文政10年(1827年)1月1日、ジョン万次郎こと中浜万次郎は四国の土佐足摺岬に近い小さな漁村、中の浜で漁師の子として生まれた。
父悦助は万次郎が9才の時に病死、兄時蔵は体が弱く、一家を支えたのは母親の「しほ」で、未だ幼かった万次郎も魚を捕ったり庄屋に米つきの手伝いに行くなどして家計を助けていた。
天保12年(1841年)年が明けて間もない正月5日、14才の万次郎は西浜宇佐浦の漁師仲間に誘われて、スズキを捕る船に乗り組んだ。同乗の仲間5人の中で万次郎は最年少であった。
出航して3日目の1月7日、船は突然の嵐に出遭って櫓が折れて自由を失い、怒濤に木の葉のように揉まれ、食料も尽きて5人は生死のはざまを漂流した。幸い14日になって「鳥島」に漂着して全員が無事に上陸できたのは、黒潮の異常な流れのお蔭であった。この幸運がなかったら、一行はとても生還は出来なかったであろう。
地図で見ると鳥島は本土から八丈島への距離の2倍以上もある遠隔の地で、岩石で覆われた小さな島である。毎日、不安と飢えに耐え苦闘を繰り返していた万次郎らは、この島に辿り着いて約5ヶ月経った頃、たまたまこの島の近くへ海亀を探しにやってきたアメリカの捕鯨船ジョン・ホウランド号のホイットフィールド船長に救助された。船はハワイのホノルルに寄港して、他の4人はそのままそこに居残ったが、万次郎は船長の勧めに従い、捕鯨を続けつつアメリカへ渡った。アメリカでの万次郎はフェアヘブンの船長の家族にも温かく迎えられ、その一員として安息の日々を送ることとなった。
日本では寺子屋へも行っていなかった万次郎は、船長の配慮で学校に行かせてもらい、ABCから数学や航海術まで高等教育を受ける幸運に恵まれた。海外生活約10年、彼はさまざまな経験を通じて高度の航海、捕鯨、観測等の技術を身につけ、諸外国の知識、風俗、習慣に接する機会を得た。一方、この時期の我が国は鎖国方針を貫き、自由に外国の文化に触れることが許されない厳しい時代であった。各地を変転しながら万次郎が故郷の土佐「中の浜」に帰り着いたのは、遭難してから約12年を経過した1852年11月であった。村のお寺には万次郎の丸石の墓が建てられていた。母親は機会あるごとに墓参りを続け、遠い昔 子供の儘、外洋へ去った我が子万次郎の冥福を祈ってきた。
時はアメリカの黒船”ペリー艦隊”が我が国に来航する前年のことであった。当時、アメリカの社会と人間を知り、英語を話せる唯一人の日本人として、幕府は土佐藩を通じて万次郎を江戸に呼び寄せ、アメリカの事情を聞きペリー来航に備えた。
代官江川太郎左衛門のもとで蒸気船を造ったりするうち、幕府直参にとりたてられ、許されて「中浜」の姓を名乗った。その一方、有名なボーディッチの航海学書の翻訳をしたり、アメリカ語会話書「英米対話捷径」を作ったりした。
安政4年には軍艦教授所の教授に任命された。万延元年(1860年)万次郎は遣米使節の通訳として、木村摂津守・勝麟太郎(海舟)・福沢諭吉らと咸臨丸で渡米した。この渡米時に持ち帰ったミシン・カメラ・書物等の咸臨丸みやげはアメリカ文化を日本に伝えようとする万次郎の心意気が感じられるものであった。また、彼は滞米中の豊かな経験や技術を生かしてアメリカ式捕鯨を日本に紹介した最初の人物でもあった。その後、薩摩藩主島津斉彬に呼ばれて鹿児島に行き、海軍増強のため開成所で航海術等を教え、また長崎では後藤象二郎らと土佐藩のため上海へ船の買い付けに出向くなどアメリカで得た知識経験を大いに活用した。
明治にはいると「東大」の前身である開成学校の教授に任命された。明治3年8月、普仏戦争視察のためヨーロッパへ出張した大山巌らに同行し、その折りに万次郎は20年ぶりにアメリカのフェアヘブンを訪れ、恩人のホイットフィールド船長と感激の再会を果たした。晩年の万次郎は東京や鎌倉で過ごすが、明治31年11月12日、脳溢血のため71才でその生涯を閉じた。万次郎亡き後、ホイットフィールド船長一家と中浜家は子孫によって交流が始められ、その交際は5代にわたり現在も親しく続けられている。万次郎第2の故郷フェアヘブンの街では、街の人々で組織した「ジョン・マン・ソサエティ」主催のジョン・マン祭りが毎年10月華やかに行われ、これが深夜まで続く。日本人も多数参加し、万次郎に思いを馳せて交歓し、ニュー・イングランドの秋の夜は深い思いを包んで静かに更けて行く。万次郎は、漂流者ジョン万として一般にその名を残している。だが彼は、漂流し、アメリカの捕鯨船に救われ、教育を受け、やがて帰国したというだけではない。
彼の本領は帰国後に大きく花開く。
(一)彼は、アメリカでの見聞を正しく報告して幕府の開国決定の政策に寄与したこと。
(二)海の生活で培った国際的な視野を幕末の若き群像に伝えたこと。
(三)英語教育の創始者となったこと。
など、大きな足跡を残した。
万次郎は帰国後、時の老中主座(大老に当たる)「阿部正弘」に召され、アメリカの先進文明や国情について、度々尋ねられ熱心に回答した。
1854年3月31日結ばれた日米和親条約は我が国開国のスタートともいえるもので、万次郎が伝えた情報が反映したと見られる面も明らかに窺われる。
彼は英語教育を通じ、また多くの機会に勝海舟・坂本龍馬・福沢諭吉・後藤象二郎等と直接間接に交わり、英語を教える一方、アメリカの新知識を紹介し、国際的視野を啓蒙した。これらの人々が我が国の開国、発展に尽くした役割は誠に大きく、万次郎の存在そのものが日本近代化の大きな一翼を担ったということが出来る。 [了]
(註)本稿は、中浜 博氏著「私のジョン万次郎」を参照させていただいた。