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                         タマのひとり言

  H16年10月17日  

            【奇跡・軌跡・キセキ…】

私は『遠隔専門調整師』などという変わったことを仕事にしていますが、、、
いつも不思議に思うことがあるのです。

それは、どうして私に依頼がくるのか…? ということなのです。
別にコレといって営業をするわけでもないし、、、
看板も出さなければ、チラシも配らない、、、
ましてや店を構えて開業しているわけでもありません。

そして、「エネルギーで心身の調整をおこなう」というだけでも信じがたく怪しい世界なのに、、依頼者に会いもしなければ、顔も知らない、ましてや地球上何処に住んでいても大丈夫などという、、、
曖昧さでは更にその上をいく、この遠隔トリートメントというつかみどころの無い調整法…。

きっと依頼され、実際に遠トリを受けられた方々も、知人、友人等に勧めにくいのでしょうか…、口コミで依頼者が広がるということもございません。
せいぜい、依頼された方のお身内どまりが限度なのです。
それも当の本人には内緒で、、、というケースがほとんどなのではないでしょうか…。

しかし、それすらも、最近では「○○さんの紹介で、、、」と、
まったく思いもよらないところからご依頼を受けるというケースもチラホラと増えてまいりました。
私にとっては、これこそがまさに『奇跡』なのです。

この世に偶然は無い、、、
縁無き人とは出会わない、、、
と常日ごろ思っている私にとっては、このことこそ『奇跡』に等しいのです。
ご依頼をいただいた時点で私には既に『奇跡』が起きているのです。

依頼者のみなさんの中には私に奇跡を求める方もいらっしゃいますが、、、
その当のご本人が私に奇跡を運んでくれているのです。

「奇跡とは、それを信じる者の上にもたらされる…」とか申しますが、
私は遠トリ依頼という形で、こんなにもみなさんから奇跡をいただいているのですから、、、
これはもう奇跡を信じざるえないわけですよネ…。(微笑)

ということは、、、
「奇跡を信じている私がおこなう遠トリには、奇跡が起きるのでは…」
ということにつながってくるのかもしれません。


しかし、よく考えてみてください。
みなさんが望まれる『奇跡』と呼んでいるものが、空を飛んだり、水上を歩いたり、寿命を延ばしたり、、、
ましてや死者を蘇らせたりというような突拍子もないことを示しているのならば、、、
それは私にも出来ません…。

たとえば150円持って自販機の缶コーヒー(120円)を買いにいったとします。
そして自販機に150円を入れて、ボタンを押して、「チャラン」という釣り銭の音で硬貨取り出し口に指を入れてみると
きっとこの前に買った人が取り忘れたのでしょうか、10円多い40円の硬貨が自分の手の中に取り出せたのです。

または散歩している時に信号待ちで、なんの気なしに「ふっ」と足元を見ると、そこには10円玉が落ちていました。
その10円を自らの手の中に拾いあげた時、、、。

そんな時に、それを、
「あっ、ラッキー! 今日はついてる(笑)と喜べる気持ちがあれば、、、」
それも奇跡だと感謝できるならば、また奇跡は起きるのです。

この「小さなラッキー」を喜ぶ気持ちが、次にはもう少し「大きなラッキー」を呼び込むのではないでしょうか、、、。


もしこの世に『神』と言うものが存在しているのならば、『神』は一秒たりとも途絶えることなく私たちを観察しているはずです。
そしてこのような場面に遭遇した時に、その小さな幸運を「ラッキー」を喜んでいるところもちゃんと観ているはずなのです。

神には『善悪』の区別も、『好き嫌い』の区別もないのです。
神は『全肯定』として存在しているだけなのです、、、。


ある友人がこんなことを語ってくれたのを思い出しました。
「神さまってね、実はいつもみんなに『お陰』をあげたいと思っているんだよ。
そしていつも、誰にどんな『お蔭』をあげようかと探しているんだよ。」


もしそうならば、その小さな幸運を喜んでいる人を観たら、
「あっ、この人は喜ぶのが好きなんだ。それではもっと喜ばせてあげよう!」
と思うかもしれません。

それとは逆に、いつも小さな事に愚痴ばかり言っている人を観ると、
「あぁなるほど。この人は愚痴るのが好きなんだ。それならば、、、」
と、もっと大きな愚痴る材料を与えられるのではないでしょうか

小さな幸運を、「ラッキー」と喜べる気持ちを持ちたいですよネ。
そして小さな「ラッキー」を「奇跡」だと喜びたいものです
「ささやかな幸運」、そして「ちいさなラッキー」を奇跡と気づき喜んでもらえるのならば、
それはひょっとしたら起きるのかもしれないですよネ。


先日、遠トリをおこなった友人からこのようなことを聞かされました。
その友人は、首の右側が慢性的に硬縮し、随分と長い間苦しんでおりました。
「この首の痛みやダルさを取り除けるのならば、もし自分が1億円持っていたら、全額支払ってもかまわない…」
と、そのようにいつも思っていたそうです。

そして先日、遠トリをおこないました。
その翌日、家で掃除をしている最中に、「ふっ」と身体がいつになく軽いことに気がついたのだそうです。

不思議に思って、首を「ぐるっ」回してみると、、、、
いつもより少し楽なような気はするが、やはり以前とたいして変わってはいない…。
しかし、「この少し楽になるということが、こんなにも全身を、そして心までも軽くするのか…」と気がついたと言うのです。

最初は、やはり完全に良くしてもらえると思っていたそうです。
「明日になれば、この痛みが無くなっているかもしれない」と…。
しかし完全ではなくても、少し楽になるだけで、こんなにも肉体は全身で喜んでいるのを感じるというのです。

そしてそれは、これまで自分が気に病んでいた首が楽になることから感じたのではなく、、、
全身が先に楽になったことで、首のいつもとは違う楽さを感じることが出来た…。
これが、ひょっとしたら自らを回復に向かわせる兆しのようなものではないのか…と、、、

この話を聞かされて、私は「ハっ」と気がついたのです。
以前、ある調整師の友人が私にこんなことを語ってくれました。
「玉川さん、病気は本人が気づけば治るんですよ」
と・・・。


調整師のみなさんは、おそらく肉体の病等を回復・完治させるために、
あるいは悩みを完全に解消させるために日夜研鑽努力されていることと思います。

しかし私は、、、
私が病気を治したりはしていないと「ずっと」思っていました。

そんな大それたことが私に出来るはずがないと…。

病気を治すのは実は依頼者ご自身であり、
私はそのお手伝いをさせていただいているだけ、
あるいは、何かの橋渡しをしているだけなのではないかと感じていました…。

言い換えれば意識レベルでの変革を、、、
私はそのための「きっかけ」のような役割に過ぎないのではないかと…。

だから依頼者の方に、
「これこれ、こんな病気なのですが、治りますか…?」
と尋ねられても、いつも私はこのようにお返事していたのです。

「やってみなければわかりません。
実際にやらせていただかなければ、私にもわからないとしか申し上げようがないのです」
と、、、。

そんな私なのに…。
それでも依頼をいただける、、、。
これを『奇跡』と呼ばずして、なんと呼べばよいのでしょうか…。

「奇跡とは、それを信じる者の上にもたらされる…」
しかしその奇跡とは前述しましたように、ほんの小さなラッキーの積み重ねなのかもしれませんネ。

そのささやかな積み重ねを喜べる方にとっては、常に奇跡は起きるのではないでしょうか…。

奇跡が常に起き続けていることに気がつけば、もはや『奇跡』という言葉は必要なくなります。
『奇跡』ということばに依存しなくなるのです。
常に『奇跡』の中に居続ければ、奇跡と同化して奇跡を感じなくなります。

奇跡を、どんなものだと自分は捉えているのかということに気づくことが大切なのです。

小さな、些細なことも奇跡だと捉えることが出来れば、、、
奇跡は、常に起こっていると感じることが出来るようになります。
そうしているうちに、、、
良いことも、一見、嫌な出来事も、奇跡と感じて応じることが出来るようになります。
それは、奇跡の中に常に生きるということになります。
もはや、奇跡は、もう、その人には必要なくなるのです。

こうなると結果的に、、、
奇跡を意識しない奇跡の中に生きてしまえるということになります。
それは、自然の流れの中で生きているということになるのです。

そもそも人間という生き物は、、、
得てして、自分を構え守ろうとするあまりに余計な壁を作り、
何か大きな期待があり過ぎる余りに、道に大きな石を、自らが置き、躓き、、、
このように、自分の本来の人生を自然にスムーズに歩めない人が多いのです。

しかし最終的に、
『奇跡を意識しない奇跡の中に生きてしまえることができた時』

自分本来の歩いて来た『軌跡』、、、
これから歩くであろう『軌跡』、、、
その中に身を置くことが出来るのだと思います。

ただ、身を置くことができるようになるのです。

わたしは、『キセキ』とは、そういうことだと思うのです。




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Last Update : 2004/10/17