タマのひとり言
2002年12月31日 ちょと面白い、『生と死』のお話し…。
お正月が近いことだし、ちょっとめでたい(?)話を・・・。
昔々、一休さんが、
「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし…」
と狂歌で詠ったように、正月を迎える度に人はみな一歩づつ確実に『死』に近づいていくのです。
人間は、この世に「おぎゃぁ〜」と生まれ落ちた時から既に『死』への一本道を歩き始めています。
毎分、毎秒、チクタクと刻まれていく“大きなノッポの古時計”の針に正比例して徐々に『死』が近づいてくるのです。
それはお金持ちだろうが貧乏だろうが、頭が良かろうが悪かろうが、イイ人だろうが悪い人だろうが、みな平等に遂行されている宇宙の法則なのですネ。
「こればっかりは誰も逃げ様がない・・・。」
それが分かっているのなら、何も今さら恐がり、気にすることはないじゃないですか・・・。
気にしても気にしなくても、必ず死はみなに平等に訪れるのですから・・・。
同じ死ぬなら、気にしない方が気楽に生きられるというものですよネ。(笑)
しかし人は、そのことを頭では分かっているのに何故か『死』というものを特別視し恐れます。
それは自己という意識がなくなるから、それまでのキャリアや体験が無に帰するから・・・。
それも有るでしょうし、築いてきた財産や残して行く家族への憐憫の想いもあることでしょう・・・。
体験もしたこともない『死の影』に怯えているのです。
それじゃぁ『死』ってなんでしょうか?
「・・・・・・・・・・・・?」
そうです。
体験がないから分からないんです。本当のところはネ!ひょっとしたら死後の世界があって、花が咲き乱れ、小鳥が舞い踊るという案外いい所かもしれないし、ご想像どおりに暗黒で光のない『無の世界』なのかもしれません。でも所詮それは私たちには分からないのです。
それなのに、死にもしないうちから死ぬことを気に病んでいるなんて無駄だとは思いませんか?
実はみなさんは毎日死んでいるのですヨ・・・。(笑)
死とは目の覚めない眠り、つまりは『永遠の眠り』です。
でもその状態というのは、何も知らずによく『眠っている時』となんら変わりがないのです。
と言うことは、毎晩死んでいるということと同じではありませんか・・・?
ただ『永遠の眠り』と『毎晩の眠り』の唯一の違いは、毎晩の眠りには命が有るが、永遠の眠りには命が無いということかな?
でもその命が有る、無い、という判断を下しているのは誰なのでしょうか?
眠っている本人は、前後も知らずに正体不明で眠っている訳ですから、
“この眠りは命が有る眠りだ、この眠りには命が無いんだ…”
とは判断できないですよネ。
もし本人に判断できるとしたら、それは眠っていないことになっちゃいますからネ。
その違いを知るのは本人以外のそれを見ている周囲の人たちということになります。
眠っている本人では決してありませんよネ。
とすれば、本当に死ぬのが恐ろしいならば、毎晩眠りにつくのだって本当は恐ろしいはずではありませんか?
しかし、人は寝ることは恐れません。
むしろ毎夜布団に入るのを楽しみにしているくらいですからネ。(笑)
厳密には、眠ることと死ぬことは結局は同じことなのかもしれませんよネ。
毎晩寝ることで、死ぬことの予行演習をしているのかもしれません…。(微笑)
「そんなこと言っても永遠の眠りは時間が長いけれど、毎晩の眠りは時間が短いし毎朝目覚めるから…」
と反論される方もいらっしゃるでしょう。
しかし、毎朝目覚めるという保障は何処にもないのです。
そして眠りの中には、長いとか短いという時間の流れというものは存在しないのです。
「あぁ〜昨日は良く寝たなぁ〜」とか言ってるのは、本人が目覚めた後にいう言葉であって、肉体が感覚を取り戻し、心が働きだしてから初めて感じられることでしょ・・・。
目覚めなければ、本人にとっては時間など関係のないことなのです。
目覚めて意識のある人には常に時の流れがありますが、眠りの中にいる人にはそれが無いのです。
眠りというものの中に時の流れが関係ないとすれば、一夜の眠りであろうと、永遠の眠りであろうと、それらの眠りには違いがないのと同じでしょ・・・?
そして人は、毎晩寝るのと同じように、毎朝起きるのです。
と言うことは、毎晩死んで、毎朝生き返っているのと同じことですよネ。(笑)
どうせ逃れられない宇宙の法則・・・。
それならば『死』というものに目を向け恐れながら生きて行くよりも、『生』に目を向けて生きた方が幸せだとは思いませんか・・・。
今、この瞬間を現に生きていることに感謝し、人生を明るく楽しく生き抜く!
これって病気の人にも言えることですよネ。
病人は自分の病気ばかりを観ています。
「あぁ〜、早く治らないかなぁ〜」
「どうして私だけが病気なの…」
ってな具合にネ・・・。
しかし病気ばかり気にしていては、病気は一向に治ってはくれません。
それは何故か?それはネ、常に“自分は病人だ”と言い続けているのからなのです・・・。
病人とは病気の人という意味でしょ。
まさにその字の通りに肉体だけではなく、『氣』まで『病んで』いるからなのです。
今現在、自分が『身も心も』病んでいると思っていては病気は遠ざかってはくれないのです。
自分の中から病気という言葉から無くしていかなくては、実は病気は遠ざかってはくれないのです。
病んでいるのは身体でしょ、心の器としての肉体でしょ・・・。身体が病気だからといって、なにも心まで病気になる必要はないのですヨ!!
どうしてもっと楽しいことに目を向けようとはしないのでしょうか?
全ては心の持ちようなのに・・・。
ここに自分の足りないところばかりを観ている人がいるとします。
その人があることを切っ掛けに豊になったとしますよネ。
でも、その人は常に自分の足りないところしか観ていないから、例え豊になった現在でも足りないところしか目に入ってこないのです。
そしていつも「足りない、足りない」と愚痴をこぼし続けます。
されって淋しい人生ですよネ。
逆に、楽しいことを常に観ている人は、例え自分が逆境にあっても楽しいことにしか目を向けていないから自分をチットモ不幸だとは感じない・・・。
幸不幸とは、全て心の持ちようなのではないでしょうか?
どうせ何時かみなさんも平等に死んで行くのです。
さぁっ、あなたは来年どちらの人生を選択しますか???『生と死』とは、毎朝起きて、毎晩眠るようなものなのです。
「心の持ちようしだいでは、あなたは世界で一番幸せな人生を歩むこともできるのですヨ」
という“ちょっとめでたい(?)”お話しでした。(笑)
今年もみなさんにお世話になりました。
人は一人では生きてはいけません。
誰かと関わることで、喜びや悲しみ、安心や不安、怒りや感激、幸不幸等を体験し、
そして生きていることを実感し成長させられるのです。
今年私に関わった全ての方々が、私にとっては人生の良き先生でした。
その1年もあと少しで終わろうとしています。
そして明日もまた同じように東から太陽が昇ります。
人間は、現在しか生きられません。人間は、『今この瞬間』しか生きられないのです。
今この瞬間を楽しく、そして明るく笑って生きましょうネ。
“きのうは 今日のほんの思い出。
そして 明日は 今日の夢。 ”
−カリル・ギブランー
来年も、よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
2002年12月31日(火)自宅にて 玉川 芳伸
Last Update : 2002/12/31