第129話 マカオ物語(1)返還までの経緯

○1999年12月20日約450年にわたってポルトガルに統治されたマカオが中国へ返還されました。ポルトガル人が大航海時代の1555年頃に居住を開始して、中国との交易の寄港地として利用してきたものです。アジアでのカトリック布教の拠点にもなりました。
江沢民・中国国家主席が返還式典で『香港に続く中国の「一国二制度」がマカオでスタートすると共に、台湾問題を解決するための重要な手本になる。中国政府と人民は遠からず台湾問題を解決しうるだろう』と述べました。これでアジアの植民地の姿が消えることになりました。
○私は、ポルトガル人がマカオに居住権を獲得したいきさつを調べてみました。
15世紀初め、ポルトガルのエンリケ(ヘンリ)航海王子によってアフリカ航路の開拓が開始されました。希望峰を回って、1498年インドの西海岸のカリカットに入港、その後大規模な船隊を送って、インド洋のイスラム商人の勢力を制圧し、1509年ゴアを占領し、1511年には東南アジアの貿易の要衝マラッカの攻略に成功しました。更に東チモールを得て北に転じ、マカオを手に入れました。次第に植民地化の前提となるような、政治支配・交易通商の体形が作られてきました。
ポルトガルは1513年に中国に初来航し、1533年に対中国貿易を開始し、1555年頃にマカオに定住を始めました。1577年には中国官憲(明朝)の倭寇討伐に協力した功績で居住権を獲得したというのが一般的な説ですが、フランシスコ・ザビエルが神に祈ったお陰という説もあります。
1951年にマカオはポルトガルの海外県となり、1975年にはポルトガルの政変により「海外領土の非植民地化」が決定されましたが、マカオは「ポルトガル行政下にある領域」となり、1979年のポ中国交樹立時に両国は「マカオの主権は中国にあり、統治権はポルトガルにある」とするマカオ方式が容認されました。
○ここで倭寇について触れておきます。
倭寇とは、「14世紀から17世紀にかけて、朝鮮半島、中国大陸沿岸、南洋地域で行動した海賊的集団に対して、朝鮮、中国の人がつけた称呼。」とのことです。倭寇という文字の本来の意味は日本人の侵略ということです。
前期の倭寇は船団で朝鮮半島沿岸を荒らし米穀を略奪し、捕虜になった朝鮮人は奴隷とされ日本国内では農耕作業などに安価な労働力として使用されたらしいのです。
後期16世紀になると、中国海岸から、南洋方面に倭寇が発生しますが、その構成員の中の日本人の数が非常に少なく、大部分が中国人によって占められていました。
東アジアに初めて姿をあらわしたポルトガル人も倭寇の同類としてあつかわれていました。中国では14世紀以来海禁(かいきん)という一種の鎖国政策をとり、中国人の海上活動を禁止していましたが、16世紀になると海上密貿易者が多くなりました。ポルトガル人も明政府から貿易の公許を得られず、密貿易者となりました。
倭寇の首領として知られる王直(おうちょく)は種子島にポルトガル人とともに漂着し鉄砲伝来(1543年)をもたらしたのです。豊臣秀吉の国内統一(1590年)が進み倭寇は次第におさまっていきました。
            参考文献は第130話に書きます。以上 (2000.2.20記)















第130話 マカオ物語(2)日本軍の足音

太平洋戦争中ポルトガルは基本的には「中立」政策をとりました。マカオでも中立政策が追求されました。
この時、日本軍はマカオに対してどのような行動をとったのでしょう。
1937年(昭和12)中国との全面戦争にはいった日本軍は 翌1938年(昭和13)には広東省を制圧し、米英に宣戦布告[1941年(昭和16)12月8日]して間もなく12月25日に香港を占領しました。
日本軍は公式のマカオ占領をしませんでしたが、断片的な動きを総体的に評価すると限りなく占領に近いのが実状のようでした。
1943年(昭和18)マカオ港に侵入した日本軍が、イギリス船シアン号を武力によって拿捕するという挑発行動に出たのに対してポルトガル当局はなすすべもなく、黙認するほかありませんでした。
1941年(昭和16)12月17日、イギリスはポルトガルに強要して、英蘭連合軍の東チモール(マカオの行政上の下部機構)への兵力進駐を承認させました。
1942年(昭和17)2月20日、日本軍は東チモールを占領し、軍政を引きました。あくまでもポルトガルの主権は認める立場でした。
アメリカの対マカオ政策は極めて微妙なものでした。ヨーロッパ戦線の関連で、アメリカは大西洋上のポルトガル領土アゾレス諸島のうちのサンタ・マリタ島に基地をおいたからです。ポルトガルの中立政策に「基本的には」という留保がつけられ、純粋中立ではないとの含みをもたせたのはこのためです。
基地借用の代償として、アメリカは「ポルトガルのすべての植民地でポルトガルの主権を尊重する」と約束しています。
ところが1945年(昭和20)1月から7月にかけて、米空軍は数回にわたってマカオを爆撃しています。目標は日本軍が利用する可能性のある海軍施設だったらしいと推測されています。ポルトガルの主権を尊重したいと念願しつつも、マカオでの日本の実質的な支配力も無視できないというジレンマからの爆撃だったのかも知れません。
当然、ポルトガルは強くアメリカに抗議して、「中立マカオの爆撃は誤り」と認めさせた上で、補償金2千万ドルをポルトガルは受け取っています。ポルトガルも、本音では日本の敗北を念願しつつマカオの中立性を守り、日本を刺激せずに、日本との調和実現に努力したと見られています。
日本降伏の1ヶ月後の1945年(昭和20)9月16日国民党の軍司令官がマカオを訪問し、マカオ側は国民党によるマカオ占領の前兆かと心配しましたが、それは杞憂でした。
1966年からの中国文化大革命の過程でマカオの国民党勢力はほぼ封じこめられ、そして北京政権の影響力のもとに、今回中国への返還が行われました。
   浅井信雄著「マカオ物語」、小島朋之他著「東アジア」 
   小学館発行「万有百科大事典」
   後藤乾一著「日本占領期インドネシア研究」を参考にしました。  (2000.2.22記)










第131話 鉄砲を捨てた日本人(1)鉄砲の広まり

1543年、種子島に鉄砲が伝わって以来、日本国内の戦いの様相は変わりました。
刀剣・槍の戦いから、鉄砲主体の戦いに変わり、世界一の鉄砲生産国になってから後、今度は鉄砲の生産を縮小して、刀剣・槍の時代になり更に廃藩置県で武士から刀を取り上げると共に武士の転職をはかり、明治維新の革命を遂行したのです。
当時の日本の軍縮を褒めた書物がアメリカ人のノエル・ペレン氏によって書かれ、川勝平太氏によって訳されています。「日本史に学ぶ軍縮」との副題もついており、今人類が抱えている核軍縮への活路を見いだしたとのべています。故ライシャワー元駐日大使が「日本と西洋における技術・軍事・生活の違いが鮮やかに浮き彫りにされている」と推奨しています。 内容を紹介します。
○「鉄砲はどのように広まったのか」
鉄砲伝来の5年後の1548年の上田原の合戦に武田春信が秘密兵器の鉄砲を1挺持っていきましたが、火縄に火をつける余裕がなくて、鉄砲を持たない敵の村上義清に負けました。
その後、火縄銃の 技術上の改良はヨーロッパより日本が早かったと述べています。日本では、連射スピードを速める連発技術を発達させ、鉄砲の口径を広げ、火縄銃と火薬とを入れて持ち運ぶための漆を塗った防水箱をこしらえたりしています。
又日本の鉄砲鍛冶は、ポルトガル式の発砲装置の改良につとめ、たとえば、螺旋状の主導バネと引き金調製装置を発達させました。さらに雨中でも火縄銃を撃てるように雨よけ附属装置を考案しています。
武田春信改め信玄は、上田原の合戦の敗北から21年後、鉄砲の重要性を強調しておりその時の文章も残されています。
長篠の戦いは、織田信長の鉄砲隊3000人によって、武田勝頼(武田信玄の後継者)の軍を制圧しました。 鉄砲隊を敵から見えぬ様に防御壁の後方に隠し、1000人づづの3分隊に分け、第1分隊が発射して、弾を取りに走り、第2分隊が発射して 次に第3分隊が発射した時には第1分隊の発射準備が完了していたのです。
鉄砲の評価はその後2つに別れました。遠く離れた敵を殺す武器として、その優秀性を誰もが認め戦国大名は皆これを大量に注文しました。しかしながら、他方で武士階級の者は誰も自ら鉄砲を使おうとする意志がなかったのです。
あの織田信長でさえ、鉄砲をおのれの武器としては避け、死を招いた本能寺の変では先ず弓を用い、弦が切れた後は槍で戦ったといわれています。 1584年、家康と秀吉が軍勢を率いて小牧で合戦をしたときには、両軍ともに鉄砲隊の占める割合は高かったのですが、両軍とも塹壕を堀りその中で待つ戦法を採ったため膠着状態となり、身動きが取れずお互いに戦場を離れました。

   ノエル・ペリン著、川勝平太訳「鉄砲を捨てた日本人」
   宇田川竹久著「鉄炮伝来」を参考にしました。       (2000.3.11記)














第132話 鉄砲を捨てた日本人(2)鉄砲の放棄

小牧合戦(1584年)の数年後、豊臣秀吉は鉄砲統制の処置をとるのですが、すべての武具類を民衆の手から取り上げることを狙ったものでした。秀吉は武器統制とはいわず、大仏と大仏殿の建設のためにすべての農民、地侍、僧侶に所持している刀・鉄砲を寄進するように呼びかけました。
しかし、どの大名も自分の武士団の武器には手を付けませんでした。
鉄砲の生産はそれから20年増え続けます。
秀吉自身、朝鮮、中国、フィリッピンの征服事業を新計画として、抱懐していました。
朝鮮への侵略部隊は、武士と足軽の混合部隊でしたが、最初(1592年)の侵略隊16万人のうちほぼ四分の一強が鉄砲隊でした。当時朝鮮は鉄砲を持っておらず、侵略軍は大勝しました。朝鮮出兵2年後に、中国が朝鮮に救援軍を投入し、朝鮮軍が自国製の火縄銃(日本の鉄砲を朝鮮北部の鍛冶職人が模倣製作)で反撃を開始してきたので、衆寡敵せず、敗退しました。
○「日本はなぜ鉄砲を放棄したのか」
朝鮮の役が終わった頃から、ヨーロッパは火器を急激に発達させています。
なぜ日本は火器から背を向けたのでしょうか。
第1の理由:日本には多数の武士(総人口のほぼ7から10%)が、鉄砲嫌いでした。ヨーロッパでの騎士階級は総人口の0.6%を占めるにすぎませんでした。
第2の理由:日本の島々は自然条件により、侵略が困難でした。日本は強国だったのです。
第3の理由:日本では、刀剣がヨーロッパよりもはるかに大きな象徴的な意味を強く持っていました。日本では「日本刀は武士の魂」といいます。
第4の理由:日本の刀剣は、通常の武器であるとともに、代表的な美術品でした。
第5の理由:刀を使う者の身体の優美な動きと結び付いています。チャンバラ・シーンやら「剣の舞」にその優美さが見られます。
長ったらしい銃撃シーンというのは生々しい暴力としか映りませんでした。
○「鉄砲から刀へ」
日本は鉄砲を公式に廃止したことは一度もありません。
徳川家康は、鉄砲・火薬製造を集中させる措置をとり、後代の将軍も19世紀半ば過ぎの徳川最後の15代将軍慶喜にいたるまで、その政策を撤回しませんでした。
日本の鉄砲鍛冶は1607年の法度で、堺の鉄砲鍛冶を除いて国友に集中する事にしたのです。そして国友の鉄砲鍛冶は建前上は鉄砲代官に届けて許可がでれば鉄砲を製作できたのですが、幕府の注文以外殆ど許可しなかったので、鉄砲鍛冶は困窮しました。鉄砲鍛冶はかなりの者が刀鍛冶に転業しました。
1625年頃には幕府の独占体制が確立し、その後も緩慢ながら鉄砲の削減が続きました。
1637年の島原の乱が鉄砲が重要な役割をになった最後の戦争で、その後200年間日本人は積極的に鉄砲を使うことはありませんでした。(2000.3.13記)















第133話 鉄砲を捨てた日本人(3)ヨーロッパでの銃統制

イギリスでは、ヘンリー8世(在位1509から47年)が銃の統制を実際に試みています。
その統制は家康が行なったのとは 手順が逆で、製造の制限からではなく所有の制限から始めたのです。
1523年議会の法律により年間所得100ポンド以下の者の銃所有は禁ぜられました。銃が上流階級(ごく少数)にのみ合法的に所持出来ました。
家康と同時代のフランス国王アンリ4世は1601年に王の許可無く火薬を製造すれば、多額の罰金が課せられ、それを弾丸に仕上げた場合には死刑にするという法令を出しました。
しかし、フランスやイギリスでは、上記の法令はさほど強力に実施されたわけではありません。両国には真剣な鉄砲嫌いが多くいなかったのです。
ヘンリー8世は民衆に銃を持たせないことを望みながらも、イギリスを軍事大国にしたい意欲もかなり強く持っていて、フランスに宣戦布告をして、1543年には一連の銃統制を全部取り払いました。
戦争が終わるとヘンリー8世は旧に復して再び上流階級並びに国境から7マイル以内の要塞都市の住民男子にのみ銃の所持を許可しています。
1557年にはふたたびフランスとの間に戦争が起こり、その法律も消滅しました。
○明治維新後の日本は富国強兵に走った。
1853年のペリー提督来航後、日本は西洋文明を取り入れ和魂洋才を唱え、陸海軍の整備増強に走ったことは周知の通りです。
私の感想:
鉄砲が戦いの武器として発明されたときに、日本でも、西洋でも「飛び道具とは卑怯千万なり」との考えもあっただろうと推測します。
しかし、徳川幕府が国内の安泰を願って鉄砲の生産を縮小できたのは、敵が攻めて来なかったためでしょう。西洋では、常に隣国が敵であった状況下では日本と違う考えが起こったとしか思えません。
しかし、徳川幕府の250余年の平和は、民族が一つだとはいえ、「やれば出来る」ということを実践したことの評価ですから、ノエル・ペレン氏の着目点に感心しました。
世界が願う「核兵器絶滅」へ進めるためには、異国民との相互理解と信頼が根底になくてなりません。
                     (2000.3.15記)














第134話 日本刀の作り方

刀は片刃(カタハ)から転じてカタナになったといわれます。剣は両刃の事です。
私はどうして日本でしか日本刀が作れないのかなと思い調べて見ました。
甲冑を切ることの出来る日本刀は独特の製法で生まれた様です。日本刀は、砂鉄を精製した玉鋼を原料に、粘りある鋼「心鉄(しんがね)」と硬い鋼「皮鉄(かわがね)」を鍛錬し、組み合わせて延ばし、研磨を施して作ります。
玉鋼は「たたら製鉄」という伝統ある精錬法で得られた極めて純度の高い鋼です。
たたら製鉄では、まず山から掘り出した土砂の中から、磁力選鉱して砂鉄を取り出し、土製の炉(たたら)の中で木炭を燃やして砂鉄を入れます。すると砂鉄は約1400度Cの熱で溶融して、炉の底には精鋼が溜まります。この時、不純物であるノロや炭素量の多い銑(ずく)も出てきますが、これらは炉の側面に開けた穴から外へ流し出します。こうしてから炉を壊して、精鋼の塊であるケラを取り出して、付着した銑などを落とし、細かく砕くと玉鋼になるのです。
まず刀匠は、この玉鋼を火床(ほど)で真っ赤に焼いて、槌で厚さ数ミリにまで打ち延ばします。そしてこれを水に漬けて急冷した後、小槌で細かく砕きます。
この時刀匠は、砕いた感触などから炭素量1.2%程度の皮鉄用と、0.9%以下の心鉄用を選り分けます。
次にこの2つを、それぞれコテ棒の台にのせ、、和紙、ワラ灰、粘土汁で覆って火床で約1300度Cに加熱します。すると、不純物が熔けて流れ出すとともに、残った良質の玉鋼同士も融着して1つの塊となり、ここから鍛錬が始まります。
まず鋼の塊を火床で赤熱させ、大槌で打ち延ばしていきます。そしてある程度延ばした後、中央部にタガネで割れ目を入れて、小槌で打って折り重ねます。これを再び火床に入れて、さらに打ち延ばすという鍛錬を、皮鉄で12から13回、心鉄で7から8回繰り返します。これによって鋼表面の炭素が空気中の酸素と結びついて抜けるため、約1.2%あった皮鉄の中の炭素量は0.7%に、0.8から0.9%だった心鉄は0.3%ほどになります。また不純物なども同時に打ち出され、当初は3kg程度あった鋼の塊は、1kg程度にまでなるのです。
この繰り返し鍛錬が終わると、皮鉄をタガネでU字形に曲げて、心鉄を包み込みますが、この作業によって折れにくくなるのです。そして大槌で打って細長くのばし、小槌で切先や棟、刃部など全体の形を作り、やすりやせんと呼ばれる刃物で削って整え、焼刃土を刀身に塗りつけ、乾くと刀身を750から800度Cに熱します。
温度は赤熱した刀身の色で判断し、水につけて急冷します。砥石で研いで刃をつけます。後掲の「日本刀製作手順図」をご覧下さい。
日本刀は今日の金属組織学からみてもまことに非の打ち所のない立派なもので、このようなすぐれたものが、経験の口伝で到達した古人の努力に敬意を表したいと思います。

   参考:日刊工業新聞社編「モノ作り解体新書7」 (2000.3.23記)



日本刀製作手順図















第135話 日本人と箸

「米と箸」は、日本の文化そのものです。
米の消費量は減少する一方であり、割り箸は増加の一方です。この混乱した現状こそは、日本の文化自体が試練のときを迎えている様を物語っているように思います。
しかし、肥満先進国のアメリカでは近年日本食がブームになりました。これは、比較的低エネルギー低脂肪なのが人気の秘密で、日本料理店が激増しているばかりか、家庭向けの日本料理や料理本が出まわり始め、包丁や箸の上手な使い方までが図解入りで紹介されているようです。
○箸の神話と伝説  最古の文献「古事記」に「出雲の流れ箸」という神話があります。須左之男命がむらくも橋で上流を眺めると箸が流れてきました。人がいるに違いないと川を上り、老夫婦から「やまたのおろち」の話を聞き、退治したのです。生命が永久に続くとされている檜・杉・松の「常磐木信仰」と生命を新しく改めることをシンボルとする箸と結びついた「箸杉信仰」あるいは「箸立信仰」が各地に残っています。
○箸と稲と日本人  食事の際、ご飯を粗末にすると「バチがあたる」と、いましめられました。日本には、食事前に箸を手にして「いただきます」という風習があります。食べ物とは大自然すなわち神々からいただいたものであり、それ故に食事のときには、まず箸を手にして神々に感謝の祈りを捧げるのです。
○箸と神社  日本における箸の起源を、天皇即位の儀式である、大嘗祭の神せん(神さまの食事)にそえられる青竹で作ったピンセット状の食具に求める説があります。また、箸には「これを使う神や人の霊魂が宿る」とされています。今も神社で神せんには御箸が供えられます。
○箸の種類  食事の道具で、日本の箸ほど、ハレ(晴れ着を着て労働しない日)の箸、ケ(働く日)の箸・男女別、大人用・子供用などのように区別され、しかも個人用である食器はどこの国にも例がありません。箸が日本人の生活に定着してきた事を物語っています。
○箸食の食事作法  日本人には、未だにナイフとフォークを使った方(洋食)が 、箸食(和食)よりは文明的であるとする深層心理がみられます。箸使いは生活の基本であり、「箸使いを見れば、その親がわかる」ともいいます。
○箸と手と脳  ドイツの哲学者・カントは「手は外部の脳である」といっています。さらに「箸は手の延長器官である」 「箸が正しく使えない子供は、手が不器用であり、字もみだれている」といわれています。箸の持ち方は、道具の持ち方の基本形であり、それは箸の持ち方と、鉛筆の持ち方の要領は同じであることからもわかります。
                    (2000.3.25記)
    参考:一色八郎著「箸の文化史」と
        阿部正路著「箸のはなし」












第136話 葉隠(1)

この度、葉隠(はがくれ)に関する本を読みましたのでご紹介します。
鍋島公に仕えた二人の佐賀藩士の共同作業として「葉隠」の本は出来上がっています。この葉隠の原本はすでになく、色々な人による写本が今に伝えられているそうです。
二人とは、山本神右衛門常朝(万治2年−享保4年、1659−1719)と田代又左衛門 陣基(つらもと)(延宝6年−寛延元年、1678−1748)です。常朝はつねとも、出家して、じょうちょう、と訓みます。
主として佐賀鍋島家に伝わる歴代の事績、武士としての心構えについて常朝が語り、これを陣基が書きとめたものです。
常朝と陣基の会見は常朝の出家隠棲の10年後の宝永7年(1710)春から、享保元年(1716)の秋までの7年間に及んでいます。常朝は52歳から58歳、陣基は33歳から39歳の期間です。
会見の場所は佐賀城下から約3里の金立(きんりゅう)村黒土原(くろつちばる) にある、旭山常朝(きょくざんじょうちょう)居士の草庵、朝陽軒です。常朝が出家隠棲して2年後に赤穂浪士の討ち入り事件が起こっています。

葉隠の内容の一部を紹介します。
○「武士道と云は、死ぬ事と見付たり。」この有名な句については研究者により解釈が色々行なわれているようですが、単なる主君のための死などを説いているのではなく「死の覚悟」の「奉公」を説いているようです。
常朝の生きた時代は戦いで勲功を立てる時代は過ぎてしまい、武士は何を目標にしたら生き甲斐を見いだすのか模索していた時代背景があるようです。
常朝は、「生か死かの二つに一つの時は、死を選べ。たとえ犬死にであってもいい。まことの剛の者は、何もいわずに死ににいくものである。相手を仕留めようなどと考える必要はない。黙って斬り殺されるまでだ。そのような者こそが相手を仕留めることが出来るものである。」ともいっています。
「気違いになると決めて身を捨てる決心をすれば、事は成る。そうしたとき、事をうまく運ぼうなどと思えば、すぐ迷いが出て、間違いなく失敗をする。」
「武士道と云は、死ぬ事と見付たり。」とは「死に身になって生きよ。」ということです。武士が武士として生を全うする覚悟を教えているようです。
○「葉隠」の本の名前の由来。
本来は「葉隠聞書(ききがき)」という名であったのを、略して「葉隠」となったもので、その名はもとの編纂者である田代陣基の原本に書いてあったといわれています。しかし、この「葉隠」という名がどういう意味であるかは、昔からいろいろの議論があって定説がありません。

小池喜明著「葉隠の叡智」、松永義弘著「葉隠」、三島由紀夫著「武士道は生きている、葉隠入門」、滝口康彦著「葉隠」を参考にしました。            以上(2000.5.27記)














第137話 葉隠(2)

○「人の盛衰はしょせん運命である。」
人の身の盛衰によって、その人の善悪を論じることは出来ない。盛衰とは、しょせん自然のなりゆきであり、善悪は人間の判断によるものだからだ。しかし、教訓のためには、人の盛衰を、善悪の結果であるかのようにいい易いものである。

○「困難にぶつかったら、大いに喜ぶこと。」
大変困難なことに出会っても、気を転倒させないというくらいでは、まだまだ未熟な段階である。大きな変事に出会ったときは、大いに喜び勇んでつき進べきである。これはいってみれば、一つの段階を越えたところである。「水増せば船高し。」というようなものである。

○「部下を褒めること」
義経について書かれた和歌の中に「大将は部下に言葉をかけよ。」とある。お家に仕えている者でも、非常の際はいうまでもなく、普段でも「何ともよく仕えた者だ。ここ一番頑張って働け、したたか者だな。」というとき、身命を惜しまず働くものである。とにかく、その一言が大事なのである。

○「人を超えようと思ったら自分を批判させること」
人を超えようと思ったら、自分の身の上について他人にとかく批判させて、意見を聞くのが一番良いのである。普通の人は自分の考えだけですましてしまうために、一層の飛躍がないのである。人と相談することが、さらに飛躍する根本である。
ある人が自分の書いた文章を人に見せて相談したことがある。その人は自分達よりは、遙かに良く書き整える人であった。添削を人に頼むということ自体が、すでに人より上のことなのである。

○「昔は良かった、と懐かしがってばかりいてはいけない。」
時代風潮は変えることの出来ないものである。次第に世情が悪くなっていくのは、末世になってきた証拠だろうか。
しかし、季節にしたって春や夏ばかりということはないし、一日にとっても同様である。であれば、今世の中を、百年も昔の良い時代と同じにしようと思っても無理なことだ。その時代その時代に応じて、良くなるように努力することが大切なのである。昔風のことを懐かしがっている人が間違うのは、こうした点が理解出来ないせいである。
そうかといって、現代風のことばかりを良いと思いこんで、昔風を嫌う人は、思慮浅く、上面だけの人だといえる。

注)解説には現代語訳を引用しました。
感想;私の独断と偏見で「葉隠」の内容項目を選びました。切腹、介錯、など血生臭いものは省きましたので全貌を伝えていない点ご容赦下さい。私は「時代とともに変らないもの、変るもの」を読んだように思います。
                      以上(2000.6.1記)











第138話 ベースボールの起源(1)

先日ラジオを聞いていたら、フリーライターの佐山和夫さんが「ベースボールの起源」などについてお話をしていました。後日何か佐山さんの書いた本はないかと図書館で探しましたら2冊ありましたので、それを読み私がこれは・・・と思ったことを書いて見ます。以下は佐山さんの本からの引用です。
『「ベースボールほど奇妙なゲームもないね」ある男がそういったのをきっかけに議論が白熱したのはシカゴでのアメリカ野球学会でのことでした。」
「たいていの団体スポーツは、二つのチームが互いに真っ正面から向き合って、自分たちの陣地を守ることで成り立っているものなのに、ベースボールはそうじゃない」
「ボールを使いながら、得点の主がボールでないのも面白い。ボールがどんなに遠くに飛ばされようと、プレーヤーである人間が本塁を踏むまでは、点にはならない」
「攻撃といいながら、チームメンバーのほとんどがベンチに座っているのも奇妙だね」
「時間的に制限がない団体スポーツというのも珍しい。前半、後半を何分で戦うということをしない。今始まったゲームがいつ終わるか検討がつかない」
「それは空間的にいってもそうで、無限の中でゲームが行われているのも奇妙といえるのでは?レフト・ラインもライト・ラインもともに永遠に延びている。本来は外野観覧席などないわけで、無限に向かって、好きなだけ打てる自由。つまり、時間的にも空間的にも無制限な、自由そのものの精神こそアメリカのものではないか。古いヨーロッパの束縛を逃れて、新天地を求めてきた者たちが作ったゲームだけのことはあるじゃないか」
待ってくれと声をかけたのはイギリス系の人だった。
「ベースボールの最大の特徴をいうなら、打者が成功の内に走者になり、一塁、二塁、三塁とダイヤモンドを巡ってホームに帰って得点になるという、まさに、そのこと自体の中にあるのじゃないか。私にいわせれば、ダイヤモンドは海。打者は船乗り。彼は雄々しく大海に立ち向かい、無事にホームに帰ろうとする。三塁までいっても、ホームに戻らないことには何にもならない。ホームに帰ってこそ得点とする考えは、間違いなく船乗りの思想だ。かって七つの海を支配したという英国人の精神がそこにはないだろうか・・・」』
いまにして思えば、その説は大当たりに当たっていたのかも知れないと佐山さんはいっています。
アメリカでのベースボールの原型はタウン・ボールであり、その原型の原型はイギリスのラウンダースであり、親戚筋にクリケットがあるそうです。
次号でそのゲームを簡単に紹介します。
佐山和夫著「野球とクジラ」、佐山和夫著「野球から見たアメリカ」、佐伯泰樹著「ベースボール創世記」、川原謙一著「野球発祥の地クーパースタウン」を参考にしました。(2000.6.25記)以上


















第139話  ベースボールの起源(2)

イギリスのラウンダースは女の人のゲームだったようです。男の人は航海に出たり、馬に乗ったりして勇壮な屋外ゲームをしていたそうです。
ラウンダースというゲームは、芝地で行い、ベースの代わりに杭または石が菱形を描くように置かれていました。間隔は12ヤードから20ヤード。(別図参照)
プレイヤーの数は決まっておらず集まった者を二等分するのみでした。
一方を「イン」チームと呼び他方を「アウト」チームと呼びます。 「アウト」チームがフィールドに散り、守備につきます。守備位置は特に決まっておらず、決まっているのは「ペッカー」あるいは「フィーダー」と呼ばれる投手のみでした。
打者「ストライカー」の位置は石で示されていましたが、投手との距離はあまりありませんでした。投手からのボールをうまく打った打者は「時計回りに塁を回ります。アウトになるのは、打者が塁を踏んで回る途中で、ボールが身体に当てられたり、本塁より後方に球を打った時でした。
「イン」チーム全員がアウトにされるまで攻撃は続きます。
「アウト」チームの攻撃は時によっては「時計とは逆回りに」ベースを回ったというのも興味深いことです。
アメリカでのタウン・ボール(別図参照)は、「タウン・ミーティング」が開かれる時によくおこなわれたところから、そう呼ばれるようになったということです。
「タウンミーティング」とは典型的な地方自治の方法で民主主義の根幹をなすものでした。民主性の染みついたゲームは幾多の変遷を経て今日に至っています。ルールの変更などについての記述はここでは省略します。
私の感銘を受けたことは、投手のことを今はピッチャーといいますが、タウン・ボールの頃は下手投げの人をピッチャーといい、下手投げをしていました。ストライクとは「打てよ」の意味だとかいうことです。昔は打者が投手にここに投げてくれと注文したそうです。
アメリカではクジラとりの船乗りが櫂を短くしてバットにしたり、ボールを作るのにゴムを芯にして帆布を針で縫い合せたとか、苦労をしたようです。
日本にベースボールが伝わったのは明治5年か6年らしいのですが、今日の大盛況に発展するとは先人も予想しなかったことでしょう。
参考文献は第138話に記載のものと同じです。(2000.7.1記)以上