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                         タマのひとり言

2004年10月24日  

昨日、今日と、新潟県でおきている地震について友人と電話で話し合いました。
そして下記のようなことに気がついたのです。

その話を書かせていただきます。

この話を書き始める前に、、、

今回の地震で被災された大勢のみなさまに心からお見舞いを申し上げるとともに、
お亡くなりになられた方々のご冥福を心から祈っております。


【快と苦・・・】

みなさんは昨夜から今日にかけて、そして現在も余震がつづく報道をどのような意識をもって観ていられるのでしょうか?

ここでは、少し違う視点で話を捉えてみることにします、、、。

みなさんは、TVの2時間もののサスペンスドラマなどを観ることはありませんか?
あの手の番組は、必ず、誰かが殺されますよネ。
そして、「犯人が誰か?」などと観ながら推理するのが視聴者は面白いのだと思います。

しかし、いくらドラマとはいえ、必ず殺人が起きるドラマを見て面白いと思うのは、、、。
その心理状態をわたしたちはどのように理解すればよいのでしょうか?

仮想にしろ、空想にしろ、殺人とは、そうそう起きては困るものですよネ。

それが、頻繁にドラマになっている。
まして、それが娯楽だという、、、。
おかしくないですか? この世の中?

私が、たまたま、そういう番組を観たとします。
報道でもかまいません。
悲惨な状況を観たとします。

しかし、やはりそれはそれなりに、心の何処かでは「興味津々」で観てしまっている自分が存在していることに気がつくのです…。

どこかに、悲惨な人々を観ることで、
「あれぇ〜! 大変だ〜! かわいそぅ…」
などと、思いながら観てはいますが、、、

心の中では、ほんの少しだけ、それらを見る側の立場であることに『快』を感じているのではないでしょうか…?

悲惨な場面というのは、ある意味、刺激的なものです。
そして人は、そのような残酷なドラマや映画や、ホラーなど、刺激のあるものを好むものなのだと思います。

たとえばそれを、自分の立場として置き換えてみたとしても、それが想像でしかない場合は、それらは十分に、刺激的であり、ぞくぞくするものなのではないでしょうか…?

そのような類の番組や場面、本でもかまいません。
自分が見ている時、読んでいる時に、
そういう刺激を『快』として受け取っている自分に気がついたことはありませんか?

今日話し合った友人と共に、、、
たしかにそういう自分が存在していると認めることが出来ましたので、
努めて、なるべく自分からは遠ざけるように心掛けています。

誰でも、自分や、本当に身近な人が災難に関っていない限り、
そういう惨劇を、心から同じ気持ちで味わい、観ることなんて出来ないのではないでしょうか…?とうてい私には出来そうもありません…。

だから、こんな自分では、、、
その惨劇の真っ只中にいる人々の邪魔になることはあっても、
決して助けになどならないと思いますので、、、。
最初の報道をある程度見知ってからは、その後はなるべく観ないようにしているのです。

どんな時でも、出来るだけ自分と向き合い、自分自身を観察するという作業をつづけていると、知りたくない自分も、沢山知ってしまいます。

しかし、このことに気づいたら、違うことを『快』にする意識の方向を持てるのです。

ですから、きれい事を言っているのではなくて、、、
自分の真実に基づいて書いているのですが、、、。

そうは申しましても、、、
やはり、きれい事だとしか受け止めてはもらえないですけどネ…。

自分が、どんな娯楽を必要としているのか、、、?
自分の『快』を見極める、一つの目安になるのだと思います。

おそらく殆どの人が、実際に被災地に知人や身内がいる場合や、被災地そのものに暮らしている人々を除いては、ただの興味本位で報道を観ているのではないかと思うのです…。
言葉は悪いですが、それはある意味では『野次馬』ですよネ…。

しかし、ただの興味本位で見ているくらいなら、まだいいのです。

もしも、心の奥底で、本人も気づいていないけど、、
それらの状況を傍観することを『快』とする自分がいたとします。

このような報道、ニュースは、多くの人達が見ています。
多くの人達が、その悲惨な状況を見る側であることをいいことに『快』としているとしたら、
どうでしょうか?

集団で、それらの悲惨な天災を『快』としているということになります。

何を言いたいかと申しますと、、、
昨今の、日本全国を縦断する台風、地震、などの天災は、、
私たちが、望んでいるとまでは申しませんが、、、
気づかないうちに呼び込んでしまっている可能性もあるのではないでしょうか…?

上記のような野次馬的な『快』の意識が、数多くの天災を引き起こしているのかもしれないのです。
そしてそれは、私たちの個人個人の『意識』なのです…。

これが、『集団意識』になると、強力な破壊力を持った意識になってしまいます。

自分がその被災地に置かれた立場であったなら、とても冷静ではいられません。
たとえ怪我や何もなかったとしても、命が縮まるくらいの打撃を受けます。

それでも、自分とは遠く離れた人々のことになると、それとは全く違った観る側の立場として、、『快』にすらしてしまえるのが人間なのではないでしょうか…。

自分には『低次の意識』があるということに、
そういうことを『快』にしてしまう自分の心があるということに、
はやく人間が気づかないと、、、
いつまでも人は、悲惨な報道や番組を見続けてしまうのではないでしょうか…。

それが、また、大きな天災を引き起こします。

天災には逆らえない、天災だから、どうしようもないんじゃない、、、。
それを受け止める意識、
その被災地の状況を見つめる意識、、
それによって、この、
「本当に日本は沈没するんじゃないか?」
と思えてしまうような天災の連続を、
また、更に引き起こし続けるのか、
それとも止めることができるのか、、
私たち自身の問題だということになります。

ここまで、続いて起きている天災の連続する中でなら、、
みんなが今、真剣に考えることが出来るのではないでしょうか?

「本当に、どうしちゃったんだろう?」
「本当に、日本は危ないんじゃないか?」
と、誰しも真剣に思い始めていると思います。

今、みんなが、自分の心、意識というものと真剣に向き合わないと、、、
私たちは、『低次の快』ゆえに、没してしまう…。

逆に、「日本沈没など無い!」とは言い切れなくなるのではないでしょうか…。


この私のHPをご訪問、そしてご覧くださる方々は、、、
多少なりともエネルギーの世界(見えない世界)に興味をお持ちの方々だと思っておりますので、、、。
最後に、シュタイナーがこのような言葉を残しております、、、。

よろしければご参考くださいませ。

「・・・中略・・・
 彼らは快楽と苦痛を乗り越えました。
 人間を無常・感覚・日常に結び付けるものを乗り越えたのです。
 こうして、人間はどんな状況においても精神の特性について知るのではない、
 ということが述べられています。
 自分を日常に結び付けるものを越え出たとき、
 日常の印象に由来する快と苦を越え出たとき、
 精神の特性について知ることができるのです。
 日常的なものは沈黙します。
 普通なら悲しみを引き起こす出来事が悲嘆を呼び起こさず、
 普通なら喜びを引き起こすものがもはや歓喜を呼び起こしません。
 このような祝祭的な瞬間に、精神の特性について知ることができます。
 そのような瞬間に人間は最高の心理に敏感になります。」

他のところには、このようにも書かれています。

「人間の意識のなかに入ってくるものは、心魂のいとなみの表面にすぎない。
 と私たちは言うことができます。
 しかし、正しい方法を用いれば、人間の生活の表面を通して心魂の核にまで
 突き進めます。
 人間は、心魂の深みに突き進むと、同時に、宇宙のいとなみを展望できます。」

「ただ人間は、隠れた内部を自分で見出さねばなりません」

「自分自身を謎として把握する勇気を持ち、心魂を知覚の道具へと高めようと
 努めると、宇宙の霊性のなかでも大きな謎が解かれ、満足と人生の確かさに
 至るという希望と核心を持つことができます」

というように、、
自分の隠れた心魂のいとなみに深く下っていくことは、
宇宙の隠れた謎の解明へと繋がるということですよネ、、、。

自分の見えない隠れた心、意識、思考、感情の深みに勇気を持って取り組もうとしなければ、見えないエネルギーの世界や宇宙の隠れた構造に取り組むことなど出来ないのです。

自分の見えない隠れた深みにある心、意識などの中に、
見えないエネルギーの世界、宇宙の隠れた摂理、叡智などは開示されるからです。

表面的な自分に留まらず、
自分の見えなくても、いとなまれている隠れた心や意識にまで下っていき、
それらに気づこうとしない人は、
見えない世界が開示してくれるものに気づくこともできないのです。

自分をさておいて、見えない世界だけを知ろうというのは都合のいい話ではありませんか?
自分の表面しか知らない人は、
見えない世界の表面しか知ることができないのです。

ですから、他人はどうあれ、まずは、自分が本当は何を『快と苦』としているのか、、?
そのことを知るために、
隠された深みでいとなまれている自分の心や意識にまで下りて向き合い、
そのことに気づくことが、今、とても大切なことのように思えたのです

昨日・今日と、今回の地震で被災されている方々が大勢いる真っ只中に、
このようなことを書いてもよいものなのか、、、?
正直に申しまして、そうとう躊躇いたしました…。

冒頭で述べましたように、お見舞いと御悔みだけで済ませた方が、ただの第三者、傍観者として済ませた方が無難であろうということは百も承知してはいるのです…。

現在もまだ揺れる大地に恐怖し、倒壊しそうな家を心配し、行方不明のご家族や友を心配し、またその死を、寒い避難所で悲しんでいる、、、そんな最中に…。

しかし、今だからこそ、あえて、このようなことを伝えたいと思ったのです。
エネルギーに関わって生きている私の魂がそう叫んでいるのです…。(礼)





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Last Update : 2004/10/24