第73話.わらべ唄「かごめかごめ」

鬼遊びの一種として知られている「かごめかごめ」は関東地方を中心に殆ど全国に分布しており、歌詞も曲節も大同小異だと下記の本に紹介されています。
 歌詞
  かアーごめかごめ かアーごの中の鳥は
  いついつ出やる 夜明けの晩に
  鶴と亀とすウーべった
  「うしろの正面だアーれ」(千葉)
この唄は私もよく知っています。
によると「お月さん幾つ」と共に江戸時代から愛唱されたもので、古調は行智の『童謡集』にも、『かアごめかごめ、かアーごのなかの鳥は、いついつでやる、夜あけのばんに、つるつるつっぺった、なべのなべのそこぬいてーたーもれ。』と書いてあるそうです。
最初の「かアーごめ」はもっと身を屈めよ、即ちしゃがめという意味であったのが、鳥のカモメのように改作して「籠の中の鳥は」と言い、籠だからいつ出るのかと問の形をとり、「夜明けの晩」などというあいまいな語(夜あけ方のまだ暗い時分でしょう)を使って、しまいに「つるつるつっぺった」から「鶴と亀とすウべった」に転訛してしまったということです。
「いつかの晩に、羽根が生えたらバータバタ、足が生えたらチョーコチョコ」(岡山)というのもあれば、「四日の晩に」(山口)、「やみ夜の晩に、杖ついてつっぱった}(徳島)などとも歌うそうです。
「鶴と亀と滑った」と唄っていた私は、ああそうだったのかと一部納得できました。
いずれにしても、あまり理屈っぽく考えないほうがいいようで、これが日本的文化なのかもしれません。

  浅野建二著 「新講わらべ唄風土記」を参考にしました。(1998.1.30.記)















第74話.わらべ唄「一匁のい助さん」

私の小学校の頃よく聞いた唄です。
下記の本によれば、広島市内でよく歌われる手毬唄「一匁の一助(いすけ)さん」はリズム本位の唄で、北から南まで殆ど全国共通の唄になっているそうです。
通常、一匁から十匁まで続けるのだそうです。
 歌詞
  一匁の一助(いすけ)さん 一(い)の字が嫌いで
  一万一千一百(いっぴゃく)石(こく) 一斗一斗一斗まの
  お倉に納めて 二匁に渡(わアた)した
  二匁の二助(にいすけ)さん 二の字が嫌いで
  二万二千二百石 二斗二斗二斗まの
   お倉に納めて 三匁に渡した (広島)
   ・・・・・・・・・・・・・
但し地方により転訛も甚だしいそうです。
○一匁の市助(いちすけ)さん、いの字が開いて、一万一千一百億一といといとまめ、お蔵に収めて二匁に渡した。(宮城)
○一匁のい助さん、いの字が嫌いで、一万一千一百石、いといといとらの、お札を納めて二匁に代わって通りゃんせ。(三重)
○一匁の一助さんな、お墓にごめんな、一万一千一百石一斗一升一合まで、お墓に納めて二匁に渡した。(宮崎)
私は広島県呉市に住んでいましたから、(広島)の歌詞だったと思いますが、「一斗一斗一斗まの」を「一斗一斗一斗まめ」といっていたような気がします。
地方によって歌詞が変わるというのは、ラジオ、テレビの普及していなかった頃では、当然なことでしょう。これもあまり意味を詮索してはいけないのでしょう。

  浅野建二著 「新講わらべ唄風土記」を参考にしました。(1998.2.6.記)





















第75話.わらべ唄「さよなら三角」

子どもの頃、学校の帰り友達と別れるとき、この唄を歌った覚えがあります。
下記の本によれば新潟や東北各地では最近までこの唄が歌われたということです。
 歌詞
さよなら三角、またきて四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いは兎、兎ははねる、はねるはノミ、ノミは赤い・・・・・(この先は書いてありませんし、私も知りません)
この唄は尻取り文句形式になっており、「わらべ唄」にはよく見られる形式だそうです。何となく懐かしくて、ご紹介いたしました。

 浅野建二著 「新講わらべ唄風土記」を参考にしました。(1998.2.6.記)























第76話.茅の輪とチマキ

去年の初詣出で私の家の近くにある琴平神社(麻生区王禅寺)にお参りしました。
その際「茅の輪くぐり」を初めてしました。健康、商売繁盛、祈願成就、穢(けが)れを祓うなどなどいろいろお願いごとを適えてくださる神様とか、もれ聞いておりましたが、このほど「茅の輪」のことを解説した本を見つけましたのでご紹介いたします。
本によれば、「茅の輪」の謂われは次のとうりです。
茅を束ねて大きな輪を作り、これをくぐると罪や穢(けが)れが祓われるという。
この茅の輪くぐりの由来が『備後国(びんごのくに)風土記』に記されている。北海にいた武塔神(むとうのかみ)が南海の神の娘のところへ婚(よば)いに出かけたが、日暮れになった。そこで蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦(こたん)将来という兄弟の家に宿を求めた。
兄の蘇民は貧しく、弟の巨旦は大金持ち。だが巨旦は宿を断り、蘇民は快く引き受け、貧しいながらにもてなしをした。数年後、武塔神は八柱(やはしら)の子を連れてきて恩返しをしようといい、蘇民と妻と娘の腰に茅の輪をつけさせた。
その夜、この三人を除き、巨旦らは疫病で死んだ。武塔神は『自分は速須佐能雄神(はやすさのうのかみ)だ。後世に疫病があれば蘇民将来の子孫といい、茅の輪を腰に着けよ。災厄は免れる。』と言った。
これが備後国の祇園社の由来といい、各地の社寺で「蘇民将来子孫守」の護符も出されている。武塔神は武塔天神と呼ばれ、八坂神社の祇園祭で授与されるチマキは蘇民将来の伝説による。チマキはもと茅(チガヤ)の葉で包んだのだ。
もう一つの本では、次のような紹介が書かれています。神社の起源は、すがすがしい水辺の聖地に、チガヤのごときものを束ねて作ったもではなかろうか。
チガヤとは野や低い山、道ばたに生えるイネ科の多年草で、春、ツバナという白い毛の密生した綿のような花穂を出す。神聖な植物とみられているが、中国でも霊草として扱われている。
日本の神社のシメナワは特に神聖な場所を区切って他と遮断するための縄であるが、標縄と書きシメは占有の意、タブーを意味し、またそのしるしでもある。日本のシメナワの原型がチガヤにあり、輪に結んだ形に一層原型的なものがある。
チガヤはイネそのものの生命力を代弁している。中国西南部のミャオ族は田植えの前に、村の代表が山へ行ってチガヤを5本とってきて、これを田の中の東部にさす。「チガヤを田にさして、今日はじめて田植えをします。今後イネを、この草のように丈夫に成長させて下さい」と祈る。こうして、苗を東から西へと植えていく。
これらの本を読んで、日本の水稲農耕は、豊葦原の瑞穂の国として栄え、そのルーツは中国西南部の少数民族(ミャオ族など)にあるのかなと思いをめぐらしています。

   井沢 忠夫 著「神さま仏さま知ってるつもり事典」と
   荻原秀三郎 著「日本人の原郷」を参考にしました。(1998.2.14.記)









第77話.雛祭りのルーツ

三月三日というのは江戸幕府の定めた式日の五節句(節供・季節の変わり目などを祝う日)の一つ。
正月七日(人日、じんじつ)、三月三日(上巳、じょうし)、五月五日(端午、たんご)、七月七日(七夕、しちせき、たなばた)九月九日(重陽、ちょうよう)を五節句といいました。
しかし、もともと三月三日は、上巳の祓(はらえ)といい、人形(ひとがた)に身体の穢れを移し、これを川や海に流して災厄を払い、祈る行事が宮中などで古くから行われていました。
この習俗は古代中国の陰陽道(おんようどう)から発しているといわれ、三月の第一の巳(蛇)の日に、水辺で形代(かたしろ)を流して不浄を祓う行事で、その日は酒を飲んだといいます。
これが曲水(きょくすい)の宴(流水上の酒杯が通過しない前に詩歌を作り、杯を取って飲み、後に各自の詩歌を披露する遊宴)の始まりとされています。
この上巳の祓いのときの人形(ひとがた)が、後世の玩具としての雛人形に発展したといい、江戸時代ごろから雛を飾っての雛祭りの形をとったといわれています。
神道の禊(みそぎ)、祓(はら)いという行事が陰陽道と結びつき、人形(ひとがた)での祓いが次第に形を変え、人形(にんぎょう)だけを祭り、その人形も装飾人形になり、女の子の雛祭り用となったと考えられます。
雛祭りのルーツは「穢れを払う」でした。
「参考1」
内裏様を向かって左側に配置するのは、昭和4年に人形組合が、それまで向かって右側だったのを、西洋文化の交流やら、昭和天皇のご結婚式を参考にして決めたのだそうですが、京都では今でも右側に配置する習慣が残っていて、日本では、関東と関西とで違う形が見られるとのことでした。NHKのラジオで聞きました。
「参考2」
人形(ひとがた)は「呪詛(じゅそ)」にも使われていました。呪術によって呪(のろ)う恨みの相手の魂を人形に移し、これを焼く、切る、あるいは釘を打ったり、道の角に埋めたりして、相手の不幸(呪殺)を願ったりしました。
「参考3」
禊ぎは神を祭るとき、心身を清めるために海や川の水で体を洗う。罪や汚れを除き、洗い流すという意味が込められています。一方、祓えは、神に祈って罪、汚れ、災いなどを除いて(払って)いただくことで、そのための儀式をいいます。

井沢 忠夫 著「神さま仏さま知ってるつもり事典」を参考にしました。(1998.2.27.記)








第78話.アマテラスオオミカミの性別

畏れ多いことではありますが、かねがねアマテラスオオミカミは男神様なのかどうか疑問に思っていました。それを説明してある本がありましたのでご紹介します。本の記事をそのまま載せます。
天照大御神(アマテラスオオミカミ)は古代人の太陽信仰(自然崇拝)から生まれた日神(ひのかみ)であり、万物を育む最高神。皇室の祖神として伊勢神宮に祭られている。この天照大御神には大日(おおひ)るめのむち、大日(おおひ)るめのみこと、といった別の尊称もある。「ひるめ」というのは、日(太陽)に仕える巫女(みこ)の意味である。(「むち」は尊称)
大(おお)がつくので、最高の日の巫女。つまり太陽を祭る一番尊い巫女が天照大御神ということになる。
古代は神を祭る巫女も神として敬拝された。ところで、天照大御神は女神(めがみ)とされているが、最近の学説では、そもそも太陽神は男神(おがみ)で、この男神の仕える巫女は太陽神の妻「日妻(ひるめ)」ともいわれている。
つまり男神の天照大御神(伊勢や各地でも古くから祭られていた男性の太陽神)に代わって、神妻が主祭神になったのではないかというのだ。
しかし、男神にせよ女神にせよ、日の神への尊崇は古代人の素朴な自然への祈り、感謝を表す心から生まれている。その意味では神を祭り、祈る人の心のほうで性別を思うのかも知れない。
以上が 井沢忠夫 著「神さま仏さま知ってるつもり事典」に載っていました。
また、 学習研究社 発行「神道2」には次のことが載っていました。
「聖(ひじり)」の語源は「日知(ひじ)り」であり、太陽の運行を知る者のことであった。また冬に入って火の衰えた(死にかけた)太陽を復活させるための祭りを行った。(世界的に見られる冬至の祭りがこれに当たる。クリスマスの原型もこれとされる。)
伊勢神宮内宮の日神(天照大御神)が男神から女神になったのが持統女帝のときであったか否かについては、議論が別れるだろうが、確かに持統女帝の時代には、神宮の神主の変更や、神宮最初の遷宮がおこなわれており、伊勢に何らかの大きな動きがあったことはまちがいない。
このように本来、普遍的な太陽の神で男神だったアマテル神が女神アマテラスになり、皇室の祖神として祭祀面でも定着したのは、古代末期から中世初期のころだったと考えられる。と書かれています。
私は神さまが男神から女神に途中から代わったのだと理解しましたが、男神か女神かは本当にどちらでもいいことかも知れないと思うようになりました。

     井沢忠夫 著「神さま仏さま知ってるつもり事典」
     学習研究社 発行「神道2」を参考にしました。(1998.3.16記)











第79話.ミャオ族の創世神話

天地創造の日本の神話に類するミャオ族の創世神話の書いてある本を見つけましたのでその内容を、そのまま引用して紹介します。
<ミャオ族の古歌
たとえば、中国貴州県けん東南ミャオ族トン族自治州の凱里(がいり)、台江、黄平といった清水(せいすい)江の流域に伝わるミャオ族の古歌は、ミャオ文化を代表する創世神話である。かいつまんでその粗筋の一部を紹介しよう。実のところ、この古歌は、四人一組の問答形式で歌われる。二人が問いかけ、あとの二人がそれに答える形式をとり、すべてを歌うと三日はかかるという長いものである。
はじめ天と地が生まれたとき、天地はぴったり重なりあっていた。そこで、巨神が斧で天地を切り離し、別の巨神が天を押し上げた。そして天を支えるため、ヨモギの類やヌルデの類で柱を造ったが頼りないため、金銀で天を支える柱を造った。十二本の柱で天はしっかりと支えられ、次に金で太陽を、銀で月を、銀の屑で星を造った。だが十二個づつ造った太陽と月は一度に空に出て駆け回り、地上はひどい旱魃(かんばつ)となり灼け死ぬ人まで出てしまった。そこで弓の名人が太陽、月ともに十一個ずつ射落としたが、残った太陽と月は恐れをなして矢もとどかぬ山のむこうに隠れてしまった。
あたりは一面真っ暗になったので、いろいろな動物に太陽と月を迎えにゆかせる。しかしどの動物も成功しなかったが、遂に雄鳥の美しい鳴き声によって太陽と月とが戻ってくる。
このように、隠れた太陽を呼び出す話にはきまって前段があり、それは射日神話(太陽を射る話)の形になっている。そして、後段の招日神話(隠れた太陽を呼びもどす話)には、日本神話の天石屋(あまのいわや)の話とよく似たところが多い。
射日と招日の神話
中国少数民族の射日・招日神話は必ずセットになっていて、まれに射日神話が単独にあっても、招日神話に射日神話の前段を欠く礼は一つもないといわれる。わが国ではなぜかこれがバラバラに伝承されてしまった。射日神話も、招日神話と同じように太平洋をとりまいて北のアルタイ語族、南のインドネシア語族にも広がっているところから、この話の伝播の中心は中国にあると考えられている。>
これを読んで私は色々なことを考えました。今年1月の教育TVで西暦248年に日食があったこと、あまのいわやの戸が開いたのが、この日食と考えられるとか、卑弥呼が死亡した年だったり、と放送されたのを聞いて神話の世界へと空想が広がりました。

 萩原 秀三郎 著「日本人の原郷」を参考にしました。(1998.4.16記)









第80話.十二支の子(ね)

今の日本でも殆どの人は、子(ね)とか丑(うし)などといって自分の生まれ年の十二支を知っています。なおその上、子だから丑だからとその性向にまで、言及する人もなかにはいます。
古代中国哲学の「易」や「五行」は、その宇宙観、世界観でもあるが十二支は十干とともに、これらと結びつき、この哲学の運用の手段であり、先人達は、神の祭りの日を定め、めぐり来る年の作物の豊凶を予知し予防法を講じたりしていたそうです。
私が興味を持ったのは、十二支に配置された動物の意味合いでありました。なぜ子に鼠をあてたのか?中国ではそんなに鼠が大切にされたのか?なぜ猫は十二支に入らないのか?でありました。
色々な本を読んで、次のことがわかりました。
「子」は方位で北方を占めるもの、「子」はその中央で真北、西北である。
「子」は「了」(おわり)と「一」(はじめ)。即ち「子」とは終わりと始めを一つに束ねるところである。ものの「終始」のところとは、中枢であり中心である。
万象を輪廻・循環の相で捉える中国哲学において、「子」はまさにその輪廻の中枢・中央として意識されていたようです。
「五行大義」には「子を困沌(こんとん)と名付く。陽気混沌をいう」とあり、中国古代哲学では、原初唯一の絶対の存在は「混沌」。これは陰陽二大元気を包摂するところの中枢である。易はこの混沌を「太極」とするが、中国古代天文学では、これを「北極星」とする由。
この北極星の神霊化が「太一」「天皇大帝」だそうです。
又別の本によれば、「子」と鼠との関連は判らない。中国では昔は星が散じて鼠になったといわれています。それに鼠というのは、もとは穴に住んでいる虫の総称であったと「説文」に書いてある由。
また『事物紀原』には、中国の黄帝が子・丑などの12辰を立てそれを月に名ずけまた12の命獣をこれに配したという伝説はあるが動物の選び方はわからないそうです。
私の家から車で30分の所に、「まんが寺」があって、板戸に書かれていた「まんが」では、お釈迦さまが危篤の時、天からお薬が渡されたが、一番先に木に登って、お薬を取ってきたのが、鼠だったから「子」に鼠を当てたと書いてありました。
「だじゃれ」を一つ紹介します。「「子子子、子子子」を何と読みますか?
「ネコノコ、コネコ」が答えです。「子」をネと読み、丑をウシと読むのは、十二支以外全く無いそうです。

 吉野 裕子 著「十二支」(易・五行と日本の民族)
 諸橋 徹次 著「十二支物語」を参考にしました。(1998.4.21記)








第81話.トリ舵とオモ舵

船舶では、船を左方向に進ませるときには、「トリ舵いっぱい!」といい、右方向に進ませる場合には、「オモ舵」いっぱい!」といいます。
この場合の「トリ」は十二支の酉(とり、西方向)であって、取舵と書くのは正しくありません。
オモ舵も卯(う、東方向)の面に向かうように舵を取れ、つまり「ウモ舵」といったのが訛ってオモ舵になったので主舵と書くのも感心しません。
ついでながら、船が今進んでいる方向にそのまま前進せよ!と言う場合の「ヨーソロ」は、鎌倉時代の「よろしう候」のことで、「まっすぐそのまま進んでいいよ」という意味であります。
ついでの話
磁石の針が北を指すことを知ったのはいつ頃か?
磁石が鉄を引きつけると言う事実に古く中国人は気が付いていました。紀元前249〜237年『呂氏春秋精通篇』によると、「磁石呂鉄、或引之也」とある由。
磁石の針で航海に使われたのは12世紀の始めの中国の本に書かれていますがどこの国籍の船かが判然としない由。
1218年に刊行されたパレスチナに関する書物には、磁気コンパスが1204年に航海で使われたと書かれている由。

  西岡 秀雄 著「東・西・南・北・右・左、方位の話」を参考にしました。(1998.4.21記)






第82話.七福神

七福神とは、恵比須(えびす)、大黒天(だいこくてん)、弁財天(べんざいてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、布袋(ほてい)、福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)の七神のことです。これら七福神のことが解説された本を見つけましたので紹介します。
以下は本からの引用です。
『七福神という形ができたのは室町時代のことです。当時は戦いなどで世相が不安定となり、民衆の間で福の神を求めるようになりました。数を七としたのは、古来中国では奇数を陽とする風習があり、日本でも七を特に吉兆を示す数としていたためです。
七福神にはインドや中国の神話に登場する神や仏教の守護神に神道の神が加わっています。このうち、純粋な日本の神さまは、恵比須だけです。
恵比須神は、「蛭子」「戎」などとも書かれます。記紀神話ではいざなぎ、いざなみ二柱の神の子として生まれましたが、骨のない子であったので海へ流されました。
近畿地方を中心に伝わる民間信仰では、恵比須神はその後龍宮へ行き、成長して骨ができたので、龍王の命令によって大漁、海上安全、商売繁盛の神として戻ってきたとされています。このとき龍王から鯛や釣りざおを授かったといわれています。
このことから考えると、七福神の恵比須は、記紀神話よりも民間信仰の影響が強く出ているようです。
大黒天はインド神話の財産の神とされ、金袋を持った像がインドの寺に伝わっています。日本神話の大国主命の大国がダイコクと読めることや、袋を肩にかけていたことなどから両者が習合(後述)したと考えられています。
弁財天、毘沙門天もインド神話の神です。前者は智恵と弁説の女神、後者は方位と財産の神とされています。
布袋は、中国の宋代の禅僧であった布袋和尚をモデルにした福の神です。
福禄寿は、中国神話で南極星の化身とされ、頭が長く髭(ひげ)を伸ばしている長寿の神。寿老人も中国神話で南極星の化身とされる長寿の神です。この二神を同じ神として、福禄寿のかわりにインド神話の福徳の女神である吉祥天(きっしょうてん)を加えることもあります。
江戸時代に入ると、正月にそれぞれの神を祀る社寺を巡る七福神詣でがさかんになりました。寄神(よりかみ)信仰の影響で、七福神は海のかなたから宝船に乗ってやってくると信じられ、これらの社寺では宝船の絵が配られました。この絵を枕の下に敷いて寝ると、めでたい初夢が見られるとされその夢が一年間の運勢を占うと考えられたのです』。
これを読んで私は、日本人は神さまが好きだな、インドの神さまや中国の和尚さままで引き入れて良いとこ取りをするとは、随分欲張りというか、包容力があるというか、いい加減というか、複雑な気持ちになりました。

西高辻 信良 著「いま、知っておきたい・神さま神社祭祀」を参考にしました。(1998.5.2記)






第83話.熱田神宮 と戦災

第二次世界大戦で、アメリカ軍は京都の遺跡や神社、仏閣を保存するため空襲をしなかったことは、広く知られています。、私の友人(日本刀に非常に興味を持っている人)から、神社では熱田神宮だけが空襲された。それは日本の代表的「戦の神さま」だからだ。この話を聞いたとき非常にびっくりしました。
熱田神宮のいわれを書いた本を読み、なるほどなと思うと共に、今でも熱田神宮があることを思うと誤解もあったのではなかったのかなと思いました。
以下に、本から説明文を引用します。
<熱田大明神>御祭神は草薙の神剣(あまのむらくもの剣)を主神とし、天照大神、素戔嗚尊、日本武尊(やまとたける)、宮す姫命(日本武尊の妃)、建稲種(たけいなたね)命、である。草薙の剣は素戔嗚尊の八岐大蛇退治のとき、大蛇の尾より出たもので雨雲の象徴である。この剣は霊威あるものとして天照大神に献ず。大神は天孫降臨の時に、ににぎの尊に天爾の神宝として授けられる。
後に景行天皇の御代に、皇子日本武尊は東を平定するため駿河国にあるとき、敵に包囲され火を放たれた。このとき草薙の剣をもって周辺の草をなぎ倒し、自ら火をつけたところ、火は敵に向い難を逃れたという。尊は帰路病にかかり亡くなられたので、妃の、宮す姫命は社を建て草薙剣を奉安したという。これが熱田神宮の始めという。
熱田大明神の霊威は高く、国家平安を護るところから、国の神としての大神宮のよりしろとされる。明治の神仏分離により、熱田神社の名称は熱田神宮と改め、伊勢皇大神宮につぐ神宮とされた。
明治26年(1893)神仏習合の尾張り式の神殿を廃し、伊勢神宮にならって唯一神明造りの神殿に改築される。その建物は昭和20年(1945)3月と5月の戦火を受けすべて焼失。現在の建物は戦後に再建されたものである。
草薙の神剣は日本武尊の威霊があるも、本来は水の神であり農業の守護神である。
ここの住民は自然の恵みを受けて豊かな生活をしていたところである。

 八田幸雄 著「神々と仏の世界」
 脇阪景城 編「神話・伝説、神・仏の戸籍しらべ」を参考にしました。 (1998.5.2記)











第84話.龍

十二支の中の「辰」は動物に当てれば「龍」でありますが、この龍は十二支の中でただ一つ実在しない獣として知られています。麒麟・鳳凰・霊亀と共に四霊の一で、全身鱗で覆われ、角をもち、鋭い爪をそなえ、幽明変化測られずという想像上の獣です。
下記の本によれば龍が「実在しない唯一の生物」ということと「何故、辰が龍なのか」の二点が龍に関わる最大の課題であるが、この二点の解明は、結局、龍そのものの謎解きとなる。と書かれていて明確な答えを出していません。
色々な本から龍についての記述を拾ってみました。想像の生物ですから、どれが正しいということは出来ないと私は思います。
「龍は鱗虫の長、能く幽に能く明に、能く細く能く巨(おおい)に、能く短く能く長し。春分にして天に登り、秋分にして淵に潜む。」
「龍は五色を身につけて遊んでいる。そこで小さくなろうとすればカイコのごとく、大きくなろうとすれば天地をいれる、また上がろうとすれば雲をも凌ぎ、沈もうとすれば黄泉に伏す。」
「龍は瑞兆とされている。角(つの)があって、髭(ひげ)があって、足の指が五本あることまではほぼ一致している。」
「龍の角は鹿に似たり、頭は駱駝に似たり、眼は鬼に似たり、うなじは蛇に似たり、腹は蜃(みずち)に似たり、鱗は鯉に似たり、爪は鷹に似たり、掌は虎に似たり、耳は牛に似たり。」
「龍の喉元に一尺四方くらいの逆さ鱗があり、もし知らないでこの鱗に触れる者があったら、龍は怒りだして、その触れたものを生かしてはおきません。中国では天子の怒りに触れることを『逆鱗(げきりん)に触れる』といいます。」
「龍の鱗の数は81枚(9x9=81)、鯉は36枚(6x6=36)。鯉が龍門の瀧つ瀬を上がると龍になる。」
「龍は胎生。龍は君王。性質は獰猛、玉を愛し燕の肉が好物。嫌いなものは、鉄とムカデと笹の葉と五色の糸」
「龍は直接的には鱗族の祖であるが、それに限らず、龍、即ち爬虫類こそ要するに地球上の生物の祖であろう。」
「飛龍・・・羽虫(鳥)、応龍・・・毛虫(獣)、咬龍・・・鱗虫(魚)、先龍・・・介虫(貝介)」
戦時中広島県の江田島にあった海軍兵学校(海軍士官の養成学校)での「江田島健児の歌」の一節に「咬龍の池に潜むにも似たるかな」がありましたが、咬龍は、偉大なパワー溢れる生物の象徴を意味していたのだろう、と私は思います。

 吉野裕子 著「十二支」
 諸橋轍次 著「十二支物語」を参考にしました。 (1998.6.6記)







第85話.桃太郎のお伽話

桃太郎のお伽話を知らない人はまずいないでしょう。
「この桃太郎のお話しほど、陰陽五行の理にかなっている話しはない」と書いてある本を見つけましたので紹介します。桃太郎のお話の筋は、ここでは省略させて戴きます。
1)桃について
桃は古代中国で呪物とされ種々の伝説があるが、「西王母(せいおうぼ)の桃」というのが中でも有名である。西王母は古代中国の仙人であるが、その居所は西、その園には三千年に一度、実を結ぶという桃があり、これを食すれば疲れを去り、長寿が得られるという。桃は金果、金気の果実で、西方の象徴である。
金気は木火土金水の五気の中でもっとも強く堅固である。
2)犬・猿・雉について
犬は「戌」、猿は「申」、雉は鳥で「酉」に還元されるが、申・酉・戌の三支は、金気の方局を形成し、無類に強い金気となる。
3)黍団子について
黍団子というのは鮮やかな黄色である。黄色は土気。そこで「土生金」の理によって、桃太郎をはじめ、金気の犬・猿・雉達にとってもこの上ない祐気の呪物である。
4)戦について
金気は四季にとっては秋。そこで中国の古法によれば、秋は武を練り、不義あればこれを討伐し、違法なきを期する季であった。
さて西方の桃太郎が対する敵は東であろう。沖縄をはじめ西南諸島の豊年祭における綱引きも、大体、西方が勝つことになっているが、東の神界から西の人間界に、世【(ゆう)『五穀の実り』】が引いて来られることを意味する。
5)財宝について
桃太郎が戦勝の財宝を積んで帰るのも、異次元の東方からの財宝であろう。
結び
お伽話の中には陰陽五行が強く生きており、勇名をとどろかす足柄山の「金時」はその幼名も「金太郎」である。
桃太郎に限らず、花咲爺の犬も白い。金畜の犬は、金気象徴の白犬が尊いわけで、この霊異の犬は「土生金」の理で、土中から黄金を掘り出すのである。
以上が本からの要約ですが、陰陽五行の判りにくい単語が出て来ました。この単語は解説すると長いので、簡単にのべます。
中国哲学は具象の哲学で、根元の陰陽二気から派生した木火土金水の五気(五行)に、時間・空間・事物・事象の一切が還元され、それらはまた青赤黄白黒の五色によって象徴される。「土生金」とは、土が金を生み出す意。鉱物、金属類の多くは土の中に蔵されている。人は土を掘ることによって金属を手にすることが出来る。ということです。
   吉野裕子 著「陰陽五行と日本の民俗」を参考にしました。 (1998.6.10記)






第86話.七曜

七曜(しちよう)【月、火、水、木、金、土、日】
今では、週の最初の日は日曜日となっているが、昔はどうだったのか?どうして日、月、火、水、木、金、土の順序なのだろうか?私が十数年前、仕事で台湾へ行ったとき中国の七曜が日本の月、火、水、・・・と違って星期と書いてある暦を見つけ、七曜は中国から伝来したものでは無かったのか?どうしてだろう。と思っていましたが調べる時間もなく今日まで来ました。参考になる本を見付けましたので、その内容を紹介します。
「週はもともとは暦に必須のものではなかった。週が現在のような形になったのは、紀元前2世紀から1世紀のころローマ暦の中で徐々に確立されたのであった。
チグリス・ユフラテス両側の上流地方(今のイラクの北西)にあった古代国家アッシリアでは紀元前7世紀のころ毎月の第7日、第14日、第19日、第21日、第28日には仕事を休んで休息をとったと言われる。また7日毎に仕事から解放されるべしというモーゼの律法は7日周期を確立していき、7日毎の安息日をサバト(Sabbath)と呼んだユダヤの週がやがてキリスト教会の中に浸透していった。それらが現在の週の原形である。
曜日に惑星の名がつけられ、今のような順序となったのは占星術に由来しているとされている。当時は太陽も月も惑星として扱われ、他の恒星と区別された。それらの七惑星を地球から遠い順に並べると、土星、木星、火星、太陽、金星、水星、月となる。占星術ではこれら各星が一日24時(昼夜各12時、一日24時とするのはエジプトに発したと言われる。)の各時を、この遠い順によって1時間ずつ支配すると考えられていた。すなわち第1日の第1時を土星が支配する。第2時は木星、第3時は火星、第4時は太陽と、この順に第7時を月が支配するとされた。第8時は再び土星に戻る。これを更に順に追ってゆくと第22時が土星、23時が木星、24時が火星で翌日の第1時が太陽となる。このようにして数えると第3日の第1時は月、第4日の第1時は火星となる。この第1時の惑星を並べると、現在の週の土日月火水木金の順になる。
曜日の名称はローマの神々であるマース(Mars,火星)、マーキュリ(Mercury,水星)、ジュピター(Jupiter,木星)、およびビーナス(Venus,金星)がチュートン語のそれぞれに相当する言葉であるTiu,Woden,Thor,Freya,に置き換えられた。これらが英語でTuesday,(火)Wednesday,(水)Thursday,(木)Friday(金)となった由来である。
中国語会話の下記の本によれば、日本語の月、火、水、木、金、土、日 を中国では星期
一、二、三、四、五、六、星期天(星期日)または、礼拝天(礼拝日)という。と書いてありました。やはり七曜は中国から来たものでは無さそうです。木曜日は星期四ですし、七月一日は七月一号、5時は五点、45分は三刻と書きます。面白いものですね。内田正男著「暦と時の事典」

   陳 真 著「たのしい中国語会話教室」を参考にしました。 (1998.6.26記)