西 島 八 兵 衛        

                                                   小田清之 
  西島八兵衛、名を之友(はじめ之尤)といい、八兵衛は通称である。
慶長17年(1612)遠州浜松に生まれ、17歳で伊勢津藩主(伊勢、伊賀を所領)藤堂高虎に仕えた。慶長19年には大阪冬の陣、元和元年(20歳)には、大阪夏の陣に従がって大功があり、元和5年(1619)に行われた京都二条城の築城には、高虎の命を受けその絵図を引き、また同年の大阪城の築城に際しても、目論見を差出し工事に従事した。
西島八兵衛と讃岐の因縁は、藤堂家と讃岐領主生駒家の姻戚関係に因るもので、高虎は当時の領主生駒高俊の外祖父に当たるわけである。
 八兵衛は前後3回(正しくは4回といえるが、寛永2年(1665)同16年までは事実上継続して在住した。)來国している。このうち前の2回は藤堂高虎の命により生駒家の藩政を助けたものであるが、最後の來国は、幕府の生駒家取り潰しに伴う諸事決裁のため讃岐の事情に精通する者として、幕吏に随行したものである。このうち八兵衛が、わが香川にとって大きな貢献をしてくれたのは、2回目の來国(寛永2年から同16年までの15年間)のことである。
 生駒近規(親正)がはじめて讃岐一国17万3000石の領主として入国してきたのは天正15年(1587)のことで、今から凡そ415年前のことである。生駒家は近規,一正,正俊を経て、4代高俊が封をついだのは元和7年(1621)のことである。
ところで高俊は、このとき齢僅かに11歳、自ら政務を見ることができないので外祖父藤堂高虎はこれを案じ,自身と叔父藤堂高次を後見人とし、さらに政務は一族の生駒帯刀をして執らせることとした。しかし高虎は、なお心休まらず「この節よろずの政務覚束なし。」として、「政事方のことはもとより、郷民、農耕のことまで知悉する者」として、家臣西島八兵衛を生駒藩に出向させ、藩政を援けることを命じた。これは寛永2年のことで、八兵衛30歳の時である。若年にして、いかに藩公の信任を得ていたかがうかがえる。
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 生駒藩の客臣として迎えられた八兵衛は、郡奉行として郷村のことを掌り、初め500石の禄を受けたが、寛永6年には1500石、同7年には2000石と加増され、のち更に鉄砲30人、新田200石が加えられるという異例の待遇を受けたが、これによっても彼が生駒家において、いかに重用されていたかが窺がえよう。
八兵衛は、もともと政治経済の理に通じたほか、年若くして築城その他の土木技術に関与し、本来の才能の上に貴重な経験を加え、驚くべき才幹として聞こえた。そして赴任早々、早くも観音寺市柞田町の湿田を改良し農家を移住させたほか各地で新田開発を進めるなど、殖産と藩財政の確立につとめるところがあった。
ところで、この生駒高俊の代、寛永3年(1626)には「閏4月7日より7月13日に至る、この間95日旱魃、民多く餓死す。」(全讃史)とあるように、讃岐国は未曾有の旱魃に見舞われ、稲実らず、領民の多数が餓死するという悲惨な目に遭ったのである。ここに西島八兵衛は、その本領を発揮すべき絶好の機会に恵まれることになった八兵衛は領内を隈なく見分し,適地を求め新たに溜池を築き、または在来の溜池を嵩上げするなど、用水の確保に卓越した手腕を発揮した。とくに元歴元年(1184)の破堤以後450年の長きに亘って廃絶のまま顧みられなかった満濃池を4年の歳月を経て復旧したほか瀬丸池(三豊郡高瀬町二ノ宮),岩瀬池(高瀬町麻)、一の谷池(観音寺市一の谷)、亀越池(満濃町長炭)、小田池(高松市川部町)、立満池(香川町)、三郎池(高松市三谷町)、神内池(同西植田町)、山大寺池(三木町氷上)など、今日県下に名だたる溜池の多くを手がけ、僅か数年にして実に90余りの大池の築造又は増築に成功したのである。
とくに満濃池は、450年もの長い間、破堤のままで見捨てられ、当時、池敷には「池内村」という高百石余りの村落が生まれ、池として名残りを留めるものは何も残っていなかった。
八兵衛は、今は全く変わり果てた池辺に立ち、その荒廃に慨嘆し、この国最古の由緒ある名池の復興に、あらためて情熱をかき立てた。
 こうして、自ら十分な現地の見分を終え、構想を定め,目論見を立て、その工事に着手しのは、寛永5年10月のことであつた。工事は,普請奉行福家七郎衛門、下津兵左衛門両名の指図の下に行われたが、両者の多年の経験がものをいい、順調にすすみ、着工3年目の寛永8年(1631)2月に至って、めでたく完成を見た。
この工事の規模を、当時の「満濃池古図」の注記によって見ると,堤長45間、水深11間、池廻り4500間とあり、まことに規模壮大であったことがわかる。
ともあれ、この復興によって、その用水は、那珂、多度、鵜多三郡四十四か村、3万5,842石、当時の讃岐純石高の凡そ6分の1にも達する広大な水田を潤すことになつたのである。
八兵衛はこうした溜池築造のほか香東川の付け替え(実際には、それまで石清尾山を巡り二筋となっていた川筋を、現在の河道に一本化した。)や、高松市の福岡、木太、春日、新田の干拓工事を行うなど、その公益とくに水利と新田の開発に尽くした功績は、まことに大きく、香川県民として一日も忘れることのできない一大恩人である。
とも角、讃岐の国は、藩政初期において西島八兵衛という立派な先達を得て、水利と新田開発の面で大きな躍進を遂げた.。即ち溜池の築造と相まって新田開発も又急速な進展を示したのである。これを数字で示すと、寛永17年(1640)に改めた領内総石高は、「生駒壱岐守高俊公御領分惣高覚帳」によれば、23万2,948石となつており、慶長6年2代藩主一正が、父親正に変わった時の石高17万3,000と比較して、40年の間に5万9,000石という著しい増加を示している。
 勿論この中には、耕作技術の向上、用水改良などによる増石も含まれているであろうが、その大部分が新田開発による増石を物語るもので、その進展の早いことが知られる。結局、23万3,000石というものが生駒家末期の内高(表高に対し実際の石高を内高という。)となつていたわけである。
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 生駒家は4代54年にわたつて讃岐一国を領したが寛永17年、4代高俊の時、いわゆるお家騒動を理由に,高俊は羽後矢島一万石に遷せられ、事実上断絶した。
西島八兵衛は、この騒動に先立つこと1年の寛永16年、伊勢に帰り累を免れているが、これは彼の読みの深さと、高虎の配慮の結果であろう。
寛永18年には幕命によつて再び讃岐を訪れているが、これは彼にとつて決して楽しい旅ではなかつた筈である。15年に亘って居住し懸命にその開発に当たった懐かしい国が、藩主を失い、今はただ如何にも事務的な幕府の決済を待っているのである。まことに胸の潰れる思いであったであろう。 しかし、この間の八兵衛の適切な助言は、幕府の処理を誤らせず,幕吏もまた、彼の手腕と、人望に感服したという。
 伊勢に帰った八兵衛は、藩主高虎の下で再び全精力をかけて活動を開始した。即ち寛永19年(1642、47歳)及び正保3年(1646)の大干ばつに際しては、藩命によって、領内の伊勢,伊賀両国を巡回し、つぶさにその惨状を見分し,井関の改修、用水路の開削、溜池の増築等を行い、領内の水源開発に奔走。このうち、もっとも有名なものに雲出井手(三重県一志郡)があり、住民は、後年、その功を多とし、八兵衛を祭神とする水分神社(みくまり神社、八兵衛神社とも云う)を建立してこれを祀った。
慶安元年(1648,53歳)、幕府に乞われて城和奉行(山城、大和の幕領5万石を支配)となつた。恐らく八兵衛の讃岐以来の力量を買ったものであろう。その後伊賀奉行を経て再び城和奉行となり,令81歳で辞任するまでの29年間、大いに治績を上げ名大官の名をほしいままにした。辞任後は伊賀上野に隠居し、拙翁と号して書道に親しんだが、延宝8年(1680)3月、85歳の天寿を全うした。
 八兵衛は,既に述べたように水利・土木の術に長じ、その生涯の大部分を,或いは讃岐に、あるいは伊勢、山城、大和、伊賀とそのうんちくを傾け、地方開発に尽くし、その功績は、まことに枚挙に遑がないと云える。大正4年、その功に報いるため,正5位が追贈されたが、これまた極めて当然のことといえよう。ただ、香川県において、いままでとくに顕彰のことを聞かず、その偉業を伝える資料も少ないことは、かえすがえすも残念に思われる。

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