります…。 今までも、ずっーと考えてはきたんです。考える能力から、人間に与えられた気持ちというもの…私の気持ちは、こうです、あなたの気持ちは、こうでしょ…と。 こうして、ずっーと考えているように思ってきましたが、でも、それはすべて憶測から出たことは殆どありませんでした。 これからは、憶測を探求に変えていきます。憶測には、当たり外れがありますが、探究で見つけるものは、常に答と真理です。 どこまでも深く考えつくしていくことに心と思考を全開に開いて、対象についてトコトン、追求・追究していくことを自分に許していきます。 今までは、ずぅーと、ずぅーと、判断すること、審判をくだすこと、価値を見定めること…という要素の中で学んできました。 こうして、その決定に失敗したときの恐れに常に追い回され悪循環を繰り返してきました。 ちょっとここで、「そんなにいつもいつも判断や審判や否定的なことを考えているわけじゃないと思うんです…」と、言われる方もいらっしゃると思いますが、当然、そのつなぎ目は、ちゃんと雑念で埋め合わせられています。 しかし、それさえも詳細に観察するなら、すべて二元性を基準にしていることに気づくはずなんです。 考えていることが、大きな事なのか小さな事なのかは問題ではありません…。 大問題であれ、日常の他愛もないおしゃべりであれ、出所は同じであるということに気づかなければ意味がないのです。 あらゆる思考が入れ替わり立ち替わり、混沌と去ってはめぐり、めぐっては去っていく…日常茶飯事がこんな状態で、見たものに反応しながら、常に判断するのに思考が忙しく連鎖している実態を観察することができます。 最近思うんです。こうゆうこと考えなくちゃ生きていけないものなのだろうか?って…(笑) さして、どうでもいいようなこと、あーじゃ、こーじゃ、といつも考える必要がどこにあるのか?って…(汗) こうゆう思考のすべてが消えてしまったら、私はいったいどうなるんだろう?と…。 二元性で考えないことって可能なのだろうか…と。 きっと、こうゆう考えの数々が何かの代わりとして埋め合わせられている…。 だとしたら、これらが消えたら、私は透明になるのでは…? 限りなく透明に近い水晶のような人間に進化していく?…雑念にもエゴにも邪魔されない透明な思考…(微笑)。 それは、「考えないようにして、考える。」ということで、もう思考に疲れ果てることもなくなって、ただ純粋な思考の自己として存在していくのでは…。 日常的、社会的、人との付き合いに関して……などの考えを捨てていくなら、肉体を超えていくことになり、肉体の時間も加速していく…。 何故なら、時間の上に成立している社会にも日常にも人間関係にも、もう振り回されていないからです。 そのような思考で時間を埋め合わせる必要がなくなる…。 時間が消えていき、時間の拘束が解かれ、私の体は、どんどん周波数を高めて上昇していきます。 私は、もうこの世界の何物にも邪魔されない傷つかない、純化された透明な存在になっていくのではないかと思います。(肉体が透明になるのではありません…) 時間の拘束から離れると、時の長さという基準が消える。 今という中に生きる自分や世界を常に観察するため、注意力と意識的観察が鋭敏に目覚めた状態で、時間という意味でならそれはゆったりと止まっているかのようにさえ観察できるともいえます。 速聴CDを聞いた後では、驚くほどに自分の動きがスローモーションになります。 ということは、瞬間を瞬間の連続として見逃さず観察できる能力が高まるといえそうです。 速読も、言い方を変えれば意識の拡大ですが、速読へのマニュアルの中に、周辺視野を広げる練習が含まれています。 パソコンで字を打ちこんでいても、窓を横切った小さな蚊も見逃すことなく視野に入るというような視野の拡大や、目の前の現実を見ながら脳裏に浮かぶビジョンを観察する能力が高まったりします。 あらゆる瞬間を見逃さなくなる…これは意識の拡大であり、三次元的時間の拘束から脱出したことを意味しているのだと思います。 「視野が狭い」…というのは、目の前の物を見る知覚だけに限らず、考えが浅墓な人にも適用される言い回しですよね。 思考としての視野の広さが、人間の能力の高さを決める要因になっていくということなんです。 見えないものが見えてくる。聞こえなかったものが聞こえてくる。 周波数が高くて見逃していたものが観察できるようになるんですね。 情報処理能力が向上するので、本を読んでいても行間が読めてきます…(微笑)。 「ゆっくり」という言葉には、二つの捉え方があると思います。 「時間をかけてゆっくり…」という場合と、「一つ一つの動作をゆっくり…」という場合。 そうしますと、「ゆっくり考えよう」「ゆっくり噛んで食べよう」という意味が、実は、時間をかけて…のゆっくりではなく、動作をゆっく〜り…という意味だったと考えることができます。 ゆっくり動き、ゆっくり話し、ゆっくり考える、、、。 人間は、早く機敏に動くことを要求され続けてきました。それは、心身ともに焦って生きることになりました。 ゆっくりと動くには、早く動くよりもずっと、力とバランスが必要です。 宇宙飛行士は、無重力の宇宙空間をスローモーションでしか動けませんよね…。 空間を両腕で漕ぎ分けるように歩きますが、ちょっと試しに部屋の中で、宇宙飛行士になったつもりで同じように歩いてみてください…(笑)。 もの凄いエネルギーを両手や体に感じることができます。 30年程前から、時間の高速化が始まっていたという話もありますが、ある意味では、このことによって、2012年12月23日に向かって意識進化や能力開花が自然とされていくよう設定された…と考えることもできます。 しかし、今までと同じ意識や行動では、ついて行けないのかも知れません。 「ゆっくり…」「ゆったり…」「くつろぐ…」などの逆転の発想が一つのポイントになりそうです。 これについて行ける人と、ついて行けない人とが出てきてしまう可能性は考えておかなければならないわけですが。 ついて行ける人は、今辛くても、どんどんこれから楽に楽しめそうです。 ついて行けない人は、今知らん顔してますが、これからとても辛い状況が待っているかも知れません。 それは基本的に何によって違いが出てくるのかと考えてみると、やはり、これから起きる地球の次元上昇を受け容れているのか、受け容れていないのか、ついて行くのか、ついて行かないのか…これが一番大きな要因になりそうです。 受け容れるということは、一つである全体の側に参加していくという意志であり、受け容れないの方は、これまでと変わらず分離の側に留まることになってしまうからです…。 私たち人間は、これから変化していくのではなくて、進化していくんです。 変化への不安を超えて、進化への理解につとめていくことが大切です…。 一番には、観る能力が高まっていくことで、状況がハッキリと見えてくる…ということです。 見えていたものは今までのままですが、一人一人の意識が進化していくことで、今ままでと違うものも見えてくるのではないかと思うのです。 今までのように、常に何かをやらなければならないーという強迫観念から脱出して、真の偉大さや、真の知性、神聖なる人生を生きることに没頭してもいいのだ!と知ることが、真の自己を現していくことになりそうです。 そうなると思考とは、もっと秩序をもち順序正しく現れるものなのかも知れません。 制限ある思考パターンに慣じんでしまった私たちには、一見窮屈にさえ見えてしまいますが、今までが大切なものを失っていたのですから、これから失うものなど何もないのだと思います。 逆をいえば、今まではこれをやらせないため…、高潔な人生を歩ませることを拒み続けるため…、雑多な考えや不合理な変性自我からの思考が必要だったということになります。 今のところできることは、常に、意識的に問いかけ、祈り、思考で探究することであり、ここにこそ真の自由と知識があります…。 知識の中で、自由に泳ぎ遊んで生きているのが真の自己であると思うのです。 祈るとは、自分の求めるものが常に与えられていることに気づくことです。 あとは、どちらを心の拠りどころにしているか…しかないのです。 心の主に戻るのです。心の主とは、心の在る字です(笑)。 向き不向きがあるので、誰かと同じことをしなければそうならない…ということは一切ないのですから、自分の内の声を聞くことにどうしても抵抗があるなら、別の方法を考えてみてもいいのです。 例えば、「愛」「感謝」「ありがとう」という言葉だけを心の中で唱えるということをやってみるのも一つの方法です。これは、人が通常考えていないようなことを意識的に考えるという方法に含まれます。 でも、この難しさは、やってみたことがある者にしか解らないものですが…。 やってみれば、いかに、雑念やエゴの声が挑戦を遮っているのかに気づくからです。 そうすれば、必然的に、内なる声に気づくことができるかも知れません。 心の主に戻るためのチャレンジを、自分で考えて色々やってみることが大切です。 心の主に戻れなければ、いつまでも迷子のまま孤独なままです。 主は、王の天辺に、ちょんヽを打ちます。これが垂直縦軸での王の王へ正しく従うことになり、玉は、王の一番下の横軸にちょんヽを打ちます。これが水平横軸での王の王への復権になると思います。 判断しようとするからわからなくなる…ということは常にあったのです。 例えば、誰かに恋した瞬間、その相手の価値を判断して恋するでしょうか?(打算的な場合を除いて^^;) 恋は、盲目…といわれるのは、相手に奥さんがいようが、年収がいくらだろうが、借金があろうが、相当性格の悪い人物だったとしても、意地悪な小姑がいたとしても、お腹が出っ張ってようと、恋した瞬間、そんなものは基準にしていませんよね。 そこにあるのは、ハートのときめき!だけです…(微笑) だから、それは、ここ地上での大冒険です! 誰が見ても素敵な人だけに、みんなが恋するわけじゃなく、それぞれに出会う人がいて、素敵だな!と惹かれる相手は千差万別です…。 価値判断という基準をもたない「恋」は、お互いに必要な学びや気づきの体験をつんでいけるパートナーであると直感するのですね。 その多くは、いつまでも幸せが続くわけではなく、意見、価値観、好き嫌い、趣味、立場、環境、境遇の相違によって、様々な部分ですれ違っていきます。 誰一人同じではない者同士が、最高の学びと気づき合いの場をもちながら関係を続けるか、または終わらせていきます。 長く終わっても、短く終わっても、一つの恋が終わるときは、失敗だったと思いがちになってしまいます。でも、それは決して失敗ではなく、やはり、貴重な学びだったのです。 相手の瞳の中に自分の姿を映し出してきたのですから…。 二人のため世界はあるの〜♪という歌詞がありますが、二人の恋とは、本当の意味では、男女の間のことではないようです。 アダムとイブは、もともと一人のアダムイブという存在だったようですから、人間が一つの存在として再び結ばれるときが、神への嫁入りということになりそうです。 男でいたり、女でいたりすると、下心と色気というものが常につきまとってしまいます。 男のしがらみ、女のしがらみに囚われてしまいます…。 それも今までは楽しい体験だったわけですが、男性性と女性性の統合した両性具有とは…真に男が女を迎え入れるとは、どうゆう意味なのか考えていくときが来たように思います。 男を超え、女を超えていくと、どんな可能性が広がるのか体験できそうです…。 私たちは、判断できなかったとき、価値を正しく見定められなかったときの恐れを知っているので、あえて分かり切っている失敗を選択することが中々できません。 ところが、直感は、簡単に失敗のできる選択をさせてくれます…(笑) しかし、最終的には、とても人知では到達できなかっただろう奇跡が起きたことに気づくことが多いのです。 それは、厄介なことに足を踏み入れたと見せかけて挑ませた大いなる成功なのです。 また、素敵な出会いと見せかけて本気に挑ませる大いなる失敗からの学びなのです。 常識的判断から奇跡的なことを起こそうということ自体に無理がありますから、常識を超えたところにある奇跡を味わうには、逆に、「それはないだろう?」というくらいの選択が必要だと思っていた方が気が楽だと思います。 奇跡は、極めて奇(めずら)しく、限りなく奇(あやし)い、常識の中には跡もつかない選択ができたとき遭遇する現象です(笑)。 それに直感は気付かせてくれます…。 直感的に行動することに慣れてくると、奇跡とは、神にとっては普通のことであったのだと気づいてきます。 自分の内的活動を観察できるようになるほどに、いかに好き嫌いが多く、いつも自分に都合よく相手に審判を下しコントロールしようとしているか…などなど、自分の醜い内面が見えてきます。 それさえも抱き参るのだとわかっていても、やはり、あまり気分のいい内容ではないので。いい加減うんざりなわけです。 ところが、直感は注意も促して助けてもくれますから、そんなときは、相手に、「ぎょっ!」としたり、「ザワっ!」としたり、「やばっ!」「まずい!」というような印象を自分に与えて注意を促してくれる場合もあるのです。 そのような注意を促す印象が直感としてやって来たのですから、その印象が何故起きたのか?を、トコトン、内的に探究し追求していかなければなりません…。 そのとき、相手が悪巧みを企んでいるのでそれを暴かなければならない場合もありますし、相手がよからぬ罠にハマる寸前なので助言を必要としているかも知れません。ただ単に、相手が背中を押して欲しくて見せたくない面を露にしている場合であるのかも知れません。 そのような場合にも、同じく、うんざりするような内容を追求しなければならないわけなんです。 これを、また、相手を悪く見ようとしている…とか、また被害者意識だ…犠牲者意識だ…・、相手と自分の立場が・・・なんて考えていると、折角与えられた直感を生かすことができなくなります。 人は、自分に親切にしてくれる人を悪い人だとは思いたくないという衝動があります。でも、冷静に考えるなら悪い人の殆どは、親切なフリをして近づいてきます。 また、自分に親切ではない人は、あまり良い人ではないと判断してしまいがちです。 このようにうまく人を見抜けないために、思い切った苦い体験から学ぶという目的には大いに役立つのですが。 引っかかるのも体験なら、それをかわすのも体験ですよね…。 心の中が猜疑心や、不安、心配、などの疑心暗鬼な状態が占めていると、騙そうと近づいてくる人が来ても気づくことができません。 騙そうとするひとは、人の不安や心配に寄ってくるのですから…。 逆に、安心、くつろぎ、調和、感謝、平和の状態が持続している人に、もしも騙そうとする人が近づいてきたなら、すぐに「ピン!」とくるのです。 周波数や波動、エネルギーといったものが全く違うからです、また相手も、「あ!この人は引っかからないな!」と気づくはずです。 その人それぞれの必要性において「すべては、うまくいっている!」だったわけです…。 しかし、もう既に、今までとは違って、地球全体の目的が苦を一切必要としていないと気づくことが大切になってきています。 浄化という意味において、浄化すべきものを見せられはしますし、審判的段階なので、二元性や、神の心からのものと、変性自我からのものとを見せられもしますが、一切苦しむ必要はないのですね。 かといって感情をなくしてしまうということではありません…。 人間は、進化の過程で言葉を発達させてきました。 これからは、後ろ向きの進化で、高次元に回帰していくと思いますから、人間が発達させてきた複雑な言葉からくる誤解という世界を超えていく先には、シンプルな理解が待っているはずだと思います。 だとすれば、最終的に残っていくのは、感情ではないかと思うからです。 赤ちゃんから老人まで、誰かれの別なく必ずもっているのが感情だからです。 印象とは、対象からどんな感じを受けるのか…ということですから、超感覚とは、この言葉を超えた感覚だと考えることができると思います。これを霊感といってもいいかも知れないですが…。 ただ今までのように感じようとするんじゃなくて、「直感を観ずる」…自分が感じていることを常に観ずるということです。観(かん)じるとは、観(み)る行為です。 自分が何を感じているのかを自分で完全に観じ知ることができれば、それがすべてを語ってくれることに気づくと思います。 一枚の絵を見ているとします。 その絵は、真っ直ぐな道さえない砂漠の中を、大人の男性と小さな女の子が手をつないで地平線に沈みつつある大きな太陽に向かって歩いている後姿を描いたものです。 この絵を見て、一人一人がそれぞれ違った感じを受けると思います。 一人は、手をつないで歩く後ろ姿に「ほのぼの…」と暖かい感じを受けます。 一人は、後姿しか見せない絵に「うっ……」と寂しさを感じ取ります。 一人は、地球の物語が絵になったようで「わぁーっ…」と圧倒される感じを受けます。 一人は、男性の後ろ姿に、愛する人の姿がだぶり「きゅん…」と甘い感じを受け取ります。 一人は、砂漠の背景に注意をひかれ「しーん…」とした自然の広大さの感じを取ります。 一人は、真っ赤に染まった太陽に目がいき「かーっ…」と燃えるような火の力を感じ取ります。 一人は、二人の長く続きそうな旅を案じ「…沈黙……」とただ祈りたい感じを受けます。 というように、同じ一枚の絵を見ても、一人一人の感性や、そのときの心情などによって様々に違う感じを受けると思うのです。 例え、みんな口に出す言葉は、「この絵は素晴らしいですね…」というものだったとしても、内に湧き出す感覚というのは十人十色なわけです。 もしも言葉のない感情だけの世界を想像してみると、赤ちゃんの世界ですね…(笑) それでも、赤ちゃんは生きています、楽しそうに笑ったり、泣きわめいたり、怒ったりして生きています。 赤ちゃんは、いったい誰に、泣くことや笑うことや怒ることを教わったのでしょうか…不思議だと思いませんか?… 赤ちゃんは、言葉を話せないので、大人から見ると不自由そうに見えてしまいますが、果たして、赤ちゃんが本当に不自由なのかどうかは、誰にも知ることができません。 もしかしたら、大人にはないビジョンの世界をもって全てを理解しているかも知れないのですから。 ただ、オシメを替えてもらったり、まだ這い這いもできなかったり、歩けなかったりするので行動の制限がありますが、もしも、自由に動き回れたなら、赤ちゃんは、何を表現し出すかわからないと思うのです…(笑) こんな常識を超えて考えてみると、私たちがこれから進んでいく世界の楽しさを、ちょっとだけ垣間見ることができる気がします…(笑) 感情といっても、一般的にいうところの「感情的になる」という吐き出すための激情ではなくて、喜びに沿って生きていることで感じとる、フッと湧き出るメッセージとしての感じです。 言葉を無理に付加させなくても、喜怒哀楽は、自分の中ですべてを語るための表現力だったのですね。 子供のように、無邪気に大胆に恐れ知らずの無鉄砲に…! ん?誰かが昔、似たようなことを言ってた気がしますが…(笑) → 「オレ!オレ(*^^)v」 私たちは、今まで、この貴重な地球という学び舎に、しっかりと引っかかって抜けられなくなり、ハマり囚われ生かされてきました。 しかし逆に、だからこそ守られてきた面もあるんです。 例えば、タバコを何本吸っても、アルコールをいくら飲酒しようと、いくら体に負担のかかる食事をしようと、病気をして死ぬことで終わらせることができました。 考えようによっては、この苦痛とストレスに満ちた地上で人間が生きていくには、アルコールやタバコやお菓子などで気晴らしや気休めをし少しの慰めになればと、人間に与えられたものでもあったのでは?と思えるようにもなってきたんです。 でもそれは、肉体が自分だということからくる苦痛とストレスなのですから、自分とは、霊的な思考存在であることがわかってくると、自然とそれらなしでもいられるようになってきます。 それに準じて肉体に囚われた人間に与えられた嗜好品との関係も薄らいでいくものだと思うのです。 恐れからそれを手放すことは必要とはされていませんが、チャレンジや探究として取り組むなら、ストレスのない意識改革の一環になります。 今、地球全体が浄化されていますから、当然、それは個人においても人それぞれに始まっています。 一つ例に出しますと、私の女性の知人は喫煙者です。 その女性は、いつも、「私は、本当に幸せだと、いつも思ってる…」と、私に言ってくるのです。 ところが、私が少し間を置いてから、「どうして、タバコ止められないの?」と聞きますと、「だって、タバコぐらい吸わないとストレス溜まるもん!」と言うのです…(笑) さっき、いつも幸せだと言ってたはずなのに…(-_-;) その女性は、自分の言ってることと、思っていることと、行動が一致していないことに気づいていないのですね。 これを一致させるのが、口・言・行の一致で、これを完成させた人をミコトといいます。 こうして彼女は、いま幸せであると無理して思おうとしているだけで、本当に、いま幸せであると実感はしていないことがバレてしまうわけです。 いま幸せなら沢山の惰性や習癖や習性から抜けても平気なんです。 口・言・行が狂っていることに気づけないと、これだけ現実に差が出てしまいますから、自分をシッカリと観察する目を起こして、自分の矛盾に気づいていくと、本当の幸せは常に自分の手中にあることに気づくのです。 今、しあわせなら可能性は無限大になる…! ただ一つ憶えておいた方がいいことがあります。 私には、ストレスなんてなかったのだからタバコを止めよう!と決意して止めたとします。 そう気づいて止めたことには、喜びの連鎖が始まっていくのです。 それを覚えておかないと、ちょっと、「あれ?おかしいぞ!」ということになってしまうことがあるからです。 例えば、タバコを止めたから、次は、ストレス解消に飲んでいたアルコールを止めてみよう!と、喜びは選択したがるからです。 そうしますと、ちょっと体調を崩してアルコールを止めさせようということが起きるかも知れません。 それは、病気になったのではなくて、自分の内で目覚めた喜びが連鎖を始めたから起きているのです。 このように、一見「あれ?」と思うような苦痛や崩壊が起きることがありますが、これは喜びの連鎖が始まっているから起きているのだ…と憶えておくと混乱せずに、素直に新しいチャレンジを受け容れていくことができると思います。 端的にいってしまうなら、「タバコ吸おう…」「さて、一服だ…」という思考が巡ってこなくなればいいわけです。単純には、それだけのことなのですが…(笑) 何が身体にいいから、何が身体に悪いから…という病気や死や老いへの恐怖を前提にするのではなくて、自分の精神的な思考にチャレンジしているんだと思うなら、それは冒険的で実に楽しいものです。 肉体を磨くにはお金がかかりますが、心を磨くのはタダです…。 心は無限の可能性と永遠なる生命です。心を開くと、心はすべてを見透かす窓になります。 順さえ正しければ何を考えてもいいのです…。 苦しくてたまらなくなったときに、この言葉と意味を、ぜひ思い出してみてください。 では、順が正しいことを、一体どうやって知ればいいのでしょうか?… 自分の思考を常時完全に客観的に見つめている目−これが神の目です。 これが神の順が正された証しなのです。 浄化が始まっているので、隠されていたものが表面化しています。 そこで、おぞましい隠れていた言葉の数々が軍をなして押し寄せて表出しています。 その言葉の数々は、私たちに執拗に付きまとい離れてくれません…。 それがハッキリと観察できるようになればなるほど、苦しくなってきます…。 そのときに、「順さえ正しければ何を考えてもいいのです…」の言葉を思い出し、自分の内の言葉を見つめている目こそ神の目であることを思い起こして欲しいのです。 その言葉たちに、ただ眼差しを向けてあげるだけでいいのです。目は、光です、神です。見てあげるだけでいいのです…。 消そうと苦しむ必要もありません。 その言葉たちが、もう一人の自分である神が表に現れる手助けをしてくれているのです。 それが彼らが、やらねばならぬ進軍だったようです。 自分の気持ちが治まると、自分の神が治まり(鎮座)ます。 もう大丈夫なんです…安心してください…。 変性自我の声が聞こえ出してから、このことに気づくまで、何年かかったでしょうか…。 長かった、私の進軍(神軍)でした…(^^ゞ 2.意識の目覚め 最近、眠っている間も、ずっーと、オシャベリしている自分がいることに気づき始めています。 今ままでも、頭が興奮していたり、アルコールを飲んだりすると、オシャベリが止まなくて考えているのか眠れないでいるのか分らないときがありましたが。 以前書いたように、数年前のある日突然、そろそろ起きようと身体が目覚め始めつつあるときに、まだ寝ぼけているというのに、自分のエゴがブツブツと朝から喋り続けている声を聞いたのです。 ところが、実は、寝ている間も、ずっーと、喋っていたのですね…(汗) ただ、眠っているために意識できないので気付かなかっただけだったのです。 アメリカの『モンロー研究所』の創設者であるロバート・A・モンロー氏(他界されています)は、自分の体外離脱体験から一般にも体験させることのできる『ヘミシンク』技術を開発した世界的にも有名な方です。 その著書の中に「究極の旅」という本がありますが、その中で、モンロー氏は、人間は眠っている間、意識を失っているのだ…と書いていたのを思い出したのです。 また、人間が覚醒したり、意識進化が起きると、寝ていても意識は目覚めている状態になるということも、よくいわれていたことだったと思い出しました。 寝ていても意識が目覚めている状態ってどんなだろう?…と何度も考えたことがありましたが、皆目見当もつきませんでした。 ところが、やはり自分で体験して始めて、「あっ!このことだったのか〜…」と気づくものなんですね…。 まだ寝ている間、たまたまといった風なので完全ではないようですし、少し、そのような可能性を垣間見ただけかも知れませんが。 これがもしも持続できるとなると、寝ていても意識は目覚めている状態といえそうです。 意識とは、自分を観る力…光…といえると思うのですが…。 確かに、眠っている間、自分をまったく観察できないことからして、モンロー氏のいう、「寝ている間は、意識を失っているのだ…」の言葉は的を得ていたことに気づきます。 完全に覚醒すると、眠らなくてもいい状態になるといわれていますが、確かに、寝ていても意識が目覚めていられるのなら寝る必要があるのかどうか?疑問が出てきますね、きっと、どっちでもよくなるのかも知れません…。 日中では現実と思っている世界で、見たり感じたりしながら生活します。 そして、それに沿って考えていたり、それとは関係ないことをいくらでも考えられるのと同じで、寝ている間も同じ状態でいられるのかも知れません。 肉体が自分だと信じている間は、、日中の疲れを回復するのに眠らなければなりませんでしたが、自分である自己意識が肉体の外(または、表)に出たら…、ずっとそこに居たままでいいという可能性が出てきたのです。 肉体が眠っても、意識である私は起きていていいのです…(笑) なんでも体験したことのないことを凄いことのように思ってしまいますが、体験してしまうと、自分にとって普通のことになります…。 それをあまり人に話すと、多くの場合、人からの目によって特別な人になってしまうのです…。 確かに、真の聖者や神秘家たちは、いつも「あなたにも同じことができるんですよ…」と言っていたのですよね…(微笑) 地球が、どのような理由で人間に与えられた場所であったのかが理解できてくると、特別な能力というのはないのですね。 ただ、能力を長期に渡って眠らせたままにしておかないと、地球での学びができなかったという経緯があったのです…。 だからと言って、能力の開花した人がオカシイのじゃないですよ(笑)。 体を癒したりする能力のある人は、日向の御役といって、神に心を向けさせる御役なんです。 地球とは、宇宙でもたいへん貴重なオンリーワンの星です♪ 確か、大本教の聖師・出口王仁三郎氏は、宇宙は、人間に統治させるよう作られた…。また、大宇宙とは、宇宙が大の字の形をしているがゆえに大宇宙というのである…。と伝えていたと思います。今、手元に本がないので正確な文章ではないかも知れませんが…。 私たち人間も、手足を拡げた形は大の字ですよね。 大宇宙の中に、私たち人間は存在していますし、それは創造主の中に生きていることであり、創造主に似せて作られた最高傑作が人間であるということでもあると思います。 人間は、創造主を追い求めて旅を続けるわけですが、どこへ行こうと創造主である大宇宙の中です。 創造主の愛に抱かれながら、永遠に創造主の一部として存在し続けるということなのだと思います。 天地人という言葉がありますが、天という領域は、宇宙。地の領域は、ご先祖の場所。人は、人間の住む場所だったようです。 ある意味では、宇宙に存在している限り、みんな宇宙人であり、宇宙の生命体であるわけですが。 この三領域に分かれていると考えると、天に住まうは宇宙人、地中に住まうはご先祖様、地上に住まうは人間様と考えることができそうです。 ピラミッドの形では、頂点から三分の一にあたる点が重心といわれています。 「ひふみ神示」の中でも、三分の一という数字は、何もかも三分の一になることぞ…というように何度も登場します。 日本が世界の三分の一になる。世界の全人口の三分の一しか生き残れないなど、様々な解釈がされてきたようですが。 言葉に偽物と本物があったとするなら、真言の神の占める割合が三分の一になったときに、一人の人間としても、地球という集合意識を考えた場合でも、終極的に転じるのではないか?と考えたりもしています。 そのとき、地球の空洞中心に存在する水晶のように輝く楽園「シャンバラ」からご先祖様が私たちと共に現れてくるのでは?…(意味深・微笑) ここ最近、外から帰って来たときに、視野の右半分にギザギザした見たこともないような美しい光が暫くの間見えているのです。 ありゃ〜!これずっと見えたままだったどうしよう???…と思ったほどでしたが。 暫くすると消えてしまいました(笑) いつの間にか、そんなことも忘れてしまい気にもとめていなかったのですが、何度か同じものを見るうちに、ある日ふと、「あ!これが水晶のような輝きってことか…」と気づいたのです。 この物質世界では見たこともない光なので、言葉で表現できないし。色も見たこともない深さで微かに揺らぎながら水の鏡のように輝いています。 もうたまらなく触ってみたいくらいなのですが、視野が動くと動くし、物質ではないので触れるわけもないわけで…。 きっと、「水晶の世ってどんなかなぁ〜…?」と思っていたから、「こんなのだよ!」って、ちょっとばかり見せてもらったような気がしているのですが…(笑)。 これから、このような光でできた世になるのなら、なんて素晴しいのだろうと思います。すべてがこのような光でできた世の中なんて、今の私たちに想像ができるはずがありません。 それともう一つひと月程前に、フッと観たビジョンがありました。 日本の龍体そのものが突然浮き上がって地球の北極から入り込み地球中心に向かって飛翔を始めるというものでした。 もしかしてこれが、『龍の帰還』となるのでしょうか?…(笑) 日本をひっくり返すと、「本日」になります。 今を統べる日…今を統べる霊(ヒ)の本が日本です。 何故、日本が世界の中心だと云われてきたか…を、素直に解釈できたなら、それは地球の中心が日本だから…ですよね(笑)。 日本という国土は、龍体であり艮の金神の肉体であるとも云われてきました。 そうすると、神界としての日本が地球の中心にあった…ということのようです。 「ひふみ神示」には、「北に気つけ呉れよ…」とか「北から来るぞ」…など、「北」に注意を引かせている箇所がいくつもあります。 が…、一か所だけ、「北とは中心のことであるぞ」と書いてあるところがあるのです。 海ひとつ隔てて寒い国に宝を隠してある…というようなことも示されていますが、海の底を辿っていけば、そこは地底や地球の中ということになります…。 平面ではなく、立体で解いていく世の到来のようです…。 ここまで封印が解かれ書けるようになってきたということは、本当に嬉しい限りです。 このことは、このことが現実として現れてくる日が近いことの証であるからです…。 今、これを打ち込んでいると、「準備は、よいか。よいな。」という声が中心から響いてくるのを感じています(笑)。 3.旅の荷づくり 今回は、非常に変わった旅が始まろうとしているといってもいいので、普通の荷物を持ってはいけません…。 現金も旅行券も、洋服も、化粧品も、旅行バックすら必要ないという、非常に身軽な旅です(笑)。 肉体に宿っていた魂だけ包んでいきます。どちらも見えない霊的なものですから、今回の旅で移動できる…ということになりそうです。 肉体を捨てていくわけではありませんが、肉体がどうなるのかは、まだうまく言葉で説明することができません。 肉体を捨てていくようなら今回の進化の意味がないので、こうなるのかな?あーなるのかな?という見当はついてきていますが…今のところ、お楽しみ状態です…(笑)。 何もないと思っている空間には、想念や言葉や思考といった目に見えない要素がびっしりと詰まっています。 肉体から出て、空間側に移れば移るほど、そこは混沌とした思考の海です。 特に、この地球上では、あらゆる想念も侵入可能でしたから、それらから守るために物質的身体が必要になったのだそうです。 今は、まだ完全に地球全体が浄化されていませんから、今、空間側に出るということは、神の心からなるものと、神の心に沿わないものとで構成されている場に遭遇してしまう、といっていいのかも知れません。 とても混沌と混雑している混乱の場、今は、戦場といってもいいほどの様相を呈していると思います…。 また、動物や虫や自然災害や野蛮な人種から身を守るには、肉体意識による危険に対して慎重な注意深さをもつ本能が必要でした。 こうして、今までは、物質的身体が見えない霊的な存在を守ってきました。 しかし、もはや、見えない霊的な自己が外へ出て物質的身体を守る番になっているといえます。 肉体が自分であるという錯覚から出て、物質的肉体を守るため外に出ていかなくてはなりません。 外は、戦場と化しているとしても、そこが私たちの帰る場所だからです。 この時点で、もう新しい旅は始まっていることになるといえます…。 そこに出てすべてを知った上で、自分自身のすべてを内包し、自分自身のすべてを愛せるようになることが、地球での最終的な目的だからです。 ここへ到達するために、すべての学びと体験が必要だったのです。 よく、場違いな発言をする人に対して、「部屋の空気を読めよ〜!」という言い方をしますよね。 空気は読めるもの。何故なら、まさしくそこが言葉や想念の場だったからなんですね。 多くの人々が、みんなに、または誰かに受け入れてもらうことを望みとして生きてしまっています。 それは裏を返せば、誰かに、またはみんなに受け入れられなかったらどうしよう…という不安からなのです。 その不安を超えるなら、自分が自分丸ごと受容する真の包容力に、自分を内包できるまでになっていけるということなんです。 自分自身を内包するということは、全体性の中に戻るということです。 全体性とは、見えるもの全て包み込んでいる思考の海原です。自分を内包するほど自己が大きくなるということは全体と一つの世界に戻るということなのです。 地球上では、三対七で、陸の部分より遙かに海の部分が広いです…。 これは人間も同じで、肉体の約70%が水であることからもわかります。 ということは、宇宙においても70%は、思考の海である可能性があるのかも知れません。 常に目の前には、無限の可能性があります。進んでも進んでも限りない可能性は開けます。 それは、特にこの一年半ほどで実感してきました。 何度、主人に…「やっとわかったぁ〜!」と、同じ言葉を興奮しながら伝えたことか…。 わかってもわかっても終わりがなく先があるということを、本当に体験しました。 二年前と今とでは、自分に対しても、相手に対しても、世界に対しても、地球に対しても、宇宙に対しても、180度観方が違うといってもいいほどの差を感じます。 限りない成長があるんだってことが理解できれば、諦めなくていいんだと気づきます。 それって苦しくないの?…って思う方もいるかも知れませんが…。 知ること、理解が深まること、見える世界が広がるということ、選択肢が増えるということは、本当にワクワクする喜びなんです。 わからないから苦しかった、見えないから辛かった、知らないから迷ってたんです、理解できないと自信をもてないのです。 限りない成長があると理解できれば、昨日の未熟は、明日の糧です…常にその真ん中、今に生きています。 肉体が自分だと思っていると、制限の中に生きてしまいますから、自分の心を探求・追求していけるものだなんて思えないのです。 ただ単純に、これが私だ…としか思えない…。 ただ在ることの連続が私であるのですが、存在とは、尊在…尊い在るの私の連続なのです。 自己の思考は、永遠にあり続けます。思考の全体性の中に、私は、限りなくただ在るのです…(笑) ただ在るんじゃつまらない…と思うかも知れませんね…。 確かに、この地球上のような深淵な体験というのは、地球上でしか味わえなかったことだと思います。 いざ、今までの地球が終わるとなると、ここの現実的感覚を伴う体験の数々は、苦しみの方が多かったにしても名残惜しいものがあります。 でも、ただ在るといっても、何もない…ということでは当然ありませんから、私たちの三次元に限定された想像力では想像ができないのでないだけです。 特に、意識が拡大していきますと、ある意味では、限度を超えて、いろんなことに対して異常に過敏になり神経症のようになる面も出てくるようです。 また、例えば、よいしょ、よいしょ、と歩いて行かなければ何処にも行けない肉体がまどろっこしくなってきますし(笑)、必至に肉体を守るために虫対策をし、病気対策をし、肥満対策、老化対策をしていることに抵抗が出てくるようです(笑) 結局のところ、いつまでこんなことをやらなくちゃならないんだろう?…と思うことも必要のようですね…(汗)。 今まで普通に疑問にも思わないでやってきたことが、突然、おかしな感じがしてくるのは、もう地球の物質的体験が完了に近づいており、次の次元世界をすでに感じ取っているからだと思います。 逆に、あともう少しだと思うと、物質的肉体をもち五官をもつ、この次元だからこそ味わう肉体的な痛みや不快な感覚に、感慨深くなります…。 必要な調整ができるだけ穏やかに行われているといいますから、何かの症状があってもあまり気にせず抵抗しない方がいいみたいですが。 骨、特に仙骨の不快感や違和感が強くなる場合が多いようです。 浮足立っているというような感覚や、立っていても重心が安定してない感覚などを感じるかも知れません。 太陽フレアやフォトン・ベルトの影響で、肉体にも精神・感情にも影響が出ているそうです。 光は、光に影響を与えると考えると、よく分かると思うのですが、光とは言葉です…。 色々な症状が出るにしても、それは何に起因しているかというこ、やはり言葉なんです。 恐怖に基づく言葉の数々に光が当てられて浄化されているといえますから、様々な過剰反応や拒絶反応、過敏症状などが肉体的苦痛を伴って起きてしまうのは仕方がないのだとわかります。 これを軽く済ませるには、やはり、素直にできるだけ速やかに、光の言葉(神)に戻していくことだと思います。 そうすれば、光は光と調和し喜びの言葉が私たちを内から輝かせていくことになります…。 精神的な思考存在である自己は、永遠性であり、私は在り続ける−ですが、物質的身体は、今までも進化してきたし、これからもある段階まで進化しながら成っていく存在だと思います。 もし、息苦しい感覚で悩んでいる方がいらっしゃいましたが、普通の呼吸しなくても人間は生きていられることを知っておくと楽になりますよ…(笑) 以前も書きましたが、お母さんのお腹の中で胎児は、普通の呼吸しなくてもシッカリと生きていたのですから。 (寝ている間に呼吸が長い間止まる無呼吸症候群のことではありません…) 息は、自らの心と書きますから、一般的には、息の荒い人は、心も荒く乱れていて、息のゆったりしている人は、心も穏やかです…。 よく息を合わせる…という言い方をしますよね。 アロマのトリートメントなどでは、クライアントさんの呼吸に合わせてやっていくのですが、中々合わせるのが大変な人がいます。 普通は、自分の呼吸を意識するなんてことはないことなのですが、意識が拡大するということは、自分が外に出ることですから、ある意味、客観的に自分を観察してしまうといえると思います。 自分を知ろうとする注意力が集中してしまうと考えられますから、自分の一つ一つに光が当たっているということでもあるので、そういう理解で不安から離れるのがいいと思います。 最終的に、旅立ちとは、もう大丈夫だと神が見届けるときのことです。 もう大丈夫だと見届けるのは、神だということなんです。 その神とは…もう何度も書いてきたとおりです。 4.言葉の限界 限界のある言葉で伝えるというのは、とても難しいことです。 伝えたいのに言葉が出てこない…話せば話すほど、伝えたいことから、どんどん離れていってしまう事もありがちなことです。 伝えたいのに言葉が出てこないときには、焦らなくていいし、無理にそれ以上話す必要もないのだと思います。 話がたくさんできたからといって賢いという価値観からも離れた方が気が楽です。 また逆に、もうちょっと止まってくれないかな…と思うくらい、言葉がベラベラと出てくるときもありますが…、それは、それで、いいのです(笑)。 真実を知ることが増えてくると、自然と人に伝えたくなります。 そのとき、真実を伝えるって難しいことだったんだな…と始めて気づきます。 どうやったら伝わるだろうか?…と考えることが多くなるかも知れません。 どうやって伝えよう…と考えることは、知ったことを消化吸収するにはとてもいい方法のようです。 だからといって伝える人を必死に探す必要はありませんが…(汗) 伝えられる人が身近にいない場合には、ノートや紙に、自分が知ったことを、自分なりにメモったり書き出したり、自分なりの意見を加えてみたり、自分の言葉に直してみたり、まとめてみるだけでも同じことになるようです。 学校で、授業を聞くだけじゃなくて、ノートにメモを取りながら勉強しましたよね…あれと一緒です。 ただ授業を聞くだけじゃ身にならないから、そうしていたのですから、それは自分の言葉としてとにかく外に出すということが、この物質世界での現象として必要なのかな…と思うのです。 慣れないうちは面倒な感じがしますが、慣れてしまえば気にならなくなりますから、ぜひ、やってみて欲しいと思います。 ノートに書くのが面倒なときは、本に直接書き込んでもOKです! 同じく、問いや疑問が浮かんできたときにも、「○○○○は、どうゆうことだろうか?」とメモっておくのもいいですよ…。 人生に不足を感じるのは、十分に自分で熟考していないからです…。 私とは、精神的な活動と思考である自己なのですから、こちらで意識的に生きないと満たされない感覚にいつまでも追いたてられてしまいます。 人間は、忙しい中に生きるのを好む場合が多いですが、多くの場合、それは思考から生きることを避けられるからです。本当にやらなければならないことを忘れられるからです…。 仕事をしなければならない、遊びもしなければやってられない、趣味の一つももってないとな、人間関係も大切だし、家で掃除洗濯してるより外で働いた方がお金になる…。 あ〜これが充実ってもんだ!…と言い聞かせるのですが、何かが満たされていない感覚はどこまでも追いかけてきました。 その満たされない感覚を勘違いして、遊びや趣味や嗜好的なもので埋め合わせようとするのですが、それをすればするほど、これでいい…ということがなくなるばかり。 制限の多い中で、際限のない欲求不満に陥ってしまいます。 どれもこれも、自分の本来の姿=意識的に自分で考えることをしないからなのです。 「え?私は、いつも自分で考えてるけど?…」と反論する方がいると思うのですが、 変性自我も自分で考えているように過ごせることを考え併せてみなければならないのです。 ここ地球上では、全てが二元性をもっていますから、言葉も然りだったのです。 変性した自我からの言葉と、神のみ心(霊的自己、聖霊、神霊)からの言葉、の二つがあるようです。 神のみ心からの言葉でありながら、あるとき、地上での支配権を奪われてしまったのです。奪われるのを許したといった方が正しいかも知れませんが…。 今まで長い間、地上を支配してきたのは、暗黒勢力が社会意識を支配コントロールして、あらゆる影の想念や思念として植え付けていったものです、それを基準に考えていると思っているのが変性自我ということだと思います。 やはり、あらゆるマインドコントロールが行われてきたようです。 唖然とするほどそれは多岐に渡って日常に浸透しているものばかりです。 情報、テレビ、テレビゲーム、一部の音楽、パソコン、携帯、騒音、自動車の震動…等々、普通に生活していたら目にするもの耳にするものばかりです。 テレビで洗脳を受けてしまっている人に、テレビを見ない方がいいよ…と言っても受け入れてもらえないのが当然でしたね…(苦笑) ある宗教に洗脳されてしまった人に、そこの宗教から抜けなさいと説得しても火に油を注ぐようなもの、それと一緒です。 その先脳から離れるには、やはり、心を開いて違いを知るしかないのです…。 神のみ心からの言葉は、直感を通してか、自らの力で気持ちを切り替えチャンスと捉えようとしたときなどでしか現われることができなかったのですね…。 今、地球上で浄化されている出来事を見れば、地球上の世界がいかに浄化されているのかを理解することができると思います。 これから、もっと大もとの所が隅々まで浄化されていき、神の支配権が復活することになると思われます。 ところが、今は暗黒勢力でさえも、「もう…そろそろ気づいてくれよ〜!」という気持ちで仕事をしているそうです…。 最終的には、段階が訪れれば、その存在たちも手を引くのですが…。 それでも気づけない人々がいるので、そうゆう人たちの為に三次元の地球そっくりな星が既に用意されているそうですから、それもストーリーの一部のようです。 だから、周りのなんの気づきもなく今までとおり生きている人を基準に考えてはいけないです。 そのためには、一人一人が、神の声を聞けるようにようにならないといけないのです。 それは何度も言っているとおり、特別な能力のある人だけが可能なものではありません。誰でもが聞こうと思えば、聞けるものです。 だって、それは、自分の内なる声(心枝)を通して現れるのですから…。 それぞれのコト(言)のハ(葉)はあれど、ミコト(実言)は一つと知らしてあろうがな。 と「ひふみ神示」には書いてあります。 変性自我の声も内なる神の声も聞きとる必要があるのです。 この地球は、善悪抱き参り進化を遂げるために作られた星だからです。 ネンと申すのは、神界からの直々であるぞ。 悪の気、断たねばネンとはならんぞ。 思想と申すのは広い意味で太神から出てゐるのであるが、幽界からの力が強くなってゐるのぢゃ。 念入れかへるぞ。念入れかへるとは、新しき霊界つくることぞ。 新しき霊界つくるとは、太神の間中にとけ入ることぞ。 「ひふみ神示」より 聞く耳をもつ…という意味は、岩戸(言答)が開いたから、きちんと聞きわけなさいという意味なんです。 実身に知らせているのは、実言。実言が掃除をするから清められるのです…(微笑) 自分に誠実になるということは、自分の言と成り実る。ということです。 自分自身に誠実になるほどに、理(みち)は開けていきます…。 情報の多さとは、周波数の高さを示しているそうです…。 真実の情報とは、心が開かれた人が受け取れるものであり、判断を下そうとせず、疑いなく、不信感なく、ただ知ることができれば、それは、周波数が高い領域の情報であるがゆえに、自分の周波数をも高めてくれることになるのだと思います。 本を読んだだけでも自分の周波数に影響が出る場合があるのは、このためです…。 疑い、不信感、価値判断などで情報をはかりにかけることは、その時点で、地球上でしか通用しない限定された情報のみでいいということの意志表示になってしまいます。 高い知識や情報を受けとっても撥ね退けてしまっていることになります。 信じる必要はありませんし、無理に理解しようとする必要もありませんし、とりあえずは、知ったのですから受け取るだけで十分なのです。 知って受け入れると、それは、その人の必要性や段階に応じて生かされていくものなのだと思います。 今はまだ、嘘も虚偽も偽善も誤魔化しも落とし穴も、いっぱい潜んでいるかも知れません。 それに一度騙されてこそ、本物が分かるということもありますが、とにかく、自分にいま必要なものだけが常に知り受け取ることができている…と信じること、それだけでいいのだと思います。 なぜ情報が周波数の高さをもつか…というと、情報が宇宙をつくっているといえるからだと思います。 宇宙の高い意識からの情報というのは、疑い、不審、判断、否定を一切必要としない…ということです。素直に心を開いて受け入れるが一番ということです。 それは、心で感じる情報なのです…。感じるとは、神じるです…(微笑) 始めてその言葉や情報を目にしたとき、耳にしたときの瞬間の自分の感じ方を大切にすることです。それは、自分の内なる神の反応だからです。 誰が言ったことだから信頼できる、誰が言ったことだから受け入れたくない…という基準を超えて、情報のみに心を開き耳を傾けることが大切です。必ず、何かを感じ取っているのですから、それを知るだけでいいのです。 言葉には限界がありますが、言葉は、みんなの心を一つにする力を秘めています。 地球上で、人間は、一生懸命、言の葉を育ててきたからです。 そして、日本は、言霊の幸はう国です。 言霊は、心に響きます。響くのですから共鳴します…。 共鳴するのですから、心も体も何かを感じ取ります。でも、それは言葉で表現したことのない始めての感覚ですから、それは言葉では表現できません…。 そうした感じを受け取ったら、それは心と体に響いているのだと思ってみてください。 真実は、地上の理屈の通らないものなのが多いのですから、それはやはり、心で感じ取るものなのです…。 タバコぐらいは…、テレビ見ないなんて信じられない…、ニュースが気になる…、 だって子供が…、だって主人が…、だって肉も魚も食べないで何食べたらいいの…、だって仕事に行かなきゃ生活が…、だってだって…、なんて言ってる場合じゃないのです。 まずは、どうしてそんなに制限されることの方を好んでしまうか?…ということなんです。 いわゆる精神世界、スピリチュアルな世界では今、五次元へ上昇、2012年12月23日に向けてという内容一色になっています。 でも、この業界を引っ張っていっている方々が、これは精神世界の十年に一度のお祭りですよ!だから参加しましょう!…といっています。 私もホントにそう思います。 このままでは、遅かれ早かれ地球と地球人類の末路は見えていると思います。 だったら、地球と地球人の次元上昇!という進化物語を皆で盛り上げていこう!というくらいの気持ちでいいんじゃないか…と思うのです。 日本のお祭りは、イキイキとしていて威勢があるます。阿波踊や盆踊りのように、みんなで一斉に同じ波(ウェーブ)を作ってしまえます…。 8.痛みよサヨウナラ… 私たちは、人の痛みを知るために、ここ地球へ降りてきたといってもいいかも知れません。 自分が痛みを味わい、人の痛みも自分の痛みとして感じるようになったときに、本当の優しさ、温もり、いたわり、慈しみ、という感情を知ります。 おそらく、ここ地球以外のところでは、痛みを知らないのかも知れません。 そうでなければ、地球をつくる意味がなかったのだと思えるようになったからです…。 宇宙とは、やはり、すべてが喜びだということだと思います。 以前にも書いたように、人を傷つけるのが喜びの人もいれば、自分が傷つくことに喜びを感じる人もいますし、奉仕することを喜びとする人もいれば、支配することを喜びとする存在もいます…とにかく、喜びも多様だと考えてみる必要があると思います。 痛みを知らないがゆえに、一見、地球上の人間からすると冷酷な面があるということもいえるかも知れません。 地球上でも、人々のため、医学進歩のため、マウスに癌細胞を移植させて実験できるのと同じで、人間を含めたすべての地球上の生命体も研究のため、宇宙の更なる進化のための場として、地球を作った可能性があると考えるのもありかなと思うのです…。 ところが、地球上は、物質的な世界であるために、本当の痛みを知るので、深い慈しみと感謝が育ちました。 そんな一部の人間を見て、痛みを知らない存在は驚いたのかも知れません…。 地球人類が宇宙で一番進化しているという誤解さえ解ければ、限りなく真実へ近づいていけると思います。でも、地球の人間が宇宙の中で、一番可能性を秘めているという考えは正しいようですが…。 宇宙は、喜びがすべてであるために、痛みは、宇宙の中では、特殊な変質性です。 物質的身体でなければ、痛みを味わい実感することはできません。 痛みを伴うために、非常に厳しい現実体験を心身ともに味わいます。 痛みを体験するには、善悪の二元性という対比するものがなくてはなりません。 そして、その痛みは、最終的に、人間を善と悪に分けてしまうのです。 痛みを知ったがゆえに、人に対して優しくなり慈しみの感情が生まれるか…。 痛みを知ったがゆえに、自分が苦痛を避けるため人を傷つける手段となるのか…。 こうして、今まで宇宙には存在しなかった、「痛み」という要素が、宇宙の喜びをさらに深め拡大させる役割を果たすのではないか…と考えられるようです。 「痛み」や「恐れ」から波及する思念や想念は、宇宙の中で変質した思考です。 逆からいうと、変質した思考であるために、「痛み」や「恐れ」を感じます。 それでは、結論として、いわゆる変性自我の思考が消えてしまうなら、当然、「痛み」も「恐れ」も感じることのない人間になることができます。 地球上でも、通常は、痛みを知らない人間とは、冷たい人間のことをさしていたように、宇宙でも、痛みを知らないということは、冷たさにつながっていたとしたら…。 地球上で、一旦、痛みを味わい体験し、痛みを知った上で痛みを手放し、深い慈愛を育てた進化した人間が誕生するわけですよね…。 また、「痛み」や「恐れ」は、まったく、思考によって生まれていたということになります。 「病は、気から…」とはいいますが、病だけではなく、ネガティブな思考全般すべてに同じことがいえたわけですね…。 昔、慢性的に痛みというものを感じるようになったとき、「痛み」って一体なんなんだろう?…とかなり長いこと考えました。 どんな風に痛いんですか?と聞かれても、痛みを正確に伝えるのって難しいですよね。 だから、主治医の先生に、痛みを正確に伝える測定器でもなければ、痛みを伝えるのは難し過ぎます…といったことがありましたが(汗)。 痛くて辛いのに、痛みが伝えられないもどかしさに、さらに悲しくなってしまう…。 結局、痛いのは「いたたたたた…(涙)」としか言いようがないし、痒いのは、痒いとしか言いようがないし…。 「痛い」とか、「痒い」とかいう言葉がなかったら、こんなの消えちゃうんじゃないのぉ? と、ヤケクソになって考えたものでした(笑)。 しかし、今思うと、これって案外あたってたのかも知れないのです…。 最近、ふと、「その痛みに帰る場所はあるのかな?…」と、気になったのです。 痛みとは、宇宙には存在しない幻であるのですから、痛みには帰る場所がありません。ただ消えるのみです…。それが痛みの宿命だと気づいたのです…。 痛みとは、ただ消えるものだったのです…。 痛みとは、ただ消えていいものだったのです…。 やはり、痛いという症状を身体から消すことよりも、「痛い」という言葉を自分の中から消せばいいだけだったのです。 意識的に消すのは難しいですから、やっぱり忘れるのが一番ということです…。 子供の頃は、痛い所があってもすぐに治っていました。それは忘れることが上手だったからです。痛いよりも、「遊びたい」「遊ぼう」という言葉の方がすぐにやって来てくれたからです。 でも、大人になるほどに、すぐ治って欲しいのに、もしかしたら治らないんじゃないか?という不安の方が強くなるのですね。だから、正直に治りにくくもなるのです。 これは、「痛い」という言葉だけじゃなく、本当はもう味わいたくないすべての言葉に同じことがいえるのだと思います。 すべては意識がどこに向いているのか…ということのようでした。 とっくの昔に、みんなそう言ってくれていたのですが、やっぱり、まだ理解できなかったんですね…(汗)。 寝ているとき痛みの多くは消えています。ある意味で、意識を失っているからですね。 起きると痛みは戻ってきます。意識も戻ってくるからです…。 起きると、あそこが痛かった昨日の自分を思い出すので、そこの部位に痛みがあるかどうか?という意識がそこへ注がれます。注意がそこへ向くということですね…。 こうして、わざわざ昨日の痛みと帳尻を合わせるように、痛みの更新をしています(汗) 朝起きたとき、もはや昨日の自分ではなく、まったく生まれ変わった自分でもいいのかも知れません…。 それでは、これを体験するのに、どんな挑戦が考えられるでしょうか…。 これが思考での挑戦です!(笑) 体の痛みも、心の痛みも、ここで地球上では、傷がついてしまいます…。 だから、いろんな防御をしてきました、心も体も気づ付かないように、痛い予防接種まで受けながら…(笑)。 でも、それが逆に、心も体も弱める結果を招いていた場合が多かったようです。 こうして、ここ地球上で、あらゆる問題が発生し発展し進化し成長してきました。 問題も進化するって本当だったんですね…(汗)。 地上に起きた数々の問題は、人間に、あらゆるすべての痛みと傷を負わせることになりました。 私たちは、本当に…今…「傷を負った戦士」なのです。 どこからともなく…「立ち上がるんだ!」…という声が響き渡っています…聞こえませんか?…(笑) そして役割を果たした「傷だらけの天使」が、愛と感謝をいっぱい抱えて不死への飛翔を遂げていきます…。 ☆☆☆☆☆ 旧約聖書の「ダニエル書」という預言書の終わりには、こう示されていました。 (ダニエル書 一二の八〜一三) 「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか?」彼は答えた。 「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの言は秘められ、封じられている。 多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟ら ないが、目覚めた人々は悟る。日ごと供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすもの が立てられてから、千二百九十日が定められている。待ち望んで千三百三十五日に至る者は、まことに幸いである。終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう」 ☆☆☆☆☆ 玉とは御(おん)魂ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中がないぞ、それでちりちりばらばらぞ。 「ひふみ神示」 ☆☆☆☆☆ この道は 中ゆく道ざ。 天が上で 地が下で 中にヽがあるのぢや 「ひふみ神示」 ☆☆☆☆☆ 今月(7月)の4日頃だったと思うのですが…。 私の住んでいる所は、山の中なので、街の中に多く見られるカラスや雀はあまり見かけません。 ところが、その日は、夜明けとともに、5,6羽のカラスが近くの木々に飛んで来て、「かぁ〜♪かぁ〜♪」と、長い時間、鳴き合っているのです。 その日の朝は、何かいつもと違う感じを受け取りました…。 考えてみれば、夜明けを知らす鳥はカラスです。 どうやら、夜明け(世開け)が近いことをカラスが知らせに来てくれたようです。 ☆☆☆☆☆ 今年は秋に主人と、私の大好きな北海道道南にある小さな海の町『上ノ国(かみのくに)』へ、また行こうと思っています。 『天ノ川』が流れていて、『神の道』と呼ばれる場所が海岸沿いにあり、『北海道夜明けの塔』という螺旋階段のある塔が建っています。 素朴な田舎町ですが、私にとって思い出深い大切な場所なんです。 あとは、以前から行ってみたかった、上ノ国から海岸線を北上した所にある大成町のシンボル・太田山の『太田神社』などを、ゆっくりと周りたいと思っています。 ずっと山で過ごしているので、やはり海が懐かしくなりますね…(微笑)。 海へ戻りたいという思いは、切なさがこみ上げてきて涙でウルウルしてきます。 涙という字は、水へ戻ると書くからでしょうか…(笑)。 人間は、なにほど海を汚してきたか知れません。 私たちの涙も悲しみと痛みで枯れ果てそうになるのもわかる気がします。 これから溢れる涙は、美しい海に戻ってもらえるよう喜びの涙にしたいと思います。 ☆☆☆☆☆ 夢から覚めるとき、目を開けた途端、日常の現実に引き戻されています。 その逆がこれから起きようとしているかも知れません…。 ある日突然、瞬きして真っ暗になったと思った次の瞬間「カチッ♪」と、今までいた日常の風景とは全く異次元の世界と入れ替わってしまっているかも?… すべてがひっくり返るのですから、夢と現実もひっくり返り、真の生命溢れる夢のような世界へと誘われていくのもありかな…と…。 その瞬間、これからはそこが確かに現実です(笑) “ そこは ただいま〜 ” 次は、黄金の輝く光の中で、皆様にお会いしたいと思います…(*^_^*) 2008年7月18日 ジコリ |
Last Update : 2008/7/21