瀬戸内海最大の海難事故

大惨事が168人の幼い命を奪った。

1955年(昭和30年)5月11日午前6時56分、濃霧の瀬戸内海、女木島西方約2.2キロの海上で
国鉄連絡船紫雲丸と第3宇高丸が衝突、紫雲丸は乗客781人を乗せて数分後に沈没した。
修学旅行中の児童・生徒を含む168人が死亡、222人の負傷者が出た。

昭和30年7月、引き揚げられた紫雲丸

紫雲丸は悲劇を背負った船だった。
昭和22年7月に国鉄連絡船として就航。昭和25年3月、宇野沖の荒神島南方で僚船鷲羽丸と衝突、沈没。
乗組員72人のうち7人が死亡。
同年の7月に再び宇高航路に復帰。事故を教訓に船内無線電話やレーダー、ジャイロコンパスを搭載した。
30年5月女木島沖で第3宇高丸と衝突し再び沈没。
同年7月に浮揚して大幅改造の後、船名を瀬戸丸と改名。
11月に三度目の宇高航路就航を果たし、昭和41年の終航まで多くの乗客の足となった。

勇姿の瀬戸丸。

事故当時、紫雲丸は第3宇高丸の霧中信号の長音汽笛を船首方向に聞いたため、長音汽笛1回を吹鳴して応答。
双方が互いの存在を把握したが、直後に両船長が下した判断は全く反対だった。
宇高航路は全域を通じ狭い水道であり、「左舷対左舷の行き違い」が航行の原則である。
第3宇高丸の船長はこの原則に従った。一方、紫雲丸の船長は当時の慣例で、女木島付近の海上では連絡船同士が「右舷対右舷での航行」であったため、この慣例に従った。
この判断の相異により、お互いの存在を把握した数分後に、轟音と共に紫雲丸の右舷に第3宇高丸の船首が食い込み見る見るうちに紫雲丸は沈没した。